教会で頑張っていらっしゃるクリスチャンの方の台詞に、こんなのがあります。
「自分の働きは◯◯です」
「自分は◯◯の働きに召されています」
「神様が自分を◯◯の働きに導かれました」
◯◯にはいろいろな言葉が入ります。たとえば「賛美リード」とか、「インターネット伝道」とか、「ユースミニストリー」とか、「クリスチャンバンド」とか。ほかにもいろいろ。
で、皆さんそれぞれ、一生懸命に自分の「働き」をしているわけです。たいへんご苦労なことだと思います。決して嫌味ではなくて。
ただ「働き」というクリスチャン的言い回しがどうも気になりますね。なんでわざわざ「働き」なんて、普段使わない言い方をするのでしょう。その方が教会っぽいから? だとしたら本当にくだらないですね(笑)。
それはともかく、自分の「働き」にとても熱中する人たちがいます。
Aさんは教会で「バルナバ会(仮名)」というのを作りました。ある共通項を持つ信徒たちの、任意の集まりです。
ある礼拝の後、Aさんが講壇に立って演説しました。「バルナバ会」を設立します。これこれの趣旨の集まりです。関係のある人は全員参加して下さい。自分が初代会長を務めさせていただきます、これも神の導きだと信じます、云々。
「初代会長」という響きに、いささか酔っている感じでしたが。
さっそく翌週から「バルナバ会」の活動が始まりました。
以来、Aさんはその活動に熱中しました。いろいろな資料を作って来たり、簡単なセミナーを開いてみたり、メンバーを夕食に招待したり。ほとんど「バルナバ会」のために教会に来ているみたいでした。本末転倒な気がしますが。
ある日曜日など、礼拝が終わって(牧師の頌栄が終わって)2秒も経たないうちに「バルナバ会」のミーティングを始めていたほどです。「水を得た魚」とは、まさにAさんのための言葉ではないでしょうか。
ところがそんな「バルナバ会」にも、次第に暗雲が立ち込めます。「初代会長」であるAさんと、教会の牧師とが、度々ぶつかるようになったのです。
その教会は牧師による「絶対王政」でした。もうちょっと現代的な言い方をすると「独裁」でした。その教会で、牧師の意向に逆らって何かをすることはできません。牧師の意に沿わない提案をしても、絶対に無駄です。
でもこのAさん、まだ教会生活が短かったせいか、そのへんの事情をあまり把握していなかったのですね。「バルナバ会」でこんな活動がしたい、「バルナバ会」のためにこんな設備がほしい、「バルナバ会」のためにこれこれの時間を確保してほしい、みたいな(若干無茶な)要望を牧師に提案して、ことごとく却下されてしまいました。そして牧師とぶつかって、一悶着も二悶着もありました。
その後、決定的な「衝突」があって、ついにAさんは「バルナバ会」の会長職を退きます。1年続いたか続かなかったかというところです。
その時の弁はこんな感じでした。
「あとは後任に委ねて、自分は次の働きに導かれたいと思います」
あれだけ熱心に活動していたのは、何だったのでしょうね。
「神の導き」だったのでしょうか。
それとも「自分の願望」だったのでしょうか。
もし本当に「神の導き」だったら、牧師とぶつかっても辞めるべきでないと思いますけどね。だってそれで辞めたら、「神の導き」より「牧師との関係」の方が大切だってことになってしまいますから。
まあ、今となってはどうでもいいことなんですけどね。
ちなみにAさんが辞めた後、「バルナバ会」自体が自然消滅しました。結局、必要なかったんだと思います。
このAさんと同じような感じで、「神の導き」と言いつつ「自分の願望」を成し遂げたい人たちが、教会には一定数いるような気がします。「◯◯の働きに召されました」と言いながら、結局自分がしたいことをしているだけ、という人たちです。
と言っても、教会で自分がしたい活動をするのは、べつにいいんですよ。むしろ好きなだけやったらいいと思います。「◯◯がしたい」ということで、どんどんやったらいいでしょう。
本当はそれを「自分がしたい」だけなのに、「これぞ神の導きだ」と綺麗なことを言っていませんか。
そうやって自分を綺麗に見せようとしていませんか。
その方がクリスチャンっぽいから? さっきも書きましたが、だとしたら、本当にくだらないです(笑)。
重荷という単語もよく聞きますね(笑)。「働き」とか「重荷」と使うときは大抵それが神からの指示のような文脈なので、その方が霊的な印象があってカッコいいという理由かもしれません。名のしれた牧師先生、キリスト教メデイアでもよく聞きます。慣用句・口癖のようになっている印象です。
返信削除でも私は何だか口にするのは抵抗があります。イザヤ55:9にもあるように人間の思考を遥かに超越した神に対して、簡単に神の導きだと決め付けている気がします。神の前にへりくだるのではなく、自分と同等に引き寄せているように思ってしまいます。結果的に上手くいかなかったときによく聞く「残念ながら神の御心ではありませんでした」という自分本位の台詞がそれを物語っているのではないでしょうか。
重荷という言葉も頻出ワードですね(笑)。
削除「神によって負わされたもの=神の導き=自分の使命」みたいな捉え方がされていると思いますが、Teoさんのおっしゃる通り、人間の側の勝手な決めつけじゃないのかな、と私も思います。
うまく行けば御心だった、そうでなければ御心でなかった(道が閉ざされた、とも言いますね 笑)、というのはあくまで自分の視点、自分の都合ですよね。