元キリスト教原理主義者の雑感・その2

2017年10月13日金曜日

元キリスト教原理主義者の雑感

t f B! P L
 また雑感として書きます。
「雑感」と書くと、何となく気軽な感じがしていいですね。もともとそんな大それたことを書くブログではありませんが。
 何にせよ気軽というのは大切だと思います。大したことを書こうと思うと、なかなか筆が進みませんから。
 というわけで、今回も割とどうでもいい話になると思います。

・「神の家族」について

 私は原理主義的教会で頑張っていた頃、同じ教会員の皆さんを「神の家族」と呼んでいました。と言っても血が繋がっていたわけではありません。そう教えられていたからです。教会の慣習として信徒どうし「兄弟姉妹」と呼んでいたので(多くの教会がそうでしょう)、「家族」と呼ぶことに特に違和感はありませんでした。親しくても親しくなくても、同じ教会に集っているなら誰であれ「神の家族」なのでした。

 この呼び名について特に考えたことはありませんでした。前述の通りそう教えられていたからです。家族が増えて嬉しいなあくらいに思ったかもしれません。でも教会がイロイロあって解散した後、改めてこの呼び名の意味について、考えるようになりました。

 よく教会ではこんな風に言われていました。
「神の家族は血よりも濃い絆で結ばれている」
 なんか任侠映画のセリフみたいですね、今思うと。とにかく実の家族より強い絆が「神の家族」にはある、ということでしょう。くどいようですが私はそう教えられたので、単純にそうだと考えていました。もともと単純な人間ですし、あれこれ考えるタイプでもなかったので(それは決して褒められたことではありませんが)。

 それにこれは的を射ている面もあります。
 私のように地方から上京して都会で教会生活を送るような場合、遠くにいる肉親より、近くにいるクリスチャン仲間の方が、より「家族的な機能」を果たしてくれるからです。たとえば風邪でダウンした時に実家に連絡しても(遠方だと)どうにもなりませんが、親しい「神の家族」なら見舞いに来てくれます。気軽にご飯を食べたり、買い物に行ったりもできます。それどころか教会生活が何年にも及ぶと、互いのことを知り尽くしてしまって、互いの家のキッチンのどこに何があるかまで把握している、みたいな仲になることもあります。
 もっともそこまで親しくなる人は、そう多くはないですが。

 ただ、その親しさを「神の家族だから」で結論づけるのは早急ではないかな、と今は思います。
 なぜなら、同じ教会員でなくても、親しくなる相手とは必然的に親しくなるからです。そこに「神の家族の絆」が必要になるとは思えません。
 また逆に「神の家族」であっても、親しくなれない人とは親しくなれません。その場合、「神の家族の絆」がちゃんと機能しているとも思えません。そうではないでしょうか。

 そういうことを考えると、「神の家族」とは何なのか、という話になります。
「べつに仲が良いことだけが神の家族ではない」という意見があるかもしれません。「イザという時にちゃんと結束できるのが神の家族なんだ」と。でも人間、イザという時は案外誰とでも結束できるものです。緊急時に見ず知らずの人間どうしが協力する、なんてことはザラにあります。

 それに実際、「私たちは神の家族だ」と言い合っていた人たちが今は心底憎み合っている、というケースは少なくありません。1980年代の「キリスト教会のカルト化」が顕著になった頃から、あるいはそれ以前から、あちこちで同じ教会員どうしの反目は起こっています。大げさな言い方かもしれませんが、同じような歴史を教会も繰り返しているわけです。

 旧約聖書でイスラエルの十二部族について読んでみて下さい。彼らは神に選ばれた民族であり部族であるはずですが、互いに殺し合っています。また新約聖書を読んでみると、教会内で多くのイザコザや争いが起こっていたことがわかります。

 さて、「神の家族」とは何なのでしょう。

 私の実体験から言えることは、教会で重大な問題が起こると、「神の家族」だった人たちが最大の敵になりえる、ということです。ただの敵ではありません。最大の敵です。強い絆で結ばれていると思っていた分、それが拗れた時のダメージが(互いに)大きいのかもしれません。そして拗れるとハンパでない反目、ハンパでない対立、ハンパでない断絶に発展することがあります。もちろん、全員が敵になるわけではありませんが。

 これはあくまで私個人が経験したことなので、全てにおいてそうだ、神の家族なんてインチキだ、と言っているわけではありません。
 しかしながら「神によって結ばれている」とか、「神にあって愛し合うことができる」とか、「苦しい時こそ信仰によって支え合える」とか、そういう綺麗な包装紙で包まれている「神の家族」という表現の中身について、ちょっと立ち止まって考えてみても、悪くはないだろうと思うわけです。

  私の場合で言えば、「神の家族」と思っていた人たち一人一人のことを、実はそこまで深く知っているわけではありませんでした。同じ教会にいて、一緒に礼拝したり奉仕したりしているから自動的に(あるいは思考停止的に)「神の家族だ」と思っていただけで、本当はその人がどんな人なのか、◯◯と言ったらどういう返事をする人なのか、ちゃんと知っていたとは言えません。もちろん人によって関係性は違いますから、気心の知れた人もいました。しかしそうでない人が圧倒的に多くて、それでも平気で「神の家族」と思っていたわけです。
 これは、我ながら不誠実な態度だったのではないかと、反省するばかりです。

 しかし今、同じ教会員のことを「神の家族だ」と言っている人たちは、どれくらい相手のことを知っているのでしょう。どれくらいの絆で結ばれているのでしょう。けっこう怪しいのではないかと思いますが(あくまで想像です)。
 少なくともキマジメくんの教会は、間違いなく「教会員はみな神の家族」であると主張しますが、実はお互いのことをさほど知っているとは言えません。深い絆で結ばれているわけではありません。何かあればその関係性は簡単に破綻していくでしょう。
 なぜそうハッキリ言えるのか? そういう設定だからです(笑)。

・教会で傷ついた人にしてはいけないこと

 教会でイロイロ酷いことがあって、結果的に解散になって、さてこれからどうしようとなった時、私はクソ真面目でしたので、「どこか他の教会に行かなければ」と思いました。本当だったらしばらく教会は行かなくても良かったと思うのですが、まあそれができなかったわけです。
 他にもそういう真面目な人がいましたし。

 で、言い方が悪いかもしれませんが、いくつかの教会を「お試し」させてもらうことにしました。いろいろな教団教派を見てみたかったのです。そしてそれぞれ違う教派の、場所的にも時間的にも行きやすいところをいくつかチョイスしてみました。その中には(知り合いの紹介もあったので)ある聖霊派の教会もありました。聖霊派とは私の古巣のグループです。

 教派によって礼拝スタイルが全然違うのに驚きましたね。当たり前なのでしょうけれど。その中で、勝手がわかっているという意味で一番落ち着いたのはやはり聖霊派でした。長年そういう礼拝をしてきたので、これも当たり前と言えば当たり前なのですが。

 しかし思わぬ落とし穴がありました。
 その聖霊派教会の祈祷会(?)みたいなものに参加した時、リーダーからいきなりこう言われたのです。
「代表の祈りをして下さい」
 教会で頑張っていた頃は、代表の祈りは普通にしていました。しかし前述の通り教会で紆余曲折あって後の私は、すっかりそういうことができなくなっていたのです。具体的に言うと、祈れなくなっていました。
 もちろん「形」だけならできるのですが、心からの祈りは捧げられませんでした。だから「代表の祈り」を頼まれて、正直困ってしまいました。私の境遇を知っていてよくそんなこと言えますね、とも思いました。そんなふうに困惑や疑問や怒りでグルグルしたまま、全然心のこもっていない祈りを捧げて、その場は収めましたが。

 これを読んで下さった皆さんには、このリーダーを反面教師にしてほしいですね。すなわち、教会で傷ついた人に「代表の祈り」とかさせないで、そっとしておいてあげてほしい、ということです。あえて言葉を掛ける必要もありません。なんでもない雑談をして、じゃあまたねーって気軽に見送ってあげてほしいです。話を聞いてあげようとか、助けてあげようとか、そういう心遣い自体は嬉しいのですが、あまり求めていません。
 これはもちろん私の場合の話なので、他の人はまた他の対応を望むのかもしれませんが。

 というわけで今回の雑感終わりです。(続く?)

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