また雑感として書きます。
「雑感」と書くと、何となく気軽な感じがしていいですね。もともとそんな大それたことを書くブログではありませんが。
何にせよ気軽というのは大切だと思います。大したことを書こうと思うと、なかなか筆が進みませんから。
というわけで、今回も割とどうでもいい話になると思います。
・「神の家族」について
私は原理主義的教会で頑張っていた頃、同じ教会員の皆さんを「神の家族」と呼んでいました。と言っても血が繋がっていたわけではありません。そう教えられていたからです。教会の慣習として信徒どうし「兄弟姉妹」と呼んでいたので(多くの教会がそうでしょう)、「家族」と呼ぶことに特に違和感はありませんでした。親しくても親しくなくても、同じ教会に集っているなら誰であれ「神の家族」なのでした。
この呼び名について特に考えたことはありませんでした。前述の通りそう教えられていたからです。家族が増えて嬉しいなあくらいに思ったかもしれません。でも教会がイロイロあって解散した後、改めてこの呼び名の意味について、考えるようになりました。
よく教会ではこんな風に言われていました。
「神の家族は血よりも濃い絆で結ばれている」
なんか任侠映画のセリフみたいですね、今思うと。とにかく実の家族より強い絆が「神の家族」にはある、ということでしょう。くどいようですが私はそう教えられたので、単純にそうだと考えていました。もともと単純な人間ですし、あれこれ考えるタイプでもなかったので(それは決して褒められたことではありませんが)。
それにこれは的を射ている面もあります。
私のように地方から上京して都会で教会生活を送るような場合、遠くにいる肉親より、近くにいるクリスチャン仲間の方が、より「家族的な機能」を果たしてくれるからです。たとえば風邪でダウンした時に実家に連絡しても(遠方だと)どうにもなりませんが、親しい「神の家族」なら見舞いに来てくれます。気軽にご飯を食べたり、買い物に行ったりもできます。それどころか教会生活が何年にも及ぶと、互いのことを知り尽くしてしまって、互いの家のキッチンのどこに何があるかまで把握している、みたいな仲になることもあります。
もっともそこまで親しくなる人は、そう多くはないですが。
ただ、その親しさを「神の家族だから」で結論づけるのは早急ではないかな、と今は思います。
なぜなら、同じ教会員でなくても、親しくなる相手とは必然的に親しくなるからです。そこに「神の家族の絆」が必要になるとは思えません。
また逆に「神の家族」であっても、親しくなれない人とは親しくなれません。その場合、「神の家族の絆」がちゃんと機能しているとも思えません。そうではないでしょうか。
そういうことを考えると、「神の家族」とは何なのか、という話になります。
「べつに仲が良いことだけが神の家族ではない」という意見があるかもしれません。「イザという時にちゃんと結束できるのが神の家族なんだ」と。でも人間、イザという時は案外誰とでも結束できるものです。緊急時に見ず知らずの人間どうしが協力する、なんてことはザラにあります。
それに実際、「私たちは神の家族だ」と言い合っていた人たちが今は心底憎み合っている、というケースは少なくありません。1980年代の「キリスト教会のカルト化」が顕著になった頃から、あるいはそれ以前から、あちこちで同じ教会員どうしの反目は起こっています。大げさな言い方かもしれませんが、同じような歴史を教会も繰り返しているわけです。
旧約聖書でイスラエルの十二部族について読んでみて下さい。彼らは神に選ばれた民族であり部族であるはずですが、互いに殺し合っています。また新約聖書を読んでみると、教会内で多くのイザコザや争いが起こっていたことがわかります。
さて、「神の家族」とは何なのでしょう。
私の実体験から言えることは、教会で重大な問題が起こると、「神の家族」だった人たちが最大の敵になりえる、ということです。ただの敵ではありません。最大の敵です。強い絆で結ばれていると思っていた分、それが拗れた時のダメージが(互いに)大きいのかもしれません。そして拗れるとハンパでない反目、ハンパでない対立、ハンパでない断絶に発展することがあります。もちろん、全員が敵になるわけではありませんが。
これはあくまで私個人が経験したことなので、全てにおいてそうだ、神の家族なんてインチキだ、と言っているわけではありません。
しかしながら「神によって結ばれている」とか、「神にあって愛し合うことができる」とか、「苦しい時こそ信仰によって支え合える」とか、そういう綺麗な包装紙で包まれている「神の家族」という表現の中身について、ちょっと立ち止まって考えてみても、悪くはないだろうと思うわけです。
私の場合で言えば、「神の家族」と思っていた人たち一人一人のことを、実はそこまで深く知っているわけではありませんでした。同じ教会にいて、一緒に礼拝したり奉仕したりしているから自動的に(あるいは思考停止的に)「神の家族だ」と思っていただけで、本当はその人がどんな人なのか、◯◯と言ったらどういう返事をする人なのか、ちゃんと知っていたとは言えません。もちろん人によって関係性は違いますから、気心の知れた人もいました。しかしそうでない人が圧倒的に多くて、それでも平気で「神の家族」と思っていたわけです。
これは、我ながら不誠実な態度だったのではないかと、反省するばかりです。
しかし今、同じ教会員のことを「神の家族だ」と言っている人たちは、どれくらい相手のことを知っているのでしょう。どれくらいの絆で結ばれているのでしょう。けっこう怪しいのではないかと思いますが(あくまで想像です)。
少なくともキマジメくんの教会は、間違いなく「教会員はみな神の家族」であると主張しますが、実はお互いのことをさほど知っているとは言えません。深い絆で結ばれているわけではありません。何かあればその関係性は簡単に破綻していくでしょう。
なぜそうハッキリ言えるのか? そういう設定だからです(笑)。
・教会で傷ついた人にしてはいけないこと
教会でイロイロ酷いことがあって、結果的に解散になって、さてこれからどうしようとなった時、私はクソ真面目でしたので、「どこか他の教会に行かなければ」と思いました。本当だったらしばらく教会は行かなくても良かったと思うのですが、まあそれができなかったわけです。
他にもそういう真面目な人がいましたし。
で、言い方が悪いかもしれませんが、いくつかの教会を「お試し」させてもらうことにしました。いろいろな教団教派を見てみたかったのです。そしてそれぞれ違う教派の、場所的にも時間的にも行きやすいところをいくつかチョイスしてみました。その中には(知り合いの紹介もあったので)ある聖霊派の教会もありました。聖霊派とは私の古巣のグループです。
教派によって礼拝スタイルが全然違うのに驚きましたね。当たり前なのでしょうけれど。その中で、勝手がわかっているという意味で一番落ち着いたのはやはり聖霊派でした。長年そういう礼拝をしてきたので、これも当たり前と言えば当たり前なのですが。
しかし思わぬ落とし穴がありました。
その聖霊派教会の祈祷会(?)みたいなものに参加した時、リーダーからいきなりこう言われたのです。
「代表の祈りをして下さい」
教会で頑張っていた頃は、代表の祈りは普通にしていました。しかし前述の通り教会で紆余曲折あって後の私は、すっかりそういうことができなくなっていたのです。具体的に言うと、祈れなくなっていました。
もちろん「形」だけならできるのですが、心からの祈りは捧げられませんでした。だから「代表の祈り」を頼まれて、正直困ってしまいました。私の境遇を知っていてよくそんなこと言えますね、とも思いました。そんなふうに困惑や疑問や怒りでグルグルしたまま、全然心のこもっていない祈りを捧げて、その場は収めましたが。
これを読んで下さった皆さんには、このリーダーを反面教師にしてほしいですね。すなわち、教会で傷ついた人に「代表の祈り」とかさせないで、そっとしておいてあげてほしい、ということです。あえて言葉を掛ける必要もありません。なんでもない雑談をして、じゃあまたねーって気軽に見送ってあげてほしいです。話を聞いてあげようとか、助けてあげようとか、そういう心遣い自体は嬉しいのですが、あまり求めていません。
これはもちろん私の場合の話なので、他の人はまた他の対応を望むのかもしれませんが。
というわけで今回の雑感終わりです。(続く?)
結局、人は他の人の本当の心を見ることはできないんですよね。
返信削除おっしゃる通りだと思います。
削除気配り、心配りと、自分は相手の背景や置かれた状況を知らない。
そういう慎みや遠慮が必要なんじゃないかな、と。
依頼する側は無邪気に頼んでくることが多いので(経験上)、厄介度は高いですね
「神の家族」じゃなくて「同じ教会の人」くらいに言えばいいのにと思いますね笑
削除「神の家族」
返信削除このいい方には非常にひっかかるものがあります。あと血縁関係のない人間を「兄弟」とか「姉妹」と呼ぶのも。
神の家族という表現は、今までの人間関係を捨ててしまいなさいというニュアンスをしばしば含みます。新興宗教系プロテスタントの関係者がよく好んで使います(「神の家族がまた増えました」等)が、こういうところでは焼香を拒否しろという戒律があることが多いと思います。焼香ですら拒否するくらいですので、当然のごとく仏壇も神棚も拒否、墓参りも拒否・・・それで家庭崩壊になった悲劇は世の中にいくらでもあります。
血縁関係のない人間同士が、「〇〇兄弟」「××姉妹」と呼び合うのは、末日聖徒イエス・キリスト教会やものみの塔聖書冊子協会や世界平和家庭連合と同じですが、なぜか三大異端をぼろくそにいって、「この人たちを異端から救出しましょう!」とかいやに使命感に燃えていたり・・・
そんなに三大異端を嫌うなら、兄弟姉妹と呼び合うのも、狂信的な戒律も、什一献金もやめたらいいのにと思います。これらは三大異端でやっていることなのですから。
c.f.「神の家族は血縁よりも濃い」といっていた人たちの愛、実はすべて「条件つきの愛」です。その証拠にやめてごらんなさい。あれだけ「私たちは神の家族です」といっていた人たちが、手のひらかえすような態度になり、年賀状一枚よこさなくなります。
「神の家族」も教会を辞めれば他人に戻るみたいですね笑
削除>あと血縁関係のない人間を「兄弟」とか「姉妹」
返信削除私の遍歴では、伝統的な教会(大学経営をしてるレベル)でもあります、ヤクザ組織でも「兄弟」は使いますし。w 相手の名前を忘れたときに便利です。
欧米語と違って、上下関係なく使える呼びかけ語がない日本語では役に立ちますw
今思い出しましたわ。血縁関係のない人間を「兄弟姉妹」と呼ぶのは、学校ではありますよ。
削除白百合では教師をやっている修道女を確か「マ・スール」と呼んでいるのです。直訳すれば「私のお姉さま」ですよねこれ(笑)。
(暁星では修道士や神父を「モン・フレール」「モン・ペール」と呼んでいるのかまでは知りませんが。)
フランソワーズ・サガンの翻訳をやっていた朝吹登美子さんは、娘さんをフランスに連れてきて、修道院が運営する学校にやったのですが、院長様にご挨拶の仕方を教えたとき、レヴェランスをしながら、「ボンジュール、マ・メール」というように教えたそうです。
大学を運営する伝統的な教会でも、「兄弟姉妹」どころか「父母」があったのでした・・・(笑)。
相手の名前を忘れた時に便利、というのは確かにありますねー
削除「兄弟姉妹」という言い方は、伝統的な教会、カトリック、聖公会、ルーテル系、カルバン系の教会では残っているのでしょうか。私はカトリックですが、少なくとも私の近辺で、**兄弟**姉妹窓などと呼び合っているのを聞いたことはありませんが・・伝統的な教会では廃れているのではないでしょうか。某政党の大会や集会で**同志などと呼んでいたのは数十年前の話ではないでしょうか。今ではすべて**さんですね。少なくとも私の知る限りでは。それだけ親密性が薄れたということでもあるのでしょう。
返信削除そういえばちょっと興味深いことに気が付きました。
削除カトリックで「姉妹」と呼びかけるのは、教会の中ではなく学校の中であるということ。したがって「姉妹」という呼称は、学生が教鞭をとっている修行尼に対して使うというのがありますね。
プロテスタントのミッションスクールにも、宗教の時間に非常勤講師の身分で教えに来ている聖職者はいますが、学生は「先生」と呼ぶのが普通です。またクリスチャンの学生が学校の中でクリスチャンの教師に向かって、「兄弟姉妹」と呼びかけることはなく、やはり学校の中では「先生」という呼称を用いますよね。
少なくとも聖霊派、福音派、ルーテル派あたりでは兄弟姉妹という呼称を使っているところが多いと思いますね。各教会のローカルルールもあるみたいなので、一概には言えませんが。
削除カトリックは兄弟姉妹という呼称は使わないですね。聖公会などの伝統的な教派はどうなのでしょう、誰か教えてください笑
私の集ってる教会では、文章は「兄弟姉妹」使います。一般会話では少ないですが、全く使わないこともないです。伝統的なプロテスタント系では「廃れてるが残っている」位の感じですが!私の周りだけかもしれませんが!
返信削除使うところは普通に使いますよね。ナントカ兄弟とか、ナントカ姉妹とか。逆にナントカさんと呼ぶと変な感じがするという笑
削除「兄弟と呼ぶのは、良い習慣だと思います。廃れてる教会でも復活させてほしいです。(教会外でも!)
削除日本語の特性上、中途半端に年下の男性を「さん」で呼ぶのか「君」で呼ぶべきなのか戸惑うことがあります。
私は大反対ですね。そういう教会は牧師に対しては、先生づけで呼ぶのが当たり前ですし。先生&その他という構図が心底嫌気がします(今では)。英語だと、牧師だろうが信徒だろうが、お互い呼び捨てですからね。日本語特有の難しさもありますね。まあ、とにかく、教会を離れた今、外側からみて、兄弟姉妹で呼びあうのは、気持ち悪く感じますね。
削除参考までに
削除ものみの塔聖書冊子協会では、「さん」と「兄弟姉妹」では全然違います。このあたりの呼称をきっちり使い分けています。
〇〇さん・・・バプテスマを受ける前の人。(たとえば研究生とか)
××兄弟/姉妹・・・バプテスマを受けた人
王国会館の中では兄弟姉妹という呼称をつけて呼ばれる人がエホバの証人になります。
たしかに、教会の人々が「ナントカ兄弟」「ナントカ姉妹」と呼び合っているのを第三者が見たら、気持ち悪く思うかもしれませんね。怪しいというか。その点だと「さん付け」のほうが常識的に見えるでしょうね。
削除エホバの証人では明確な使い分けがあるのですね。参考になります。
とあるきよめ派でしたが、
返信削除教会員同士ではさん付けで、「兄弟姉妹」とは呼びあいませんでした。
しかし、私が堕落したら、牧師夫人が、
「○○青年」
と祈りのなかで名指したのでした。
あなたは「兄弟」ではありません!
みたいに。
ちなみに、日本キリスト教団の教会に行ったときは、
返信削除「神の家族」ではなくて、「祈りの共同体」という言葉を使ってました。
家族じゃないのだから、甘えないでね、という感じで。ひとを呼ぶときは、さん付けだったし。
コメントありがとうございます。
削除なるほど、「祈りの共同体」と言うのですね。参考になります。
「家族じゃないから甘えないでね」というのはわかりやすいですね。