少し前に「メンタリングと弟子訓練のちがい」という記事を書きました。すると「メンタリングも結局人のコントロールが入るからちょっと怖い」という趣旨のコメントをいただきました。
仰る通りだと思います。
メンタリングとは基本的に、メンターがメンティーに対話を通して助言するものです。だからその対話にも助言にも、何らかの意図を含ませることができるでしょう。やろうと思えば。だから簡単に、人をコントロールするものにもなり得ます。それなら弟子訓練と何も変わりません。
その意味で「ちょっと怖い」と思われるのは、至極当然です。むしろ「怖い」と思っていただいた方が安心かもしれません。それくらい、危険な教会は危険ですから。
ただ私があの記事を書いたのは、単純に、個人的に、「メンターがいたらいいなあ」と思っているからです。私の話をじっくり聞いてくれて、そのまま肯定してくれて、いい感じの助言を(頻繁にでなく)くれる、信頼できる人がいたらいいなあ、と思うわけです。皆さんそういうの欲しくないですか。
もちろん、その人の言いなりになるのではありません。嫌なものは嫌と言います。違うと思ったら違うと言います。で、その人も、私が拒否したら「そうなんだね」とシンプルに受け止めてくれます。決して無理強いしません。そういう関係です。
実はそれに近い関係を、かつて持っていました。
彼は私より少し年下でした。教会歴でも私が先輩でした。だから必然的に、あるいは自然に、私が彼の話を聞くことが多くなりました。私はあれこれ考えて彼に助言しました。良く言えば、私は彼にとってメンターのような存在だったかもしれません。
でも彼は決して、私の言いなりにはなりませんでした。私の助言は彼にとってあくまで参考程度でした。意見が合わないこともしばしば。大喧嘩になったこともあります。お互い、大事に思う部分が微妙に違うのでした。
彼と私との関係は、決して十分でなかったにせよ、たぶん良いものだったと思います。歩む道は同じでありませんでしたが、そのへんも互いにわかり合って、認め合っていたと思います。彼がどう思っていたのかは、正確にはわかりませんが。
ともあれ彼との関係は、今も私にとってモデルケースとなっています。クリスチャンどうし、支配とか被支配とかでなく、互いに尊重し合える、年齢や立場が違っても等しい関係でいられるモデルケース。簡単に言えば、単に「クリスチャンの友達」なんですけどね。
このモデルケースがなかったら、今頃「メンターがほしい」なんて言ってないと思います。
というわけで、メンタリングにも危険性があるのは重々承知しているのですが、それでもなお私にはメンタリングに期待する部分があるわけです。
あるいはメンタリングと言うとちょっと重たいかもしれませんね。でしたら「何でも相談できるクリスチャンの友達がほしい」で全然いいです。
皆さんにはそういう存在はいますか。いるならそれは大変喜ばしいことです。是非その関係を、大切にして下さい。いないなら私のように「メンターほしいなあ」と言ってみませんか。それでメンターができる保証は全くありませんが笑
・カルト化の反対は
いつも読んで下さっている方はお気づきと思いますが、最近「英語記事の翻訳」をボチボチやっています。主に米国のクリスチャニティ・トゥデイ(日本のとは全く関係ありません)の無料記事から、興味のあるトピックを選んで勝手に翻訳(あるいは一部翻訳)しています。上記のメンタリングの記事もその一環です。
なぜ翻訳かと言うと、理由は2つあります。
1つは単に英語力を身に付けたいからです。世界の情報の7割は英語だと、どこかで聞いたことがあります。だから英語がわかれば世界が広がるかな、情報が増えるかな、というのもあります。それにもともと英語に関心がありましたので、時間もあるし、ちょっと本腰入れてやってみるか! と思ったわけです。いつまで続くかわかりませんが。
もう1つは、「教会のカルト化」を防ぐには、詰まるところ「教会の健全化」について考えなければならない、と思うようになったからです。当たり前と言えば当たり前の話なのですが。
で、「教会の健全性」とは何か、という問いに挑戦したいと思っています。そしてそのヒントを得ようと、とりあえず海外の情報を当たってみた次第です。単純すぎるかもしれませんが。
ただ、翻訳しっぱなしにするつもりはありません。海外情報が全部健全だと思っているのでもありません(それこそ非論理的でしょう)。「この人はこういうことを言ってます」みたいなスタンスで、自分なりの「健全性」を模索していきたいのです。いわゆる批判的に読む、というヤツですね。
そして、「こういう試みは良いのではないか」「日本でも適用できるのではないか」というものを紹介していきたいと思っています。
もちろん今まで通り、カルト化の問題点についても書いていくつもりです。『キマジメくん』などまさにそうです。ただ少しずつ、「健全性」についても書いていきたい。そんなところです。
・ドラマチックな信仰?
さっそく海外ネタですが、こんな言葉を見つけました。
You want to walk on water? Get out of the boat!
(水の上を歩きたかったら、ボートから出なくては!)
(水の上を歩きたかったら、ボートから出なくては!)
当たり前ですが、これは水の上をウォーキングする方法について教授しているわけではありません。「奇跡」を見たいなら、思い切って信仰に踏み出さなければならない、と言っているわけです。もう少し実際的な言い方をするなら、「成功したいならリスクを取るべきだ」みたいな感じです。
皆さんこれを聞いてどう思われますか。
私ははっきり言って、こういうのは好きではありません。
もちろん言いたいことはわかります。極端な例ではありますが、何かやろうとしている人の背中を押し出す、「励まし」系の言葉と捉えれば、悪い気もしません。
でもこれは下手すると、ビジネスセミナーの宣伝文句みたいにもなります。リスクなくして成功なし、みたいな。
そして信仰を何かドラマチックなもの、成功を保証するもの、人生を良くするための手段、みたいにしてしまいます。要は、繁栄の神学。
あなたがクリスチャンであるなら、キリスト教を信仰する目的は何ですか。裕福になるためですか。地位や名誉を得るためですか。事業で成功するためですか。夢を実現するためですか。そのどれかであるなら、あなたが信じているのはキリスト教でなく繁栄の神学です。キリスト教っぽいけどキリスト教ではない、成功哲学みたいなものです。
聖書を開いてみましょう。いわゆる現代的な「成功」を収めた人がどこにいますか。信仰者の多くは、むしろその逆ではなかったですか。キリストはサクセスストーリーの主人公でしたか。彼は地上で最も苦しんだ人の1人ではなかったですか。
だから、信仰的なリスクを犯せば奇跡を体験できる! みたいな物言いに私は賛成できません。信仰に歩むことを否定しているのではありません。奇跡を否定しているのでもありません。信仰に歩めば良い思いができる、という発想を否定しているのです。
たとえば礼拝に参加して「恵まれました」と言う人がいますけれど、私たちは恵まれるために礼拝するのでしょうか。では恵まれる見込みがなかったら礼拝しないのでしょうか。礼拝は捧げものでなく、何かを得るための手段なのでしょうか。
そういうことを考えると、上記の言葉がなんとも薄っぺらく見えてきます。
つまり海外情報にも薄っぺらいものがある、ということですね。当たり前な話ですが笑