キリスト教は一般的に言って、「天国」と「地獄」の存在に賛成だと思います。
難しい話は抜きにしますが、人は死後に「裁き」を受け、「天国」か「地獄」に割り振られると。カトリックだとこの中間に「煉獄」があるのですが。
たしかに新約聖書の福音書に「地獄」「天の御国」という言葉が登場します。ヨハネの黙示録には「新天新地」という言葉も出てきます。ですから「天国」と「地獄」はあるんだろうな、と考えるのは自然と言えば自然です。
ではちょっと、「地獄」について考えてみましょう。
ちなみに私は、頭から「天国」や「地獄」を否定する気はありませんよ。
実は「地獄(あるいはゲヘナ)」という言葉は、聖書にそんなに出てきません。主に福音書内でイエスが言っているだけです(正確にはヤコブの手紙にも1回出てきますが)。たとえばこんな感じです。
「地獄(ゲヘナ)では、うじがつきず、火も消えることがない。」(口語訳)(マルコによる福音書 9章48節)
これはイエス本人の言葉ですから、じゃあ地獄って本当にあるんじゃないの? という話になるかと思います。
でもイエスの「地獄」についての言及が、「たとえ」として使われていることに注意すべきです。「たとえ」とはご存知の通り、話をわかりやすくするための比喩表現の一つですね。
また「ゲヘナ」の語源である「ヒノムの谷」は実在の場所で、エルサレムの近くだそうです。そこは古くはモレクの祭壇があった場所で、イエスの時代は廃棄物処理場として使われていたそうです。死刑囚の遺体もそこで焼かれたそうで、火が消えることがなかった、とか。
となると、イエスはこれらの言葉を「ヒノムの谷」を指して言ったのではないか、という疑問が出てきます。「罪を犯すとヒノムの谷で焼かれることになっちゃうよ」みたいな、「死後の裁き」の話でなく、あくまで「現世」の話だったのではないか、という疑問です。
死後に落ちる先としての「ゲヘナ」→罪深い人生を送った結果としての「ヒノムの谷」
これは旧来のキリスト教からしたらちょっとセンセーショナルな解釈ですが、私は一理も二理もあると思っています。後に挙げる疑問の、答えにもなりますから。
そしてこの解釈が正しいとすると、「地獄」の存在そのものが揺らぎます。
もちろん、「解釈の一つ」に過ぎないのですけれど。
地獄についての疑問
ではここで、私が「地獄」について抱いている疑問を紹介します。
皆さんもどうぞ一緒に考えてみて下さい。
①「罪の報酬は死」なんじゃないの?
ローマ人への手紙6章23節に、「罪の支払う報酬は死である」(口語訳)と書いてあります。
だから人間は、「罪」ゆえに「死ぬ」わけです。
もっと正確に言うと、「罪」があるあら、「罰」として「死ぬ」わけです。
であるなら、「死ぬ」ことで私たちの「罰」は終わるのではないでしょうか。「死」が「罰」なのですから、それ以上の「罰」はないのではないでしょうか。
でも、死んでなお「地獄」という永遠の刑罰が待っているとしたら、それは「罰」の重複ではないかと思います。すでに報い(死)を受けたのに、さらに「地獄」で(しかも永遠に)苦しまなければならないのは、理屈に合わない気がします。
②永遠に苦しむのも、結局は「永遠の命」なのでは?
「地獄」に落ちた人は永遠に火で焼かれ続け、蛆に食われ続けるらしいです。私の牧師によると、それでみんな発狂してしまうとか。
でもぶっちゃけた話、発狂したらこっちのもんですね(笑)。認識力を失ってしまうのですから、痛いも苦しいもなくなるかもしれません。正常な精神活動を失ってしまいますから、あれこれ考えることもなくなります。
で、その状態が永遠に続くとしたら、それはそれで(良いか悪いかは別にして)「永遠の命」ではないでしょうか。
となると、神に従順だった者に与えられるという「永遠の命」を、実は神に不従順な者たちにも与えられる、ということになります。
「天国」に行っても永遠の命、「地獄」に行っても永遠の命。これじゃ「必ずもらえるプレゼント」ですね(笑)。
③天国に行った人たちは永遠に後悔しないの?
「天国」に行った人たちがどういう状態になるか定かでありませんが、おそらく生前の記憶や意識は保持していると思います。つまり「このまま」で天国に行きます(と仮定します)。
で、「天国」でまわりを見てみます。誰が一緒で誰が一緒でないか、わかりますね。そして一緒でない人は「地獄」に落ちてしまったのだと、知ることになります。
さて皆さんが「天国」に行ったとして、皆さんの大切な人々が一緒にいなかったらどうでしょう。その人たちが地獄に落ちてしまったと聞かされたらどうでしょう。自分が「天国」でぬくぬく(?)としている間に、彼らは「地獄」の火で焼かれているのです。
「天国」に行けるくらい善良な人ならば、そうした状況を、苦痛に思うのではないでしょうか。
そしてもしその状態で永遠に生きるのが「天国暮らし」だとしたら、それは拷問みたいなものかもしれません。その人にとって、そこって本当に「天国」?
④パウロはなぜ言及しなかったの?
四福音書より先に成立し、キリスト教教義の根幹を作ったパウロの手紙が、新約聖書の約半分を占めています。そのパウロがなぜ「地獄」について言及しなかったのか、不思議じゃないでしょうか。
パウロはもちろん復活を信じていますし、「第三の天」なる概念も示しています。イエスの再臨についても書いています。前述の「罪の報酬は死」というのもパウロの言葉です。しかし、そこまで書いておきながら、「天国」と「地獄」には言及していません。
これは彼が死後の「地獄」という考え方を持っていなかったからではないかな、と私は考えています。
つまり、パウロが構築したキリスト教教理においては、「地獄」はそもそも想定されていなかったのではないか、ということです。もちろん、これは推測の域を出ない話ですが。
☆ ☆ ☆
いずれにせよこうやって考えると、地獄の存在が、ちょっと怪しくなってきませんか?
と言っても、べつに地獄を全否定しているわけではありません。「地獄」の存在を当然と考えている方々に、ちょっと考えていただけたらな、と思っているだけです。
さて皆さんは、どう考えるでしょうか?
(→7月8日のメルマガにて、私の教会での経験やユダヤ教的死生観など、更に詳しく書いています。)
ないと考えて地獄があったら歯ぎしりしても遅いので、あると思っていたほうがリスクを負わずに済むかと思います。あんなに明確に書かれている天の国があるのならば、そこに入れない魂はどこにいくのだろうか?
返信削除うる覚えではあるが、何かの雑誌で地球の真ん中まで学者や地層学者が掘り進めてた時、地球の核の近くになるにつれにマグマのような火とひとのような叫び声がしたとの話の聞いたことがある。定かな情報ではないかもしれないがあれ以来、ないかもとは軽々しく口にはできません。油断させておいて入れなかったらつまずかせたことになりかねん、と思って。
なるほど。あるかもしれないから、あると考えておく、ということですね。それも一つの考え方だと思います。ただ「◯◯であれば必ず天国に行ける」という保証もあるかどうかわかりませんから、いずれにせよリスクはあると思いますね。基本的に推測の話でしかない、という意味ですが。
削除私がキリストを信じれば天の国に入れると思っていますが。
削除キリストが十字架にかけられたとき隣にいた罪人もキリストとともに天にいったと思ってますが、何かほかに条件がありましたかね?
キリストを受け入れれば必ず天国に行けると私はおもってます。
全てが憶測っていってしまえば、聖書全てが憶測になります。
信仰って見えないものを信じるのが信仰なので、全て証明できたら信仰なんかいりません。
そこまで確信しておられるなら、それはそれで良いと思いますよ。
削除ところがですね、たとえばここで予定説を採るならば、「誰が救われて誰が救われないか、神があらかじめ決めておられる」という話になります。だから「私は信じているから天国に行ける」とは断言できなくなるのですね。
もちろん予定説も「解釈の一つ」です。しかし問題は、まさにそこにあります。「多様な解釈がある」ということは、これは正しい、あれは間違っている、とは必ずしも言い切れない、という問題ですね。
たとえば天国についても地獄についても、様々な解釈があり、皆それぞれ自分の解釈を正しいと、思っているわけです。
多様な解釈がないのならば、キリスト教もこんなに多くの教派に分かれていないはずです。それだけクリスチャン間でも意見の相違が大きい、ということですね。
ですから憶測云々とか、見えないけど信じるとか、そういう以前の問題です。
余計なお世話かと思いますが、キリスト教関連の本を手広く読まれることをお勧めします。
新約聖書で最も頻繁に登場する、罰を表す表現は「滅びる」だと思います。ですから私も「地獄」という表現は使いません。地獄が最もはっきりと描かれているのは「ラザロと金持ち」の話だと思いますが、あれもたとえ話なので地獄の存在の証拠にはならないと思います。「天国へ行く」という教えもグノーシス主義的で、本来のユダヤ的な終末論ではキリストの再臨の時に天が地に降りてくる筈です。キリスト信者は再臨よりも前に亡くなった場合は「キリストとともにある」または「眠った」状態になるのであって、「天国へ行く」という表現はあまり使われていないと思います。さらに天に家を建てに行くとイエス様は約束しましたが、あれも復活の身体のことを建物に例えていると考えれば、全てはお空の国は飛んで行く話ではなく、キリストの再臨の時に信者は復活の身体に変えられ、この地に降りてくる御国を相続するという考え方が正しいと私は信じています。
返信削除たしかに「滅びる」という表現の方が多いし、的確かもしれません。ただ滅びたあとどうなるの? という疑問が変わらず残りますね。
削除でもこういう機会にいろいろな方の死生観や終末観をお聞きするのは興味深いですね。ありがとうございます。
実に面白い話題ですね。そして根源的な話題ですね。これまで地獄や天国や煉獄に行って帰ってきてこんな所だと、懇切丁寧に説明した人はいませんね。かのムハンマド(マホメット)メッカからエルサレムまで天馬に乗って行き、はしごを使って天に行き、アブラハムやモーセやイエスの出迎えを受け、アラーの神に会うことができたということになっています。エルサレム神殿の上に建っている黄金のモスクがその場所で、イスラム教徒の聖地になっています。
返信削除以前、そのモスクを見に行きましたが、「ウソだろう」と叫ぶようなことはしませんでした。イスタンブールのトプカプ宮殿の宝物殿にある「アッラーの神に会うために登っていったときの足跡」とか「モーセの杖」だとかいう宝物を見ましたが「ウソだろう」と叫ぶようなことはしませんでした。
イエスが復活した、天に戻った、最後の審判に時に戻って来るというのが、キリスト教ですから、信じないと信者になれませんね。「ラザロと金持ち」の話しですが、乞食として苦労した者は天国に行く、ろくでもない金持ちは地獄に行くというのが、イエスが言いたかったことでしょう。
カトリックは2審制ですが、プロテスタントは1審制ですので、注意を要しますが。
ダンテの神曲が、地獄、煉獄、天国のイメージ化に決定的な影響を与えたですね。地獄編は本当に面白いですよ。煉獄篇や天国篇はまったく面白くないですね。
ただし寿岳訳はあきません、平川訳にしましょう。地獄煉獄天国をあれこれイメージして楽しむのが良いのではないでしょうか。
有る無しは、死んだら分かることですし。生きている間は分かりませんよ。
どう生きるのか、どう死ぬのかということを考えるために、キリスト教は存在していると言って良いのではないでしょうか。
なるほど。根拠の有無や強弱にかかわらず、教理とされているものをある程度無条件に信じるのが、クリスチャンですよね。べつに無理に信じろと言われているわけではありませんから(笑)。
削除おっしゃる通り、どう生きるか、どう死ぬかがクリスチャン的にはもっと重要な問題だと思います。ありがとうございます。
正義が存在して欲しい。この世で不公平や公正でないことがはびこるなか、真面目に地道に生きている人(完全な善人では無いとしても)が、不当な扱いを受けたりしんどい思いをする。
返信削除一方で、ずる賢く立ち回る人や超自己中心的な人がおいしい思いをする。
不条理は、世界中、どの地域、時代にもあったでしょうし、現在もそうですよね。
それでも、最終的には何らかの公平な結末が待っている。人の外側ではなく、動機や心といった内面を正確に把握し、公平な判断をしてくれる絶対的な存在として、神様を信じたい。
それが、私がキリスト教に惹かれた理由の土台になっています。
今の人生、毎日をどう生きるか。人が見ていようが見ていまいが、心を神様が見てくださっている。
もし、地獄があるとして、それが実際にどんなところかは見当がつきませんが、私の生前の行いや心が、アウト→地獄行きと判断されるなら、もうどうしようもないよな、と思います。
神様(ヨブ記やヨナの話を読むと???だらけになりますが)のみぞ知る領域ってことなんやろうなあ、結局。という風に今のところは考えています。
ちなみに、fuminaru様が書いていらした牧師さんが、
「忠実な僕だと主に言われたい」と言いながら、教会員をこき使い支配し、配偶者にDVし、他の教会は天国に行けないとか言っている人に、私が思うこと。
イエス様に、「お前など知らない。不正を行う者よ、離れされ」と言われてしまえ。(←率直な本音です)
field of lily さん
削除ありがとうございます。
おっしゃる通り、私たちの心を神様が見ておられて、最終的に公平に判断してくださる、と私も考えたいですね。それがアウトなら、それはそれで仕方ないかと(笑)。
またクリスチャン面して不正をする人々には、イエス様に「お前なんか知らん」と言われてほしいと、私も大いに同意します。
現実が不条やから!ファンタジーが受ける!
返信削除勧善懲悪のヒーロー映画が客を集めるのは現実が不条理やからや!
退屈で、不条理なリアルを描いた映画作っても絶対、客来ぇへん!
宗教も同じや!
皆、不条理やと分かってても、現実ばっかりやったら心が窒息するからファンタジーが欲しいんや!
その意味では、週に一回教会は息抜きにはもってこいや!
息抜きが、義務になって行かへんと祟りにあうとか思いこまされたら本末転倒やけど!
週に1回の息抜きが、ちゃんとした息抜き(ファンタジー?)であればいいですね。
削除地獄があるのかないのかは正直生きてるうちはわからないものだと思います。自身たっぷりに「地獄はあります」と言われれば逆に胡散臭いのかなと。
返信削除もし仮に自分が天国に行ったとして、通っていた教会の教職者やらリーダーやらがいたら間違いなくそれは私にとって地獄になるとは思いますけどね。
reiさん
削除ありがとうございます。
たしかに、天国に行っても嫌いな人ばっかりだったら辛いですね。いじめやら嫌味やら何やら、地上と一緒やんけ! って話になりそうです(笑)。