・とある映画鑑賞会に働いた「権威」
私が教会でクリスチャン中高生を相手に活動していた頃、こんなことがありました。
みんなで映画を観よう、という話になってある映画をTSUTAYAでレンタル。一応事前に内容をチェックして、何かキリスト教的なメッセージに繋げられるかどうか一応考えて、本番に臨みました。
映画はちょっと変わったミステリーでした。主人公の設定に、生命倫理的な問題を若干感じました。でも単純に犯人捜しを楽しめるし、最後はハッピーエンドだし、(クリスチャンの)中高生にふさわしくない(と思われる)描写もなかったので、まあいいんじゃないかと思いました。
いわゆる「教会で映画鑑賞会」です。皆が楽しみにして来た・・・かどうかはわかりません。ゲーム大会とかピクニックとかどこかに遠征とかイロイロ選択肢はありましたが、毎週何かしらやっていて、当然ながらそういうのは定番だったので、そろそろ映画に逃げようかと思ったわけです。
ただ一つ補足しておくと、チャペルの大スクリーンと高価な音響設備を使わせてもらえて、カーペットにクッションや寝袋を自由に敷いて寝転がれて、自由に食べたり飲んだりしゃべったりできて(汚したからって掃除する子は少なかったですが)、しかも無料で、つまらなかったり眠かったりしたら(真っ暗なので)じっくり寝ることもできて、という決して悪い条件ではなかったと思いますが。
だいたいこういう鑑賞会は、上映前に皆でお菓子やらジュースやらクッションやら寝袋やら準備して、一応お祈りして、主催者(この場合は私)が映画の説明をちょっとして、それから上映開始、というのが通常でした。そして終わったら、皆でちょっと感想を話し合い、残ったお菓子類を食べ尽くして、お開きになるのです。
その日も同じように進行し、滞りなく終わりました。
ただ一つ、どうでもいいことかもしれませんが、気になることがありました。
映画が終わって、皆が順番に感想を言うとき、詳しく覚えていませんがかなりの数の子が、「生命倫理的に問題だと思いますが・・・」という言葉を使っていたのです。普段そんなセリフを絶対言わないような子までがです。
これはいったい何だろうと思ったら、上映前に私自身が、「この映画、生命倫理的にちょっと問題あると思うけど・・・」と話したことに思い当たりました。
たぶん皆それを聞いて、ああそんなんだな、これから観る映画はセイメイリンリテキにモンダイがあるんだな、と思ったのでしょう。そういう先入観を持ったのだと思います。皆従順なクリスチャン子弟だった、というのも関係あったでしょう。あるいは感想らしい感想が思いつかなくて、主催者の言葉をそのまま拝借しただけだったかもしれませんが。
だから私が上映前に「これは〇〇だ」と言ったら、多くの子が「これは〇〇だ」と思って観るのでしょう。××だと言ったら、××だと思うのでしょう。
その場のリーダーは私だったので、「生命倫理的に問題がある」という言葉が「権威」となって、皆に働いたんじゃないかと思いました。
たかが映画鑑賞会でしたが、なんとなく「権威」の力を感じた一コマでした。
・地下鉄サリン事件の話題で働いた「権威」
これに関連して思い出すのは、だいぶ規模が違いますけれど、「地下鉄サリン事件」の後の教会での会話です。
当時、霞ヶ関でのショッキングな映像が報道されて以降、実行犯がオウム真理教の信者だと特定され、教祖の麻原彰晃が大々的に取り上げられ、サティアンなる教団施設の異常さが連日取り上げられ、各地で「異臭」騒ぎがあり、とイロイロありました。その中で「新興宗教はあぶない」という共通認識みたいなものが広がっていったと思います。なんとなく宗教全体に対する目も厳しくなったように、個人的には感じました。おそらく元々そうだったとも思いますが。
そしてある日曜礼拝の後、牧師を含む何人かで雑談していた時、オウム真理教の話題になりました。当然ながら彼らの行為は許されるものではない、というのが前提でしたが、牧師が真剣な顔でこんなふうにも言いました。
「オウム真理教に対する警察の捜査もマスコミの報道も、もはや信教の自由の侵害だ。あれにはクリスチャンとしてもノーと言わなければならない」
地下鉄サリン事件そのものについてでなく、たとえばサティアンという教団施設の奇異さを興味本位で取り上げるマスコミに対する発言だったと思います。
でも私は信教の自由の侵害とは思わなかったし、むしろ洗いざらい明るみになった方がいいとさえ思っていたので、牧師のこの発言には驚きました。牧師が怒っいたのもちょっと理解できませんでした。
でも同時に、そうなのか、クリスチャンならこういう反応をするものなのか、とも思いました。当時は牧師の言うことは絶対に正しくて、、神の権威によるものだ、と考えていましたから。
要は、どんな宗教団体であっても故意に貶められているならば、クリスチャンとして怒らなければならない、反抗しなければならない、というのが「クリスチャンのスタンダード」として私に突きつけられたのでした。
これもまた「権威」によるものです。
もっともその後、その牧師がオウム真理教の為に何かしたかと言うと、たぶん何もしていないのですが。
・権威ある人の発言には大きな影響力がある
何が言いたいかというと、いたってシンプルなことですが、権威ある人の発言には影響力がある、ということです。そしておそらく本人が思っている以上に、その影響力は強く大きいということです。
時々、教会で何らかのリーダーに任命された人が「私に務まると思えません」みたいなことを言いますが、どれだけ自信がなくても、できると思えなくても、ダメだと思っても、人前に立った時点で「権威」を帯びてしまいます。そして少なからぬ人々がその「権威」の影響を受け、考え方や行動を変えたり修正したりします。しかもその内容の真偽にかかわらず、です。
だから牧師であれ、教会学校の先生であれ、何かのリーダーであれ、人にものを話して影響を与える立場にある人は、そういう覚悟を持っていなければなりません。と私は思います。あなたが何気なく言ったことでも、あなた自身が覚えていないような些細なことでも、誰かの心には長く長く残るものですから。
もちろん何もかも完璧にやるとか、うまくやるとか、正しくやるとか、そういうのは不可能です。むしろ沢山ミスをするかもしれません。イロイロ後悔するかもしれません。時間を戻したいさえ思うかもしれません。でもそういうのは残念ながら、避けられません。
むしろ、沢山迷ったり葛藤したりして、常に「考えている」ことが大切なのかもしれません。そして「権威」の持つ力や恐ろしさ、危うさを忘れないことです。
と、偉そうに語ってしまいましたが、以上、過去の自分にとくとくと話して聞かせたい話でした。
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→上に立つ人の「資質」の問題・その1
→上に立つ人の「資質」の問題・その2
オウム事件の時、ある新興宗教系プロテスタントの教祖がこういったそうです。
返信削除「地下鉄にサリンをまくのはいけないが、彼らの麻原に聞き従う信仰は素晴らしい」
自分が新興宗教の教祖であるだけに、自分の教会に来ている信者には「麻原彰晃に聞き従うサマナ達のようであれ」と望んでいるわけです。
上に立つ人の「資質」の問題・その3 では、オウムの時に新興宗教系プロテスタントの一教会の教祖が、こういう反応をしたという話が取り上げられていますが、桜田淳子が参加して話題になった統一教会の集団結婚式のときだったら、この教祖がいったいどういう反応を示したのかに興味があります。
実はキリスト教系を名乗っている統一教会の問題になると、「あれは異端の教えだから」という感じの反応だけになってしまうことがなきにしもあらずなのです。
「統一教会に対するマスコミの報道は、もはや信教の自由の侵害だ。あれにはクリスチャンとしてもノーと言わなければならない」という反応は示すでしょうか?
この種のことは、日常的に経験することですね。自分の考えでは・・・というのと、**先生がいうにはとでは、聞き手の与える影響力が違いますね。昔、とある研究会で、某大学のA先生と論争に成って、A先生の師匠であるB先生は「**」の著作の**ページでA先生の主張の反対のことを書かれていますがどのように考えますかと言ったことがあった。するとA先生は師匠のB先生の主張は間違っていると言えば良いものを詰まってしまったんですね。これを「虎の威を借る主張」と言うのですが、反論には効果的なのですね。
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