信仰のマーケテイング

2022年8月29日月曜日

教会生活あれこれ

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 今年(2022年)4月、早稲田大学の社会人向けマーケティング講座で、吉野家の役職者(当時)が「若い女性をターゲットにしたマーケティング戦略」を「生娘をシャブ漬け戦略」と表現して批判を浴びました。これはマーケティングに詳しい人に言わせると、「人をモノとして扱って誘導するマーケティング商売にありがちな態度」だそうです。マーケティングそのものが、「人を人として扱わない冷酷さ」を内在している、ということかもしれません。

 参考記事:吉野家「生娘シャブ漬け戦略」で露呈したマーケティング業界のお寒い事情


 この「人をモノとして扱って誘導するマーケティング」感覚は、実はキリスト教会にもあります。例えばある牧師は、教会スタッフ向けの説教セミナーにおいて、「この話で笑わせて、あの話で泣かせて、最後に十字架で感動させれば、みんな感極まってたくさん献金するようになる」という趣旨の「戦略」を打ち出していました。言外に「信徒なんてチョロいもの」というニュアンスを含ませて。信仰というより、教会成長の為のマーケティング感覚のようでした。ここでは信徒は「人」でなく「モノ」として扱われています。


 しかしそこまで酷いケースでなくても、クリスチャンの(あるいは教会の)伝道活動には、はるか昔からマーケティング感覚があったはずです。「これこれの方法でキリスト教を紹介すれば、関心を持ってもらえるだろう」と考えるのも伝道だからです。例えばゴスペル教室を開いて教会に来てもらう、英会話教室で子どもたちを集める、などの間接的伝道が昔から行われてきました。これは(はっきり言語化されてこなかったと思いますが)マーケティング感覚が背景にあります(そして一定の成果を収めてきたと思います)。


 教会の中には「うちは営業みたいな伝道はしない。礼拝そのものが人を導くのだ」と、言外にマーケティング感覚を否定するところがあります。しかしそれとて礼拝の荘厳な雰囲気、特別感、そこでしか経験できない体験、といった付加価値を前面に押し出しているわけで、やはりマーケティング感覚から逃れられていません。



 信徒の献金が主な収入源の教会(多くの単立教会がそうでしょう)は、ある程度の信徒数を確保して、定期的に献金してもらわなければ成り立ちません。なので必然的に信徒に満足感、所属することの意義、活動の楽しさなどを提供することになります。大いにマーケティング感覚を働かせることになるでしょう。それが度を越えた結果、上記の「笑って泣かせて感動させる説教」が蔓延するのかもしれません。


 マーケティング感覚は悪いものではありません。むしろ上記の例が示すように、人が人に発信するあらゆるものに、マーケティング感覚が内在しています。肝心なのはそのマーケティング感覚の存在を否定するのでなく、むしろ大いに自覚して、人をモノ扱いしない程度のモラルを保つことではないでしょうか。

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