十字架による贖罪
「贖罪」と言うと、クリスチャン的には「イエス・キリストの十字架」を想起すると思います。
罪のないイエスが、全人類の罪を背負い、十字架で罰せられた。それゆえ全ての人は罪を贖われた。それを信じる者は誰でも罪許される。というのが、キリスト教的「贖罪論」とされているからです。
イエスが私の代わりに「罰」を受けてくれたから、私の「罪」は許された、という理屈ですね。
ちなみに「許す」と「赦す」を正確に使い分けなければダメだ! と小難しいことを言う人がいますが、そういうのはここでは一切無視しましょう(笑)。
十字架の上であぐらをかく?
ではそのように人間の身代わりとなられたイエスの動機は、何だったのでしょう。
教会でよく言われるのは「アガペーの愛」ですね。これは「無償の愛」という意味です。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」
ヨハネによる福音書3章16節は、そう言っていますね。神は人間1人1人を愛しておられる。だからご自分の長子であるイエスを捧げた、と。
これだけ聞くと感動的な話ですね。でも以前書いたヨブの話など思い出すと、「え、本当に?」と思わなくもありません(笑)。ヨブはずいぶん理不尽な目に遭いましたよね。
ちなみにヨハネの福音書3章16節は「超重要聖句」ということで、私の教会では、完全に暗記するよう勧められていました。そこで役立った暗記法がこれです。
「ヨハネさん(3)は16歳」
すみません、どうでもいい話です(笑)。
話を戻しましょう。
「贖罪」の話に関連して、私の牧師はこんなことを言っていました。
「イエス様が愛のゆえに私たちの身代わりになられたのだから、私たちは返せないほどの恩義をイエス様に負っている」
それ自体は事実かもしれません。私たち人間は滅ぶべきだったのに、イエスが身を呈して救ってくれたのですから、感謝すべきでしょう。たしかに恩義があります。
で、牧師は続けてこう言います。
「だから信徒が教会奉仕をするのは当然だ。奉仕しないなんて選択肢はない」
というわけで信徒は「自ら進んで」「喜んで奉仕させていただく」わけです。しかも「返せないほどの恩義」があるのですから、身を粉にして働かなければなりません。今思うと「奉仕地獄」という言葉がピッタリでしたが。
それでも中には、奉仕しない人たちもいました。牧師と反りが合わない人たちです。もちろんそういう人たちは、遅かれ早かれ教会を追い出される運命にあるのですけれど。
そういう奉仕しない人たちのことを、牧師はこう呼んでいました。
「十字架の上であぐらをかく奴ら」
せっかく救っていただいたのに、感謝もしない、奉仕もしない、不届きな奴らだ、という意味です。
皆さんの教会の牧師は、こういうことを言っていないでしょうか。
でも上述の通り、イエスの動機が「アガペーの愛」であるならば、そもそも代償など求めていないはずです。私たちが奉仕しすぎて健康を害することなど、望んでいないでしょう。
もちろん感謝ゆえ、自ら率先して奉仕するのはいいと思います。でも「奉仕して当然だ」などと言われる筋合いはありません。
またイエスは、全人類のために死なれたのですから、極悪人のためにも死なれたのです。であるなら、仮に「十字架の上であぐらをかく」ことがあったって、それで神の愛が去ってしまうのではありません。そういう何だかんだを含めて「愛している」はずです。
というわけで「奉仕するのは当然だ」というのは、信徒を都合よく使って教会を発展させたい、牧師個人の思惑だと思います。しかもそのためにイエスの「贖罪」をも利用しているわけですから、より悪質です。十字架の上であぐらをかいているのは、そういう牧師の方じゃないでしょうか。
(→十字架による贖罪と「復讐法」の関係など、6月24日配信のメルマガ第24号で、更に詳しく書いています。)