クリスチャンのゴールは「許し」なの?

2022年1月12日水曜日

クリスチャンと「許し」

t f B! P L

 キリスト教会で人間関係のトラブルがあると、「神が許されたように許すべき」とか「どうやったら許せるようになるか」とか「許すことが本当の祝福」とか、とにかく相手を「許す」ことがゴールにされてしまいがちだ。しかもできるだけ早く「許す」のが良しとされ、「許せない」気持ちを長く抱くのは不幸であり、神の恵みを退けることであり、とにかく信仰者として良くないこととされてしまう。

 「許せない」という誰もが持ち得る心理的葛藤が、キリスト教においては「悪いもの」や「未熟なもの」や「罪のもと」として扱われてしまうのだ。


 しかし教会は「許せるようになる」ための訓練所でなく、「許せない」気持ちに寄り添うための場所ではないだろうか。クリスチャンになっても人間であることに変わりはないし、許せないものは許せない。長い時間が掛かることもあるし、終わりが見えないこともある。それにおそらく誰だって、「いつか許せるようになった方がいい」のは分かっている。いちいち教会で言われるまでもない。


 それにただ許してしまってはいけない場合もある。実害を被ったなら、謝罪と補償がセットでなければならない(聖書もそれを支持している)。そこを勘違いして「謝ったのだから(悔い改めたのだから)許してあげなさい」と安易に言うクリスチャンがいるが、被害者に二次被害をもたらすだけだ。許すかどうかはあくまで被害者の選択だし、謝罪と補償は加害者が許しを勝ち取るための手段でもない(問題を起こした牧師が信徒らに向かって「自分はもう悔い改めたのだからあなた方は許さなければならない」と厚顔無恥にも主張することがあるが、たいへん罪深いと思う)。


 「許し」にはプロセスが必要だ。相応の時間を掛けなければならない。事と次第によっては生涯を掛けることにもなる。「聖書に書いてあるから許しなさい」などと、コンピューターにコマンドを入力するかのように、インスタントに指示していいものではない。


 しかし一部の教会では「許し」の教義にこだわるあまり、形だけでも「許す」と言わせたり(「許す」と口で言えば本当に許せるようになります!」)、加害者と「腹を割って」話し合わせたりと、被害者の心を無視した乱暴なことが行われている。信仰という名の二次加害だ。人に寄り添うのでなく、宗教教義を徹底させて見た目に「綺麗で」「楽しそうで」「健全そうな」教会を作ることが目的になってしまっていないだろうか。


 その意味で「許せない」気持ちに寄り添えるか、寄り添えないか、は教会やクリスチャンの資質が試される点の一つだと思う。そして「許し」にゴールを据える限り、真の意味で寄り添うことはできないと私は思う。

QooQ