クリスチャンは「聖霊の宮」なのですか?

2018年7月20日金曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

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 前回「悪魔の要塞」の話をしましたので、今回は「聖霊の宮」の話をします。

 私たちの心は「悪魔の要塞」ができてしまったり、それでいて「聖霊の宮」であったりと、いろいろ忙しいようです。皆さんの心の中は、どうなっているでしょうか。

 聖書には「あなたがたのからだは聖霊の宮です」(第1コリント6章19節)とはっきり書かれています。「心」でなく「からだ」と明記されていますが。
 いずれにせよ「私=聖霊の宮」というのは、否定できない事実のようです。

 前回の話によるならば、私たちは油断(?)していると、心に「悪魔の要塞」が造られてしまうようです。ということは、「聖霊の宮」の中に、「悪魔の要塞」ができる、ということです。ロシアのマトリョーシカみたいですね(笑)。

 いえ、笑い事ではないのですが。

 私たちの中で、「聖霊の宮」と「悪魔の要塞」との、熾烈な争いが起こっているのでしょうか。
 よく昔のアニメやドラマなんかに、悩める主人公の左右に「天使」と「悪魔」が立って、それぞれに「こうすべき」と主張し合う、なんてシーンがありました。最近ではガン保険のAFLACのコマーシャルで、良いアヒルと悪いアヒルがそれぞれ「保険に入るべき/入らないべき」を論ずるシーンがありましたね。
 あんな感じで、私たちの心では、いつも「神の側」と「悪魔の側」が対立しているのでしょうか。

 では、私たちの心とは、いったい何なのでしょう。
 いつも「神」か「悪魔」の影響を受けながら判断しているのなら、私たちの「素の意識」とは何なのでしょう。そもそも「素の意識」などあるのでしょうか。

 私の教会ではよく、こんなことが言われていました。
いつも祈り、御言葉で武装し、聖霊で満たされていれば、神の御旨に沿った判断をすることができる。悪魔に惑わされることなどない

 だからいつも聖書を読め、たえず祈れ、聖霊を心に迎えよ、というわけです。
 いかにも信仰的に聞こえる話です。

 でも、ちょっと待って下さい。
 そうやって心が「聖霊に満たされて」いないと、私たちは良い判断ができないのですか?
 いつも悪い判断をしてしまうのですか?
 ではノンクリスチャンの方々は、いつも悪魔的な判断をしているのですか。もしそうだったら、日本なんか大変なことになっていると思いますけどね。なんたって、ほとんど皆ノンクリスチャンなのですから。

「いつも祈っているから神に喜ばれる判断ができる」というのは、裏返すと、「素の自分はそういう判断ができない」ということです。つまり、クリスチャンとして(あるいは人間としても)成長していない、ということです。聖書に照らし合わせて、自分の頭で判断できていないのです。
 神様の願いは、人が自らの意思で判断できるようになることだと思うんですけどね。何かの影響とかでなくて。

 仮に、あなたの心に「悪魔の要塞」ができているとしましょう。悪魔はあなたを最終的に滅すはずですね。ということは、あなたは自殺しようとしたり、仕事であえて大失敗しようとしたり、家族に迷惑をかけようとしたりと、あなた自身にとって「不利」となる何かをしようとするはずです。
 でも、そんなことしますか? しませんよね。そして「しない」のは、「あなた自身」が判断しているからです。

 ということは、いくら「聖霊の宮」だとか「悪魔の要塞」だとか言っても、結局はあなた自身が決めているのです。何かの影響ではありません。何かのせいでもありません。

 繰り返しますが、クリスチャンが「聖霊の宮」であることは否定しません。
 しかし、だからと言って聖人なのではありません。むしろ「聖霊の宮」だとか言いながら悪事を働く人たちがいます。
 大切なのは私たち一人一人がどういう人間なのか、のはずです。それに比べれば「聖霊の宮」であるかどうかなんて全く重要ではありません。

 最後に質問です。
「聖霊の宮」を豪語する不親切なクリスチャンと、親切なノンクリスチャンとがいたら、どちらと一緒にいたいですか?

 私は絶対に後者ですが。

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