神の導き・・・?
「神の導き」や「神の好意」や「神からのメッセージ」を強調するクリスチャンの皆さんがいらっしゃいます。
何かにつけて、
「神様が自分に◯◯してくれた」
「あの△△は神様からのメッセージだ」
みたいなことを言います。
さて、それらは本当に、「神の導き」なのでしょうか。
べつに頭から否定する気はありません。ただどうしてそう確信できるのか、不思議なだけです。彼らはどういう根拠があって「これは間違いなく神からだ」と断言するのでしょうか。
今回はちょっとその正否を検証するため、「彼らの体験」と、それに類似した「私個人の体験」とを、並べてみようかと思います。
たぶん、何か見えてくるのではないでしょうか。
ちなみに以下の体験は、全部本当にあったこと(あるいは本当に聞いたこと)です。
ではどうぞ。
ケース① 時計に関する「神の導き」
あるクリスチャンの場合
その時、私はある聖書箇所を探していました。ですが、なかなか見つかりませんでした。祈り心(何それ?)で探しつつ、たまたま時計を見たら、◯時△分でした。その数字で、私はまさかと思いました。なんと私が探していたのは、◻︎◻︎書の◯章△節だったからです!
主は、時計を通して、必要な聖書箇所を私に教えてくれたのでした! ハレルヤ!
私の場合
デパートでショッピング中、今何時か知りたくて、時計を探しました(私は腕時計をしない派で、かつスマホ出すのが面倒でした)。でも、なかなか見つかりません。
その時、近くを歩く二人連れの片方が、もう片方に「今何時?」と聞いてくれました。聞かれた方は「◯時◯分」と、私に聞こえるように答えてくれました。ラッキー! 私は苦労せず、時間を知ることができました。
ケース② 求めなさい。そうすれば・・・
あるクリスチャンの場合
ずっと欲しかった◯◯版の聖書を買おうかどうか迷っている時に、そんなこと何も知らないはずの知人が、その◯◯版聖書を突然譲ってくれました。高価なものなのに! 私は感謝して受け取りました。ハレルヤ、主の山に備えあり! アドナイ・イルエ!
私の場合
ずっと欲しかったCDを買おうかどうか迷っている時に、そんなこと何も知らないはずの知人が、「もう聞かなから」とそのCDを譲ってくれました。なんたる偶然。
ケース③ 主からの風・・・?
ある牧師の場合
ある牧師が、牧会に行き詰まっていました。夜もなかなか眠れません。
その夜、やはり眠れなくて、仕方なく散歩に出ました。さみしい所に来ました。そこで1人祈っていると、風のない夜だったのに、どこからともなく風が吹いてきました。自分を後押ししてくれる、「神様からの風」だと感じました。
その風に不思議な力を受けたのでしょう。それ以降は順調に牧会を続けることができました。あれは、神様からの励ましだったのです。ハレルヤ!
私の場合
ある日、いつものようにランニングに出ましたが、どうも身体が疲れていました。頑張って走りましたが、やはり調子が出ません。半分くらい走ったところで、やめようと思いました。
でもちょうどその時、追い風が吹いてきました。涼しくて、気持ち良かったですね。もう少し走ろうかな、と思えた。そして結局、完走してしまいました。
ケース④ 主からの夢・・・?
あるクリスチャンの場合
不思議な夢を見ました。
散歩していて、横断歩道に差し掛かりました。ちょうどその時、猫が飛び出してきました。私は立ち止まって、その猫が行くのを待ちました。するとその時、車が猛スピードで走ってきて、猫を轢いてしまいました。もし猫が来なかったら、私が轢かれていたでしょう!
あの猫は、イエス様の十字架の象徴だったと思います。私はそう解き明かしました。改めて、主に感謝です。
私の場合
先日、変な夢を見ました。
ボールの代わりに猫を蹴るサッカーの夢です。サッカー場で、みんな猫を追いかけ回しています。私は猫を蹴るのは嫌だなあと思いながら、遠巻きに見ていました。
あ、それだけです。特に意味はありません。
全ては神様からのもの・・・?
以上です。
さて、クリスチャンの方々の体験は、本当に「神の導き」だったのでしょうか?
もちろんキリスト教信仰においては、全てのことは神様の支配下にありますから、全てのことは神様から発した、とも言えます。
その意味では、時計の針で聖書箇所を教えてくれたのも、知人から聖書をもらえたのも、タイミングよく風が吹いてきたのも、意味深な夢を見たのも、全部神様からかもしれません。
であるなら、この私の記事も神様からのものなので、どうぞ遠慮なく受け取って下さいね笑
神の導き・・・
返信削除「だったらいいな」
ぐらいの気持ちでいいと思いますけどね
信仰は、確証や根拠に基づくものがすべてだとは思えません
ある聖句の根拠を別の聖句に求めることはできても
一人一人の人生のエピソードに対する意味付けは
その人の裁量で測るべきでしょうね
もうちょっとだけ言いたいことがあるので言いますが、
詩篇1のダビデの「いかに幸いなことか・・・」は、
正しい者の成功と正しくない者の末路を対比してるかのように
語る方が時折いらっしゃいますが、
これはダビデの理想賛歌だと思います
「川のほとりに植えられた木のように、時が来れば実を結び
何をしても栄える
正しくないものは滅び失せる」
ダビデ自身罪を犯し、自分が滅びゆく運命だと知っても
「あんな生き方ができたらいいなぁ」という理想形がダビデの頭の中にあり、
その理想形を実際に実現してくれるキリストの影を
ダビデ自身が詩の中に見ていたような気がします
身の回りで起きたことを、なんでもかんでも自分と神に結びつけて考えるのは、いわゆる自己中心的な思考だと思います。(自分にとって)良いことが起これば「神から」、悪いことが起これば「悪魔から」と、なんでも二元論的に考えるのは、自分のことしか考えていないからです。
削除ですからおっしゃる通り、「だったらいいな」くらいに考えるのがちょうどいいと思うんですけどね。