私が教会で頑張っていた頃の話です。
ある水曜の夜の祈祷会で、司会を務めました。
司会と言っても、決まった流れに沿って決まった台詞をしゃべるだけの、簡単なものです。出番も少なく、ところどころで顔を出すだけでした。
ただ、まだ私も若かったので、「何か気の利いた聖句の一つでも披露してやろう」と粋がっていました。それで前日くらいから、祈ったり聖書を読んだりしていましたね。一丁前に「神の導き」を求めていたのです。
でももちろん、はっきりした「導き」なんてわかりゃしません。これじゃないか、あれじゃないかと、自分の「願望」や「感覚」を働かせていただけです。実際のところは。
そんなこんなで当日の午後くらいに、これが妥当ではないかという聖句が決まりました。自分としては「これぞ神の導き」と信じていますから、自信満々です。
でも正直言えば「自分がこう語りたい」というのを、「神がこう語った」に置換しただけでしたね。自分でもそれに薄々気づいていたと思います。今思うと、手のつけられないただの馬鹿者です(笑)。
で、夜になり、祈祷会が始まりました。流れに沿って司会をしました。タイミングを見計らって、準備していた聖句を発表しました。「この言葉が神様から語られました」とか何とか言って(あー恥ずかしい)。
するとどうでしょう。一番後ろの席で聞いていたご婦人が、突然顔を両手で覆ったのです。何が起きたのでしょう。その時はわかりませんでした。
あとから聞いてわかりました。そのご婦人は何か切実な悩みがあって、「この祈祷会で答えを下さい」と神に祈っていたそうです。そして来てみると、司会の私が「語られた聖句」を言うではありませんか。しかもその聖句が、(私は全然覚えていませんが)彼女にはジャストミートだったそうです。だから感極まって泣いてしまったので、顔を覆った、とのことでした。
そのご婦人からしたら、感動的な「神の導き」だったのでしょうね。
本当のところは「こんなふうに聖句を披露してカッコつけたい」という私の醜い願望でしかなかったのですが。
あ、「神はそんな人の醜さをも用いられます」とか言わないで下さいよ(笑)。そういうのをご都合主義と言いますから。
☆ ☆ ☆
さて、そんな私の教会ですが、紆余曲折を経て解散し、今はもう存在していません。解散当時はいろいろ大変でしたが、今思い返すと、いろいろ教訓もあったように思います。
その教訓をここで少しずつ紹介していけたら、いいなと思います。
それはさておき、解散当時、ある信徒がこんなことを言っていました。
「この解散には(主の)どんな導きがあるのだろう」
此の期に及んでまだ「導き」とか言ってしまえることに、私は正直驚きました。
そういうあやふやな「導き」とか「啓示」とかに従ったせいで大問題を起こし、多くの人を傷つけたのに、全然反省していないからです。信仰に誤りがあったのを、まったく認めていないのですね。
これがどれだけ深刻な問題か、わかるでしょうか。
別の教会の話ですが、ある男性牧師が、複数の女性信徒にセクハラをしていました。それが発覚して裁判沙汰になり、結局牧師のセクハラが認定されました。信徒側が勝ったのです。
でもその後、牧師側が何と主張したかご存知でしょうか。「あの裁判には悪霊が働いていた」などと言い出したのです。牧師は潔白なのに、悪魔の策略によって不当に失脚させられたのだ、と。
つまり、全然反省していないのですね。
私の教会も、信仰そのものに問題があったのは明らかです。どれだけ贔屓に見てもそうです。祈祷会でたまたま司会者が言ったことを「神の言葉だ」と信じ込んでしまうくらい、「感覚」に支配された信仰なのですから。
だから、いまだに「この解散にはどんな導きがあるのだろう」などと言ってしまえる神経が、私には理解できなかったわけです。
でもそんな私の気持ちを代弁するかのように、ある若い信徒が、こんなことを言ってくれました。
「導きとか、もういい加減にしてくれませんか」
強烈な一言でしたね。いろいろ説明しなくても、もうその一言で十分でした。たとえ相手が理解しなくても、こちらが言いたいことはそれに尽きました。
「もういい加減にしてくれませんか」と。
その若者は若者なりに、教会の不正を見て、嫌な思いをして、いろいろ考えて、もうウンザリだったのでしょうね。だから此の期に及んで「導き」とか言う大人を見て、それが爆発したんだと思います。
もちろん「導き」を言う教会が全て悪いのではありません。
でも危険性があるのもまた事実です。
だから「導き」を強調する教会の皆さんには、私の教会を反面教師として、大いに考えていただけたらと願う次第です。
センター世の光教会にそっくり。
返信削除使う教会用語、選ぶ讃美とか、感覚姉妹やら、導き兄弟、従順・献金(副)牧師、御心病、賜物牧師、などなど、カルト化した教会は弱体化して解散すると聞いたことがあるが、壊すのも神様。それもまた神が許した範囲。
カルト化教会の共通点、類似性はかなり高いと思いますね。日本全国どこでも同じような話を聞きますから。
削除主からの導きで、、と信じ込んでいる人ってどんな悪い事が起こっても”これはまだ途中で終わってません、、まだ最後じゃありません”で突き放せるんです。 ”導き”は実は自分の願望なのでは、、と認めさせる事は不可能と感じさせるくらい”強い確認”状態の牧師夫妻に会ったことがあります。 信徒が何を言っても”神に祈って決めましたから”が水戸黄門が最後に出す印籠のように出てくるんです。ドラマのように”はは~"とひれ伏すしかないですよね。主の導きの声が聴こえるのは自分達だけだと思ってるんでしょうか? 仰る通り危険性がありますよね。
返信削除信じている人の「確信」は恐ろしく強固ですよね。ほとんど盲信とか狂信とかいうレベルだと思うのですが、本人たちはいたって真面目なのが厄介なところです。論理的に説得すればするほど「悪例の妨げ」とか「惑わし」とか言われてしまいますから、こりゃあかんとなりますね。
削除その若い信徒の方の、いい加減にしてくれませんか、というひと言は、「現実を見ようよ」と私は解釈しました。
返信削除様々なイベントや、霊の戦いや、断食祈祷やら何やらで、自分たちの「言ったもの勝ち」のような成果(?)なんて、地に足がついていないと私は思います。
内輪だけで団結している風で実のところしておらず、たまにやって来てしまった求道者にはラブシャワーをするけれど、教会外の地域や人達を愛してる?
「仲間同士で愛し合うのなら異邦人もやってる」と聖書に書いてるけど、カルト的なクリスチャンに当てはまるんじゃないかと。
神の導きだの、自分に不利な判決が悪霊の仕業だの、もう、クリスチャンとして以前に人として見苦しいです。潔く過ちは過ちとして認めて反省せんと、同じようなこと繰り返すだけ。
ただ、fuminaru様が書いてらしたように、こういう牧師や信徒さんは盲信、狂信というレベルですよね。話し合いは平行線を辿ると思います。やれやれ。
ありがとうございます。
削除まさしく「現実を見ようよ」という意味だったと思いますね。若い人に言わせてしまったことが、今も心苦しいのですが。
また、教会が解散するくらいの大問題が起きたのに、まだ「導き」とか「霊的」とか言う人とはもう会話できないな、というのが当時の正直な感想でしたね。
彼らにへりくだるっていう行為はないのだろうか?人間なので間違うこともあろうという想定はないのだろうか?「信徒がそう言っているのだけれど、神様、私は正しいですか?」ってへりくだってもいいはづなのに。どうやら、彼らは聞く耳を持っていないし、高慢と高ぶりが彼らをカルト化へ突き進めていくのかもしれない。人はこうやって少しずつ神から背いていったのかもしれないいと思った今日この頃。私も気おつけよう。誰かに止められたら、聞く耳をもって一度立ち止まってへりくだって自分を調べてみなきゃ。
返信削除聞く耳をもつのは案外難しいものですよね。特に信仰のことになると、自分が信じたいこと、自分が感じたこと、自分がこうであってほしいと願うことが、全てになってしまいやすいですから。
削除その意味で自分自身を疑ってみるというプロセスが、自浄作用には絶対必要だと私は思います。
神の導きのことを「なんとなく**した。なんとなく**言った。なんとなく**のように考えた。・・・」のように「なんとなく」というのが、神の導きのことだと考えております。人の行動の多くは、なんとなく、やっているわけですから。その程度にとられられないから、問題が起きてくるのです。
返信削除自分も「なんとなく」程度が無難でいいと思うのですが、ガチ勢はそれでは納得しないのでしょうね。
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