地獄って本当にあるんですか?

2018年7月12日木曜日

「天国」あるいは「地獄」の問題

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地獄はあるのか問題

 キリスト教は一般的に言って、「天国」と「地獄」の存在に賛成だと思います。
 難しい話は抜きにしますが、人は死後に「裁き」を受け、「天国」か「地獄」に割り振られると。カトリックだとこの中間に「煉獄」があるのですが。

 たしかに新約聖書の福音書に「地獄」「天の御国」という言葉が登場します。ヨハネの黙示録には「新天新地」という言葉も出てきます。ですから「天国」と「地獄」はあるんだろうな、と考えるのは自然と言えば自然です。

 ではちょっと、「地獄」について考えてみましょう。
 ちなみに私は、頭から「天国」や「地獄」を否定する気はありませんよ。

 実は「地獄(あるいはゲヘナ)」という言葉は、聖書にそんなに出てきません。主に福音書内でイエスが言っているだけです(正確にはヤコブの手紙にも1回出てきますが)。たとえばこんな感じです。


「地獄(ゲヘナ)では、うじがつきず、火も消えることがない。」(口語訳)(マルコによる福音書‬ ‭9章48節‬)

 これはイエス本人の言葉ですから、じゃあ地獄って本当にあるんじゃないの? という話になるかと思います。

 でもイエスの「地獄」についての言及が、「たとえ」として使われていることに注意すべきです。「たとえ」とはご存知の通り、話をわかりやすくするための比喩表現の一つですね。

 また「ゲヘナ」の語源である「ヒノムの谷」は実在の場所で、エルサレムの近くだそうです。そこは古くはモレクの祭壇があった場所で、イエスの時代は廃棄物処理場として使われていたそうです。死刑囚の遺体もそこで焼かれたそうで、火が消えることがなかった、とか。

 となると、イエスはこれらの言葉を「ヒノムの谷」を指して言ったのではないか、という疑問が出てきます。「罪を犯すとヒノムの谷で焼かれることになっちゃうよ」みたいな、「死後の裁き」の話でなく、あくまで「現世」の話だったのではないか、という疑問です。

 死後に落ちる先としての「ゲヘナ」→罪深い人生を送った結果としての「ヒノムの谷」

 これは旧来のキリスト教からしたらちょっとセンセーショナルな解釈ですが、私は一理も二理もあると思っています。後に挙げる疑問の、答えにもなりますから。
 そしてこの解釈が正しいとすると、「地獄」の存在そのものが揺らぎます。
 もちろん、「解釈の一つ」に過ぎないのですけれど。

地獄についての疑問

 ではここで、私が「地獄」について抱いている疑問を紹介します。
 皆さんもどうぞ一緒に考えてみて下さい。

①「罪の報酬は死」なんじゃないの?

 ローマ人への手紙6章23節に、「罪の支払う報酬は死である」(口語訳)と書いてあります。
 だから人間は、「罪」ゆえに「死ぬ」わけです。
 もっと正確に言うと、「罪」があるあら、「罰」として「死ぬ」わけです。
 であるなら、「死ぬ」ことで私たちの「罰」は終わるのではないでしょうか。「死」が「罰」なのですから、それ以上の「罰」はないのではないでしょうか。

 でも、死んでなお「地獄」という永遠の刑罰が待っているとしたら、それは「罰」の重複ではないかと思います。すでに報い(死)を受けたのに、さらに「地獄」で(しかも永遠に)苦しまなければならないのは、理屈に合わない気がします。

②永遠に苦しむのも、結局は「永遠の命」なのでは?

「地獄」に落ちた人は永遠に火で焼かれ続け、蛆に食われ続けるらしいです。私の牧師によると、それでみんな発狂してしまうとか。

 でもぶっちゃけた話、発狂したらこっちのもんですね(笑)。認識力を失ってしまうのですから、痛いも苦しいもなくなるかもしれません。正常な精神活動を失ってしまいますから、あれこれ考えることもなくなります。

 で、その状態が永遠に続くとしたら、それはそれで(良いか悪いかは別にして)「永遠の命」ではないでしょうか。
 となると、神に従順だった者に与えられるという「永遠の命」を、実は神に不従順な者たちにも与えられる、ということになります。
「天国」に行っても永遠の命、「地獄」に行っても永遠の命。これじゃ「必ずもらえるプレゼント」ですね(笑)。

③天国に行った人たちは永遠に後悔しないの?

「天国」に行った人たちがどういう状態になるか定かでありませんが、おそらく生前の記憶や意識は保持していると思います。つまり「このまま」で天国に行きます(と仮定します)。
 で、「天国」でまわりを見てみます。誰が一緒で誰が一緒でないか、わかりますね。そして一緒でない人は「地獄」に落ちてしまったのだと、知ることになります。

 さて皆さんが「天国」に行ったとして、皆さんの大切な人々が一緒にいなかったらどうでしょう。その人たちが地獄に落ちてしまったと聞かされたらどうでしょう。自分が「天国」でぬくぬく(?)としている間に、彼らは「地獄」の火で焼かれているのです。
「天国」に行けるくらい善良な人ならば、そうした状況を、苦痛に思うのではないでしょうか。

 そしてもしその状態で永遠に生きるのが「天国暮らし」だとしたら、それは拷問みたいなものかもしれません。その人にとって、そこって本当に「天国」?

④パウロはなぜ言及しなかったの?

 四福音書より先に成立し、キリスト教教義の根幹を作ったパウロの手紙が、新約聖書の約半分を占めています。そのパウロがなぜ「地獄」について言及しなかったのか、不思議じゃないでしょうか。

 パウロはもちろん復活を信じていますし、「第三の天」なる概念も示しています。イエスの再臨についても書いています。前述の「罪の報酬は死」というのもパウロの言葉です。しかし、そこまで書いておきながら、「天国」と「地獄」には言及していません。

 これは彼が死後の「地獄」という考え方を持っていなかったからではないかな、と私は考えています。
 つまり、パウロが構築したキリスト教教理においては、「地獄」はそもそも想定されていなかったのではないか、ということです。もちろん、これは推測の域を出ない話ですが。

☆ ☆ ☆

 いずれにせよこうやって考えると、地獄の存在が、ちょっと怪しくなってきませんか?
 と言っても、べつに地獄を全否定しているわけではありません。「地獄」の存在を当然と考えている方々に、ちょっと考えていただけたらな、と思っているだけです。

 さて皆さんは、どう考えるでしょうか?

(→7月8日のメルマガにて、私の教会での経験やユダヤ教的死生観など、更に詳しく書いています。)

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