毒にも薬にもなる聖書の言葉

2021年12月28日火曜日

教会生活あれこれ

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 昔、教会で福祉系の事業を始めることになった。中心的な信徒たちが「スタッフ」となり、会社っぽくいろいろ揃えてスタートした。牧師の指導の下、物件を探し、必要な定款を作り、役所に申請し、壁を塗装し、チラシを作り、HPを作り、あちこち営業に出掛けた。

 「神の国拡大のための働き」という名目だったから、みんな一生懸命だった。夜遅くまで働くことも多かった。しかしもちろんタイムカードなんてないから残業代は発生しない。そもそも寮生活で衣食住が確保されている人たちには、給料さえなかった(口約束の雇用契約でしかなく、曖昧な雇用関係だったが)。それは労働基準法に照らして違法ではありませんか? いえいえ神の国のための働きですから、労働なんかじゃありません。労しているのでなく、楽しんでいるのです!


 しかしどう言葉を弄しても、過酷な労働環境であることに変わりはなかった。ついに限界がきた信徒が、「もうできません」と訴えた。すると牧師は「できないと言うな!」ときつく叱責。その時引用されたのが、ピリピ人への手紙413節だった。


 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」


 クリスチャンはどんなことでもできるのだから、「できない」なんて言ってはいけない。それは不信仰な態度なのだ。信仰に立っていればそんな考えに陥らないはずだ、という理屈。皆さんはこれを聞いてどう思われるだろうか。私はこの箇所を開くたびにその牧師の叱責を思い出して、嫌な気持ちになる。今でも大嫌いな聖書箇所の一つだ。


 聖書には人を救う言葉がたくさん書かれている。信者でない人にも響く言葉が多いだろう。しかしその聖書の言葉で脅されてしまうと、後々その言葉が嫌いになり、下手すると聖書そのものが読めなくなってしまう。上述の牧師のケースは酷すぎて論外だが、教会で教育する立場にある人たちには、十分気をつけてほしいと思う。


 聖書の言葉は人を救ったり助けたりするものであって、追い詰めたり傷つけたりするものではない。しかし扱う人間によって、前者になったり後者になったりする。


 人が疲れきって、「もうできない。無理だ。」と切実に思う時、必要なのは「どんなことでもできるのです。」と鼓舞することだろうか。それとも「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイによる福音書112830節)だろうか。聖書の言葉は毒にもなるし、薬にもなる。

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