伝道という名の脅し

2023年4月17日月曜日

伝道

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 「クリスチャンが職場の同僚らに個人的に伝道する」際に絶対にやってほしくないのが、上司の立場で部下に伝道すること。部下の立場だと断りにくいし、今後のことを考えれば愛想よく話を聞くしかないし、興味があるようにさえ振舞わなければならないから。そのプレッシャーは部下にとって、ハラスメント被害に近いかもしれない。

 「部下とは良好な関係だし、個人的に信頼関係もできている。だから嫌がっていれば分かる」という反論があるかもしれない。けれどそれはあくまで上司の立場からの風景であって、部下が本当にどう考えているかは、少なくともその場では分からない。強い立場にある者が「良好な関係だ」とか「うまく行っている」とか認識しているのは、しばしば当てにならない。


 上司と部下の関係でなくても、切迫した悩みを抱えている相手や、緊急に助けを必要としている相手に伝道するのも、結果的に(意図しなくても)「弱みに付け込む」形になりがちだ。緊急事態にある人は大抵、冷静な判断ができなくなっていて、「神様を信じます」と言うのは「困った時の神頼み」に近いからだ。そういう場合はあえて伝道を脇に置いて、実際的に助けた方が誠実ではないかと思う。でないと結局「勧誘したいだけ(相手のことは実はどうでもいい)」と思われかねない。

 パウロは「いつでも福音を語れるように準備しておきなさい」という旨のことを書いているけれど、それは「いつでも伝道しなさい」という意味ではない。絶えず相手とのパワーバランスや、相手の置かれた状況を踏まえて、今何をするのが最善なのか? 何をどう語るのが最適なのか? と悩み抜くのがクリスチャンとしての誠実さではないかと思う。そういうプロセスを無視した伝道は、時として「脅し」にしかならない。

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