7月6日、オウム真理教の元代表・麻原彰晃含む幹部7人の死刑が執行されました。
それによって「カルト宗教」がまた注目を集めているようです。様々な人が、(死刑制度の賛否含めて)様々な意見を口にしています。
カルト宗教の危険性は、もっと広く周知されるべきです。だからこの注目が一過性に終わるのでなく、定期的な「対カルト教育」に繋がってくれればいいなと、私個人は願っています。
またオウム真理教による一連の凶行の被害に遭われた方々、そのご遺族、その関係者の方々は、今なお苦しんでおられると思います。今回の死刑執行も、何の慰みにもならないのではないでしょうか。心よりお見舞い申し上げます。
私の教会(すでに解散しています)は酷い教会でしたが、オウムのような「破壊的カルト」ではありませんでした。いろいろ偉そうなことを言っていましたが、あくまで内輪で騒いでいただけです。
それでもその被害に遭った元信徒や関係者らは、今も傷を抱えたままだと思います。何の解決も見ていませんから。あれからだいぶ年月が経ちましたが、私たち元信徒は多かれ少なかれ、「時が止まったまま」の部分を持っているのではないかと思います。仕事が変わり、生活が変わり、いろいろ変化して「前進」しているのだけれど、ふと気づくと、教会のことであれこれ葛藤している自分を発見する、という。
カルト被害には、そういう側面があると思います。
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おそらく元信徒の中には、「もう何もかも忘れたい」と思っている人がいると思います。全部なかったことにしたい、と。
でも一方で、「あれが何だったのか、ちゃんと正確に知りたい」と思っている人もいると思います。
私自身は後者です。
私の教会が解散する頃、本当にいろいろなものが混乱していました。次から次へといろいろなことが起こり、いろいろな人がいろいろなことを言いました。何が正しくて何が間違っているのか、わからなくなりました。
だから私はこんなふうに願っていました。
誰かものすごく詳しい人に来てもらって、ちゃんと説明してほしい。「この教会で起こったことは〇〇でした。その中であなたの立場は△△というものでした。だからあなたは、これから××として生きて行くべきです」みたいに。
そういうふうに全ての問題を可視化・言語化してくれて、今後の方向性を教えてほしかったです。そんなことは自分で考えろ、と言われればそれまでなのですが。
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さて、カルト問題とは、どのようにして解決していくのでしょうか。
全ての不正が暴かれて、加害者らが法の裁きを受ければ、解決でしょうか。
今回のオウム真理教のように死刑が執行されれば、解決でしょうか。
おそらく解決はしないと思います。
じゃあどうすれば解決なんだ、と言われても、残念ながら私にもよくわかりません。
ただ一つ言えるのは、教祖が死んでも何一つ解決しない、ということです。特に、彼本人から何の反省の弁も聞けなかったらなら、尚更。
fuminaruさんへ。何が正しくて何が間違っているのかわからなくなった、という部分に深く共感しました。私も混乱したキリスト教界の中にあって、今自分たちが直面しているさまざまな問題を可視化・言語化してくれ今後の方向性を教えてくれる人を必死に求めていると思います。世界観の中に人が整合性や意味を求めるのは、神のかたちに造られた人間の本質の一つだと思います。fuminaruさんのブログからはその本質ゆえの呻きと叫びと苦しみと祈りとそして究極的な求めの心が伝わってきます。
返信削除匿名さん
削除ありがとうございます。共感していただけて嬉しいです。
匿名さんも私と同じように悩み、葛藤しておられるのではないかと思います。少しでも答えを見出されたでしょうか。
私はなおも答えを探し求めているような状態です。このブログを書くのはその一環と言っていいかもしれません。
このブログが、匿名さんの求めに少しでも答えることができればと願っています。
こんにちは。先日はコメントありがとうございます。
返信削除私もカルト化した教会で苦しみましたが、こちらのブログを見て色々思い出しました。
「下がれサタン」「破れ口に立つ」「牧師の苦労」
どれもこれも、あるあるすぎて笑いながら吐気��
カルトの影響についてですが、
出れば終わりってことはないですよね。
私はカルト化した教会を出て、マトモそうな教会に行っても何年たっても恐れは消えませんでした。
カルト化した教会では、変な事は山ほどあったけど、ひとつ、
「牧師はサタンからの攻撃に気を付けないといけない。サタンの三大誘惑は、金、権力、女だ」
ということで、献身者や、真面目な既婚男性は女性と用事外で会話もなければ挨拶も無視だったりしました。
が、「熱心な信仰を持つ忠実な奉仕者たる私(笑)」は、
「男性にとって誘惑になってはならないし、無視も仕方ないこと」
なんて自分を納得させてました。
教会には女子立入り禁止の部屋もたくさんありました。
今考えればセクハラみたいなもんですね。
女性は生きてるだけで、誘惑になる存在だなんて、よく堂々と女性を罪人扱いしたもんだ。
当時の私はただただ自分を目立たせなく隠れ、自分を否定して生きていました。
ただ、この教会がかける女性に対しての呪いは、受けとる私にも問題がありました。
こどもの頃から何度となく痴漢などの性犯罪被害に遭ってきたこと、
被害に遭った自分を責めたり責められたり否定してきたこともあり、
健全な女性としての自尊心は傷ついていました。
さらに、キリスト教という悔い改めを促す宗教の性質上、
人生にトラブルが起きた場合に「私は何も悪くない!」
と堂々と言えないという事があると思います。
↑
私が男性を誘惑して痴漢をさせたという話では毛頭ありません。
ただ、被害に遭って思い悩む時、
「私も遅い時間歩いちゃったのに痴漢ばかりを裁いて良いのか」とか
「そもそも主のみ前に正しくないからこんな目にあわされるのか」
などと反省したりしがちなのが、クリスチャンではないでしょうか。
私はそうでした。
神様がいるのにも関わらずふりかかる試煉の問題。苦しみの中、次の教会に行けば
「なんか暗い、めんどくさい人、自意識過剰」な人間になってしまいました。
「復活の主によって全て開放されている私たち」というポジティブな信仰の牧師にとっては、
何かを思い悩んで恐れている私のことは不信仰な人間にしか思っていなかったようです。奉仕もしないしね。
正直、ノリノリで賛美して気楽に「ハレルヤ」とか言われても
昨日も痴漢に遭ったんじゃい私は、と内心抱えている身としては、
その気楽さについて行けません。
そして思いあまって性犯罪被害について告白しましたところ
怒られました。
そんなことは聞きたくないと。
そしてどうやら、私が男性を誘惑しているかのように思ったらしいです。
聞きたくないのなら仕方ない。言った私が馬鹿だった。
でも、
そこから何度となく礼拝説教を通し、私にだけ分かるように聖書の言葉を使って誘惑や陥れようとする女についての説教をされました。
セカンドハラスメントを聖書の言葉を乱用してされることほど
傷つくものはないと、思いました。
礼拝が怖い。聖書が傷を思い出させるトリガーになってしまう。
1番目の教会はカルト化していました。2番目の教会は単立の普通の教会です。
が、どちらにしても、
主の思いや聖書の言葉を人間の考えで乱用するのは本当に危険だと思います。
fuminaruさん、
性犯罪についてのブログ見ました。ありがとうございます。
またカルト化した教会についてもありがとうございます。
私も色々あってたくさん学びました。
少しずつ歩いてふと、振り返ると
だいぶ癒されていました。
間違いなく言える事は、この世界は神様が助けたいと思うほど、罪と闇があるという事だと思います。
キリスト教会は、そこから目を背けてはいけないと思います。
長くてすみません❗
あひるさん
削除正直なお気持ちを書いていただき、ありがとうございます。
あひるさんが受けてこられた様々な傷(教会でのものも、性犯罪のものも)には、言葉がありません。男性として申し訳なくも思います。「だいぶ癒された」と書いておられるのがせめてもの救いですが、たしかに日本は、女性にとって生きにくい社会です。これからも嫌なことがないとは言えません。その意味でも、かけるべき言葉が見つかりませんでした。
性犯罪が酷いのは言うに及ばずですが、それを理解しない教会も酷い存在です。教会は女性をいたわり慰めるべきです。それができないなら教会の看板など外して、女人禁制の社交サークルにでもすればいいでしょう。その方がよっぽど親切だと思いますね。
あひるさんはまだ教会に通うお気持ちがあるのでしょうか。
個人的な意見ですが、そのような思いをしてまで、教会に通う必要はないと思います。もっと安心できる状態、心安らげるような状態に、ご自分を置かれた方が良いのではないかと思いました。
差し出がましいようですが、私見を述べさせていただきました。
もし私で相談に乗れることがありましたら、下記の「問い合わせフォーム」に書き込んでいただければ、直接やり取りすることも可能です。
キリスト教は「キリスト教という悔い改めを促す宗教」という捉え方をしている教会もあれば、そうでない教会もあるわけで。
削除カトリックのようにいわゆる「告解」がある教会と、ない教会では「悔い改め」のあるなしにかかわりますね。
毎週ミサに行き、祈りをすることが、実質的に罪の許しになる、「告解」をすれば罪は必ず許される、ただし罰はうけてもらいますよ、というわけですね。オウムに関しても、死刑囚たちが、カトリックに改宗するならば、みんな罪は許されるわけです、そして罰はちゃんと受ける、つまり喜んで死刑を受け入れるというわけですね。
現実にはそうはならないでしょうが。
もっとも私は、罪を犯しても「告解」はしたことはありませんので、罪の許しはないでしょうし、どのような罰でも受けるつもりですで、それでよいと考えておりますが・・・