「サンデークリスチャン」ですが何か?

2022年1月4日火曜日

教会生活あれこれ

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 日曜の礼拝に出席するだけで、他の曜日の教会活動に参加せず、あまり祈ったり聖書読んだりもしていない(ように見える)人を、いわゆる「世俗的」という意味合いで「サンデークリスチャン」と揶揄する向きがある。日曜だけ都合よく教会に来やがって、みたいな、責めるニュアンスさえ感じることもある。けれどそうやって他人の信仰生活を一方的に評価し、ダメ出しするあなたの「信仰」もタカが知れていると思う。

 人には人の、他人には分かりえない事情がある。見た目や行動からなんとなく推測できても、その人の背景や気持ちの本当のところは分からない。仮に本人に説明してもらったとしても、きっとそれが全部ではない。だからその人の行動の見えるところだけ見て「信仰的/世俗的」をジャッジするのは浅はかだと思う(そもそも、なぜ他人の信仰をジャッジする必要があるのか?)。


 「人はうわべを見るが主は心を見る」という聖書の言葉を思い出してほしい。


 それに、日曜に礼拝に行くだけでも十分に信仰的だと私は思う。「サンデークリスチャン」の一体何が問題なのだろうか。それを言うなら毎日教会にいる牧師だって、何をしているのか分かったものではないではないか(日課表を提出してもらいましょうか?)。

 日曜にわざわざ礼拝に来たのに、陰で「あの人はサンデークリスチャンだから……」と言われる理不尽さったらない。


 信仰のことにどれだけエネルギーと時間を割けるか、も個人の生活状況やライフステージによって変わってくる。毎日忙しく働いて、週末もあれこれ動かなければならない人と、特に働かなくていい人を同列に並べてどっちが敬虔か、世俗的か、と判断するのは乱暴すぎる。

 今、平日も週末も関係なく、教会で熱心に奉仕している人だって、そのうちのっぴきならない事情で日曜の礼拝を守るだけで精一杯になるかもしれない。その時「世俗的なサンデークリスチャン」と言われたら、理不尽に思わないだろうか。


 教会に来たばかりの頃、なかなか落ち着かなかった子が、数年たって礼拝に集中できるようになった。牧師は「霊的に成長した」と評価したけれど、単に幼児が学齢期になって落ち着いただけではなかったかと思う(もちろん正確なところは分からない)。


 結論:他人の信仰に、あれこれ口を出してはいけない。

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