・心の痛むコメント
投稿者様の許可はいただいていませんが、既に掲載されているものでもありますので、ちょっとここに引用させていただきます。
ーーー以下 引用コメントーーー
つい最近、クリスチャンの知り合いの方が通っている教会で揉め事があったようで「相手を許せないと思ってしまう自分が悪い。罪だ。」と言っていたので、話を聞いた上で判断し「それは相手がおかしいよ。貴方は悪くないし、許したくないなら無理矢理許さなくてもいいんだよ。」と言ったのですが、周りのクリスチャンの方の「祈れば大丈夫。」とか「人を許せないなんて信仰が足りない。」の言葉に押されてしまい、気付いた頃には朝から晩までテンション高くSNSに神様の事を呟き、完全に病んでる人になっています。せっかく教会の外の人間に話してくれたのに、結局教会の中の人に押し負けてしまいました。
ーーー以上 引用コメントーーー
辛い話です。特に「朝から晩までテンション高くSNSに神様の事を呟き・・・」という姿が目に浮かぶようです。
信仰的な葛藤や浮き沈みを、逐一SNSに書き込んで、泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだり、ハレルヤと言ったり悔い改めますと言ったり、SNSを辞めますと言ったり再開しますと言ったり。そういう、明らかに不安定な精神状態の人を、時々見かけます。この「知り合いの方」も、おそらく似たような状況ではないかと想像します。
・教会内で信徒に働く、強い同調圧力
なんでそうなってしまうかと言うと、コメントにある通り、「信仰かくあるべし」という強い同調圧力が、教会内で強く働いているからです。
何か問題があると、
「祈りなさい」
「断食して祈りなさい」
「祈りが足りないんだ」等。
人間関係のトラブルがあると、
「相手を許しなさい」
「あなたが変わりなさい」
「イエス様ならどうするか考えなさい」等。
他にも、
「払える以上に献金してこそ信仰です」
「自分を無にして奉仕しなさい」
「熱心に伝道しなさい。あなたが伝道しないが故に滅びる魂のことを考えなさい」
「毎日1時間以上、牧師のために祈りなさい」
「牧師に何か頼まれたら神からの依頼と考えなさい」
等、良く言えば敬虔っぽいことが周囲から聞こえてきます。でも実際のところは、ものすごく理不尽なことがすんなりと語られているのではないでしょうか。もちろん一部の教会のみの話でしょうが、そういう教会の皆さんは、もうそういうのが当たり前になってしまっていて、あまりおかしいとは思っていないようです。むしろそれに順応できない自分が悪いんだと、自分自身を責めているくらいです。
でもそれらは、はっきり言って人権侵害ではないでしょうか。信仰と称する虐待としか思えません。
たとえばの話ですが、「どんなことでも許さなければならない」のなら、たとえ身内(あるいは大切な誰か)を殺されても、犯人に文句一つ言えないことになります。大切なものを盗まれたり壊されたりしても同様です。どんな酷い目に遭っても異を唱えることができません。でも、そんなことできる人がいるでしょうか。私の知っている牧師なんか、バイクで走っていて警官に止められた際、その警官に罵詈雑言の限りを浴びせてやったと自慢げに話していたのですが。
上記のコメントの方も、まさに人権を侵害されていると思います。詳細はわかりませんが、何らかの被害に遭ったにもかかわらず、一方的に相手を許さなければならないと迫られているのですから。本人は自分が悪いと考えてしまっていて、辛いけど抜け出せない、心理的な袋小路に追い込まれていると思います。だから朝晩、病んだ書き込みをして、何とか心をバランスを保とうとしているのではないでしょうか。
・解決は
ではこのように、気づかずに人権を踏みにじられている人たちは、どうすればそこから解放されるのでしょうか。
万人に共通する、一つのシンプルな解決策があるとは思えません。みな個別的な事情があるでしょう。その教会の方針をどれだけ強力に信じてしまっているか、でも変わってくると思います。
ただ一つ確実に言えることは、その人自身が「人権を侵害されている」と自覚しない限り、解決はないということです。「これが信仰だ」とか「これは訓練だ」とか思っているうちは解決しません。だから何とかして、その人に「気づき」を提供する必要があります。
その「気づき」を促す方法の一つとして、「キリスト教関連の知識を提供する」というのがあると思います。
世界にはいろいろな教会があって、いろいろな聖書解釈があって、こんなクリスチャン生活もある、あんなクリスチャン生活もある、という事実を教えられると、だんだん視野が広がっていくと思います。すると「自分の教会の言っていることが必ずしも正しいとは限らないのかも」と、気づけるかもしれません。するといろいろ疑問が出てきて、呪縛が解けるかもしれません。
信仰のことで苦しんでいる人を見ると、一つの教会しか知らない、その教会でずっと生きてきた、というのが原因としてあるような気がします。すごく視野が狭くなっているのですが、視野が狭いということ自体に、気づいていないのです。
これと同じようなことをコメントして下さった方がいますので、最後に引用させていただきます。こちらも失礼ながら、投稿者様の許可は得ていませんが。
ーーー以下 引用コメントーーー
(中略)日本人はキリスト教の知識がないために、自分の頭で考えろといわれても、それが難しくなっているのではないかなあと思うのです。
「自分の頭で考える」という行為をなすときに、実はそのためには膨大なる情報や知識のストックが必要になってくるわけです。情報や知識がしっかりあってこそ、それを基準にしてようやっと自分の頭で考えるという行為をなせるようになるのです。 日本人は、キリスト教どころか仏教も葬式仏教ですし、はっきりいえば宗教音痴といってもいいのではないでしょうか。そしてその宗教音痴ゆえになかなか理解できない・・・。せめて仏教だけでもそれなりにわかっていれば、たとえば「自分の地域ではどこが新興宗教系の宗教団体なのか」がわかるのです。(中略) つまり「宗教において一番大切なのは教養主義」、これに尽きるということなのです。断じて新興宗教系プロテスタントのモットーである反知性主義ではありません。
ーーー以上 引用コメントーーー
この「教養」あるいは「気づき」を提供できるのは、周囲の人たちです。自分で「気づく」ことはまずありません。
だから教会で人権を侵害されているらしい人に出会ったならば、ぜひ上記のようなことを考えて、気長に接していただけたらなと思います。
また現在どこかの教会に属している人は、自分の教会がどうなのか、人権を侵害された人がいないかどうか、ちょっと立ち止まって考えてみていただけたらなと思います。
あの、単語の一部をちょっと変えただけで創価学会になるんですけど・・・
返信削除何か問題があると、
「仏壇の前に座って祈りなさい」
「何時間も唱題しなさい」
「信心が足りないんだ」等。
人間関係のトラブルがあると、
「相手を許しなさい」
「それなら自分が偉くなって学会を変えろ!(注 学会の高級幹部はコリア系が多いとか)」
「池田先生ならどうするか考えなさい」等。
他にも、
「払える以上に財務してこそ信仰です」
「自分を無にして奉仕しなさい」
「熱心に折伏しなさい。あなたが折伏しないが故に滅びる魂のことを考えなさい」
「毎日1時間以上、池田先生のために勤行しなさい(そういえば池田先生って生きているんですかあ?)」
「池田先生に何か頼まれたら仏からの依頼と考えなさい」
>「気づき」を促す方法の一つとして、「キリスト教関連の知識を提供する」というのがあると思います。
確かにこれは有効な方法ではありますね。でも「キリスト教関連の知識を提供」しようと、こっちが思っていても、向こうのマインドコントロールがひどくて受け付けないということが往々にしてあるのですよ。だってカルト化した新興宗教系プロテスタントでは、その手の情報は「悪いデータを入れる」ことになるからです。
こんなときは思い切って、違う方面の情報にすると聞く耳を持ってくれることがありますよ。カルト化した新興宗教系プロテスタントは、統一教会やものみの塔聖書冊子協会や末日聖徒イエス・キリスト教会といった三大異端を激しく批判します。もし三大異端に詳しい人がいれば、その人から話してもらって「あなたの教会にも似たような体質がないかな?」とやってもらうのも一つの手ではあります。
また創価学会に嫌な目にあわされた経験を持つ人も、なぜかカルト化した新興宗教系プロテスタントには多いのですね。(中には元学会員という信者すらいたりします)
そんな人には創価学会をやめた人に来てもらって、学会ではこうだったという話をしてもらうと効果があるのかもしれません。元学会員だった人なら警戒心を持たずに話を聞くでしょうから、「あれ?この教会にも学会と似たような体質がないかな?」と、ふっと気づいてくれたら、めでたしめでたしではありませんか。
前回のコメントの名前欄に「匿名」で入れてしまいました。申し訳ありません。コメントの掲載や引用は大丈夫ですよ。
返信削除詳細は書けませんが、心を病んでしまった知り合いの方は通っている教会の中でも役職?がついてる方です。なので、その教会自体の体質がおかしいのだと思われますね。
教会に来る方誰に対しても好かれなくてはいけない。皆が理想とする自分でなくてはいけない。と言う気持ちが強すぎる様で、今だったら「クリスチャンの中でも偉い人の言う事なら何でも聞く」状態です。
SNSでその方が少し弱音を吐くと「信仰が足りない。」と皆一斉に叩いたのに、毎日5分おきに神様の事を投稿して見るからに病んでからは誰もコメントをしなくなりました。
何て冷たいんだろうと思いました。元気な時はチヤホヤしてたのに。
メビウスさん、コメントありがとうございます。
削除引用の許可も感謝です。
役員の方なら責任もあるでしょうから、余計に病みやすいと思いますね。
私の知っている教会でも、やはり役員(真面目な人)の葛藤が深かったと思います。
みなでチヤホヤしてたのに問題があるとサッと引く、というのも教会あるあるで泣けてきます。
「クリスチャンの中の偉い人の言うことなら何でも聞く」というのも、事態を悪化させるだけだと思います。悩ましいところですね。
「許しなさい」とやたらと許しを強制するのも、信仰という名の虐待かもしれません。
返信削除いわれたほうは「そんなこといわれても・・・」となってしまって、許せない自分を責めてしまいますので、下手をするとうつ病になってしまうことが往々にしてあります。
「許しなさい」指導は、新興宗教系プロテスタントでよくされる指導です。もちろんそんな指導をする聖職者は、自分が被害者になったら永遠に許さないと豪語していたりするという・・・(苦笑)。
実はアーミッシュでも「許しなさい」といわれます。アーミッシュの学校に一人の基地外の暴漢が入ってきて、学校で学んでいた子供たちを殺し、そのあと自殺してしまった事件が起こったことがあります。(そのとき教室にいた一番年長の子は、暴漢が銃を持っているのを見ても無抵抗で、「私から撃って」といって死んでいったそうです)。
この事件の後、アーミッシュはこう声明を出しました「私たちは犯人を許します」。
彼らの声明は決してウソではありませんでした。なぜなら殺された子供たちの家族も含めて、多くのアーミッシュたちが犯人の葬儀に来たからです。
アーミッシュは親戚や地域の絆がしっかりしていて、子供を殺されて悲しんでいる家族をしっかりとサポートしたりケアしたりする体制が整っています。(ついでにいえば、アーミッシュは教会の建物を持たず、地域の家々が順番に自分の家を提供して、そこにみんなが集まってお参りをすると聞いています。もちろん職業的聖職者はいません。説法をする人も順番です。こんなシステムですので献金もほとんどないでしょうから、什一献金をよこせといってもめ事を引き起こす心配もありません。)
しかるに一方、新興宗教系プロテスタントはどうなのでしょうか?まず信者は家族や親戚と仏事等の拒否により対立していますし、地域でもお祭りを拒否することもあって、完全に浮いた存在になっています。つまり血縁も地縁も「ぷっつん」と切れてしまっているので、アーミッシュのように親戚や地域をあげて、その人をサポートしたりケアしたりするシステムがありません。
なら教会の中で、その人をサポートしたりケアしたりするのか?といえば、教会側はしていると思っているようですが、アーミッシュ並みのきめ細かな対応まではたぶんできないものと思われます。サポートもケアも粗雑なもので、当事者の心を立ち直らせることは難しいでしょう。(だから実際に立ち直れなくて苦しんでいる人が多いのが現状です。)
要するに「許しなさい」というくせに、何もせずに放っておくわけです。これでは踏んだり蹴ったりではないかと思います。
人のあやまちに関しては
返信削除マタイ18章21~35、ルカ17章4
イエスは、ゆるしてあげなさい、と言っている箇所ですね。この言葉が言われた背景には、旧約の
*創世記4章22~24 メレクの復讐主義(77倍返し)をどう考えるのか。ということがありますね。77倍返しをやりなさいというわけですね。これではねえということで、1倍返しがでてきたわけすね。
旧約の律法、出エジプ記21章24「目には目を、歯には歯を」の報復主義をどう考えるのか。1倍返しの報復主義でいこうというわけです。十一献金のように、あるときは旧約を使い、また別の時は新約を使う、自己の都合の良いように聖書が利用できるというわけですね。現実世界の法治主義との兼ね合いもありますし。理想として「ゆるす」が現実的対応を行うというのが必要ですね。
ハッキリと一言で。
返信削除それをご都合主義と言います。
首尾一貫した物が何もない、浮き草の様な教えに過ぎません。
聖書から引用して、どの様な教えでも正当化出来ると言う事自体が、人間の創った物である事を証明しており、星の数程教派が存在する所以です。
そんな物に人生を費やすほど、バカバカしい事は他に無いでしょう。