キリスト教会(の一部)では、すんなりと人権が侵害されている

2017年6月30日金曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

t f B! P L
・心の痛むコメント

最近いただいたコメントに、心の痛むものがありました。
 投稿者様の許可はいただいていませんが、既に掲載されているものでもありますので、ちょっとここに引用させていただきます。

ーーー以下 引用コメントーーー

 つい最近、クリスチャンの知り合いの方が通っている教会で揉め事があったようで「相手を許せないと思ってしまう自分が悪い。罪だ。」と言っていたので、話を聞いた上で判断し「それは相手がおかしいよ。貴方は悪くないし、許したくないなら無理矢理許さなくてもいいんだよ。」と言ったのですが、周りのクリスチャンの方の「祈れば大丈夫。」とか「人を許せないなんて信仰が足りない。」の言葉に押されてしまい、気付いた頃には朝から晩までテンション高くSNSに神様の事を呟き、完全に病んでる人になっています。せっかく教会の外の人間に話してくれたのに、結局教会の中の人に押し負けてしまいました。 

ーーー以上 引用コメントーーー

 辛い話です。特に「朝から晩までテンション高くSNSに神様の事を呟き・・・」という姿が目に浮かぶようです。
 信仰的な葛藤や浮き沈みを、逐一SNSに書き込んで、泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだり、ハレルヤと言ったり悔い改めますと言ったり、SNSを辞めますと言ったり再開しますと言ったり。そういう、明らかに不安定な精神状態の人を、時々見かけます。この「知り合いの方」も、おそらく似たような状況ではないかと想像します。

・教会内で信徒に働く、強い同調圧力

 なんでそうなってしまうかと言うと、コメントにある通り、「信仰かくあるべし」という強い同調圧力が、教会内で強く働いているからです。
 何か問題があると、
「祈りなさい」
「断食して祈りなさい」
「祈りが足りないんだ」等。

 人間関係のトラブルがあると、
相手を許しなさい」
「あなたが変わりなさい」
「イエス様ならどうするか考えなさい」等。

 他にも、
「払える以上に献金してこそ信仰です」
「自分を無にして奉仕しなさい」
「熱心に伝道しなさい。あなたが伝道しないが故に滅びる魂のことを考えなさい」
「毎日1時間以上、牧師のために祈りなさい」
「牧師に何か頼まれたら神からの依頼と考えなさい」

 等、良く言えば敬虔っぽいことが周囲から聞こえてきます。でも実際のところは、ものすごく理不尽なことがすんなりと語られているのではないでしょうか。もちろん一部の教会のみの話でしょうが、そういう教会の皆さんは、もうそういうのが当たり前になってしまっていて、あまりおかしいとは思っていないようです。むしろそれに順応できない自分が悪いんだと、自分自身を責めているくらいです。
 でもそれらは、はっきり言って人権侵害ではないでしょうか。信仰と称する虐待としか思えません。

 たとえばの話ですが、「どんなことでも許さなければならない」のなら、たとえ身内(あるいは大切な誰か)を殺されても、犯人に文句一つ言えないことになります。大切なものを盗まれたり壊されたりしても同様です。どんな酷い目に遭っても異を唱えることができません。でも、そんなことできる人がいるでしょうか。私の知っている牧師なんか、バイクで走っていて警官に止められた際、その警官に罵詈雑言の限りを浴びせてやったと自慢げに話していたのですが。

 上記のコメントの方も、まさに人権を侵害されていると思います。詳細はわかりませんが、何らかの被害に遭ったにもかかわらず、一方的に相手を許さなければならないと迫られているのですから。本人は自分が悪いと考えてしまっていて、辛いけど抜け出せない、心理的な袋小路に追い込まれていると思います。だから朝晩、病んだ書き込みをして、何とか心をバランスを保とうとしているのではないでしょうか。

・解決は

 ではこのように、気づかずに人権を踏みにじられている人たちは、どうすればそこから解放されるのでしょうか。
 万人に共通する、一つのシンプルな解決策があるとは思えません。みな個別的な事情があるでしょう。その教会の方針をどれだけ強力に信じてしまっているか、でも変わってくると思います。

 ただ一つ確実に言えることは、その人自身が「人権を侵害されている」と自覚しない限り、解決はないということです。「これが信仰だ」とか「これは訓練だ」とか思っているうちは解決しません。だから何とかして、その人に「気づき」を提供する必要があります。

 その「気づき」を促す方法の一つとして、「キリスト教関連の知識を提供する」というのがあると思います。
 世界にはいろいろな教会があって、いろいろな聖書解釈があって、こんなクリスチャン生活もある、あんなクリスチャン生活もある、という事実を教えられると、だんだん視野が広がっていくと思います。すると「自分の教会の言っていることが必ずしも正しいとは限らないのかも」と、気づけるかもしれません。するといろいろ疑問が出てきて、呪縛が解けるかもしれません。

 信仰のことで苦しんでいる人を見ると、一つの教会しか知らない、その教会でずっと生きてきた、というのが原因としてあるような気がします。すごく視野が狭くなっているのですが、視野が狭いということ自体に、気づいていないのです。

 これと同じようなことをコメントして下さった方がいますので、最後に引用させていただきます。こちらも失礼ながら、投稿者様の許可は得ていませんが。

ーーー以下 引用コメントーーー

(中略)日本人はキリスト教の知識がないために、自分の頭で考えろといわれても、それが難しくなっているのではないかなあと思うのです。
「自分の頭で考える」という行為をなすときに、実はそのためには膨大なる情報や知識のストックが必要になってくるわけです。情報や知識がしっかりあってこそ、それを基準にしてようやっと自分の頭で考えるという行為をなせるようになるのです。 日本人は、キリスト教どころか仏教も葬式仏教ですし、はっきりいえば宗教音痴といってもいいのではないでしょうか。そしてその宗教音痴ゆえになかなか理解できない・・・。せめて仏教だけでもそれなりにわかっていれば、たとえば「自分の地域ではどこが新興宗教系の宗教団体なのか」がわかるのです。(中略) つまり「宗教において一番大切なのは教養主義」、これに尽きるということなのです。断じて新興宗教系プロテスタントのモットーである反知性主義ではありません。

ーーー以上 引用コメントーーー

 この「教養」あるいは「気づき」を提供できるのは、周囲の人たちです。自分で「気づく」ことはまずありません。
 だから教会で人権を侵害されているらしい人に出会ったならば、ぜひ上記のようなことを考えて、気長に接していただけたらなと思います。
 また現在どこかの教会に属している人は、自分の教会がどうなのか、人権を侵害された人がいないかどうか、ちょっと立ち止まって考えてみていただけたらなと思います。

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