クリスチャンは自分がしたいことを「神の導き」だと言わなければならないのですか?

2018年9月7日金曜日

教会生活あれこれ

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 教会で頑張っていらっしゃるクリスチャンの方の台詞に、こんなのがあります。

自分の働きは◯◯です
自分は◯◯の働きに召されています
神様が自分を◯◯の働きに導かれました

 ◯◯にはいろいろな言葉が入ります。たとえば「賛美リード」とか、「インターネット伝道」とか、「ユースミニストリー」とか、「クリスチャンバンド」とか。ほかにもいろいろ。
 で、皆さんそれぞれ、一生懸命に自分の「働き」をしているわけです。たいへんご苦労なことだと思います。決して嫌味ではなくて。

 ただ「働き」というクリスチャン的言い回しがどうも気になりますね。なんでわざわざ「働き」なんて、普段使わない言い方をするのでしょう。その方が教会っぽいから? だとしたら本当にくだらないですね(笑)。

 それはともかく、自分の「働き」にとても熱中する人たちがいます。
 Aさんは教会で「バルナバ会(仮名)」というのを作りました。ある共通項を持つ信徒たちの、任意の集まりです。
 ある礼拝の後、Aさんが講壇に立って演説しました。「バルナバ会」を設立します。これこれの趣旨の集まりです。関係のある人は全員参加して下さい。自分が初代会長を務めさせていただきます、これも神の導きだと信じます、云々。
「初代会長」という響きに、いささか酔っている感じでしたが。

 さっそく翌週から「バルナバ会」の活動が始まりました。
 以来、Aさんはその活動に熱中しました。いろいろな資料を作って来たり、簡単なセミナーを開いてみたり、メンバーを夕食に招待したり。ほとんど「バルナバ会」のために教会に来ているみたいでした。本末転倒な気がしますが。
 ある日曜日など、礼拝が終わって(牧師の頌栄が終わって)2秒も経たないうちに「バルナバ会」のミーティングを始めていたほどです。「水を得た魚」とは、まさにAさんのための言葉ではないでしょうか。

 ところがそんな「バルナバ会」にも、次第に暗雲が立ち込めます。「初代会長」であるAさんと、教会の牧師とが、度々ぶつかるようになったのです。

 その教会は牧師による「絶対王政」でした。もうちょっと現代的な言い方をすると「独裁」でした。その教会で、牧師の意向に逆らって何かをすることはできません。牧師の意に沿わない提案をしても、絶対に無駄です。

 でもこのAさん、まだ教会生活が短かったせいか、そのへんの事情をあまり把握していなかったのですね。「バルナバ会」でこんな活動がしたい、「バルナバ会」のためにこんな設備がほしい、「バルナバ会」のためにこれこれの時間を確保してほしい、みたいな(若干無茶な)要望を牧師に提案して、ことごとく却下されてしまいました。そして牧師とぶつかって、一悶着も二悶着もありました。

 その後、決定的な「衝突」があって、ついにAさんは「バルナバ会」の会長職を退きます。1年続いたか続かなかったかというところです。
 その時の弁はこんな感じでした。
あとは後任に委ねて、自分は次の働きに導かれたいと思います

 あれだけ熱心に活動していたのは、何だったのでしょうね。
「神の導き」だったのでしょうか。
 それとも「自分の願望」だったのでしょうか。
 もし本当に「神の導き」だったら、牧師とぶつかっても辞めるべきでないと思いますけどね。だってそれで辞めたら、「神の導き」より「牧師との関係」の方が大切だってことになってしまいますから。

 まあ、今となってはどうでもいいことなんですけどね。
 ちなみにAさんが辞めた後、「バルナバ会」自体が自然消滅しました。結局、必要なかったんだと思います。

 このAさんと同じような感じで、「神の導き」と言いつつ「自分の願望」を成し遂げたい人たちが、教会には一定数いるような気がします。「◯◯の働きに召されました」と言いながら、結局自分がしたいことをしているだけ、という人たちです。

 と言っても、教会で自分がしたい活動をするのは、べつにいいんですよ。むしろ好きなだけやったらいいと思います。「◯◯がしたい」ということで、どんどんやったらいいでしょう。


 本当はそれを「自分がしたい」だけなのに、「これぞ神の導きだ」と綺麗なことを言っていませんか。
 そうやって自分を綺麗に見せようとしていませんか。
 その方がクリスチャンっぽいから? さっきも書きましたが、だとしたら、本当にくだらないです(笑)。

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