「声を上げられない」「声を上げにくい」「声を上げても届かない」という状況を、最近よく見るように思います。
虐待される人の声。性被害に遭った人の声。奴隷のように働かされる人の声。暴言暴力に晒される人の声。不利な立場、弱い立場ゆえに抑圧される人の声……。
なぜでしょう。理由の一つはこれではないでしょうか。
声を上げても何も変わらないのではないか。
むしろ声を上げると反撃され、第三者から批判され、余計に辛い目に遭うのではないか。
だったら黙っている方が、まだいいのではないか。
中学時代、体が大きくて乱暴な先輩がいました。同じ部活の後輩たちは日常的に叩かれたり蹴られたり、暴言を浴びせられたりしていました。私自身はほとんど関わりがありませんでしたが、年末の大掃除か何かの時、その乱暴先輩と一緒になってしまいました。
中学当時、私はまだ体が小さく、見るからに「モヤシ」でした。案の定、乱暴先輩は私の頭を小突いたり、バカだのアホだのと罵ったりします(息をするみたいに暴力を振るう人間でした)。私は腹が立って、正面から「やめろ」と抗議しました。後先考えない性格だったのです。
で、どうなったかと言うと、そのへんにあった大きな枝で思いっ切り叩かれて、蹴られて、余計に酷い目に遭いました。黙っていればそんな目に遭わなかったでしょう。完全に損した感じです。
しかし先生に言いつけようとか、親に訴えようとか、そういうことは考えませんでした。言いつけたら復讐されるからです。被害の拡大を防ぐには、黙っているしかありません。
というのがかつて私が実際に受けた暴言暴力です。もちろん昨今報道されているような虐待事件や性被害に比べたら、全然大したことありません。昔のことですからもはや被害とも思っていません。でも基本的な構図は、まったく同じではないかと思います。
被害を受けた方が、黙っていなければ余計に辛い目に遭ってしまう、という構図です。
では私はあの時、黙って小突かれていた方が良かったでしょうか? 声を上げて余計にやられるよりは、「これくらい」と思って我慢した方が良かったでしょうか?
これはあくまで私個人の考えであり、私個人のケースですが、あの時「やめろ」と言えて良かったと今でも思っています。なぜなら自分の尊厳が侵されたことに対して、はっきり「ノー」と表明できたからです。
たぶん乱暴先輩は、そうやって抗議される経験がほとんどなかったでしょう。反撃してこなそうな相手を選んでやっていたのですから。だから「やめろ」と言われて、少なからず動揺したり、怒ったりしたと思います。もちろんそんなの微々たる抵抗ですが。それでも、価値があったと私は思っています。理不尽な暴力に遭ったけれど、完全には屈しなかった、と。
「声を上げられない」「上げても変わらない」「上げたら余計酷い目に遭う」というのは事実です。その痛み苦しみに耐えられず、黙って耐えることを選んだ人、選んでいる人がどれくらいいるでしょう。とてつもなく多いと私は想像します。
そんなこと、本来あってはならないのです。人の尊厳を侵すことは誰もしてはなりません。しかしそれは起こってきましたし、今も起こっていますし、残念ながらこれからも起こるでしょう。
では私たちはどうしたらいいのでしょう。何ができるのでしょう。いくら民主主義だ、法治国家だと言っても、結局は強者が弱者をいいように扱う世界です。選択の余地は絶望的なくらいないように思います。
ただ私が願うのは、どうか人間としての尊厳だけは奪われないでほしい、ということです。何も言えなくても、何もできなくても、尊厳だけは奪われないでほしい。それはある人にとっては煮えたぎるような怒り、ある人にとってはいつまでも終わらない後悔、またある人にとっては死にたくなるような嘆きかもしれません。いずれせによ「自分はこんなこと認めない」「こんなこと許さない」という気持ちを、諦めないでほしいのです。
そしてできれば声を上げていただきたい。理不尽な全てのもの、自分の尊厳を侵そうとする全てのものに、はっきりノーと表明していただきたい。
「それができれば苦労しないよ」と言われるのももっともです。それでもあえて書かせていただきました。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
人間としての尊厳を踏みなじられない、踏みにじらない。
返信削除最近の虐待事件や教師の体罰誘導録画事件にある根底の問題だと思います。
あまりに人を侮辱する世の中になりました。
尊厳が踏みにじられ続けている社会だと思います。最近特にひどいのかも。声を上げるのが難しい状況なのは重々承知していますが、それでもこの記事を書きました。
削除ノーを表現したくても現在はネットに匿名で書き込まれてしまうと何もできないというのが現実です。彼らもいつの日か書かれた側の心の痛みがわかる日がくればいいのですが・・・
返信削除たしかに人の痛みがまったく想像できない人たちがいます。たぶん自分自身も、痛みや苦しみを経験しなかったら、わからなかったかもしれません。だから偉そうなことは言えないのですが、やはり他者への配慮や想像力は尊い力だと思います。
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