2017年12月31日日曜日

閲覧数最多記事で2017年を振り返ってみる

年の瀬のご挨拶

 2017年最後の日になりました。早いものですね。皆さんにとって今年はどんな1年だったでしょうか。
 今年も1年間、当ブログを続けることができました。読んで下さる皆さんのおかげです。また沢山のコメントを頂いて、本当にありがとうございました。いつも励みになっています。

 さて今回は、毎年恒例となっていますが、各月の閲覧数最多記事をザッと紹介しながら、1年を振り返りたいと思います。1月から12月まで、それぞれの月で最もPV数の伸びた記事を1本ずつ紹介します。

 他のブロガーの皆さんがどうしているか知りませんが、私は投稿した記事をほとんど読み直しません。読むと大抵、細かいところを直したくなるからです。句読点を消して、また付けて、また消して、みたいなことを続けてしまうので、キリがありません(笑)。

 だからこういう機会でないと読み直しません。で、読んでみると懐かしかったり、ほとんど忘れていたりします。また書いた時のことを思い出します。あーこんなことがあったなあとか、こんなことを考えたなあとか。1年を振り返るのに、ちょうどいいですね。

 では、よろしければお付き合い下さい。

1月
貫き通すべき「信仰」とは何か。映画『沈黙-サイレンス-』から。

 映画『沈黙』が上映されたのは1月だったのですね。もっと前かと思っていました。確か平日の昼間の回に行ったのですが、劇場はガラガラでした。
 よく見る日本の俳優が、全然別人に見えました。みんなカッコ良かったです。日本の映画やドラマはレベルが低いとよく言われますが、撮り方次第、演出次第なのかもしれません。

 長崎の潜伏キリシタンたちの、迫害を逃れ、夜中にボロ小屋に集まってミサを捧げる姿は泣けました。でも教える人が少ない(いない)せいか、キリスト教そのものが若干勘違いされているような気もしましたね。キリスト教のガラパゴス化というか。

2月
映画が意図的に語らなかったのか、あるいは語る必要がなかった真実。映画『沈黙―サイレンス―』より。

 2ヶ月続けて『沈黙』関連の記事がトップになりました。それだけ注目されていたのだと思います。そう言えば私は劇場で1回見たきりですね。DVD化されても、どうも借りる気になれないまま、今日に至っています。迫害や拷問の凄惨さが今も脳裏にあって、もう一度見返す必要がないくらい覚えているからかもしれません。

3月
「教会を出た人」って何

 ある教会指導者が「教会を出た人の話なんか聞いていられない」みたいな暴論を吐いていたので、ちょっと怒り気味で書いた記事です。「教会を出た人」と言ってもイロイロなのに、全部一括りにして「そんな連中の話に価値はない」と切り捨てる人の教会には、少なくとも私は行きたくありませんね。私など歓迎してもらえないかもしれませんが笑

 SNSで下手にクリスチャンをフォローすると、面倒くさいことになるなあと思いましたね。

4月
【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その4

「教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら」という書籍からシリーズで書いた記事の、最後の回です。掲載されていた体験談について書いたのですが、一番多く読んでもらえました。やはり実際の体験、誰かの人生の物語に、人は惹かれるのかもしれません。

5月
聖書を使ったイジメ

「聖書にこう書いてあるだろう!」と言ってLGBTQの人々を断罪する人たちがいますが、ハッキリ言ってイジメです。聖書を使って、叩きのめしているのです。聖書を使っているだけにタチが悪いですね。
 聖書解釈は1つでないのに、「自分の解釈だけが正しい」と信じ込んでいるのです。そしてその解釈を押し付け、聞かない人々を叩きます。そういうのをproof textingと言いますが。

6月
キリスト教会(の一部)では、すんなりと人権が侵害されている

 本人の意に反して「許しなさい」「もっと祈りなさい」「もっと献金しなさい」みたいなことを言う教会がありますが、一般的に考えて人権侵害だなあと思います。立場や権威を利用して、信徒の自由を奪っているからです。それに泣く泣く従って大変な目に遭った人を少なからず知っていますが、本当にかわいそうです。詳しくは記事を参照して下さい。

7月
「聖書研究」の落とし穴

 聖書研究に熱心な人たちがいますが、出発点が自分の教派の聖書解釈や方向性なので、結局そこから離れられず、「自説を補強するだけ」になることがあります。すると、研究すればするほど視野が狭くなる、というパラドックスに陥ります。本人は自信満々なのですが。

8月
【翻訳】ゲイ「治療」クリスチャン・キャンプからの脱出(イワン・マソウ著)

 初の英語翻訳記事でした。2週間くらいかけてコツコツ翻訳しましたね。仕上がったのは確か月曜の夜でした。掲載前に、できるなら許可を取ろうと思って、イワンさん本人にメールしました。つたない英語のメールでした。でも送って3分くらいで「全然いいよ!」みたいな返信が本人から届いて、驚きましたね。やっぱり出来るビジネスマンは返信が速いみたいです。

 それはいいとして、「ゲイは治療できる」「ゲイは正常な状態ではない」みたいな時代遅れな偏見をいまだ固く信じている人たちがいるのに驚きます。どれだけ想像力が乏しいのでしょうか。あるいは関心がなくて、そのへんをほとんど考えていないのでしょうか。あるいは自分自身で(性的なものに限らず)マイノリティな立場を経験したことがないのかもしれません。

9月
潜在的メサイア・コンプレックス

 自分をキリストだと思っているわけではないけれど、「自分には人を救う使命がある」「自分ならうまく助けることができる」「自分がやらなければダメなんだ」と固く信じている状態を、「潜在的メサイア・コンプレックス」と名付けてみました(勝手な造語です)。

10月
【翻訳】心の病があっても教会に行って良いのですか?

 米国には、「精神疾患を教会の人たちに知られたくない」と言うクリスチャンの方が少なからずいるようです。知られると拒絶されたり、断罪されたり、「癒し」を強要されたりするからです。教会は人々をケアするはずの場所ですが、そうでなくなっているようです(一部の教会でしょうけれど)。
 日本の教会にもそういう傾向はありますが、むしろ「(人手不足で)そこまで対応しきれない」という寂しい事情の方が、大きそうです。
 もちろん精神疾患の治療的ケアには、専門的な知識や技術が必要です。そこまで教会がすべきでありません。ただ教会には教会のできること、役目があるはずですよね? というお話です。

11月
ビジネスリーダーと化す牧師たち

 ビジネスが大好きで、もはや牧師というよりビジネスリーダーみたいになっている人たちがいます。聖書とビジネス啓発本を混ぜたような発言で「カリスマっぽさ」を強調しますが、やっていることは皆同じで、しかも中途半端です。
 そのビジネスを進めるために信徒を酷使するわけですが、あくまで「訓練」であり、「地域社会のため」であり、「神のため」であると言います。でも本当はビジネスで成功して、注目されたいだけです。自分の承認欲求のためなら信徒も教会も平気で犠牲にするわけですね。
 若い牧師がビジネスビジネス言い出したら要注意だと覚えておいて下さい(笑)。

12月
自分のことを「クリスチャンです」と言わない理由

 聖書によると、「クリスチャン」という呼称は、自称でなく他称が始まりだったようです。「あの人はキリストみたいな人だな」という「評価」に伴うものだったということです。であるなら、自分で「クリスチャンです」と言うのはおこがましいことではないかな? というのがこの理由ですね。

 そういう話をSNSで見たのですが、いつどこでだったか、全然覚えていません(笑)。
 私はブログのネタになりそうなものをいつも探していて、そういう視点でSNSや新聞やテレビや雑誌を見ています。そして気になったものを記憶に留めておくようにしています。でも、けっこうな頻度でソースを忘れてしまいます。だから記事に書こうと思った時に、あれこれ探すハメになるのですね。記事を書くより案外こっちの方が大変かもしれません。
 というわけで2018年の目標は「ソースを忘れない」にしましょうか(笑)。

 さて、以上になります。
 繰り返しになりますが、今年も読んで下さってありがとうございました。またコメントも感謝でした。皆さんどうぞ良いお年を。また良ければ2018年(と言っても明日ですが)にお会いしましょう。

2017年12月29日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第72話

 緊急ミーティングが終わり、信徒たちは順次会堂から出て行く。まだ昼食を取っていない人もいるらしく、どこそこの店に行こう、という声が聞こえる。ノンビリ兄弟との挨拶を終えたキマジメくんも、帰り支度を始めた。
 正直言うと、ノンビリ兄弟のことが気になって仕方がない。先週も思い詰めた表情だったけれど、今日はさらに悪くなったように見える。虚ろな表情なのに時々笑ったり、急に話しかけてきたり、沈み込んだ顔で動かなくなったり、といかにも不安定な様子なのだ。スマホをいじっているように見えて、視線が宙を泳いでいることもある。よく見ると、明らかにおかしい。
 かと言って、キマジメくんに何ができるわけでもない。何と声を掛けるべきかわからないし、どうケアしたらいいかもわからない。「霊の戦い」が関係しているのはわかっているけれど、キマジメくんにはどうすることもできない。くわえて、ノンビリ兄弟からも何も言ってこない。
 そんなキマジメくんの葛藤をよそに、ノンビリ兄弟は相変わらず視線が定まらない様子で、会堂を出て行こうとした。ちょうどその時、声が掛かった。
「ノンビリ兄弟、ちょっと待ちたまえ」
 溝田牧師だった。牧師は受付の姉妹との話を終えたところらしく、立ってこちらを見ている。
「ノンビリ兄弟、ちょっとそこに座って」牧師は椅子を指さした。
 言われたノンビリ兄弟は、振り返った姿勢のまましばらく硬直していた。蛇に睨まれたカエルというのをキマジメくんは見たことがないけれど、おそらくこんな感じだろうと思った。ノンビリ兄弟は「しまった」という顔で、目を見開いて、一歩も動かない。
「ちょっと君に話がある。ノンビリ兄弟」
 牧師はキマジメくんのそばで止まった。「キマジメくんも一緒にいいかい」
「僕もですか?」
「うん、一緒に聞いてくれ」
 牧師はキマジメくんの方をチラリとも見ないで言う。厳しい目つきだ。こうなると、断るなんてできない。いつものことだけれど。
「キマジメくんは証人だ」
 そう言って溝田牧師は座る。何の証人なのか全然わからないけれど、キマジメくんも仕方なくその隣に座った。諦めたノンビリ兄弟も戻ってきて、牧師の正面に座った。
「ノンビリ兄弟、率直に言おう。君はだいぶ霊的に落ちているね」
 牧師は背筋を伸ばし、腕を組んで、ノンビリ兄弟を睨みつけた。
「こっちを見たまえ。そう、顔を上げて。・・・君の目を見ればわかる。目が明るければ全身も明るい、と聖書に書いてあるだろう。ほら、今の君の目は真っ暗だ。信仰が死んでいる。いや、霊が死んでいると言ってもいい。どうしてなのか、自分でわかるか?」
 ノンビリ兄弟は黙ったまま動かない。牧師に「どうなんだ」と促されても微動だにしない。キマジメくんは心配になった。ノンビリ兄弟のことでなく、溝田牧師が怒鳴りだすのではないかと心配になったのだ。
「どうしてなのか説明してやろう」と牧師。「原因は霊の戦いだ。私たちが戦っているから、敵がこの教会の弱いところを突いてきたんだ。そして弱いところと言うのは、君だ、ノンビリ兄弟」
 ノンビリ兄弟がやっと反応を見せた。目が少し開いた。
「君が強く立たないと、敵はもっと君を攻撃してくるぞ。弱さを見せれば見せるほど、敵の餌食になってしまうんだ。そして君のところから、この教会の霊的網目がほころんで、やがて全体に影響を与えるんだ。それでこの戦いに敗れることにでもなったら、それは誰の責任だと思う? ん?」
 ノンビリ兄弟の唇が細かく震えだした。何か言おうとしているように見える。顔が白い。いつもの温厚なノンビリ兄弟の顔ではない。頰がピクピク動いている。
「どういうことかわかるか? 君のその弱さが、この教会全体に悪い影響を及ぼしているんだ。そして皆を危険に晒している。特に戦いの矢面に立っている私やカンカク姉妹はどうなると思う? これは、敵に背後を取られるようなものだよ。それでどうやって戦えと言うんだ? えぇ?」
 牧師はノンビリ兄弟の肩を叩いた。すると兄弟はあっけなく椅子から落ちて、床の上にくずおれた。それほど強く叩いたようには見えなかった。もしかしたらノンビリ兄弟は、もう座っているのもやっとだったのかもしれない。
「すみません」
 ようやくノンビリ兄弟の口から言葉が出た。彼は両手を突いて、やっと上体を起こした。力が入らないようだ。
「どうも、霊の戦いに・・・付いて行けなくて」
 ノンビリ兄弟が精一杯の勇気を振り絞って本音を言ったのが、キマジメくんにはわかった。これで解決に向かうのではないか、と思った。なぜなら牧師は普段から、「なんでも正直に話してほしい。お互い腹を割って話そう。ちゃんと話せば、解決できないことなんてない」と言っているからだ。信徒が気持ちを素直に打ち明ければ、牧師はきっとわかってくれて、いろいろ対処してくれるはずだ。ノンビリ兄弟の葛藤も、これで解決に向かうだろう・・・。
 でも違った。
「やっぱりそうだったか!」牧師は待ってましたとばかりに自分の膝をピシャリと叩いた。「私の霊のうちに、はじめから主がそう語っておられたんだ! この兄弟は、霊の戦いに尻込みし、疑っていると! 主が語られた通りだ!」
 そう言いながらノンビリ兄弟を指さす。生徒の間違いを見つけた意地悪な教師のようだ。
「ノンビリ兄弟、これは今すぐ悔い改めないとダメだ」牧師はまた腕を組んだ。「主が君に、悔い改めを促しておられるんだ。このタイミングで私が君に話しかけたのは、おそらくその為だろう。ノンビリ兄弟、主が君を待っておられる。そして君がもう一度強く立つよう、求めておられる。さあ、どうするんだ? このまま主を疑い、聖霊を疑い、悔い改めず不従順を通すなら、今すぐ臨時の役員会を開いて、君の処分を決めなければならない。それくらい重大な話だぞ、これは!」
 臨時の役員会と聞いて、ノンビリ兄弟はさらに震えた。唇が白を越えて、青くなっている。
 そこまでするんですか? とキマジメくんは咄嗟に言いかけたけれど、思いとどまった。そんなことを言ったら自分まで「臨時の役員会」にかけられかねない。もうこうなったら、牧師の言う通りにするしかない。
「そんな・・・そんなに迷惑でしたか」ノンビリ兄弟は震える声で言う。
「言った通り、教会の命運に関わる事態だ」
 牧師は腕を組んだまま答える。
「でも、そんな、そんなつもりじゃありませんでした」
「そこが君の弱さなんだよ、ノンビリ兄弟。これを自分だけの問題だと思っているところがね。まったくもって、霊の目が開かれていない証拠だ。実際は、霊の領域では、君がこの教会の一員である限り、君の問題は教会全体の問題なんだよ。全員の命がかかっていると言っても過言ではない。私たちは全員で、霊的な網を形成しているのだから。どこかが敗れれば、全体がダメになる」
 ノンビリ兄弟はまた黙ってしまった。細かく震えている。両手を突いているけれど、今にも崩れそうに見える。
「君が悔い改めて、また信仰に立つと言うのなら、私も君を愛をもって許そう。そして君のために祈ろう。君はきっと自分の使命に気づいて、もう一度立つことができるだろう。でも悔い改めないと言うなら、もう私は君のことを擁護できない。神の使命に立つには、完全なる従順が求められるからだ。もちろん私にでなく、神に対する従順がね」
 ノンビリ兄弟は何も言わない。震えて床を見つめている。今度は溝田牧師は、答えを急かさなかった。ふうと溜息をつき、ノンビリ兄弟の後頭部を見つめている。キマジメくんはそんな牧師の横顔をチラチラ見る。
 ところで、何故自分がここに居なければならないのか、キマジメくんにはよくわからない。これはノンビリ兄弟の話ではないのか。ただ隣にいるだけなのに、自分が責められているような気がしてならない。
 しばらく経った。どれくらい経ったかわからない。時計を見るのも憚られる。明らかに様子がおかしいノンビリ兄弟を見たくなくて、キマジメくんは会堂の壁を凝視した。そのまま、しばらく時間が経った。
「ちょっと暑いので脱いでいいですか」
 ノンビリ兄弟はおもむろに上着を脱ぐと、近くの椅子の上に置いた。見ると、額が汗ばんでいる。「すみません、汗っかきなもので」
 冷や汗だろうとキマジメくんは思った。
「いやあ、霊の戦いの時もこんなに汗かかなかったのになあ。戦いなのに」ノンビリ兄弟は小さな声で言う。
「何を言っているんだ、君は」と牧師。「大事な話をしている時に!」
「ああ、すみません」とノンビリ兄弟。「もちろん悔い改めます。はい、悔い改めます」
 そして深々と頭を下げた。でももしかしたら、疲れてうな垂れただけだったかもしれない。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年12月27日水曜日

A.I.牧師なんて要らない?

A.I.の可能性

 2017年は、A.I.(人工知能)がだいぶ注目された1年でした。
 グーグルのA.I.碁がプロ棋士に勝ったり、自動車の自動運転が実現したり、家庭用A.I.スピーカーが登場したりしました。それ以外にもいろいろな分野で動きがあったでしょう。A.I.は私たちの生活に確実に浸透しつつあります。
 そして意外なことに、キリスト教界にも同様の動きがありました。

「5言語で祝福祈る“ロボット牧師”ドイツの教会が宗教改革500年で制作」

 まあこれは、ロボットが手を挙げて祝福を語るだけです。厳密には「ロボット牧師」でなく、「祝福ロボット」でしょう。一般の観光客には受けたようですが、ドイツのクリスチャンには不評だったようです。たぶん日本でも同様の結果になると思います。

 なぜ不評かと言うと、ロボットだからです。それはそうでしょう。一般的に考えて、自分の教会の牧師がロボットに替わったら嬉しくないと思います。祝福するだけならともかく、牧会的なケアとか、カウンセリングとか、伝道とか、そういうのはロボットなんかに任せられない、と思うのではないでしょうか。当然のこととして。

 でも私は、この「ロボット牧師」にすごい可能性を感じました。

 たぶん多くのクリスチャンの方は、「ロボット牧師」と聞いて、ほとんど瞬間的に嫌悪感を抱くでしょう。そんなのあり得ない、と思うでしょう。でも、それはほとんど、条件反射的な反応だと思います。あるいはほとんど考えることなく、パッと出した結論だと思います。「牧師は人間がするものだ」という既成概念が確固として存在しているから、ほとんど考えるまでもないのです。そうではないでしょうか。

 でも、そこをちょっと考えてみたらどうかな、と私は思います。

 A.I.の進化は今更止まりません。その良し悪しに関わらず、今後もどんどん発展し、どんどん日常生活に入ってきます。私たちは今後さらにA.I.を利用することになります。
 でもそれは、悪いことではありません。

 たとえば自動車の自動運転なんかは、ちょっと前までSF映画だけの話でしたが、今は現実です。そして確実に交通事故の減少に貢献していくでしょう。なぜなら人間は居眠りしたり、操作ミスしたり、判断ミスしたりしますが、機械にはそういうことがないからです。多くの人々が悲惨な(でも防げたはずの)交通事故の犠牲になってきたことを思えば、これはまさに「福音」みたいなものではないでしょうか。

牧師職をサポートするA.I.

 ではいきなり「ロボット牧師」に飛躍するのでなく、まず「A.I.がどのように牧師をサポートできるか」という点で考えてみましょう。

 たとえばA.I.に、聖書、関連書籍、各教派の神学体系、キリスト教史、過去の牧師たちの説教、その他諸々の膨大な情報を全て入力し、分析させてみます(1人の人間ではとても処理できない量でしょう)。すると、たとえば牧師が「贖罪」について説教しようと思ったら、それに関する聖書箇所や文献、解釈、考え方、事例など、引用すべきあらゆるものをA.I.が引っ張ってきてくれます。しかも瞬時にです。すると説教を作る時間が、大幅に短縮されます。しかもより深く、より正確な、より多彩な内容になるでしょう。

 また、信徒相手のカウンセリングにもA.I.を活用できます。カウンセリングに必要な学問や療法、過去の事例や効果などをA.I.に学習させれば、ケースに応じて最適なアプローチ方法、方向性、今後の見通しを立てることができます。牧師が悩み過ぎたり、燃え尽きたりするのを防げるかもしれません。

 伝道についても、アプローチ方法や過去の事例、統計データなどから、A.I.が何か斬新な方法を考えてくれるかもしれません(皆さん知りたくありませんか)。
 膨大な量の情報を高速で、しかもミスなく処理し、論理的に分析するのは、コンピューターの最大の特徴です。それを利用しない手はないと、私は思います。

牧師職をこなすA.I.

 では、「ロボット牧師」というか「A.I.牧師」について考えてみましょう。A.I.が牧師をサポートするのでなく、A.I.が牧師になるのです。
 たぶんクリスチャンの皆さんはここで拒絶すると思いますけれど。

 初めに書いておきますが、私は「A.I.牧師」が人間の牧師に完全に成り替われるとは思っていません。やはり最後は人間対人間になると思うからです。
 しかしA.I.の利点も大きく、無視できないと思うわけです。以下にその利点を挙げてみましょう。

 まず、A.I.牧師には人間の心はないでしょうけれど、だからこそ、決して信徒を偏り見ません。信徒によって対応を変えることもありません。調子が悪くて受け答えが雑になることもありません。

 次に、相談するために長い順番を待つ必要がありません。端末があればいつでもどこでも相談できます。そして相談すれば、いろいろな可能性の中から最適解を見つけてくれます。もちろん第2、第3の選択肢も用意してくれるでしょう。

 説教においては、前述のように豊富な情報量の中から語ってくれます。「つかみ」と称する冗談を10分も20分も続けたり、あえて感動させようとしたり、時間を無視していつまでも語り続けたり、ということもありません。

 信徒との相性もほとんど問題にならないでしょう。むしろ相手がA.I.だからこそ安心できる、という信徒もいると思います。たとえば話しづらいことを話す場合、人間の牧師だと躊躇してしまうこともありますから。

 その他、伝道にしてもイベントにしても、今までにない発想が生まれるかもしれません。A.I.碁が人間のプロ棋士に勝てたのは、今まで誰も思いつかなかった戦い方を考え出したからです。

 と、いうようなことを考えてみると、A.I.牧師はほとんどの牧師業務を遂行できるどころか、より良くしていける可能性を秘めていることがわかります。人々の嫌悪感が、それを受け入れないのでしょうけれど。
 もちろん、A.I.牧師を適切に管理する人間なり、システムなりも必要です。そのへんはまた、別の話になるでしょうね。

A.I.牧師なんて要らない?

 たぶん私がA.I.牧師に魅力を感じるのは、変な牧師を少なからず見てきたからだと思います。人を騙す牧師、虐げる牧師、利用する牧師よりは、心を持たないA.I.牧師の方が断然安心できるし、信用できる、と私は思ったのですね。
 A.I.牧師に初めから反対する人たちには、そのへんの事情を考えてほしいと思います。

 もちろん牧師も人間ですから、完璧ということはありません。いろいろ問題もあるでしょう。でもここで私が言っているのは、そういうちょっとした欠点とか、若干おかしなクセとかでなく、人を傷つけても何とも思わない、むしろ平気で人を踏みつける牧師たちのことです。彼らがそれぞれどういう経緯で牧師になったか知りませんが、なるべきでありませんでした。

 人の心を持たないロボット牧師など要りません、と言うのなら、私も同じように言います。
 人の心を持たない悪徳牧師など要りません、と。

 さて、良ければ皆さんもA.I.牧師について考えてみて下さい。これからは、そういう時代になると思いますから。

2017年12月26日火曜日

【小記事】クリスマスの「格差」

金銭以上に不足している「余裕」

 クリスマスを1日過ぎましたが、もう1回だけクリスマスの話です(すみません)。
 というのは、衝撃的な記事を見たからです。


 記事によると、シングルマザーの3割が「クリスマスなんて来なければいい」と思っているとのこと。1割は「サンタは来ない」と子供に明言しているそうです。
 クリスマスは、どうしても祝わなければならないものではありません。でも巷がそういう雰囲気になっていると、どうしても気になるものです。テレビをつけても買い物に行っても、クリスマスに遭遇します。華やかなパーティの話も聞こえてきます。「でもウチはそういう余裕がないから」という事情が、より鮮明になってしまうかもしれません。

 記事にある通り、やろうと思えば、百円ケーキと焼き鳥と折り紙のツリーで、ささやかなパーティもできるでしょう。でもかえって「格差」が意識され、惨めになるかもしれません。私が思うに、ないのは「数百円のお金」でなく、「精神的な余裕」の方ではないでしょうか。

 日本が全体的に貧乏で、皆ロクなクリスマスができないなら、誰もそんなこと気にしないと思います。あるいは「クリスマスをやる意義」を、今よりもっと真剣に考えるでしょう。そういう意味の「余裕」が、逆に生まれるわけです(皆が揃って貧乏ならば、という話です)。
 でも貧富の差が広がってしまって、できる家庭はすごいのができるけど、できない家庭はほとんどできない、となると、後者は追い詰められたような、余裕のない心境になるのだと思います。

「愚行録」に見る格差

 私は子供の頃、「1億総中流」と言われる時代を過ごしました。誰も彼もが「ウチは中流かちょっと上」と思っていた時代です。だから「格差」と言われてもピンと来なかったです。というか「格差」という言葉自体、ほとんど聞かなかったと思います。

 それがいつの間にか、変わってしまったようです。
 私が最近「格差」をマジマジと意識したのは、「愚行録」という映画を見た時です。
 かの妻夫木聡がダークな雑誌記者を演じるミステリーなのですが、ものすごい格差社会を扱った話でもあります。
 裕福でない家庭の子が一生懸命勉強して大学に入っても、いわゆる「外部生」なので、「内部生(裕福な家庭の子たち)」のグループには入っていけません。明確に、そして不文律的に、差別されるのです。内部生の子たちは海辺のテラスハウスでお酒を飲みながら、優雅にコース料理を食べ、水着になって遊びます。そこに呼んでもらえる外部生の子らは、何らかの「犠牲」を払わなければなりません(そこがこの作品のキモです)。
 ものすごく理不尽な感じがするのですが、それも現代日本の姿なのですね。だからこそ底辺でうごめく妻夫木聡や妹の満島ひかりの行動(逆襲)を見て、「いいぞ、もっとやれ」と背徳的に思うわけですが。



クリスマスの本当の意義とは

 もう1つ記事を紹介します。


 日本とイギリスの、クリスマスの過ごし方の違いについて書いた記事です。イギリスではケンタッキーが底辺層の食べ物だそうで驚きました。日本ではけっこう一般的だと思うのですが。

 もう1つ興味深いのが、イギリス人はクリスマスになると寄付やボランティアを率先してするようになる、という点です。普段は弱肉強食で生きているから、クリスマスくらいは分かち合おう、というわけです。日本は常に弱肉強食みたいだと思うのですが、どうなんでしょうね。

 ここで1つ考えたいのは、なぜクリスマスとなると、皆決まってチキンにシャンパンにケーキにプレゼントという「お決まり」をやりたくなるのか、という点です。教会で言うと毎年毎年、聖劇やキャロリングやキャンドルサービスを判で押したようにやる、みたいな話です。たまには変えてみて、全然違う方向に進んでもいいんじゃないでしょうか。

 たとえば上野公園で毎週毎週ホームレスの方々を集めて炊き出しをしている教会がありますが、そういうのを年に1回くらい手伝ってみたらいかがでしょう。だいぶ気分や考え方が変わると思います。べつにそれが良いということでもありませんが。

 というわけで、もう今年のクリスマスは終わってしまったのですが、クリスマスって何だろうと考えた次第です。

関連記事

「MeToo」とブルークリスマス

 

2017年12月25日月曜日

「MeToo」とブルー・クリスマス

2017年のクリスマス

 今日はクリスマスですね。
 おそらく多くの教会は、既に大きなイベントを終えて、一息ついておられるのではないでしょうか。今日は家族や友人とゆっくり過ごすという方が多いかもしれません。
 あるいは事情があって現在は教会に通っておられない方、カルト問題に関心のある未信者の方、なども当ブログを読んで下さっていると思います。それぞれのところで、思い思いのクリスマスを過ごされたら良いなと思います。
 クリスマスなんてしないよ、という方も、それはそれで全然構いません。
 何であれ、この1年の終わりを、穏やかに過ごしていただけたらと願っています。


MeTooの拡大

さて、今年私が注目した出来事の1つは「MeToo」です。それまで被害を公表できなかったセクハラや性犯罪を、被害を受けた方々が「私も」と勇気を持って告発する、という動きです。米ハリウッドから始まり、瞬く間に各界に広がっていきました。今なお広がり続けています。

 私はキレイ事が好きではありません。嘘っぽいからです。だからこの「MeToo」によって、人々の人権意識が本当に変わるとは思っていません。
 でもこの動きそのものが、様々なハラスメントや暴力、犯罪の「抑止力」になれば良いと思っています。実際、何年も何十年も前のハラスメントを告発されて、既に何人もの著名人が失脚しています。そのように自分の立場が脅かされるとなれば、誰もが犯行をためらうようになるでしょう。つまり、報復があれば犯罪も減る、ということです。
 それで結果的に、もうちょっと住みやすい世界になればいいな、と思います。だから私は「MeToo」を応援しています。

 この「MeToo」に背中を押されて立ち上がったのは被害者(主に女性)ばかりでありませんでした。主に男性によるものですが、「HowIwillChange」(私はどうやって変えていくのか)という動きも起こっています。そして被害者をどう守るのか、そもそも被害をどう防ぐのか、社会全体の意識をどう変えていくのか、といった議論がなされるようになりました。

 これは、「声を上げるのは被害者だけではない。その被害は社会全体の問題なのだから」という意思表示に他ならないと私は思います。セクハラや性犯罪は、被害者だけの問題でもなく、まして一部の加害者だけの問題でもない、ということですね。
 今後、そのような議論がさらに深まっていけばいいなと思います。

クリスマスどころじゃない

 そのような被害に遭われた方にとって、時節とは残酷なものかもしれません。
 自分がどれだけ辛くても、苦しくても、クリスマスや正月は正確にやって来て、世界は楽しげな雰囲気になるからです。

 小学校の頃の話です。
 親友のお母さんが、交通事故で突然亡くなってしまいました。その知らせが届いたちょうどその時、私はその親友と一緒にいました。だから彼が受けたショックを目の当たりにして、子供ながらに言葉を失いました。
 母の死を知った彼は1人、部屋に篭りました。でも窓からその様子が見えます。買ってもらったばかりのロボットのオモチャを、彼はじっと眺めていました。
 しばらくして、そんなこと何も知らない別の友人たちが、元気にしゃべりながら現れました。遊びに来たのです。家の前で大騒ぎしている彼らに、私は無性に腹が立ちました。それどころじゃないんだぞ、と。

 今年はちょうどこの「MeToo」とクリスマスが重なる形となりました。被害に遭われた方は、クリスマスと聞いても「それどころじゃない」と思われるかもしれません。被害を告発した方、告発しようと考えている方は特にです。クリスマスのことなど構っていられない、というのが正直なところかもしれません。

 それを聞いて「なんてことを言うんだ、クリスマスを祝わないなんて」と怒りだすクリスチャンがいないことを私は願います。いたらクリスチャン云々の前に、人間としてどうかしていますから。

キリスト教会はそこにどう関われるのか

 さて本題です。
 キリスト教会は、あるいはクリスチャンは、この「MeToo」あるいは「HowIwillChange」に、どのように関わることができるでしょうか?
 皆さんも良かったら考えてみて下さい。以下は私の考えです。

第1段階
 まず、教会内でセクハラや性犯罪が起こらないようにしなければなりません。教会を誰にとっても安全な場所にしなければなりません。
「教会でセクハラだと? そんなことあり得ないだろう!」と言う幸せな人がいるかもしれませんが、私の知る限り、一部の教会群は、この段階を既にクリアできていません。

 一昔前(もしかしたら現在も)のカトリックを見ればわかりますが、教会はどうしても閉鎖空間になりやすく、そこで様々なセクハラ・性犯罪が歴史的に行われてきました。プロテスタント教会も例外でなく、日本でも近年、重大な性犯罪が起きています。

 だからすごく根本的な部分で、また「MeToo」から程遠い話なのですが、まず教会内で被害が起こらないように、ということから考えなければなりません。ちょっと気が遠くなる話ですけれども。

第2段階
 次の段階は、被害者の方々の「話を聞く」ことだと思います。場所が教会である必要はありませんが、クリスチャンが関われればいいなと思います。

 セクハラ・性犯罪の告発に絶対必要なのは、被害について耳を傾ける人間がそばにいることです。つまり誰かが積極的に、被害を受けた方の話を聞こう、支えよう、守ろう、としなければ、ほとんど何も始まらないということです(1人で告発できる人はまずいません)。教会がそういうことを組織的にやっていければいいのですが、まあこれは実際には難しいかもしれませんね。

 でも教会としてできなくても、1人1人のクリスチャンが、そういう意識を持つことはできます。
 もし身近なところにそういう被害に遭われた方や、遭われたかもしれない方がいましたら、ぜひ声を掛けてみて下さい(どう声を掛けるかはまた配慮が必要です)。その人が安心できるようにしてあげて下さい。無理に話を聞き出す必要はありません。福音を伝えようとか、聖書っぽい助言をしてあげようとか、そういうのも要りません。ただそばにいて、その人が話したい時にちゃんと聞けるように、待っていて下さい。

第3段階
 次は、被害を受けた方の告発をサポートすることだと思います。これはもちろん本人が「告発する」と決めた場合のアクションですが、中には本人が自分で決められない場合もあります。援助する人が、「これは告発すべきだよ」と強めに勧めてあげた方が良い場合もあるでしょう。

 サポートの内容はケースバイケースですが、たとえば警察や弁護士事務所、被害者センター、マスコミ等に一緒に行くとか、代わりに相談するとか、そういう実際的な行動になると思います。
 被害を受けた方は、その度合いにもよりますが、判断力や行動力が低下していて、自分1人で動けないことが多いです。だから代わりに細かいことを考えたり、細かい手続きをしたり、スケジュールを組んだり、ということをやってくれる人がいたら、すごく助かるでしょう。これは被害者のアドボケーター(代弁者)になるということでもあります。

 そういった手助けを、教会なりクリスチャンなりができたらいいなと私は思います。それがキリストに倣う行動のはずですから(だからと言って強制するつもりはありませんよ)。

 さて、現状を無視して理想だけ書くと、以上のようになります。
 現実には、日本の教会は、第1段階をクリアできていれば万々歳かもしれません。第2、3段階はまだまだ有志のクリスチャンや、そういうことを専門に扱うキリスト教系団体の仕事かもしれません。そもそも「そんなことは教会のすることじゃない」とか言われるかもしれません。

 でも私個人は、教会とは本来そういう機能を持つべきだと思っています。
 皆さんは、どうお考えでしょうか。

ブルー・クリスマス

 そういうアグレッシブな活動で積極的に「MeToo」に関わっていくのと反対に、もうちょっと静かな、控えめな方法もあると思います。

 北米の一部のキリスト教会は、「ブルー・クリスマス」という機会を提供しているようです。グリーフ・ケア(悲嘆に暮れる人々に対するケア)の一環として、大切な人を亡くした人々が集える「内省と祈り」のクリスマス礼拝を行っているそうです。
 つまり派手に騒いだり盛り上がったり、明るい雰囲気で楽しんだり和んだり、という趣旨の集会でなく、何と言うか「悲しみを悲しむための時間」を持つ、ということだと思います。

「そういうのは礼拝ではない」とか言われそうですが、多くの教会の礼拝に「喜び」の要素があるのだから、同じように「悲しみ」の要素があってもいいと思います。

 このブルー・クリスマスはあくまでグリーフ・ケアなのですが、今後その対象が拡大されて、様々なハラスメントや虐待・犯罪の被害に遭われた方々も集えるようになったら良いのかな、と私は思います。前述のように「クリスマスどころじゃない」と感じている方々の中には、騒々しいパーティとか笑える出し物とかでなく、ただ静かに「悲しみを悲しむための時間」を求めている方もいると思いますから。

 もちろん被害に遭われた方々の回復の道程(完全な回復、という意味ではありません)は、人ぞれぞれです。ペースも方法もそれぞれです。抱いている感情(怒りや憎しみ、悲しみ、恥など)も様々です。だから静まって内省することを、万人が求めているとも思いません。

 ですが(たとえば)「悲しみ」を「悲しみ」として表すこと、感じること、吐き出すことも大切です。感情を押し込めても、根本的な解決にはなりませんから(時にはそうやって問題を先延ばしにすることも必要ではあります)。
 武田鉄矢の『贈る言葉』にも、こんな一節がありますね。
「悲しみ 堪えて 微笑むよりも、涙 枯れるまで 泣く方がいい」

 現実はそんな簡単には行かないでしょうけれど、このように「MeToo」とブルー・クリスマスが繋がっていければ、あるいは被害に遭った方々の、慰めになるかもしれません。

 だから教会運営に携わっている皆さん、「楽しいクリスマス」だけでなく、「悲しいクリスマス」も企画してみてはいかがでしょうか?

教会の社会における使命とは

 こういう話をすると、「教会がそこまでする必要があるのか」とか「教会の役目はそんなもんじゃない」とかいう意見も出ると思います。
 また、教会は世の中の時流にどこまで対応すべきか、という話も出ると思います。今回で言えば、「MeToo」に対して教会は対応すべきか否か、積極的に関わるべきか否か、みたいな。

 考え方はいろいろあるでしょうけれど、クリスチャンがそういう活動(被害者を支える活動)に関わらないでどうするんですか、と私は思います。
 もちろん日本の教会はいろいろ大変で、あれもこれもできないのが現状だと思います。だから何が何でもやってくれ、という話ではありません。

 でも、虐げられた人たちに心を向けること、関わること、支えることが、キリストの教えの中心ではないのかな、と私は思います。礼拝や、様々なイベント、あるいは教会の運営自体が大変で、それどころではない、ということだとしたら、それはどこか本末転倒な話ではないかな、と私は思います。

2017年12月23日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第71話

「異言」の祈りが落ち着いたところで、溝田牧師がマイクを持つ。眉間にシワを寄せている。
「愛する兄弟姉妹、霊の戦いに備えなさい。身を引き締め、しっかり立ちなさい。敵に隙を与えてはならない。あなたがたは神の軍隊、ガッズ・アーミーなのだから! 神の武具を取り、しっかり装備しなさい!」
 カンカク姉妹が勢いよくアーメンと叫ぶ。「おー主よ、ガッズ・アーミーのアノイティング! ガッズ・アーミーのアノイティング!」
 同様にあちこちでアーメンが起こる。
 隣を見ると、やはりノンビリ兄弟は座ったままうつむいている。
「では今から、特別に按手の時間を持ちます」と溝田牧師。「霊の戦いに備え、霊的武具を身に付けたいと思う者、強められたいと思う者は、前に出なさい。そして主の油注ぎを受けなさい。楽器の奉仕者はステージに上がるように」
 カンカク姉妹が我先にと前に出て行く。多くの信徒もそれに従う。奏楽者たちは舞台に上がり、それぞれ持ち場についた。牧師の指示で、静かな曲を流し始める。
 その後の流れは、メボ・ルンド聖会のそれと同じである。牧師に手を置かれ、信徒たちは片端から倒れていく。奏楽はすぐにフルボリュームとなり、誰もかれもが叫んでいる。
 キマジメくんは迷ったけれど、結局前に出なかった。なんとなく、ノンビリ兄弟を置いて行けなかったのだ。かと言って、何ができるわけでもない。チラチラと、ノンビリ兄弟の様子を見るだけだった。
「しっかり立ちなさい!」
 牧師の怒鳴り声が聞こえてきた。見ると、牧師が例の受付の姉妹に按手している。なぜか姉妹は、散歩を嫌がる犬のように、牧師から顔を背けている。
「先生、私、そんな強くなんて立てません!」
 姉妹は泣きそうな声で叫ぶ。牧師はそんな彼女の手を強く掴んだ。
「神の召しに応えるのです!」と牧師。「神は臆する者を喜ばないっ! 自分を奮い立たせなさい! 主の油注ぎを受けよ!」
 牧師は姉妹を激しく揺さぶった。姉妹は逃れようともがきながら、ついに泣き出した。
「神の油注ぎを! この姉妹に! 今強く! 強く!」
 姉妹は嗚咽しながら両足をガクガクさせている。今にも倒れそうだ。牧師がその両手を掴んで、辛うじて立たせている。キマジメくんは直視に耐えなかった。姉妹は「できません、できません」と嗚咽の合間に漏らしている。
 その後も牧師は祈り続けた。受付の姉妹は次第に静かになり、ついに抵抗をやめた。牧師が手を離すと、姉妹は折れるように膝をつき、その場に横たわった。うつ伏せて、声もなく嗚咽する。
 牧師は次の信徒に手を置いた。
「ねえ、キマジメくん」
 ノンビリ兄弟が突然、前を見たまま言った。「クリスチャンって、そんなに強くなきゃいけないの?」
 キマジメくんは何と答えたらいいかわからない。けれどそもそも、ノンビリ兄弟は答えを待っていなかった。
「それにさ、なんで400年前に張られた結界のことが、今になってわかるの? なんで今まで誰も気づかなかったの? それに聖書に、結界なんて一言も出てこないよ?」
「それは、真理が回復したからです!」
 気づくとカンカク姉妹が席に戻っていた。そして怖い顔でこちらを見ている。
「今は終わりの時代なのです。ノンビリ兄弟、終わりの時に、今まで隠されていた真理が、主によって回復されたのです! おー主よ、ハレルーヤ・・・ノンビリ兄弟の霊の目が、開かれますように! はっきり見えるようになりますように! そして家康と空海の霊的策略から、解放されますように!」
 そしてカンカク姉妹はバラバラ始める。
「空海じゃなくて天海ですよ」
 隣の席の信徒が、そっと訂正した(そのミスにはキマジメくんも気づいた)。カンカク姉妹はバラバラの合間に「家康と天海の策略よ退け!」と言い直している。
 ノンビリ兄弟はそんなカンカク姉妹を無視するように、またうつむいてしまった。
 それから30分ほどかかり、「按手の時間」は終わった。信徒らは席に戻っていく。
「兄弟姉妹、我々は強く立たねばなりません」溝田牧師は厳しい口調で言う。「しかし、我々が強いのではありません。強いのは主です。我々はその主を信じて、硬く立つのです。だから我々も力を受けることができるのです。すべては信仰です。信仰がキーです。臆してはいけません。臆する者は敵のエジキになるでしょう。吠えたける獅子が獲物を狙っている、という御言葉を、軽んじてはいけません」
 キマジメくんは受付の姉妹のことが気になった。彼女は前の方の席で、まだ泣いているようだった。顔にハンカチを当てて、肩を微妙に震わせている。
 それにしても先程の溝田牧師は、厳しすぎたのではないか。泣いている相手に、あそこまで強く迫る必要があったのか。あるいは姉妹を奮い立たせようという意図があったのかもしれない。それだけこの戦いが厳しく、油断ならないものだということか。
 むしろ彼女のためだったのかもしれない。先週の「霊の戦い」の報告の時、彼女がヘラヘラ話していて牧師に怒られたことを、キマジメくんは思い出した。ああいう態度ではいけない、ということなのだろうか。
 溝田牧師は普段からこう言っている。「自分はあえて皆に厳しくすることがある。でもそれは皆への愛のゆえだ。愛しているからこそ、心を鬼にして厳しくするのだ」
 さて、この緊急ミーティングも終わりが近づいたようだ。牧師は今度は笑顔を見せている。
「では愛する兄弟姉妹、明日の夜7時に、またこの所に集まりましょう。私たちはさらに『霊の戦い』を加速させていきます。各自、しっかり祈って備えてくるように。では皆さん、最後にハグし合って、互いに愛を現していきましょう。私たちは神の家族なのですから」
 牧師の満面の笑みに、張り詰めていた空気が緩んだ。皆笑顔で立ち上がり、近くの者どうしでハグし始める。キマジメくんはノンビリ兄弟の方を見た。ノンビリ兄弟もキマジメくんも見た(今日はじめて目が合ったかもしれない)。ノンビリ兄弟は唇だけでハハと笑い、2人は短い握手をした。
 カンカク姉妹はハグした相手(若い女性の信徒だ)に、何やら熱心に話している。「ガッズ・アーミー」とか「霊的武具」とかいう言葉が聞こえてくるから、どうやら溝田牧師の話を繰り返しているようだ。
 その溝田牧師はと言うと、例の受付の姉妹の隣に座り、彼女の背中をさすりながら、何か話している。姉妹はおさまっていた嗚咽をぶり返しながら、しきりに頷いている。話の内容はわからないけれど、ケアされているようだ。
 キマジメくんはノンビリ兄弟に何と声をかけるべきかわからなかった。ではまた明日、と言うべきだろうか。大丈夫ですか、と訊くべきだろうか。そうこう迷っているうちに、ノンビリ兄弟の方から声が掛かった。
「じゃあキマジメくん、また明日ね」(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年12月21日木曜日

クリスチャンは「神様の栄光」を現すために生きるのですか?(後半)

 前回に続いて後半です。
 いきなり始めます。前半から続けて読んでいただけると、流れがわかりやすいかと思います。

ではどう生きるべきなのか

 では、私たちはどう生きるべきでしょうか。
 神は私たちの人生に、どう関係するのでしょう。あるいは私たちは、神にどう関わるべきでしょう。

 私たちの人生の大半は、学校で学んだり、就職して働いたり、育児したり介護したり、休養したり、定年して老後を過ごしたり、といった活動になります。いろいろなルート、いろいろな内容があるでしょう。ぶっちゃけた話、神と全く関係ない人生を送ることもできます。実際、大半の日本人がそうだと思います。

 その中で「神の御心に従って生きたい」「神様の栄光を現したい」と願うことは、立派なことだと私は思います。自ら積極的に神に関わって生きていきたい、ということでしょうから。
 でもそうであるなら、前半での注意点に加えて、いくつかの点に注意しなければなりません。

恣意的な「神の御心」

 まず第1に、これは何度も書いていることですが、「神の御心」はどうしても恣意的になる、という点です。

 あなたが何か具体的な「神の御心」を求めているとしましょう。たとえばあなたが学生で、「〇〇大学に進むべきでしょうか?」と神に尋ねたいとします。
 あなたはこんなふうに祈るでしょう。「神様、私は〇〇大学に進学すべきでしょうか?」
 これ自体は、よく聞く話ですね。

 でもこの質問は、イエスかノーでしか答えられないクローズド・クエスチョンです。ここでさっそく疑問が生じます。神様は自由に語られるはずなのに、なぜ初めから二択に絞り込んで訊くのか、という疑問です。なぜ〇〇大学が前提になっているのでしょうか? その前に、なぜ大学進学が前提になっているのでしょうか? 他の道の可能性はないのでしょうか?

 これは、言い方が悪いかもしれませんが、神様を追い込むような訊き方です。どうせ訊くなら、「進路をどうするべきですか?」みたいなオープン・クエスチョンにすべきです。
 そうでなく、いきなり「〇〇大学は―」みたいな二択の質問にしてしまうのは、初めから、〇〇大学が気になっているからに他なりません。

「神の御心」を求めると言うとき、「心に浮かんだことは神様からの答えだ」と安易に言う人がいます。でも皆さん知っておいて下さい。人の心に浮かぶのは、その人が普段から気にしている事柄です。悩んだり迷ったり願ったりしていることが、自然と浮かんでくるのです。逆に言うと、気にしているから「御心」を求めたくなるのです。そしてその時点で、既に「神の御心」を絞り込んでしまっているのです。

 どういうことだか、わかりますか。
 そういう人は、何か答えがほしいに神に祈ります。何もなければ、そういう祈りはしません。つまり、「答えがほしい」から、「そこに神の答えがある」と決めつけているのです。では、神様は他のメッセージを持っていないのでしょうか?

 こちらが答えてほしい時に神の答えがある(そうでない時にはない)、と考えるのは、神をコントロールしようとすることです。
 その手の人は、神に訊きたいと言いながら、神に自由に語らせる気はないのです。

 簡単な例を示してみましょう。
 ある人が「チョコレートを食べたい」と思っています。こう祈ります。「神様、今チョコレートを買うべきでしょうか?」
 その人はチョコレートを食べたいので、チョコレートのことが頭から離れません。だから結局、何だかんだ理由を見つけて、「あ、これは神様がチョコレートを買いなさいと言っているサインだ。その確信がきた」と決めつけてしまうでしょう。
 では他のタイミングで、神様がポテトチップスについて彼に語ろうとしたら、彼は果たして聞くのでしょうか?
 ほしいから訊く。ほしくなければ訊かない。恣意的とは、まさにこういうことです。

 まさかチョコレートのことで祈る人はいないと思いますが(食べたかったら自由に買って下さいね)、もっと重大なことで、これと同じようなことをしている人がいます。私はそれを、以前から「御心の捏造」と呼んでいますけれど。

「神の御心」の運命論的危険性

 第2に、「神の御心」を運命論のように考えてしまう、という点です。

 私たちの人生は神によって細かく導かれるべきだ、と言う人がいます。つまり、私たちの人生は神によってあらかじめ決められているんだから、それに従うべきだ、ということです。私たちの選択のようでありながら、実は神の選択なのだ、と。

 その論法で、こんなふうに言う人たちがいます。
私が牧師になるのは神の定めでした
私の献身は神のご計画だったのです
私は嫌だと言ったのに、結局神は私を牧師にしました

 じゃああなた自身の意思は何なのですか? と私は訊きたくなります。そんなに嫌なら辞めればいいんじゃないですか? それとも神に無理やり押さえつけられて、牧師就任のサインを泣く泣くさせられたんですか? 本当はあなたがそれをしたかったんじゃないんですか? と。

 最近も若い人が、こんなことを言ってました。
あーこれはもう状況的に、自分は牧師になれって言われてるんですね。逃げ道なくなっちゃったなあ
 なんてひねくれた言い方でしょう。本当はあなたが牧師になりたいんでしょう? 神のせいにしてはいけません。

 私たちの人生が、神によってあらかじめ決められている、というのは危険な考え方です。

 たとえばあなたが、一生懸命教会に仕え、伝道し、その生涯の大半を神に捧げたとします。そして終わりの日、主と対面します。きっと褒めてもらえると、あなたは思っているでしょう。でも主は言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」

 またある人は、教会をサボり続け、奉仕なんて少しもしないまま人生を終えました。終わりの日、主は彼に言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」

 つまり善行を積んだ人も、悪行を積んだ人も、「神があからじめそう決めていた」ことになってしまうのです。
 であるなら、どんな罪を犯した人も、その人の責任ではないことになります。神によってそう決められていたのですから。そして世界中のあらゆる犯罪も、憎むべき犯罪も、忌むべき犯罪も、全部神の計画だったことになります。すると、あなたが何かの事件の被害者だとしたら、その真犯人は、実は神だったのです。

 と、いう話になってしまいます。それでも、運命論を支持しますか?

「神の召し」とは

「では、神の召しはどうなんですか?」とある人は訊くかもしれません。
 神が一人一人に用意しておられる計画があるのではないですか、という問いですね。

 でもそれを「運命」と混同してはいけません。「召し」の詳しい定義はここではしませんが、「召し」は「召し」です。「決定された運命」などではありません。
 つまり、「召し」が何であれ、あなたがそれについてどう考えるのであれ、どうするかはあなた次第ということです。

 だから、「私は嫌だったのに神様ガー」みたいな言い方は、してほしくないのです。
 あなたが決めるのです。神はあなたに何も強制されませんから。神はあなたをどこにも追い込みませんから。繰り返しますが、神のせいにしないで下さい。

「神の栄光を現す」生き方?

 前半にも書きましたが、「神の栄光を現したい」と簡単に言う人がいます。でも具体的なことは何もしません。カルト牧師でさえ、「主に栄光を帰します」と涙ながらに言います。でも本当は、自分が栄光を受けたいのです。

  今まで見てきたように、「神の栄光を現す」というのは口で言うほど簡単なことではありません。それが何なのかも、私たちは実はよくわかっていないかもしれません。
 私が愛読している「ウェストミンスター小教理問答」は、こう言っています。

(以下引用)

問2.
 どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。


 神の言葉(聖書)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。

(引用終わり)

 つまり「聖書を読み、それを実行すること」が「神の栄光を現す」ことだと言っているわけです。具体的には、新約聖書のキリストの教えの部分が、その中心になると私は考えていますが。

 キリストの生き方、歩み方、働き方を調べてみて下さい。彼は弱い者、苦しむ者、虐げられた者と共にいたはずです。そして彼らを責めるのでなく、愛したのです。
 映画『沈黙』をご覧になりましたか。潜伏キリシタンたちが迫害され、拷問され、苦しんでいるその最中、神は沈黙していたのでしょうか。いいえ、彼らと共に苦しんでいたのです。というのが、あの作品の中心的なメッセージでした。

 聖書を実行するのは、クリスチャンであれば当然だと私は考えます。そして聖書を実行することが「神の栄光を現す」ことになるのなら、わざわざ「神の栄光を現したいです」などと、言わなくていいのです。
 そんな信仰アピールは要らないので、どうぞ信じるままに行動して下さい。
 それが、「神の栄光を現したい」クリスチャンの皆さんに、私が言いたいことですね。

参考文献

 

2017年12月19日火曜日

クリスチャンは「神様の栄光」を現すために生きるのですか?(前半)

クリスチャンの生き方とは

 前回は「繁栄」という視点から、キリストの生涯をザッと振り返ってみました。
 彼のキャリアは大工から宗教革命家(ニート)へ、というものでしたが、おそらく金儲けはできなかったと思います。弟子たちの尊敬は得たでしょうが、彼らの大半は、処刑のとき散り散りになってしまいました。
 その後の復活、昇天という下りがキリスト教のキモなのはわかっています。だからあくまで「人間」としてのキリストの生涯は、という話ですね。

 さて今回は、そんなキリストの生涯から、じゃあ私たちはどう生きるべきなのか、という点について考えてみたいと思います。

「神様の栄光」と簡単に言うけれど

 クリスチャンはどう生きるべきなのか、という話でよく(教会内で)出てくるのは、こんなセリフたちです。
神様のために生きるべきだ
御心に従って生きるべきだ
神様の栄光を現すために生きるべきだ

 逆から言うと、こうなります。
自分のために生きてはならない
御心でないことをしてはならない
神様の栄光でないことをしてはならない

 これらの考え方が間違っているとは言いません。でも、ちょっと簡単に考え過ぎではないかな、と思うことがあります。

 昔、全国のチャーチスクールが集まって「励まし合う」という集会に参加したことがあります。ある分科会で、若い牧師が、小学校高学年の子供たちを集めて話しました。冒頭はこんなでした。
みんな、何のために生きているか、わかってるよね? そう、神様のためにだよね。みんな、神様の栄光を現すために生きてるんだよね。よくわかってるじゃん
 そこまでわかってればもう十分だ、みたいな感じでしたが、相手は小学生ですよ? そんな簡単に人生まとめてどうするんですか? とさすがに思いました。
 私は基本的に、人の話を肯定的に聞くタイプです。でもこれには同意できませんでした。あまりにも簡単に考え過ぎだと思ったからです。

 たとえばですが、「神様の栄光を現す」とは、具体的にどういうことでしょうか? それが悪いと言っているのではありませんよ。具体的にどういうことなんですか? という質問です。

 私が見てきたところによると、このあたりをほとんど考えないで「神様の栄光を現したい」と言っている人がいます。でも具体的に考えていないから、具体的な行動に繋がっていません。だからいつもそのセリフを「言うだけ」なのです。そしてそれを繰り返すだけです。そんなループに、いったい何の意味があるのでしょうか。

 人間、肝心なのは「何を言うか」でなく、「何をするか」なのです。

 では、「神様の栄光を現す」というのを、「それを見た人が『神様ってすごい』と思えるようなこと」と仮に定義してみましょう。つまりあなたの行動を見た誰かが「神様ってすごいんですね」と言ってくれたら、あなたは「神様の栄光を現した」ことになります。

 たとえば神学校を出て、牧師になって、どこかの教会で働くようになったら、それは「神様の栄光を現す」のでしょうか?
 でも一般の人がそれを見ても、「神様ってすごい」とは思いません。むしろ熱心すぎる牧師、あれこれうるさい牧師を見て「気持ち悪い」と思うことはあるでしょう。

 あるいは教会に忠実に仕え、日夜祈りに専心しているクリスチャンの方は、「神様の栄光を現す」のでしょうか? それを見て「すごい」と思うクリスチャンはいるでしょう。でも一般の人はなかなかそうは思いません。むしろ「そこまで宗教にハマってるんですね」と引き気味に思うのではないでしょうか。

 もうちょっと根本的なところで、牧師になる、伝道師になる、クリスチャンになる、ということ自体が「神様の栄光を現す」のでしょうか? でも不正を働く牧師もいます。悪事を働くクリスチャンもいます。そうでなくても、そもそも「牧師だから」「クリスチャンだから」というだけで、第三者が「神様ってすごいですね」と思うはずがありません。

 つまり牧師だから、クリスチャンだから、「神様の栄光」を現しているとはなりません。「肩書き」は関係ないのです。
 また頑張って伝道しているから、教会で一生懸命奉仕しているから、たくさん祈っているから、「神の栄光」を現しているのでもありません。もちろん教会の中では「素晴らしい」とか言われるでしょうけれど。

 と考えてみると、「神様の栄光を現す」というのが意外とわからないもの、簡単に決められないもの、一口に言えないものだとわかります。少なくとも、小学生が1分で理解できるものではありません。

その言葉、ちゃんと考えて使っていますか?

 最近ある記事で、ある牧師がこんなことを言っていました。
クリスチャンは転職するなら、それが神の御心なのか、神の栄光を現すことなのか、という視点で考えなければなりません

 ずいぶん綺麗なセリフで、かつ謎の上目線ですね。でもはっきり言って、抽象的で、無責任で、不親切です。神の御心とは何か、神の栄光とは何か、といった重要なポイントを曖昧にしたまま、読者に丸投げしているからです。その程度なら私にだって言えます(私はそんなこと言いませんが)。

 またあるクリスチャンは、「神様の栄光を現したい」と言って神学校に入ったり、途中で辞めて海外留学したり、途中で帰ってきてどこかの教会に入り浸ったり、就職したと思ったら辞めていたり、と行き当たりばったりないことを繰り返しています。結局「自分探し」をしているだけ、嫌なことから逃げているだけ、なのです。「神の栄光」など、その言い訳に過ぎません。厳しい言い方ですが。

 だから現場(おそらく一部でしょうが)では、「神の御心」とか「神の栄光」とかいうものが、すごく簡単に扱われているのです。簡単に考えられているのです。いや、ほとんど考えなしに使われているのです。

 知り合いの話です。
 そこの牧師が、「愛が流れる」という表現をよく使っていたそうです。だから知り合いも、誰かに福音を話すとき、「愛が流れる」という言葉をほとんど無意識的に使っていたそうです。で、ある時、職場の未信者の同僚から、こう訊かれました。「愛って流れるものなの?」
 知り合いは返答に詰まってしまったそうです。そう訊かれて初めて、自分がよく理解していないことに気づいたからです。

 おそらく多くの人が求めているのは、「神様の御心に従う」とか「神様の栄光を現す」とかいう字面ではありません。「で、どうするの?」という中身のはずです。そしてその中身は、上記のように、簡単に判定できるものではありません。
 だからクリスチャンの方には、そういうセリフをあまり気安く使ってほしくないな、と私個人は思っています。

 というわけで後半に続きます。

2017年12月17日日曜日

馬小屋生まれの大工は、革命家(ニート)になったら儲かったのか?

クリスマスが近いので、今回はクリスマスらしく、イエス・キリストご本人に焦点を当ててみたいと思います。当ブログとしては珍しい試みですね。
ですがその前に、ちょっと「教会のHP」について書きたいと思います(いきなり飛躍し過ぎてすみません)。

教会のHPからわかること

教会のHPと言っても、RPGのヒットポイントのことではありません。ネットで閲覧できるホームページのことです。あ、わかってますよね。失礼しました笑

それはともかく、私はけっこう意識して、いろいろな教会のHPを見るようにしています。有名教会のHPから、どこにあるのか地理的にわからない(すみません)教会のそれまで、ランダムに見ます。もちろん時々ですけれど。

すると、全然知らない教会のことなのですが、見えてくるものがあります。その教会の価値観です。もちろん全部わかるわけではありません。でもその教会が何を重視しているのか、何を気にしているのか、けっこう見えてきます。

まず、言い方がメチャメチャ悪いですが、明らかに素人レベルの、シンプルかつ不便かつ不親切なHPがあります。牧師先生か誰かが一生懸命、見よう見まねで作ったんでしょうね。いちいちブラウザの「戻る」ボタンでメニューに戻らないと他のページに行けないみたいな、素朴な作りのヤツです。私個人はそういうHPに温かみを感じるので、実はこれは褒めているのですが。

そういう教会はたぶん、人手不足か、資金不足か、あるいはネットに関心がないかだと思います。でも今はちょっとの労力やお金で見事なHPが作れてしまう時代なので、やはり根本的に関心がないのだと思います。昔ながらの地道な伝道とか、既存の信徒とのリアルな交流とか、そういうものを大切にしているのではないかな、と私は勝手に思っていますが。

そんなふうにHP自体はイマイチなのですが、日曜礼拝の説教だけは毎週欠かさず掲載している、なんてことがあります。しかも原稿をそのまま上げるのでなく、ちゃんと読みやすいように編集してあるのです。これはけっこうな労力だと思いますね。日曜日の夜に、牧師先生が一生懸命パソコンに向かっている姿が目に浮かびます。
つまりその教会は、HPがどうであれ、説教が大切なのだ、という価値観を持っているわけです。

一方で先進的な、プロフェッショナルなHPもあります。画像や横文字がふんだんに使われ、メニューも細かく分けられています。動画あり、グッズ販売あり、SNSとの連携あり、メルマガありです。プライバシーポリシーなどのコンプライアンスもしっかりしています。デザインのセンスも良く、素材も良く、いかにもイマドキです。

そういう教会がネットの発信力や利便性を重視しているのは間違いありません。でないとそこまで力を入れないからです。
つまり、そういう価値観を持っているわけです。

でもこれは見方を変えると、「見映えやイメージにこだわっている」ということでもあります。たとえば教会の外観の画像に、本来は電線とか樹木とか道路標識とかいろいろ映っているのですが、加工ソフトで全部キレイに消していることがあります。HPだとものすごくキレイで光り輝く建物なのに、実際行ってみると全然違う、なんてことになりますが。

というのはほんの一例ですが、いわゆる「印象操作」をしているわけです。それが悪いとは言いません。印象を気にするのは当たり前なことですから。でも一部の教会に関して言えば、HPに溢れる信徒たちの笑顔も、あたたかく家族的な雰囲気も、掲げられた美辞麗句の数々も、実情に反して演出されたものかもしれません。そのへんは、ちょっと注意した方がいいとは思います。
ともあれ、そういう画像の細かい見映えにこだわる、という価値観を持っているわけです。

という具合に、教会HPを見てみると、その教会(あるいは牧師)が大切にしていること、気にしていることが何となくわかってきます。車で言えば、中古の軽自動車で満足しているのか、最新の高級車でなければ嫌なのか、みたいな価値観が。

中にはHPの見やすいところに、こんなメッセージを載せている教会もあります。
「クリスチャンは繁栄すべき存在です。さあ、あなたも一緒に繁栄しませんか」

だいぶ「繁栄の神学」に傾倒している気がしますが、案の定、HPは立派です。素敵な笑顔、美しい設備、光り輝く十字架で満ちています。
その教会の価値観は、間違いなく「繁栄」にあるのでしょう。

そこでふと疑問に思ったことがあります。あれ、キリスト教のメッセージって、「繁栄」だったっけ? と。

クリスチャンは清貧であるべきか、繁栄するべきか

キリスト教に、「清貧」という言葉を連想する人がいるかもしれません。質素な暮らしを旨とした、中世ヨーロッパの修道院のイメージでしょうか。
一方で昨今の福音派・聖霊派教会では、真逆の「繁栄」が叫ばれています。もちろんそうでない教会もあるでしょうけれど。
ではそもそもキリスト教とは、「清貧」を言っているのでしょうか。あるいは「繁栄」を言っているのでしょうか。皆さんはどう思われますか。

旧約聖書には、「逆境にあってなお繁栄していく物語」が多く見られます。ヤコブ、ヨセフ、ヨブ、ダビデ、あるいは王になるまでのサウルがそうです。痛快な逆転劇の数々で、読んでいて気持ちいいし、最後は繁栄してくれて良かった、と思えます。

でも新約聖書には、その手の繁栄話は見られません。むしろキリストの「たとえ」においては、金持ちや権力者はもっぱら悪い意味で使われています。「金持ちが天国に入るのは難しい」とも言っています(マタイ19章23節)。また初代教会の人々は、自分の資産を売って教会に捧げていました。だからものすごく繁栄して金持ちになった、権力者になった、という信徒は出てきません。

私の知る限り、キリストも「繁栄」について何も言っていません。

もし上記の教会のように「クリスチャンは繁栄すべき存在」だとしたら、「繁栄できていない人たち」は一体どうなってしまうのでしょう。資産を捧げた(結果個人では何も所有していない)初代教会の人たちはどうなってしまうのでしょう。何か罪があるから、繁栄できなかったのでしょうか。だとしたら生涯繁栄と無縁だったキリストは、罪深かったのでしょうか。パウロも繁栄とは無縁でしたが。「愛された弟子」のヨハネも、最後は島流しに遭いましたが。

それに繁栄を叫んでいる教会の人たちは、本当に繁栄しているのでしょうか。繁栄しているのは、献金を最終的に懐に入れている牧師だけだと思いますが。信徒の方は、かえってカツカツになっているはずです。

「繁栄」すること自体は、悪くありません。ですが「繁栄しなければならない」というのは、おかしいと思います。

では「清貧」が正解なのでしょうか。でも、これもちょっと違う気がします。なぜならキリストは「貧しい者はさいわいだ」とは言っていますが、「貧乏になれ」とは言っていないからです。貧乏な方が良いとか、金を持ってはいけないとか、そういうことも言っていません。

ではそう言うキリストご自身は、どうだったのでしょうか(やっと本題)。

キリストは貧乏だったのか、リッチだったのか

キリストは馬小屋で生まれ、早くに父を亡くし、30歳くらいまで大工をしていました。どういう暮らしだったのか詳しくわかりませんが、リッチだったとは思えません。たぶん母マリアと兄弟たちと、慎ましく暮らしたのではないでしょうか。

そしてある時、急に大工を辞めて、宣教活動に身を投じます。そして斬新な教えと奇跡を武器に、弟子を増やしていきます。でも、金儲けにはならなかったようです。なぜなら枕する所もなく(マタイ8章20節)、税金も滞納する(マタイ17章27節)生活だったからです。
しかも「最後の晩餐」のシーンを読むと、一行の財布を預かっていたのがユダだとわかります(ヨハネ13章29節)。これは、キリスト自身は財布すら持っていなかった、ということです。お金がいくらあるのか、全然把握していなかったかもしれません。

というわけで、キリストがリッチだったとは考えにくいことがわかります。むしろその反対の状況だったのではないでしょうか。

もう一度整理してみましょう。
キリストは馬小屋で生まれ、早くに父を亡くし、大工として家計を支えましたが、30でリタイアしました。それ以降は良く言えば宗教革命家、現代風に言えばニートです。金儲けはできませんでした。しかも(あくまで一般的な視点でみればですが)、最後は処刑されて死んでしまいました。惨めな、哀れな生涯だったわけです。

このことから、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

まず、キリストに倣うことは、必ずしも繁栄することではありません。成功したり、何かを取得したりすることでもありません(してもいいのですよ)。
次に、私たちは失敗してもいいのです。キリストの人生でさえ、あくまで一般的に見るならばですが、処刑という「失敗」で終わってしまったからです。
最後に、キリストご自身がそうだったように、私たちも自分の信念に従って生きるべきでしょう。誰に何と言われても、誰に理解されなくても、です(もちろん客観性は持っておくべきです)。

「繁栄」という言葉から、そんなことを考えてみた次第です。
さてこのクリスマス、馬小屋で生まれたキリストをそういう視点で見てみるのも、なかなか面白いかもしれません。

繰り返しになりますが、皆さん良いクリスマスを。

2017年12月15日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第70話

 次の日曜日。礼拝の後、溝田牧師のアナウンスがあった。
「皆さんご存知の通り、今この教会は、主の導きによって霊の戦いに取り組んでいます。先週は、この周辺の神社について調べるよう、主に促されました。それで調べたところ、大変な事実が判明しました」
 礼拝後の会堂はざわついていたが、急に静かになった。
「霊の戦いは明日行うのですが、この事実はできるだけ早めに、皆さんの耳に入れておきたいと思います。ですからこの後、緊急のミーティングを開きます。今まで霊の戦いに参加した方はもちろん、新しく参加したい方、興味がある方も参加して下さい。時間は・・・そうですね、ランチを取ってすぐがいいでしょう。2時集合とします」
 今は1時半過ぎである。ほとんど時間がない。昼食は近所のコンビニで軽く済ませるしかなさそうだった(もっとも何の予定がなくてもキマジメくんの昼食はいつもコンビニ弁当なのだが)。
 ちなみにこの教会の日曜礼拝は午前10時から始まる。今日は3時間半ほどかかった。大雑把に考えて賛美に1時間、メッセージに1時間半、その後の「ミニストリー」に1時間という配分だ。
 ところでこのところ、礼拝時間がどんどん延びている。長い時は5、6時間かかる。だから今日はまだ平均的なほうだ。
 一番近いコンビニに入ると、何人かの信徒に会った。その中にノンビリ兄弟もいた。相変わらず、考え込んだ顔をしている。
「やあキマジメくん、お昼ご飯かい」
「はい、そうです。ノンビリ兄弟もですよね」
「うん・・・そうだね。緊急のミーティングが、あるんだってね」
「そうですね」
 そのまま何となく一緒に行動することになった。2人で黙って商品を選ぶ。ノンビリ兄弟は海苔弁当を手に取ると、買い物カゴに入れるでもなく、ジッと眺めている。
「どうかしました?」
 キマジメくんが尋ねる。ノンビリ兄弟はゆっくりキマジメくんを見た。
「ううん。ちょっと、ご飯くらいゆっくり食べたいなあと思ってね」
「具合でも悪いんですか?」
「いや、そういうわけじゃ」
 ノンビリ兄弟は海苔弁当をカゴに入れた。「ちょっと考え込んじゃっただけだよ」
 会計を済ませて、コンビニを出た。やはり無言である。
 以前、ノンビリ兄弟の家にお邪魔させてもらったことがあった。一緒に食事して、いろいろ話した。彼はいつもゆっくりした口調で話すから、時々眠くなってしまうのだった。それほど前の話ではないはずだけれど、ずいぶん昔のことのようにも思えた。
「ノンビリ兄弟」
 教会の入り口に差し掛かったところで、キマジメくんは声を掛けた。
「もし具合が悪いようでしたら、今日はもう帰って休んだほうがいいんじゃないですか?」
 ノンビリ兄弟は黙ってキマジメくんを見ている。聞こえなかったのだろうか。いや、この距離でそんなはずはない。
「何を言い出すんだい、キマジメくん」ノンビリ兄弟は急に声を荒げた。「具合は悪くないってば。それに緊急のミーティングなんだから、参加しないと。でないと溝田先生に後から怒られるだろう。黙ってサボったりしたら、何を言われるか、わかったもんじゃない」
 キマジメくんは何と答えたものかわからなかったけれど、「大丈夫ならいいんです」とだけ答えて、会堂に入った。
 食べ終わるともう2時近かった。ほとんどの人が会堂で食事をしているから、そのままミーティングに入れる形だ。今まで参加していなかった信徒も何人かいる。
 2時を少し過ぎたところで、溝田牧師とサトリコ姉妹が現れた。
「愛する兄弟姉妹、今日は大変重要なことを分かち合います。霊の目を開いて、いや霊の耳を開いて、よく聞いて下さい」牧師はさっそくマイクを持った。
「先週、私たちは近所のビエ神社で霊の戦いをしました。ご存知の方もいるかもしれませんが、ビエ神社とは、あの永田町のビエ神社を総本山とする神社の系列です。その支社が、この近所にもあるいということです。そしてビエ神社は日本全国に展開していますから、これは日本中が、ビエ神社によって縛られているということです。いわばビエの呪いです。私たちはこの呪いに、主にあって立ち向かわなければなりません」
 どよめきが走った。気づくと、目の前の席にカンカク姉妹が座っている。彼女は「おー主のあわれみを」とか「主の油注ぎを」とか「アノイティング、アノイティング」とか呟いて、たえず体を揺らしている。
「また私がこのことについて祈っていると、胸のうちに何度も繰り返される言葉がありました」溝田牧師が続ける。「それは『日光』と、『監視』でした。『日光』と『監視』です。初めは私にも何のことだかわかりませんでした。それで、主に悟らせて下さいと祈りました。あのダニエルのように。すると、悟る力が与えられました。ハレルーヤ!」
 カンカク姉妹もつられて「ハレルーヤ!」と叫ぶ。
「日光とは、あの日光東照宮のことです。そして監視とは、そのままの意味です。つまり敵が日光東照宮のあの高い位置から、見張っているのです。何を見張っていると思いますか? なんと、ここ東京をです!」
 さらにどよめきが起こった。カンカク姉妹は「異言」でバラバラ祈りだした。
「日光東照宮は、あの徳川家康を神格化して祀っています。つまり敵の大きな拠点の一つと言っていいでしょう。そして彼が開いた江戸幕府は江戸、ここ東京でした。これがどういうことか、わかりますか? 家康の呪いが今も、東照宮という高所から、この東京を見張っているということです! そしてビエ神社のネットワークを使って、東京に結界を張っているのです!」
 みんな沈黙してしまった。カンカク姉妹は「異言」をやめ、前屈みになっている。すすり泣いているようだ。牧師の叫び声の余韻が、いつまでも漂っている気がした。
「しかし、家康にそのような呪術の力はありません。ではいったい、誰がこの結界を張ったのでしょうか?」牧師は続ける。「調べてみると、また驚愕の事実が判明しました。家康の側近で、天台宗の僧侶だった、天海です。彼には陰陽師という顔もありました。その天海が家康の密命により、この東京に、ビエ神社を使って結界を張ったのです。そして東照宮と東京を、霊的に繋いでしまったのです。監視のために!」
 牧師はホワイトボードに、簡単な日本地図を描いた。そして栃木県のあたりに×印を付けた。
「これが東照宮です」
 続いて、東京のあたりにも×印を付ける。「これが東京です」
 そして2つの×印を、直線で結んだ。
「これが、日本の中枢を縛る結界の正体です!」牧師はボードをバンと叩く。「家康と天海の呪いが、この直線上を固く縛っているのです。皆さん、これが日本の閉塞感の正体です! このせいでキリストの光が輝けないのです! 私たちは今こそ、この結界を打ち破り、キリストの光を輝かせなければなりません! ハレルーヤ!」
 一斉にアーメンが起こった。カンカク姉妹は立ち上がり、両手を挙げてハレルヤとか何とか叫んでいる。
 そのまま全員で「異言」の祈りに突入した。皆立ち上がり、それぞれバラバラ言っている。鳥肌が立つような勢いを感じた。キマジメくんも立ち上がったが、隣を見るとノンビリ兄弟は座ったままだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年12月13日水曜日

クリスチャンの方、「クリスマスらしく」過ごせてますか?

「クリスマスらしさ」って?

 12月も半ばになりました。皆さんの教会のクリスマス・イベントはいかがでしょうか。早いところはすでに終わっているかもしれません。これから本番というところもあるでしょう。いずれにせよ、素敵なクリスマスになればと思います。

 ところでクリスマスを「クリスマスらしく」過ごすとは、どういうことでしょう。
 七面鳥とケーキとプレゼントでパーティをすることでしょうか。キリストの降誕を教会でお祝いすることでしょうか。ゴスペルコンサートを開くことでしょうか。クリスマス風にアレンジした伝道集会を開くことでしょうか。クリスマスキャロルを歌ったり、聖劇を披露したりすることでしょうか。

 たぶん教会によって、イロイロだと思います。どれが良いとか悪いとか、言うつもりはありません。「クリスマスらしさ」に唯一の正解などないと思いますから。中には「クリスマスの本当の意味は」とか「真のクリスマスとはこれだ」みたいなことを言う人もいますけれど。

 余談ですが、Christmasという言葉はChirst(キリスト)+mas(礼拝)で構成されており、すなわち「キリストを礼拝すること」みたいですね。そうすると、多くの教会は毎週キリストを礼拝していますから、年中クリスマスをやってることになりますが(皮肉ではありません)。

 ちなみに日光オリーブの里(旧関東祈祷院)に入って行く小道に「毎日がクリスマス」という看板が立っていましたが、まだあるのでしょうか。あ、ローカルネタですみません笑

クリスマスと聞いて嫌な気分になる現象

 私が教会で頑張っていた頃は、12月が最も忙しい月でした。クリスマスのイベントが目白押しだったのに加えて、それに続く年末年始のイベント、そして新年のイベントの準備もあったからです。

 イベントの内容は詳しく書きませんが、一つ終わるたびにホッとして、でもすぐ次の準備に取り掛かる、という繰り返しでした。ツリーとかリースとか蝋燭とか、キャロルとか馬小屋とか羊飼いたちとか、そういうクリスマス関連のものを扱うので、自然と「クリスマスらしさ」を感じます。でも気づくと、「イベントを無事に終わらせないと」「これをいついつまでに仕上げないと」などと考えています。「クリスマスらしい楽しさ」を演出しようとしている自分自身が、全然楽しくないわけです。クリスマスとはこういうものなのだろうか、という疑問が、なくはありませんでした。

 カルトっぽい教会で大変な目に遭った人は、もしかしたら「クリスマス」と聞いて嫌な気分になるかもしれません。私も少しそうです。
 でも「クリスマス」そのものが悪いのではありません。それはわかっています。そうでなく「クリスマスに嫌な思いをした」という記憶があり、それがクリスマスの度に思い出されて、嫌な気分になるのですね。

 以前紹介した体験談に、クリスマス恒例のミュージカルの練習が大変だった、というお話がありました。何ヶ月も前から準備して、泊まり込みで練習して、全部手作りして、チケットも手売りして、という。そういうのを楽しめる人もいると思います。でもそうでない人には苦行でしかありません。そういう人は「クリスマス」や「ミュージカル」が嫌いになってしまうかもしれません。

 だから教会のクリスマス・イベントに友達を誘おうと考えている人は、クリスマスに対して嫌な感情を持っている人もいる、ということは知っておいた方がいいと思います。そういうのを見極めるのは難しい場合がありますが、知っていると知っていないとでは、ずいぶん違ってきます。

何のため(誰のため)のイベント?

 教会のクリスマス・イベントを考える上で大切なのは、何のためにするのか、誰のためにするのか、最初から明確にしておくことだと思います。できれば教会のみんな、少なくともイベントに関わるメンバーで、ちゃんと話し合っておいた方がいいでしょう。

 よくある例として、毎年クリスマスに伝道集会を開き、未信者をたくさん集めよう、というのがあります。「クリスマスっぽさ」を最大限利用して、伝道しようというわけです。それが悪いとは言いません。

 でも多くの教会は、何となく「クリスマスを伝道の機会にしよう」と言い、いつもと同じようなことを企画して、未信者が来ても来なくても「恵まれたね」と言って、終わっている気がします。そしてそれを毎年繰り返しています。目的がよくわからず、振り返ることもせず、傍から見たら内輪で盛り上がっているだけ、みたいな。

 ぶっちゃけた話、それはそれで悪いとは思いません。ゆるいイベントをゆるくやって、みんなでゆるく過ごすなら、それはそれで良いと思います、私は。

 でも信徒にあれこれ奉仕させ、忙しい思いをさせ、大変な思いをさせておいて、結果的に何の意味があったのかよくわからない、というイベントなら問題です。コストパフォーマンスも悪すぎます。未信者のためにと言いながら、その未信者が全然来なかったとしたら、何のための労力だかわかりません。メチャクチャ頑張ったのなら、なおのこと。

 つまり、ゆるいイベントをゆるくやって内輪で楽しむならいいですが、大きな目標を掲げて信徒をコキ使うなら、その結果やコスパについてもちゃんと考えなければダメじゃないですか、ということです。

 だから教会のクリスマス・イベント(伝道集会に限りません)は、その目的が何か、結果がどうだったのか、かけた労力は適正だったのか、といったことを皆でちゃんと共有すべきだと私は思います。信徒に奉仕を強いる教会なら特に、です。

クリスマスと平和

 前述の通り、「クリスマスらしさ」は教会によってイロイロだと思います。これでなければいけない、というのはありません。でも私が皆さんにぜひお願いしたいのは、平和なクリスマスを過ごしてほしい、ということです。もし忙しすぎて嫌になっていたり、楽しくなかったり、モヤモヤしていたりするなら、何かがおかしいと考えるべきです。見直すべき何かがあると、考えるべきです。

 もちろん、忙しい方が好きだ、大変な方が楽しい、という人はそれでいいです。それを嫌がる人を巻き込んでさえいなければ。
 私が考える「クリスマスらしさ」の唯一の条件は、「平和に過ごせること」です。「平和」というのは「穏やか」と言ってもいいでしょうし、「楽しい」と言ってもいいでしょう。とにかく、そういうことです。

 イザヤ書9章6節はこう言っています。
「ひとりのみどりごが我々のために生まれた」
 みどりごは平和のシンボルです。それが「私たちのために生まれた」と言っているのですね。
 ぜひこのクリスマス、皆さんの心に、平和がありますように。

2017年12月11日月曜日

自分のことを「クリスチャンです」と言わない理由

「クリスチャンです」と言わなくなった理由

 今回は、おそらく皆さんにとってどうでもいい話です笑

 突然ですが私フミナルは、できるだけ自分のことを「クリスチャンです」と言わないようにしています。
 と言っても、信者であることを隠しているのではありません。言いづらいのでもありません。必要に応じて「教会に行ってます」とか、「キリスト教を信じています」とか、「イエス・キリストを信じています」とか言います。それで相手の方から「あークリスチャンの方なんですね」と言われたら、アハハと笑って、曖昧に流すことにしています。

 日本語には曖昧な表現があるからいいですね笑

 ではなぜ「クリスチャンです」と言いたくないのか、ちょっと説明させて下さい。
 キッカケは、いつどこで見たのか全然覚えていないのですが、こんな言葉でした。

「クリスチャンだ、なんて自分で言うもんじゃない」

 ちょっと端折り過ぎなので付け加えますと、クリスチャン(キリストに似たもの、という意味)だと自認するのはおこがましいことでしょ、他人からそう認めてもらって初めてそう言えるんでしょ、「キリストに似たもの」だなんて、なんで自分で言えるの? というような意味です。
 
 なるほどなあと思いました。たしかに使徒行伝11章26節には、「弟子たちは初めてクリスチャンと呼ばれるようになった」と書いてあります。 彼らは自称したのではありません。自分が「キリストに似たもの」だと意識していなかったけれど、周囲の人々がそう認めてくれた、ということです。

 つまり「クリスチャン」という名称は、自己評価でなく他己評価が始まりだったわけですね。

 そう考えると、なんだか自分のことを「クリスチャンです」と言いづらくなってしまいました。私はもともと単純な人間なのです笑。
 とにかくそれ以来、上記のような「教会に行っています」などの言葉で、自分がキリスト教徒であると説明するようになりました。SNSなどのプロフィール欄からもクリスチャンという言葉を消しました。それで何となくスッキリしました。

 もちろん例外もあります。「クリスチャンです」と言った方がわかりやすく、あれこれ説明しなくて済む場合は、ハッキリそう言います。まあ大抵は「教会に行っています」で済むんですけどね。

クリスチャンである前に

 第二の理由として、これはさほど大きくないのですが、初めからクリスチャンという色眼鏡で見てほしくない、というのがあります。

 日本だからかどうかわかりませんけれど、初めて会う人に「クリスチャンです」と自己紹介すると、「あー宗教やってる(ちょっと変な、ちょっと異質な)人なのね」という目で見られることが少なくありません。もちろんそういう人ばかりではないです。でも初めから見えないバリアを張られてしまい、それ以上どうにもならないことがあります。

 まあそれはそれで仕方のないことですし、そういう人と仲良くしたいわけでもありません。でも「私=クリスチャン」ではないし、「私=キリスト教」でもありません。そうでなく「私」という人間に、「クリスチャン」という一側面があるだけです。
 だからできれば、いろいろな先入観なしに「私」がどういう人間なのか見てほしい、という思いがあります。

 私も誰かと知り合った時、その人がクリスチャンか未信者か、無神論者か異教徒か、なんて気にしません。出身とか職業とか、学歴とか肩書とか、そういうのは全部その人の一側面であり、その人自身ではないので、ほとんど気にしません。そうでなくどんな人なのか、どんな価値観を持っているのか、どんな話をするのか、どういう距離を取るべきなのか、といったあたりを見るようにしています。
 私自身が、人からそういう風に見てほしいので。

 これは聖書で言うところの、マタイ7章12節「人にしてもらいたいことを、自分も人にしなさい」の実践でもあります(こじつけ)。

正しいクリスチャン?

 ちょっと脱線しますが、中には「私は〇〇派の正しいクリスチャンです」みたいなことを言う人がいます。
 はぁ? 正しいクリスチャンって何? と思いました。正直言うと。

「正しいクリスチャン」がいるなら、「正しくないクリスチャン」がいるということですね。でもその基準はいったいどこにあるのでしょう。なぜ自分は正しくて、他の人は正しくないと言えるのでしょう。わかる人がいたら教えて下さい。

 これも何度も書いていることですが、聖書にはいろんな風に解釈できる箇所が少なくありません。〇〇という解釈もできるし、××という解釈もできる、どちらも完全に正しいと言えない、完全に間違っているとも言えない、みたいな感じです。

 であるなら、「自分の解釈が正しい。他のは間違ってる」なんて言えないはずです。そう言えるのはよほど自信満々なのか、無知なのか、あるいは愚かなのかのいずれかです(他にあったら教えて下さい)。

「水戸黄門」みたいな勧善懲悪モノは、話が簡単です。善か悪かの二元論で済んでしまいますから。でも現実世界は、二元論で語れることなんてほとんどありません。「完全に正しい」ということは少ないし、「完全に悪い」ということも少ないのです。

 ほとんどの人は、「悪いことをしてやろう」「人を困らせてやろう」なんて思っていません。つまり、「純粋な悪」を求めているわけではありません。そうでなく自分の信念や欲望に従って行動した結果、誰かの信念や欲望とぶつかってしまうのです。あるいは自分の信じる「正義」が、誰かの「正義」とぶつかってしまうのです。
 ほとんど人の数だけ「正義」があると言っていいでしょう。だからいくら自分の思う「正しさ」を主張したところで、他の人の「正しさ」を変えることも、否定することもできません。
「正しさ」を主張したところで、ほとんど何にもならないということです。あるいは争いを生むだけです。

 聖書はこんな風にも言っています。

「あなたは義(正しさ)に過ぎてはならない」(伝道の書7章16節)

「正しさ」を追い求め過ぎてはいけないよ、というわけですね。聖書はやっぱり「知恵の書」だと思います。はるか昔に書かれた書物ですが、現代にも余裕で通じる真実を、バシッと語っているのですから。

まとめると

 と、いうようなわけで、私は自分のことを「クリスチャンです」とも、「正しい」とも言わないようにしています。
 もちろん、皆さんが「クリスチャンです」と言うのは全然構わないですし、何とも思いません。その方がわかりやすいのは間違いないですから。

 ただ上記のような考え方もあるのだなあと覚えておいていただけたら、嬉しいなと思います。ちょっと幅が広がって、気持ちが豊かになるかもしれません。

 以上、本当にどうでもいいお話でした笑

2017年12月9日土曜日

「エルサレム首都認定」ニュースの何に注目すべき?

エルサレムを首都と認定

去る6日、米大統領のトランプさんが、エルサレムをイスラエルの首都と認定する声明を出しました。それに伴って米大使館も、エルサレムに移転させる予定だそうです。そこにどういう思惑があるのかわかりませんが(単に選挙の公約を果たしただけという見方もありますが)、いずれにせよ大変な声明だと私は思いました。

 なぜ大変かと言うと、今さら書くことでもないですが、エルサレムを巡るイスラエルーパレスチナ間の争いが激化すると考えられるからです。ずっと争い続けてきた当該地域に、新たな火種を投げ込むようなものだからです。現地の人々の不安や恐怖は、いかほどでしょう。

 皆さんはこのニュースを聞いて、どう思われたでしょうか。

立場によって変わる見え方

 クリスチャンの方ならご存知と思いますが、エルサレムは聖書によると、神様がイスラエル民族に与えた「約束の地」と位置づけられています。歴史的にも、そこにイスラエル王国が(一時期)ありました。だから当のイスラエルや、世界中のクリスチャンの皆さんからしたら、この認定そのものは、さほど違和感ないものかもしれません。むしろ、当然と思う人さえいるでしょう。

 ではアラブ側から見たらどうでしょう。
 第二次大戦後、国を持たないユダヤ人(イスラエル人)たちが、「故郷」を求めてパレスチナ地域に流入しました。そしてそこに長年住んでいたアラブ人たちと争うようになりました。最終的に国連が調停に入り、同地域は、ユダヤ人側とアラブ人側とで分割統治されることになりました。でもアラブ人側からしたら、自分たちの土地が勝手に分割されてしまったわけです。彼らは当然反発しました。そして長きに渡る争いが始まりました。

 というのが、一般に認識されている経緯です。
 だから「エルサレムはユダヤ人のものだ」というのは(聖書の権威を否定するわけではなく客観的に見て)、ユダヤ人側の言い分に過ぎません。少なくともアラブ人の側からしたら、一方的すぎる話です。それにイスラム教にとってもエルサレムは聖地です。その意味でも、「ユダヤ人の好きにはさせられない」わけです。
 なのに今度は米国が、エルサレムはイスラエルの首都だと言い始めたのです。大変な反発が起こるのも当然ではないでしょうか。

 ユダヤ人とアラブ人とで問題の見え方が全然違う、ということです。

「主の御業」という言葉の影で見えなくなっているもの

 この「イスラエルが約束の地に攻め入り、そこに住む人々と戦った」というのは、旧約聖書のヨシュア記を連想させます。同じような構図だからです。だから上記のような動きを「聖書的だ」とか「神の約束の成就だ」とか思ってしまう人が、いるかもしれません。でも旧約の話をそのまま現代に適用していいわけがありません。

 日本に住む私たちには実感しづらいことかもしれませんが、エルサレムを巡る争いによって、沢山の血が流れてきました。何十年もの間、多くの人々が犠牲となってきました。そしてそれが今、ますます激化するかもしれないのです。
 聖書がどうのとか、神の計画がどうのとか言う前に、そういう悲惨な事態にこそ注目すべきだと私は思います。旧約聖書においてイスラエル民族が「約束の地」に侵攻したからと言って、現代のイスラエル国家がパレスチナに侵攻していいわけがありません。

 キリストもそういうことを教えていません。少なくとも新約聖書において、神がイスラエル人を愛し、アラブ人を憎んだ、なんてことは書いてありません。むしろ全ての人を愛したはずです。また他国を侵攻していいとか、人を殺していいとか、そういうことも書いていません。そうではありませんか。

 しかしながら、一部のクリスチャンは、「これでエルサレムに神殿が再建される」「主の再臨の備えが進んだ」みたいなことを言っているようです。だいぶ想像力が足りないと思います。そこで犠牲になる人々がいる、大変な思いをする人々がいる、という想像力が。

 たとえば身近ところで暴力事件があった、イジメによる自殺があった、殺人事件があった、と聞けば、「なんて酷いことが」と思うでしょう。その被害者が身内だったら「許せない」となるでしょう。では遠い地で大規模な戦闘が起こった、と聞いて「なんて酷いことが」と思わないのでしょうか。なぜそこで「主の御業だ、ハレルヤ」みたいなことが言えるのでしょうか。

 パレスチナが日本だった場合で考えてみましょう。
 外国人が、「ここはもともと我々の土地だった」と言って、日本に入ってきます。揉めに揉め、各地で争いが起こります。そして国連の介入があり、なぜか日本列島が東西で分割されることになってしまいました。愛知県とか静岡県のあたりでしょうか。以来、向こう側は敵国になります。さて、どう思われるでしょう。
 それだけではありません。度々戦争が起こります。境界付近はいつも緊張状態です。生活拠点を移されたり、住むところがなくなったりします。仕事のことや学校のこと、生活のこと、将来のことなど、悩みが尽きません。しかも家族や友人、あるいは自分自身がいつ犠牲になるかもわかりません。
 そういう悲惨な状況を、遠くで見ている人たちがいます。そして「あれは主の御業が進んでいる証拠だ。ハレルヤ」とか言っているとします。さて、どう思われるでしょう。

共感力と想像力

 いつも書いていますが、クリスチャンにとって必要なのは「他者を思いやる」ことだと私は思っています。他者への共感力です。あと想像力です。これがないのに「愛」とか「寛容」とか「柔和」とか「親切」とか、持てるはずがありません。「思いやりのない愛」とか、あるならむしろ見てみたいです。

 人間はみんな、自分の視点からしかものが見えません。それは仕方のないことです。でもだからこそ、他者の視点を意識する必要があると、私は思うわけです(実際にはこれが難しいのですが)。

安易すぎる「預言の成就」宣言

 今回の話題でもう1つ大切だと思うのは、世界情勢を安易に聖書の預言に当てはめてはいけない、ということです。世界で、とりわけ中東地域で何か起こる度に「これは○○の預言の成就だ」みたいなことを言い出す人がいますが、はっきり言って浅はかです。

 最近では2014年7月にイスラエル軍がガザ地区に侵攻しましたが、この時も「これはもう終わりの時が近づいている」と真面目に言う人がいました。結局8月に停戦となりましたが、その人は何の訂正も言及もしていません。ずいぶんといい加減ではないでしょうか。

「携挙が近い」と言ってしまった人も、私が知っているだけでも複数います。どれも何も起こらなくて、あとから見苦しい言い訳をするハメになりました。これはほとんど詐欺だと私は思うのですが。

 彼らが人を騙そうと思っていたのか、本気でそう信じてしまっていたのか、わかりません。そうであってほしい、という願望に突き動かされたのかもしれません。いずれにせよ、もうちょっと客観的に物事を見るべきでした。目の前の事柄がどう転がっていくのか、私たちにはわからないからです。感覚や願望で、言うべきではありません。

 今回の「エルサレム首都認定」 ニュースを聞いて、「神殿再建のしるしだ」とか「主の再臨の備えだ」とか言うのも同じです。1948年にイスラエルが再建国された時も、同様の声がありました。それから何十年たっているでしょう。そういう過去を振り返り、学び、考えてみることも必要ではないでしょうか。

 さて皆さんは、どう思われるでしょうか。

2017年12月7日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第69話

「霊の戦い」を終え、教会に戻ってきた。時計を見るとまだ8時前。「戦い」は移動時間も含めて30分程だったことになる。もっと長い時間だとキマジメくんは思っていた。
 サトリコ姉妹のグループがすでに戻ってきていた。姉妹たちはお茶を飲んで寛いでいる。上着を着たままの人もいるから、まだ帰ってきたばかりなのだろう。たしかに少し寒かった。
「リッチ兄弟のグループはまだ?」
 溝田牧師が声をかけると、サトリコ姉妹がハイと答えた。牧師は続けて「お茶もらえる?」と誰にともなく言う。サトリコ姉妹がすぐ立ち上がり、キッチンに入っていった。
 キマジメくんは信徒用に準備されていたペットボトルのお茶を、紙コップに汲んだ。ノンビリ兄弟がそこにいた。彼とは以前はよく話したけれど、シンジツ兄弟の一件以来、あまり話さなくなっていた。
「どうだった、キマジメくん?」
 意外なことに声をかけられた。
「いや、初めてだったので、正直よくわからなかったです」
 キマジメくんは正直に答える。
「そうだよね。よくわからないよね」とノンビリ兄弟。「最近、なんか教会のいろいろに付いて行けなくてね・・・」
「そうなんですか」
「うん。この前の癒しの聖会もどうだろうって思ってたけど、今回は霊の戦いでしょ。正直、ここまで来ると、よくわからないよ」
 キマジメくんは何と答えるべきかわからなかった。ノンビリ兄弟の言い方には、どこか批判的なものが感じられる。少なくとも溝田牧師がこれを聞いたら、激怒するだろう。ノンビリ兄弟の真意が図りかねた。
「うん、よくわからないよ」ノンビリ兄弟は繰り返した。「本当にわからない」
 ちょうどその時、出入り口の方が騒がしくなった。リッチ兄弟のグループが帰ってきたのだ。
「ただいまー」
 リッチ兄弟が屈託ない笑顔で入ってくる。
「おーリッチ兄弟、ご苦労さん」溝田牧師がお茶を飲みながら声をかけた。「みんな水分とって。少し休んだら報告会にしよう」
 気づくと、ノンビリ兄弟はすでに自分の席に戻っていた。
 5分ほど経って、溝田牧師がマイクで話しはじめた。
「ではみんな、まず血潮の祈りをしよう。霊の戦いの際、特に信仰の弱い人たちは、悪霊の影響を受けやすくなっているから。守られるように、十字架の血潮によるカバーリングをしなければならない。いいかみんな、敵は普通のクリスチャンなど恐れていないぞ。霊的に開かれてないクリスチャンは本物じゃないからだ。それより悪霊たちは、私たちのようにサタンの策略に気づき、戦おうとする真のクリスチャンたちを徹底的に叩こうとする。だから私たちは戦うと同時に、十字架の血潮で守りを固めなければならない。みんな気を引き締めて、備えるように!」
 アーメン、という大きな声が起こる。
 そして牧師は「血潮によるカバーリング」の祈りをした(祈りの内容は省略する)。
「では、それぞれのグループの報告をしてもらおう。まずリッチ兄弟のグループから聞こうか」
「私はちょっと話すのが苦手なので」すかさずリッチ兄弟が言う。「代わりに姉妹の方に話してもらいます」
 そして1人の姉妹が立ち上がった。メボ・ルンド聖会で、受付係をしていた姉妹だ。「私も話すの得意じゃないんですけどー」と不満げである。おそらくリッチ兄弟に頼まれて、仕方なく引き受けたのだろう。姉妹が話しだす。
「私たちはバチマン神社に行きました。なんて言うかこう、暗くて不気味でしたね。いかにも悪霊の巣窟みたいな。ちょっと気分が悪くなりました。ドブみたいな変な匂いもするし。とっても嫌な感じがして、あんまり近づけ・・・」
「あのさあ、どう感じたかじゃないんだよね」溝田牧師が不機嫌そうに口を挟んだ。「姉妹、これは霊の戦いなんだよ? 霊的なことなんだよ。不気味だったとか、こんな感じだったとか、そういう感覚の話じゃないんだよね。そうじゃなくて、霊のうちにどう感じたか、見えるものの背後に何があるのか、そういうことが大事なんだよ。そんな小学生の感想文みたいな話はいいからさあ」
 牧師の説教がしばらく続いた。姉妹は戸惑っている。リッチ兄弟は我関せずで、キョロキョロしている。
 キマジメくんはカンカク姉妹の話を思い出していた。「圧迫感がある」とか「川の音が気になる」とか言っていたはずだ。今の姉妹の話と、あまり変わらないのではないか。カンカク姉妹の話が「霊的」で、今の姉妹の話がそうでないとしたら、「霊的」とはいったい何なのだろう。キマジメくんはよくわからなくなってきた。
 結局バチマン神社については、リッチ兄弟が簡単に経緯を報告するにとどまった。
 続いてサトリコ姉妹の報告。
「私たちはザンノウ神社に行きました。単刀直入に言って、あそこの象徴はヘビだと思います。まずそこに行くまでの一本道が、曲がりくねっていて、まるでヘビのようなのです。そして門扉にはヘビのような彫り物が掘られていました。またある姉妹は、林の中にヘビのようなものを見たと言っています。ネットでちょっと調べたら、ザンノウは各地に支社を持っていて、ここもその1つのようです。これは日本中が、ヘビの束縛によって縛られていると見た方がいいかもしれません。だからヘビの呪縛からの解放を宣言し、油できよめました」
 溝田牧師は感心したようにウンウン頷いている。
「うん、的確な霊的洞察だと思うね。これは調べてみる必要があるな。ザンノウ神社とヘビの繋がり、そしてそれが各地にどのように展開しているのか。これは場合によると、日本各地を回る必要があるかもしれないな」
 一気に話が大きくなったせいか、どよめきが起こった。
 キマジメくんはやはり疑問に感じていた。今のサトリコ姉妹の話は「霊的」だったのだろうか。道が曲がりくねっていて、ヘビの彫り物があり、林の中のヘビがいたら、それだけで「ヘビによる呪縛」を意味するのだろうか。
 たしかに受付の姉妹の話は要領を得なかった。一方でサトリコ姉妹の話はわかりやすかった。けれど、「霊的」かどうかは関係ない気がした。こう感じる自分が間違っているのだろうか。まだ自分は「霊の分野」のことがわかっていないから、このように考えてしまうのだろうか。
 ふと、ノンビリ兄弟の姿が目に入った。彼はうつむいて、聖書をペラペラめくっている。読んでいるふうではなかった。
 最後は溝田牧師のグループの報告だった。ビエ神社(というのがあの小山の神社の名称だった)での「戦い」について、牧師が手短に話した。高い位置からの監視、水を司る悪霊、小川による悪霊の力の拡散、というポイントも忘れない。カンカク姉妹は目をキラキラさせて、ウンウン頷いていた。
「では来週まで、各自、祈って備えてくるように」溝田牧師がまとめる。「僕はビエ神社について調べてみよう。サトリコ姉妹はザンノウ神社について、リッチ兄弟は、できる範囲でいいからバチマン神社について、それぞれ調べてみて下さい」
 それから賛美をし、「圧倒的勝利」の宣言をして、集会はお開きとなった。
 珍しく早く帰れる。キマジメくんは今夜は早く寝ようと思った。ずっと寝不足だったからだ。
 溝田牧師はサトリコ姉妹を連れ立って、早々に会堂を出て行った。
 帰り際、ノンビリ兄弟のことが気になった。声を掛けるべきだろうか。でも彼は先輩で、信仰歴も長い。自分が話しても、どうにもならない気がする。結局キマジメくんは、近くの人たちに挨拶をして、会堂を後にした。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年12月5日火曜日

あなたらしいリズムの見つけ方・その3

他者の意見も必要

「あなたらしいリズムの見つけ方」について書いています。3回目です。

 自分らしいリズムを維持するのに必要なものとして、「休息」「セルフケア」を挙げてきました。そして3つ目に必要なのは、「他者の意見」だと私は思っています。
 前回も少し書きましたが、自分のことは案外、自分ではわからないものだからです。

 他者に聞いてみると、自分にない視点、発想、気づき、アイディアをもらえることがあります。イマイチ同意できない意見も、後から正しかったとわかることがあります。聖書にも「2人は1人にまさる」みたいなことが書いてありますね。もちろんケースバイケースですが、1人で考えるより良い結果になることが、少なくありません。

 だから自分の状態や方向性を確認・修正するために、時々他者にアドバイスしてもらうのは有益だと思います。ただ問題は、「誰に聞くべきか」です。

神様に聞くべき?

 クリスチャンなのだから神様に聞くべきです、という意見があるかもしれません。
 神様はいつも最善の答えを持っています、正しい道を示して下さいます、だから祈って神様の導きを求めていくべきです、という考え方ですね。

 ただ「神の導き」は、当ブログでも度々書いてきましたが、どうしても恣意的になる傾向があります。つまり祈っている人が、「自分がこう感じるから、これは神様からの答えなんだ」と明確な根拠もないのに思い込んでしまう、ということです。
「祈っていてそう感じたのだから間違いありません」
「根拠は信仰にあります」
 などと言いますが、何の説明にもなっていないと私は思います。

 私の考えですが、「神の御心」は、すでに聖書に示されています。そこにある考え方や価値観を、私たちは学ぶべきです。そしてそれを目の前のイロイロな事柄、生活の中のアレコレに適用していくのです。もちろん迷ったり、葛藤したりします。でもそれで良いのです。自分ですべき葛藤を避けて、いちいち神様にあれですか、これですか、と聞こうとする方が無責任だと思います。
 唯一絶対の「正解」など、どこにもないのですから。

 それに「いつも神様に聞いて正しい道を選択をしていく」という考え方は、「すべてのことを益とする」という言葉との整合性が取れません。いつもベストな選択肢を選び、べストな結果が得られているなら、「(どんな結果であれ)益とされる」必要がないからです。

「神に聞く」というのは、もっと自省的なことだと思います。自分の内面を探り、今適用すべき聖書箇所があるだろうか、と考えることも立派に「神に聞く」ことです。自分の頭で積極的に考え、判断することです。そうでなくインスタントに答えを出してくれる何かに頼るとしたら、私たちの脳ミソは何のためにあるのでしょう。自分の人生は、自分で生きるものではないのでしょうか。

誰に聞くべきか

 では私たちは具体的に、誰のアドバイスを聞くべきでしょう。
 牧師でしょうか。長老でしょうか。先輩信徒でしょうか。あるいは有名牧師や、海外の著名人にメールすべきでしょうか。

 もちろん一概に言えませんが、むしろ教会外の人、クリスチャンでない人に聞いた方が有益だと私は思っています。クリスチャンに聞いても、答えがだいたい限定されるからです。彼らは信仰的なことからどうしても離れられないのです。

 だからあなたが教会で頑張っている人なら尚のこと、未信者の人の意見に耳を傾けるべきです。教会で頑張れば頑張るほど(それは悪いことではありませんよ)、どうしても客観性を失っていくからです。そしてイロイロなことが、見えなくなってしまうからです。
 皮肉なことに、教会や聖書に慣れ親しむほどに、私たちは教会外のことに疎くなっていくようです。そしてそれは「あなたらしいリズム」を見失うことにも繋がります。

 未信者の、信頼できる友人がいるでしょうか。いるなら大切にして下さい。そして彼らに伝道してあげようとか、救ってあげようとか高飛車なことを思うのでなく、単純に友人として接してほしいと思います。彼らの話に耳を傾けて下さい。そして「彼らは何もわかってない」と決めつけるのでなく、「もしかしたら自分の方がわかっていないのかも」と考えてみて下さい。
 そういう柔軟性が、クリスチャンには必要だと私は思います。

楽しむのは悪いこと?

 1回目の翻訳記事に、「休息」と同時に「楽しみ」も必要だとありました。
「楽しむ」ことで気分転換でき、自分自身をリセットできる、ということです。筆者のナターシャさんは踊るのが好きだと言っていました。

 たぶんクリスチャンの方の中には、
「いつも主にあって喜び楽しんでいます」
「神様と交わることが最大の楽しみです」
「聖書を読んで賛美して祈れれば幸せです」
 みたいなことを言う人もいるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。しかしいささか抽象的ではないでしょうか。ここで言っているのはもっと具体的な、あるいは物理的な、個別的なことです。

 教会の中にいるばかりでなく、また賛美や祈りばかりでなく、時には自分の趣味に没頭したり、美味しいものを食べに行ったり、話題のスポットに遊びに行くのもいいと思います。旅行なんかもいいですね。リフレッシュされ、気持ちが豊かになります。

 私たちが楽しむことを、神様はどう思われるのでしょうか。けしからんと思っていて、何か「罰」を下すのでしょうか。あるいは「祝福を取り上げる」のでしょうか。それは「罪」なのでしょうか。そんなことどこにも書いていないと、私は思いますが。

 よく一般社会を「この世」と呼んで忌み嫌う人々がいます。でも私たちは間違いなく「この世」の中で、「この世」を相手に生きています。上も下もありません。
 あるいは「この世と調子を合わせていはいけない」という聖書箇所を盾に、「この世」からの分離を主張する人々もいますが、意味を履き違えていると思います。なぜなら「この世」は隅から隅まで、神様の作品のはずだからです。美しいものや良いものが沢山あります。幻の中で「汚れたものは食べられません」と言ったペテロに、神様は何と答えられたでしょうか(使徒行伝11章9節)。

 また、神様は私たちの健康を願わないのでしょうか。私たちが病気だと神様は嬉しいのでしょうか。違いますよね。私たちが健やかであることを願っておられるはずです。
 であるなら、私たちのメンタルヘルスについても、神様は気を配っておられるはずです。神様が作った世界の中で、私たちが喜び楽しんでいることを、願っておられるはずです。

健全性はバランスの上に立つ

 何にせよ、バランスが大切だと私は思います。
 私たちはいつも遊んでいるだけ、いつも休んでいるだけ、ではありません。時に働きます。時に苦労し、葛藤します。どれか1つの状態にずっと留まるなんてことはありません。
 少なくとも私は24時間ずっと遊び続けられないし、休み続けられません。何か有意義なこと、価値あること、誰かの役に立つことがしたくなります。

 そういうイロイロのバランスの中に、「健全」が形作られていくのではないでしょうか。

 ちょっと気が早いですが、もう少しで今年(2017年)も終わります。今年を振り返るには良い時期だと思います。よく休み、気分転換を図り、セルフケアをしたり、誰かのアドバイスを聞いたりして、リズムを整えてみてはいかがでしょうか。

2017年12月3日日曜日

あなたらしいリズムの見つけ方・その2

セルフケアの必要性

 前回は「あなたらしいリズムの見つけ方」と題して、主に「休息」について書きました。

 休息は誰にとっても必要ですね。人間の身体は、活動したら休息するようにできていますから。事実、多少の無理は効くとしても、私たちは永遠に働き続けることはできません。イザヤ書40章に「歩いても疲れず」という言葉がありますが、あれは比喩表現です。文字通り受け止めてはいけません。真に受けてどこまでも歩き続けたら、そのうち倒れるでしょうから(笑)。
 ちなみに、もしあれが比喩でないと言うならば、「翼をはって上る」という部分も実行してみて下さいね。

 とうのは冗談として。

 忙しかったり、ストレスフルだったりすると、けっこうイライラしませんか。私はそうです。だから適度に休み、無理のないペースで仕事をしたり生活したりするのが大切だなあといつも思っています。その意味で私の「自分らしいリズム」は、かなりゆっくりかもしれません。
 皆さんのペースは、いかがでしょうか。

 でも実際のところ、「休息」だけではリズムの維持は難しいです。休日をちゃんと確保できたとしても、突発的に忙しくなったり、ストレスな出来事が起きたりして、簡単にペースが乱れてしまいますから。それだといくら休んでも、あまり意味がありません。
 だからもう少し積極的に、あるいは意図的に、自分のペースを管理できた方がいいかもしれません。そしてその場合は、セルフケアが役に立つと思います。

 セルフケアはたぶん、仕事をしている人にも、家事や育児や介護をしている人にも、教会で奉仕をしている人にも、その他のどんな人にも、役に立つスキルだと思います。
 というわけで今回は、セルフケアについて考えてみます。

何よりセルフケアを優先する

 まず、あなたがしなければならないどんなこと(それがどれだけ大切なことだとしても)よりも、セルフケアを優先します。
セルフケアを優先する」と聞くと、自己中心的に聞こえるかもしれません。「自分さえ良ければそれでいいのか」みたいな。
 でも他人をケアする仕事や立場であるなら尚更ですが、セルフケアは絶対に優先しなければなりません。なぜなら自分が健全でないと、(種類や程度にもよりますが)誰のことも助けられないからです。

 たとえば災害時の基本は「まず自分の身の安全を確保すること」です。自分が被災してしまったら、どうにもなりませんから。あるいは深夜に病院に行って、そこの医師がいかにも寝不足で意識朦朧だったら嫌じゃないですか。ちゃんとした医師に診てほしいですよね。
 あるいはもっと単純に考えてみましょう。もし虫歯が猛烈に痛かったら、何かしようと思えますか。腹がよじれるほど痛くて死にそうな時に、ゆっくり伝道できますか。

 だから「自分自身を顧みず、他者のために尽くす」というのは美談に聞こえるかもしれませんが、実際的にはいろいろ問題があるわけです。何かしようと思ったら、それに見合ったコンディションが必要なわけです。ちゃんと自分自身のことを顧みていないと、結果的に他者のためにならない、ということですね。

ストレスチェック

 次に、日々のストレスをチェックしましょう。
 最近、一般企業でも「ストレスチェック」が行われるようになりました。
 従業員のストレスの度合いを(アンケートや聞き取り調査で)測り、メンタルヘルスを維持管理しよう、そしていろいろな問題が起こるのを防ごう、というわけです。
 で、様々な手法や手順があるでしょうが、ストレスチェックで確認するのは概ね次の4項目です(順番に意味はありません)。

①食欲の有無
 普通に食べられていたのに、なぜか食欲がなくなった、お腹が空かない、食べたくない、食べても美味しくない、などの場合、ストレス過多の可能性があります。

②睡眠状態
 よく眠れていたのに、なぜか寝つけなくなった、途中で起きてしまう、目を閉じると不安になる、寝たけどスッキリしない、などの場合、ストレス過多の可能性があります。

③意欲の有無
 以前に比べて、どうもやる気が出ない、だるい、起きるのも辛い、出掛けたり人に会ったりするのが億劫だ、などの場合、ストレス過多の可能性があります。

④体調
 大きな病気はないけれど、なんとなく体調が悪い、ずっと風邪っぽい、どこかがずっと痛い、目が疲れたり肩がこったりしやすい、などの「はっきりしない不調」が続く場合、ストレス過多の可能性があります。

 たぶん多くの人が、これらの症状を多少は経験したことがあると思います。でも酷くなってきたり、長く続いたりするようでしたら、専門機関に相談することをお勧めします。
 あるいはそこまで酷くないならば、ある程度自分で環境を調節し、症状が治まっていくかどうか、見た方がいいでしょう。ストレスフルな状況を我慢しても、あまり良いことはありません。

牧会が大変?

 時々、牧師や教会のリーダー的な人が(溜息まじりに)このように言うのを、聞くことがあります。
「牧会は大変だから」
 私はどうも、この意味がよくわかりません。
 もちろん言葉の意味はわかりますよ。そうでなく、なんでこういう発言になるのかわからない、ということです。

「牧会とは何か」という話をしてしまうと大変なので、ここでは「信徒を育てる」とか「信徒の成長を促す」とかいう意味としましょう。で、なんでそれが「大変」なのでしょうか?

「お前に何がわかる」とか言われそうですが、私もそういう立場で働いたことがあります。だから事情はだいたいわかります。その上で言うのですが、「信徒の成長」は、教える側の責任ではありません。教える義務はあるでしょうが、それで信徒がどうなるかは、はっきり言って本人次第です。

 たぶん「牧会は大変」と言う人たちは、そのへんを勘違いしていると思います。私たちがいくら努力したところで、犠牲を払ったところで、誰かを変えることはできないのです。誰かの状況を変えることもできません。もし変わったとしたら、それはその人自身の意志です。私たちは何かの影響を与えることはできるでしょうが、最終的にどうするかは、本人次第なのです。
 それを何とか変えようとして、試行錯誤を繰り返して、祈ったり悔い改めたり、泣いたり叫んだり、でも結局変わらない(自分が願った通りにならない)、あー牧会は大変だ、となるのではないでしょうか。

 ちょっと脱線しましたが、そういうことでストレスを感じる人がいます。

 以前にも書きましたが、ある牧師は信徒のことで悩み過ぎてしまい、睡眠薬なしに眠れなくなってしまいました。こういう話を聞くと、「なんて献身的で愛深い先生だ」と思われるかもしれません。気持ちはわかります。でもはっきり言いますが、そこまで抱え込んでしまうのは、対人援助者として適格でありません。あるいは準備が不足しています。

 これがたとえば公的なカウンセラーだとしたら、「クライアントに振り回されている」ということで、プロとしての適性が疑われます。あるいは患者の言いなりになってしまう医師、患者が言った症状しか見ない看護師、利用者の要求通りのプランしか作れないケアマネ、なども同じで、やはりプロとしての適性が疑われます。
 牧師は国家資格ではありませんが、一種の任用資格でしょうし、そうでなくても一般的に「専門家」と認識されているでしょう。だからプロと同様の適性が求められるはずです。
 だとしたら、「牧会のせいで睡眠薬なしに眠れなくなってしまった」というのは、明らかに適性を欠くわけです。気持ちや情熱はわかるのですが。

 だから牧会のことを考えていたら眠れなくなった、食欲がなくなった、憂鬱になった、体調が悪くなった、のなら、それこそセルフケアをしなければなりません。そして酷いようなら専門的な対応を考えなければなりません。牧会ウンヌン以前の問題です。厳しいようですが。

他人の方がよくわかっている

 さてセルフケアの大切さについて書いていますが、時には他人に助言を求めましょう。

 人間、自分自身のことより、他人のことの方がよくわかるものです。たとえば同僚が、いつも挨拶するのに今日はしてくれない、いつも会話が弾むのに今日は乗ってこない、なんだか機嫌が悪そうだ、としたら、すぐにわかりますよね。「あー今日は調子が悪いのかな」などと想像できます。でも当の本人は、案外気づいていないものです。

 自分自身にも同様のことが言えます。自分では意識していない微妙な変化を、他人は案外敏感に察知しているものです。言わないだけで。
 だからなるべく信用できる人、何でもはっきり言ってくれる人を選んで、助言を求めるのも手です。「ねえ、今日の私って変?」とか、何でもいいんですが。

ともあれ問題の把握すること

 最後になりますが、セルフケアとは、自分の問題を何でもかんでも自分で解決しようとすることではありません。そうでなく、自分自身の状態を、できるだけ客観的に捉えようとする試みです。問題の解決でなく、それを把握しようとする試みです。
「今ちょっと忙しくて、気持ちが一杯一杯になっているな」
「こういう状況のせいでイライラしているな」
「ちょっとペースが速くなっていて良くないな」
 みたいな感じですね。
 でもそうやって問題を認識するだけでも、状況が改善していくことがあります。「気づく」というのは、大切なのですね。

 教会で頑張ってらっしゃる皆さん、奉仕が忙し過ぎないでしょうか。気持ちが焦っていないでしょうか。最近よく休めているでしょうか。今のあなたは本当に「あなたらしい」でしょうか。
 もしかしたら、ちょっと立ち止まってみたらいいかもしれません。

 クリスマスが近いので、いつもより特別忙しいかもしれません。でもこういう時こそ、「自分らしいリズム」を、意識されたらいかがでしょうか。