良い牧師が良い親とは限らない

2023年4月3日月曜日

教会生活あれこれ

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 祖父が牧会していた都内の教会に一度だけ行ったことがある。まだ当時の写真がいくつか飾られていて、孫だと伝えると、古参の信徒の方々が祖父のことを話してくれた。「穏やかな良い牧師」だったようだ。しかしその牧師の息子だった父からは、苦々しい思いばかりが伝わってくる(詳しくは話してくれない)。良い牧師が、良い父親だったとは限らないのだろう。

 自分が長年属していた教会の牧師も、牧師として多くの人たち(主に外部の人たち)を助けたと思う。しかしその家族や近しい信徒らは、長年ひどい目に遭わされてきた(後に多くの被害が判明した)。外部から見たら「すごく良い人」なのだけれど、身内から見たら「すごく悪い人」だったのだ。どちらが本当の姿なのかよく分からない(本人さえ分かっていなかったのかもしれない)。問題は外部向けの「すごく良い人」が業界全般のイメージになりやすく、「すごく悪い人」に加害された身内の声が、かき消されたり否定されたりしてしまうことだ。被害を訴えると逆に責められもする。二次被害でしかない。


 身内に対する加害の数々は、他の大勢への貢献で帳消しにされるのだろうか。「良い働き」をしているのだから、その陰で虐げられる身内は黙って耐えるべきなのだろうか。


 私の牧師の問題が発覚した時、教会は「神様の重要な活動」の最中だった。牧師はその中心にいて、彼抜きではほとんど何も回らなかった。だから牧師の進退について話し合われた時、問題になったのはその活動をどうするか、だった。人間の都合で「神様の働き」を止めてしまっていいのか。人間は(「罪の性質」ゆえ?)どうしても問題を起こしてしまうのだから、一度の過ちで活動そのものを止めてしまっていいのか。(その論理を主張したのが主に牧師本人だったのが、思い返すと呆れる。ちなみに「一度の過ち」なんて可愛いものではなかった。)

 メディアによく露出する経営者や映画監督(ほぼ男性だ)のドキュメンタリーには、「良い事業」や「良い作品」を創出するために、周囲のスタッフが散々こき使われ、振り回され、罵倒されるシーンが多い。そういう厳しい現場を通して「良いもの」が作り出される、という美談にしたいのかもしれない。けれど私はちっとも感動しない。罵倒されるスタッフの姿に胸が痛むからだ。


 その「良いもの」は世の大勢を救うのかもしれない。しかしその陰で、それを作り出すために虐げられた人たちがいる。「何にでも犠牲は付きものだ」と言う人がいるけれど、自分や自分の大切な人たちが犠牲になっても同じことが言えるのだろうか。そしてそもそもの話、犠牲なしに「良いもの」を作ることはできないのだろうか。


 聖書は「実を見て判断しなさい」と言う。途中のプロセスがどうであれ、実(結果)が良ければそれは良く、悪ければそれは悪い、ということだ。しかし途中のプロセスを無視してはいけないと思う。また、外側に見える実だけで判断してもいけないと思う。悪はうまく隠されているのだから。

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