教会(宗教)に必要なもの?

2017年10月16日月曜日

元キリスト教原理主義者の雑感

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・清水富美加さんの「出家」に思ったこと

微妙に古い話ですが、某宗教団体に「出家」した若手女優、清水富美加さんについて少し。

 富美加さんは芸能活動中だった2017年の初めに突如「出家」して、「出家騒動」などと騒がれました。記憶にある方も多いかと思います。詳しい事情は今もってわかりませんが、おそらくのっぴきならない事情があったのだと思います。あまり騒がないであげてほしいな、と私個人は思いました。もちろん多方面に相当な迷惑がかかったのでしょうけれど。
 今彼女がどうなっているのかわかりませんが、後悔のない生き方ができていればと、願ってやみません。

 私は演技の上手下手はイマイチわからないのですが、富美加さんの表情や喋りはエキセントリックかつマニアックな雰囲気があって好きです。演技というより素なのかもしれませんが、人を惹きつけるものがあります。
 先日も富美加さん主演の映画『暗黒女子』を見ました。女子高が舞台の、歯が浮くセリフ連発の、それでいて女子たちの深い「闇」が描かれた作品です。富美加さんの役は、お高くとまったお嬢様でありながらとんでもない残虐性を隠し持っている、それでいて嫌味がなく潔いという、まさに彼女にピッタリなものでした。


 本筋に関係なくもないので、ちょっとだけ『暗黒女子』の紹介をさせて下さい。
 ミッション系のハイソな女子高で、文学サロンの生徒が1人、屋上から転落死します。彼女はなぜ殺されたのか? それをテーマに、サロンの他の生徒たちがそれぞれの推理を小説という形で展開します。すると生徒1人1人に、彼女を殺す動機があったことがわかります。互いに疑心暗鬼になる中、最後は被害者自身の「小説」が披露され・・・。
 結末まで見るとわかるのですが、富美加さんが全部持ってった感じです。彼女の闇は誰より深く、誰より「暗黒」だったのでした。

 富美加さんが強烈な個性とカリスマ性を持っていることを証明するに足る1本でした。

・教会(宗教)のリーダーとカリスマ性の関係

 富美加さんは「出家」して千眼美子(せんげんよしこ)と名乗るようになりました。そして同じタイミングで教団が開設した芸能プロダクションに所属しました。
 教団側が彼女をいわゆる「特別扱い」したのは、推して知るべしでしょう。良い広告塔になると期待したのでしょうか。その後の話はほとんど聞きませんが、彼女の活動はきっと教団にとってプラスなのだと想像します。

 私はその教団のことはほとんど何も知りません。しかし想像するに、あれだけ大きな団体ですから、カリスマ的な広告塔が必要なのだと思います。信徒を強力に引っ張っていくには、何よりカリスマ性が必要だからです。そして彼女はそれに足る魅力を持っていました。

 これは宗教団体だけの話ではありません。人はいつも魅力的な人物を求めています。政治の世界を見てみても、小泉元首相とか、小池東京都知事とか、スピーチが上手くてドラマチックな展開を見せる人たちに、人気が集中する傾向があります。

 キリスト教プロテスタント系の教会にも、同じことが言えます。いわゆる有名教会、成長著しい教会のリーダーには、カリスマ的な人が多いです。カリスマ的な人だから信徒が沢山集まり、結果的に教会が有名になったり成長したりするのかもしれません。あるいは多くの信徒が集まる中でカリスマ性が増していくのかもしれません。
 中には教会が大きい割に牧師が凡庸(失礼な言い方ですみません)なケースもありますが、そういう場合はだいたい、お父さんがすごいカリスマ的な人物でした。

 余談ですが、お父さんが頑張って大きくした教会を、息子世代がダメにする、というのも結構見ますね。悲しいことですが。そもそもなんで世襲制なんだって話でもありますが。

 教会政治のあり方によって事情は変わると思いますが、概ね言えるのは、教会のリーダーにはカリスマ性があったほうが「有利」だということです。前述の通り、カリスマ牧師は人を集めやすいからです。

「そういうことでなく、純粋にキリスト教教理の素晴らしさだけで勝負すべきだ」と言う人がいるかもしれません。しかし「教えを広める」という性質がある以上、その人物の魅力の有無はどうしても関係してきます。本人がいくら否定したとしても。やはり人間的に尊敬できたり好感が持てたり、好印象を持てたりする相手でないと、多くの人はちゃんと話を聞こうとしません。宗教的な話なら特にそうだと思います。

 ただ教会のリーダー(牧師や宣教師でしょう)に求められるカリスマ性とは、単にルックスの良さではないと思います。それ以上に喋りの技術とか、人との関係を築くテクニックとか、相手を安心させる技術とか、そういういわばコミュニケーション・スキルでしょう。これがうまい人が、前述の有名教会などにも多いです。
 私が知っている外国人牧師も、もう日本語ペラペラなのですが、はじめの二、三言だけでいきなり人々を魅了する力を持っています。あれはまさにカリスマと呼ぶべきでしょう。ルックスは全然そうではありませんが(やっぱり失礼)。この人について行きたい、と思わせる何かを持っています(私はついて行きたいとは思いませんが)。事実、その人の教会は大きいです。

 わかりやすく言えば、教会の大きさとリーダーのカリスマ性は比例する、ということでしょう。もちろん(繰り返しになりますが)教会政治のあり方や教団教派によって、事情が違ってくるとは思います。

・カリスマ性の副作用

 さて、これまでの話をポーンとひっくり返すようですが、私たちが注目すべきはあくまで教理そのものであって、リーダーのカリスマ性ではありません。カリスマ性は人々を魅了しますが、その副作用として人々を思考停止にもするからです。そして信徒が思考停止してしまうと、こと宗教に関しては、あまり良いことがありません。下手すると、リーダーのやりたい放題になってしまいます。

 これは矛盾しているようですが、大切なポイントだと思います。すなわちカリスマ性は人々を集めるけれど、人々を盲目にもさせます。教会を大きくするけれど、リーダーに心酔した信徒ばかりにさせます。クリスチャンを多くするけれど、彼らが「良い」クリスチャンかどうかはわかりません(何をもって「良い」とするかはまた別の話になります)。
 ではどうすればいいんだ、という話ですが、少なくとも私たちは、そういう問題があることは知っておくべきでしょう。そして願わくは、リーダーのカリスマ性をよく理解し、それに魅了されすぎないようにバランスを取ることのできる信徒が増えてほしいものです。

「キリストの教え」と、「その教えを語る人」とは別個に考えましょう、ということですね。
 これは書くと当たり前に見えますが、実際に教会生活を送ってみると、なかなか難しいかもしれません。

 千眼美子さんが今後どういう活動を展開していくのかわかりませんけれど、前述の通り、後悔のない生き方をしてくれればいいなと、同じく宗教に傾倒する者として心から願っています。

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