「台風の進路を変えて下さい」と祈る身勝手さ

2023年8月21日月曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 台風接近のニュースを耳にして「台風の進路を変えて下さい」と祈るクリスチャンがいる。神には台風の進路を変える力がある、と信じているのだ。そう信じるのはいい。ただその祈りが完全に見逃しているのは、仮に祈りで台風の進路が変わったとして、新たな進路で被害に遭う人たちがいる、という点だ。台風が消滅するように祈ってはいけないのだろうか。

 自分たちが無事ならそれでいい、という自己中心的な発想は「携挙信仰」に似ている。他の人たちがどうなるかを全く考えていない。映画『エイリアン2』の、エイリアン襲撃時にみんなを閉じ込めて自分だけ逃げようとしたバークに似ている。それで「自分中心でなく神様中心に生きよう」とか、どんな顔で言えるのだろうか。


 2004年のスマトラ沖地震の時もそうだった。「大きな津波に襲われたけれど、自分たちのボートは奇跡的に転覆を免れました! ハレルヤ!」と嬉々として話すクリスチャンがいて、大いに引いた。人でなしだと思う。これは私感だけれど、信仰に進めば進むほど、人間性を失ってしまうクリスチャンが少なくない。目を覚ましてほしい。


 「神様によって◯◯から守られました。ハレルヤ!」という言い方、捉え方も同じく危険だ。その背後に「守られなかった人」がどれだけいるか、考えたことがあるだろうか。「守られなかった人」は神の愛に値しなかったのだろうか。であるならいつかあなたも、神の愛に値しない時が来るだろう。いつもいつも「守られる」わけではないはずだから。

 現実に酷い目に遭っている人たちに向かって「神の愛は優しいだけではない。時には厳しさもまた愛なのだ」と知ったふうに言い放つクリスチャンもいる。しかしこの世界には様々な不均衡があって、様々な分野において、構造的に(自分の意思と関係なく)虐げる者と虐げられる者に分けられている現実がある。その後者に向かって「時には厳しさもまた愛なのだ」と言ってしまうナンセンスさ、頓珍漢さに気づかないと、クリスチャンなどどこに行っても相手にされない。その不均衡に気づいて具体的に立ち向かうことこそ、クリスチャンがすべきことなのだから。


 そういうことに無頓着な、能天気で人でなしなクリスチャンたちが「隣人愛」とか「人々の救い」とか「御国拡大」とか、真顔で言うのが正直恐ろしい。聖書しか読まない(もしかしたら聖書さえちゃんと読んでいないかもしれない)弊害がここにある。

QooQ