神様をサディスティック化する信仰

2023年4月10日月曜日

「祈り」に関する問題

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「祈る」より大切なこと

 職場等でパワハラ被害に遭ったら、祈るのでなく(祈ってもいいけれど)ちゃんと相談窓口等に掛け合って然るべき対処をしてほしい。パワハラという現実の加害に対して、祈りという霊的(?)な対抗は意味がないから。少なくとも即時的な効果はないから。あなたはスパイクシューズで足をグリグリ踏まれて痛みに悶絶しながら、「この足がどきますように」と手を合わせて祈るのだろうか。


 「祈り続けたら1年後に事態が突然解決した。ハレルヤ!」と主張するクリスチャンもいるけれど、1年も2年も祈り続けて「事態が変わった」のは「祈りの結果」とは言えないし、1年も2年も我慢して精神疾患を患ったらそれこそ取り返しが付かなくなる。だから現実的な、できるだけ即時的な対応をしてほしい。


 「何かで困った時に祈る」のはクリスチャンなら当然かもしれないけれど、1日2時間も3時間も祈る生活を約20年間続けた私に言わせてもらうと、目の前にある問題は、実際に行動しないと何一つ解決しない。たまたま事態が好転したとしたら、それは偶然だ。


 その「偶然」を「神の働き」と断言するのは個人の自由だ。しかし、「だからどんな問題も祈ればいつか(何年後か何十年後かに)解決する」と断言するのはあまりに無責任だ。そんな助言を他人にしてはいけないし、そもそもそれは助言ですらない。誰かを殺しかねない危険な考え方だから。

 「天は自ら助くる者を助く」はある程度真実だ。現実の問題の解決は、ほぼ現実の行動によってでしか見られない。


  問題が起こった時、問題に気づいた時、私たちがまずすべきは「祈り」でなく「どう対処すべきか考える」ことだ。「それを考えるために祈る」のは悪くない。けれど「祈って解決を待つ」のは結果的な、最終的な判断であって、最初の判断ではない。遠い外国で起こった対処不可能な問題や、現実的に解決不可能な問題なら「祈るしかない」という判断にもなる。けれど最初から「祈るだけ」だとしたら、それは解決を怠ることであり、無責任な態度だ。


大魚に飲まれたら「祈る」しかないかも……

神様をサディスティック化する信仰


 祈り続けて◯年後、◯十年後に願いがかなったり事態が好転したりするのが「神様の働き」だとしたら、ずいぶんサディスティックな神様ではないだろうか。信者をイジメて楽しんでいるようにさえ見える。人生の中で起こる問題を「神様からの試練」と考えるクリスチャンもいるけれど、それは人間の側で決めるものではない。「試練」だと思っていた問題でそのまま死んで(殺されて)しまった人もいる。死んでしまったら試練も何もないではないか。


 神様はサディスティックな方なのだろうか。そうでないとしたら、その信仰が神様をサディスティックに見せているのだ。


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