2017年11月29日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第68話

「ではみんな、しばらく祈ろう」
 溝田牧師はそう言うと、上着のポケットに両手を突っ込んで、左右へうろうろ歩き始めた。
「おー主よ、シャバラバラバラ・・・」
 牧師は右の端まで歩くと、向きを変えて左の端まで歩く。しかし拝殿前に20人が立っているため、ほとんど余裕がない。歩くたび信徒の誰かにぶつかる。だが牧師は全く気にする様子もなく、平気でドンドンぶつかりながら祈っている。お前たちが避けろと言わんばかりだ。結局、信徒の方が気を遣って、ギュウギュウ押し合って、何とか自分の居場所を確保する羽目になった。
 カンカク姉妹も「祈り手」の出番ということで気が大きくなったのか、かまわず両手を広げてバラバラ祈っている。手が信徒にぶつかっても気にしていない様子だ。
 拝殿のある小山の頂上は、星明かりだけで、ほとんど真っ暗だ。隣の人の顔もよく見えない。音もない。皆の「異言」の祈りと、拝殿の向こうの小川の音がわずかに聞こえてくる。先ほど牧師が「水の悪霊」と言ったこともあってか、キマジメくんにはどうも水の音が不気味に聞こえた。
「よし、では戦いの祈りだ」溝田牧師が言う。「ここを支配するのが水に関係した悪霊なのかどうか、まだわからないけれど、十字架の血潮には全てを覆う力がある。血潮こそ鍵だ。だから血潮を大胆に宣言していこう。我々には圧倒的勝利が約束されているのだから」
 すかさずカンカク姉妹が口を開く。
「今祈っていたら、羊が見えました。緑の牧場に伏す羊たちです。見ると柵の外に、真っ黒な狼たちが迫っていました。羊たちを狙っているのです。でもそこに、長い杖を持った羊飼いがやってきました。そして羊飼いが杖を振りかざすと、狼たちは怖気付いて、逃げていきました。・・・そういう幻でした」
「うん、それはこの戦いを象徴する幻だな」牧師が答える。「今、私に瞬時にその『解き明かし』が与えられた。牧場の羊たちは私たちだ。狼たちはこの土地を縛る悪霊だ。そして杖を持った羊飼いは主だ。主が杖を振りかざすと、狼たちは退散しなければならない。・・・よし、わかったぞ。今私たちは霊的な『杖』を振りかざして祈るのだ。それが今夜、主から与えられた戦略だ」
 カンカク姉妹が両手を高く挙げ、アーメン、ハレルヤと嬉しそうに叫んだ。
 今溝田牧師が言った「解き明かし」なら、キマジメくんもそうではないかと思った。羊が自分たちで、狼が悪霊で、羊飼いが主というのは、割と単純な解釈ではないだろうか。いや、しかしこれは自分にも霊的洞察が与えられたということかもしれない。誰も聖霊によらなければ悟ることができない、みたいなことも聖書に書いてある。そうだ、きっとそうに違いない。

「このあたりに、杖の代わりになるものはないか?」
 牧師がそう言うと、皆あたりを見回した。暗いとは言え、まわりは木々である。折れた枝が簡単に何本か見つかった。何人かの信徒が、それぞれ長めの切れ枝を牧師に差し出した。
「うん、これがいいな」
 溝田牧師はその中から比較的まっすぐな枝を選んだ。長さは1メートルくらいか。太さはあるが、杖と言うには少し短い。
「みんな、これは『預言的アクション』だ。この杖そのものはただの枝で、特別な力はない。しかし預言的に示された戦略に従うことで、主の御業が解放されるんだ。この場合は『杖を振りかざす』というのが『預言的アクション』になる」
「アーメン」とカンカク姉妹。「紅海を分けたモーセの杖のようです。今、すべての障害物が私たちの目の前で左右に分かれていくと、主が語っておられます!」
「おー主よ」牧師はさっそく祈り始めた。「今、あなたに示された預言に従い、この杖を振りかざして、主の御名によって宣言します。このところを縛る悪霊よ、長きに渡ってこの地を縛ってきた悪霊よ、邪悪なる闇の世界の者よ、退くように!」
 皆アーメンと言う(カンカク姉妹の声が一番大きかった)。
「牧場に侵入しようとする悪霊よ! お前に命じる! 今、退け!」
 牧師が片手で杖を高く振り上げた。そしてもう一方の手でこぶしを作り、やはり振り上げた。「イヤァッ! 主の勝利!」
 ひときわ大きなアーメンが起こった(やはりカンカク姉妹の声が一番大きかった)。
 その後もしばらく牧師の「宣言」が続いた。皆それに合わせてアーメンとかハレルヤとか、歓声を上げる。人気がなく、誰かに聞かれる心配もなさそうだから、皆声を出していいと思ったのだろう。教会の中とあまり変わらない音量になってきた。
 ところで拝殿の方には、特に変わった様子はなかった。勝利を宣言されて、悪霊の側に何か動きがあるのではないかと、キマジメくんはずっと拝殿の方を見ていた。今にも信徒の誰かが悪魔に憑依か何かされて、おぞましい形相になって、襲い掛かってくるのではないか・・・そんな想像をしていた。しかし、何も起こらなかった。拝殿は闇の向こうにぼんやり浮かんだままだ。
「よし、じゃあ最後にきよめの祈りだ」
 牧師が何かポケットから取り出した。よく見えないが、小さい物だ。
「これはイスラエルから取り寄せたオリーブオイルだ。主の油注ぎの象徴だよ。これを神社の四隅に降りかけて、このところのきよめを宣言する。悪霊が退いている今のうちに、きよめるんだ。でないと、以前よりもっと悪い悪霊が来るかもしれない。聖書にもそう書いてある」
「アーメン」とカンカク姉妹。「さっきまでの圧迫感が、今はウソのようになくなりました。今がきよめのチャンスです」
「みんな、助祷を頼む」
 そう言うと、溝田牧師はまず拝殿の右奥に向かって、木々に挟まれた狭いスペースを進んでいった。枝や落ち葉をパキパキ踏みならす音が聞こえてくる。そして声が聞こえてきた。
「おー主よ、このところにあなたの油を注ぎます。そしてきよめを宣言します。主の御名によって」
 牧師は同様に拝殿の左奥、左手前、右手前と油を注いだ。これで四隅だ。
「よし、これで第一段階は成し遂げた」牧師は得意げに言う。「あとはこの神社についてリサーチして、敵の種類を特定するんだ。そうすれば完全に縛ることができるだろう。一週間かけてリサーチして、来週もう一度、ここに来よう」
 カンカク姉妹が言う。「確かにまだ、邪悪な気配が残っています。それにやっぱり、あの川の音が、どうも気になります・・・」
「うん、あの川との関連も調べてみないとな。悪霊と水は、古来より繋がりがあると言われているんだ。この神社と川の位置関係は、もしかしたら巧妙に仕組まれたものかもしれない」
 溝田牧師はそう言うとしばらく黙った。小川の音だけが聞こえる。キマジメくんはもう一度あたりを見回した。やはり、どこも変わった様子はない。
「ではみんな、教会に戻ろう」
 その一言で、心なしか空気が軽くなった気がした。皆終わってホッとしたのかもしれない。言葉少なく、ゾロゾロ階段を下りていく。カンカク姉妹だけが、おー主よとかバラバラとか祈り続けていた。
 こうして、第一回目の「霊の戦い」は終わった。(続く)
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年11月27日月曜日

【翻訳】教会は虐待被害者をケアしてくれますか?

・見えない被害者

 さっそくですが、教会に通っている方に質問です(ブルゾンちえみではありません)。

 何らかの虐待被害に遭われた方が教会に来られたら、どう対応するでしょうか。どのようなケアをするでしょうか
 祈りますか。話を聞きますか。治療的に関わりますか。あるいは特別なケアなど必要ない、聖霊様が働いて下さるから通常通りに接すればいいんだ、と思うでしょうか。

 たぶん多くの人がパッと考えつくのは、書籍やネットで適切なケア方法を調べることだと思います。被害者に言ってはいけない言葉とか、やってはいけないこととか、逆に掛けるべき言葉とか、そういう「接する上での注意点」を知りたいのではないでしょうか

 あるいは、そういう理論的なことはむしろ邪魔で、神様が働かれるままにした方がいいんだ、教会という空間の中で人は癒されていくんだ、みたいに考えるでしょうか。心理療法的なスキルは「この世」のアイディアだから悪いもので、実は何の役にも立たないんだ、と考えるでしょうか。
 それはそれでとっても信仰的に聞こえますが、そのやり方で問題が起きたらちゃんと責任を取ってくれるのかどうか、先に確かめておきたいですね。

 でも実際、正直なところ、教会で虐待被害者の方と遭遇したことがある人は、どれくらいいるでしょうか。いるにはいると思いますが、そう多くないと思います。なぜでしょう。そういう人々は教会に来ないのでしょうか。

 一口に虐待と言っても、その種類や段階は様々です。最近特に問題になっているのは性的虐待、暴行、各種イジメ、パワハラ、セクハラあたりでしょうか。
 では、それぞれどれくらい被害者がいるでしょう。統計データを見ればわかるでしょうか。残念ながらわからないと思います。虐待は発覚しないもの、つまり被害者が泣き寝入りするものが圧倒的に多いからです。統計的に認知されているものは、氷山の一角と考えるべきでしょう。
 私のまわりにも、どんな種類のものかあえて書きませんが、「結局声を上げられなかった」被害者の方が少なからずいます。本当は声を上げたくて上げたくて、仕方なかったんですが。

 虐待の被害者は、見えないところにいます。
 
 では話を戻しましょう。教会には虐待被害者はいないのでしょうか。
 教会と言ってもイロイロなので一括りに言えませんが、たぶんいると思います。いないのでなく、見えないだけで。

 ちょっと考えてみればわかりますが、被害者の方が自ら率先して「虐待に遭いました」と言うことはほとんどありません。特に教会の中では。中にはオープンに言える人もいるかもしれませんが、多くの人はそうではありません。恥とか、罪責感とか、そういう虐待の記憶からくる負の感情が、口を重くするのです。個人的に打ち明けることはあっても、公にすることはまずありません。

 だから極端な話、あなたが普段何気なく接している誰かが、もしかしたら過去に酷い虐待に遭っていて、今も心に傷を抱えているかもしれません。それを閉じ込めて、笑っているだけかもしれません。

 虐待被害者のケアにおいて難しいのは、まずこの点だと思います。
 すなわち「被害が見えない」という難しさです。

・どう接するべきかの提案

 冒頭の質問に戻りますが、教会で虐待被害者の方をケアしようと思ったら、あなたならどうするでしょうか。
 参考になりそうな記事がありましたので、ちょっと長いですが、翻訳して紹介したいと思います。

 クリスピン・メイフィールド氏の「教会の虐待被害者にどう接するべきか」という記事です。メイフィールド氏は公的資格を持つカウンセラーで、2007年からオレゴン州ポートランドで虐待被害者のために働いている方です。
 ではどうぞ。

(以下翻訳)

「教会の虐待経験者にどう接するべきか」(How to Care for Abuse Survivors in Your Congregation)


 アレックスは10年前、18歳で家を出てから、教会に一度も行っていません。会社の同僚から教会へ行くよう勧められますが、しつこく断罪されているようで苦痛です。誰か友人が一緒に行ってくれたらいいかも、とは感じましたが。

 幼い頃、アレックスは叔父から性的虐待を受けました。そのことを両親に打ち明けても、「良いクリスチャンでありなさい」と叔父を許すよう言われてしまいました。でも叔父に会おうとすると虐待のことが恥ずかしく思い出されるのです。そして結局、関係は断絶したままでした。

 いつかの礼拝での説教のことです。牧師がパワーポイントを使って、教会運営や安息日をどう過ごすかで妻とケンカしたことを、熱心に話していました。「でもそれが人生で一番悲惨なことだとしたら、」アレックスは考えます。「彼には僕の苦しみなんて絶対わからないだろう」
 説教中、隣に友人がいてくれましたが、アレックスは気分が悪くなりました。誰もかれもが元気そうでした。「ここは自分には場違いだ」「自分はここにいてはいけない」そう思いました。

 アレックスのように虐待の後遺症に苦しみ、礼拝参加が困難となっている人々は、大勢います。どんな統計もその実態を正確には捉えていません。国立PTSDセンターは、全人口の7~8%の人々がPTSDを抱えていると見積もっています。けれど、PTSDとはっきり診断されない、でも似たような経験があって「ほとんどトラウマに近い」状態の人々が、大勢います。また育児放棄など、違った形の虐待を受けている人々もいます。

 国立犯罪被害者センターの報告によると、5人に1人の少女、20人に1人の少年たちが性的虐待に遭っています。またDVホットラインの調べによると、10人のうち3人の女性(29%)、10人のうち1人の男性(10%)が、パートナーからのレイプ、身体的暴力、ストーカー行為に遭っています。でもそれらの統計は霊的虐待、セクハラ、言葉の暴力など他の種類の虐待については触れていません。

 さてこういった状況において、私たちは日々の教会生活の中で、虐待被害者の方々をどんなふうにケアできるでしょうか。彼らが日曜礼拝に来たら、どんなふうに迎えて接することができるでしょうか。その方法をいくつか紹介したいと思います。

まず信頼を得る

 アシュレイの母親は自己愛性パーソナリティ障害のため、他者への共感性が欠如していました。だからアシュレイが何か自分のことを話すとき、そこにはいつも「母親によって歪められた自己像」がありました(彼女の場合は「忌々しい娘」という自己像でした)。だから彼女は近しい関係、特に権威的な存在に対して、思っていることを正直に話すことなく育ちました。

「スモールグループで弱さを晒すことが本当に難しかったです」アシュレイは言います。「自分の言葉が曲解されて、攻撃材料にされるのではないかと、いつもビクビクしていました。他のメンバーたちのように、信頼することができなかったのです。だからいつも黙っていました。みんなは私が退屈していると思ったかもしれません。でも確かに、家に閉じこもっている方がマシでした」

 アシュレイのケースは、トラウマの強さをよく示しています。
 虐待被害者にとって、信頼関係を築くのは時間のかかることです。能書きや立場など関係ありません。プレッシャーをかけたり変な期待をかけたりするのでなく、少しずつ、繊細に、関係を築いていく以外ありません。
 これは過去の有害な人間関係を、より健全で安全な形で再体験してもらう、ということでもあります(精神分析医はそれを「修正的感情体験」と呼びます)。このように彼らが信頼感を取り戻していけるように、教会はゆっくり、時間をかけて支援していく必要があります。

 スモールグループや祈りの場で、虐待被害者の脆さや弱さを認めましょう。何かを命令するのでなく、集まりに招待して、そこに希望がある(かもしれない)と思ってもらえるようにしましょう。(牧師であるなら)説教において、人間関係そのものが苦痛となってしまう人々がいることを、会衆に説明しましょう。
 彼らの目線で世界を捉え、彼らの信頼を保ちましょう。ドアが開けっぱなしでも、あるいはドアのそばに誰かがいても、安全だと思えるように支援しましょう。彼らが帰りたくなったら快く見送ってあげて下さい。もし安全な環境を提供できていないと感じたなら、どうしたら良いか率直に尋ねてみて下さい。たとえば夕方のイベントが終わった後のことを考えてみましょう。女性たちはそれぞれ、車まで送ってくれたら安全だと感じるのではないでしょうか。

 また彼らの心配事が、神様との関係性にまで及んでいるのを忘れてはなりません。虐待被害者の自助グループでは、次のような問いがよく聞かれます。
「私にあんなことが起こるのを、どうして神様は許したのですか?」
「私は将来、どうしたら神を信頼することができるのですか?」
 彼らがそれらの問いに葛藤し、それでも神への信頼を取り戻していくまで、私たちはただ見守り続けるのです。

傷ついた人々について話す

 教会のリーダーであるなら、虐待被害者をケアするため、聖書中の「傷ついた人々」について教会で話すという手があります。
 たとえばヤコブは結婚式の翌朝、結婚した相手がラケルでなくレアだったと知って失望しますが、そのとき当のレアはどう感じたでしょうか。バテシェバはダビデ王の寝所に呼ばれた時、拒否することができたでしょうか。父イサクの愛情を受けられなかったエサウの心中は、どうだったでしょうか。

 サムエル記下13章の、レイプされたタマルのような、あまり知られていない箇所から説教することも考えてみましょう。スティーブン・トレイシーは彼の著作『魂の回復』の中でこう言っています。
「ダビデ王の家系で起こる事件は、家族内で虐待が起こるプロセスをよく示しています。虐待そのもの、特にレイプのような直接的なものに、光を当てています」
 多くの被害者、特に家庭内で虐待を受けた人々は、この古い物語に深く共感するでしょう。そしてそれは彼らを理解するヒントにもなります。

思慮をもって、家族に敬意を表す

 なぜなら家族は、神が定めた制度だからです。教会は家族というコンセプトを尊重すべきです。しかし虐待的、機能不全的な家庭環境で育った人にとって、家族の話題は苦痛でしかありません。だから(その話題を避ける必要はありませんが)、家族のことで苦しんできた様々な人がいることを認め、支援できるよう努めなければなりません。

 去年の母の日のことです。ユースの牧師が「母親」について短く語ってくれました。それは広く深い母親の愛に、敬意を表すものでした。

 虐待被害者を支える最もパワフルなもの、それは(矛盾しているようですが)あなた自身の「弱さ」です。と言っても、あなたの人生についてアレコレ話すことではありません。あなた自身の困難と、それにも関わらず前進しようとするあなた自身の意思を、ありのまま話すことです。
 皆が皆、機能不全的な家庭環境で育ったわけではありません。しかし少なからぬ人々が、そうなのです。

 家庭内で虐待を経験してきた人は、しばしば泣きながら真実を話してくれます。キリストに従うとは、そのような人と家族との間に立ち、彼らの「道しるべ」となるようなものです。そのような(酷い)状況にあっても家族に敬意を表していけるよう、彼らを注意深く、支援していきましょう。

虐待被害者にとって、「神のご計画」とは困難な代物である

「エレミヤ29章11節が本当に大嫌いです」
 苦々しい経験にずっと耐えてきたイサクは言います。「人生は酷いものだらけです。こう聞かずにいられません。『神様、これがあなたの計画ですか?』と」

 歴史的にみると、教会は「神の主権」と「人間の自由意思」について様々な議論をしてきました(翻訳者注:全ては神の定めた運命なのか、あるいは人間の側の選択なのか、というような問題です)。今、悲劇的な虐待を前にして、それらはどのような意味を持つのでしょうか。

 ある人々はこう考えます。
「神は困難を通して、私を整えようとしておられる」
 そう考えることで、慰めを得ようとするのです。
 一方でこう信じる人々もいます。
「虐待は完全に人間の意思によって行われる。神の計画などではない」

 これは虐待被害者にとって深い、霊的な疑問です。大いに考える余地があります。聖書はこれに似た呟きや、議論や、神との葛藤に満ちています。詩篇や哀歌が特にそうです。
 個人の葛藤を、これらの聖書箇所に照らし合わせてみましょう。そして「試練」について学術的な説明をするのでなく、このように話してみましょう。「あなたの人生に神がどのように関わっておられるのか見出そうと、(聖書の人物と同じように)あなたも葛藤しておられるのですね」
 そしてその葛藤が(誰にとっても)重大かつ困難なものであることを、伝えて下さい。そうして彼らを支えていきましょう。

虐待(罪)は、本当に深い傷を残していった

 現在、多くの社会福祉団体が、虐待被害者のケアに取り組んでいます。その一般的な方法は、(要約すると)被害者へ声を掛けること(どうしましたか?)から始まり、深い傾聴(何があったのですか?)へと至るものです。

 神学者のパドレク・トゥアマは、著書『イン・ザ・シェルター』でこう書いています。
「罪について語るなら、私たちが犯す罪だけでなく、私たちは罪深い世界に生きている、ということも語らなければなりません」
 つまり虐待被害者の方々は、「神が罪から救って下さる」ということだけでなく、「そもそもこの世界は苦しみに満ちた場所なのだ」ということも知る必要がある、ということです(翻訳者注:一見して危険のないところも実は危険が満ちていて、様々な被害に遭いやすい世界に私たちは生きている、というニュアンスです)。
 出エジプト記2章25節は、それでも彼らにとって慰めとなるかもしれません。「神はイスラエルの人々を心に留められた」
 神は私たちの罪だけでなく、私たちがどれだけ他者から傷つけられてきたかを見ておられます。そして泣く子を親が抱き寄せるように、私たちのことをケアしたいと願っておられるはずです。

 私たちが最も傷つくのは、人間関係によってです。そして私たちが癒されるのもまた、人間関係によってです。教会もまた然りです。もし教会が虐待被害者をケアしていこうと思うなら、相当な時間や労力を傾ける覚悟が必要です。しかしその覚悟を持って行動していくならば、そこは誰もが歓迎される、安全と癒しのコミュニティになっていくことでしょう。

※本稿に掲載された個人的な物語は、プライバシー保護のため、被害者に共通する体験を集めて組み合わせたものです。

(翻訳終わり)

・愛する覚悟

 さて翻訳記事によりますと、虐待被害者の方のケアのほとんどは、「時間をかけて信頼関係を築いていく」部分になりそうです。
 一部の教会では、とかく「心の傷を癒す」ために集中的に祈ったり、インナーヒーリングを試したり、その他の方法論を試みたりします。でも実際的な効果は上がっていません。なぜでしょうか。心に受けた傷は、基本的に治らないからです。もし治す可能性があるとしたら、それはあった出来事を全部きれいに忘れることです。関連する記憶が完全になくなり、「何もなかった」のなら、傷も存在しないことになりますから。
 でも実際には、それは不可能です。

 私たちにできることは、翻訳記事にもある通り、時間をかけて信頼関係を築いていくことだと思います。長い時間をかけて、寄り添っていくことです。被害者の方は人間関係の中で傷つき、信頼感を失ってしまったので、やはり人間関係の中でそれが回復されていくのを、待つしかありません。
 要は周囲の人間に、あるいは教会に、その覚悟があるかどうか、だと思います。

 しかし現状を見てみますと、教会は、健康で大きな問題のない人、トラブルを起こさない人、奉仕ができる人、献金を安定的に払える人にとって居心地のいい場所なのではないでしょうか。逆に接しづらい人、扱いづらい人、トラブルを起こす人などを倦厭する傾向がないでしょうか。

 虐待被害者の方がいつもしおらしく泣いてばかりいるなら、「支えてあげよう」と思いやすいでしょう。でも実際はもっと難しいです。心に傷がある人は、その傷が深ければ深いほど、人に対して攻撃的だったり、拒絶的だったり、冷笑的だったり、挑戦的だったりするからです。あえてトラブルを起こすこともあります。もちろん皆が皆ではありませんが。

 だから被害者をケアする、というのは綺麗ごとではありません。それは多くの場合、助けを求めてくる人を援助することでなく、何も期待していない人のそばに近寄ろうと努力することです。自ら率先して、(言葉が悪いかもしれませんが)嫌な思いをしに行くことです。

 それは、愛し難い人を愛する試み、と言っていいかもしれません。
 愛しやすい人を愛するのは、簡単です。それこそ誰にでもできます。けれどその反対は、なかなかできません。だから「覚悟が必要」だと言うわけです。自分自身も傷つく覚悟、長い時間をかける覚悟、それでも結果的に報われないかもしれない覚悟、が必要なのですね。
 誤解のないように書いておきますが、その覚悟を強要するつもりはありません。あくまで被害者の方をケアしたいと思うなら、という話です。

 まとめると、虐待被害者の方のケアの難しさは、第一に被害が見えないこと、第二に接するのが(多くの場合)難しいこと、となります。もちろん、様々なケースがあるとは思いますが。

 さて最後に、また冒頭の質問に戻りましょう。教会に虐待の被害者が来られたら、あなたならどう接するでしょうか。あなたの教会は、どう対応するでしょうか。時間をかけてケアしてくれるでしょうか。
 クリスチャンの方には、ぜひ考えていただきたいと思います。

※ここで言う「虐待被害者」は、「過去に被害を受け、今もトラウマに苦しんでいる」状態を想定しています。虐待発生直後、あるいは急性期の場合は、優先的に専門機関の助けを求めるべきで、教会でケアすべきではないと私は思います。

2017年11月25日土曜日

キリスト教は「宗教(Religion)」でなく、「神との関係(Relationship)」なんで すか?

・キリスト教って宗教じゃないの?

 今回は次のセリフについて、私見を述べたいと思います。

「キリスト教は『宗教(religion)』でなく、『神との関係(relationship)』です」

 これは聖霊派や福音派の教会でよく聞くセリフです。名言や格言みたいに扱われていますから、聞いたことがある人も多いでしょう。SNSなんかでも時々見かけます。昔、私の教会でも何度か聞いたことがあります。当時は単純にそうだよなあと感心していましたが。

 これは、「キリスト教は他の宗教とは違うんだ、本物の神との生きたコミュニケーションなんだ、リアルな関係性なんだ」という主張でしょう。我らがキリスト教を、宗教なんかで括ってくれるな、ということですね。そう言いたい気持ちはわかります。

 でもですね、「神との関係なんだ」と言うのはいいとして、「宗教ではない」と言うのはいささか語弊があると思います。だって宗教ですから。それを違うと言うのは自由ですが、一般の認識はそうではありません。

 たとえば図書館や書店で「宗教」のコーナーに入ると、だいたいキリスト教とイスラム教と仏教の本が同じ棚に並んでいます。社会系の教科書を開くと、その3つが「世界の三大宗教」と呼ばれています。トロント(カナダ)の大きめな書店に入った時は、キリスト教の本だけで何列もありましたが、それでも「宗教」のコーナーでした。
 つまり一般社会では、キリスト教は間違いなく「宗教」なのです。当たり前ですが。

 それに、「キリスト教は宗教じゃない、神との生きた関係だ」と言ったところで、未信者の人からしたら宗教でしかないです。「宗教じゃない」というのは「中の人」の言い分です。「中の人」がいくら何を主張したところで、外から見たら「いえ、だから宗教ですよね?」「それは宗教をやっている人の言い分ですよね?」という話になります。そうではありませんか。

 ところで、そもそもの話ですが、なぜ「キリスト教は宗教ではない」とわざわざ宣言しなければならないのでしょう。キリスト教が宗教だったら、何か不都合でもあるのでしょうか。

「宗教」とは何でしょう。その定義とは何でしょう。ちょっと調べてみましたが、「百科事典マイペディア」のものがわかりやすかったので紹介します。
「一般に宗教とは、超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度をいう」

 えーっと・・・、やっぱりキリスト教って宗教ですよね?(笑

・キリスト教があれば、他の宗教はいらないの?

 という宗教の定義がどうであれ、このセリフの問題の根幹は、「キリスト教は宗教か否か」という点ではありません。ぶっちゃけた話、それはどちらでもいいです。前述の通りキリスト教は一般的に宗教として括られていますし、その方がわかりやすいですけれど、べつにそうじゃなかったとしても構いません。

 本当の問題は、「宗教でなく神との関係だ」みたいな、「自分たちにしかわからない言語」を使ってしまう点だと私は思います。
「キリスト教は宗教でなく神との関係だ」なんて外部の人が聞いたって、意味がわからないじゃないですか。そういう言語をわざわざ使うのは排他的と言わざるを得ません。そうではありませんか。
 誰かと話をしたいと思ったら、相手がわかる言語で話さなければなりません。お互いに理解できる言葉で話すのが、コミュニケーションの基本だからです。これまた当たり前なことなのですが。

 また、このセリフの背後には、「キリスト教は特別で、本物だ。でも他の宗教はどれも紛い物だ」という考え方が隠れていると思います。繰り返しますが、そう言いたい気持ちはわかります。しかし、これは恐ろしい考え方でもあります。何故なら他の宗教を全て排除しようとしているからです。

 日本には幸い「信教の自由」という権利がありますが、その意味がわかるでしょうか。伝統的なものから怪しいものまでいろいろありますが、どの宗教を信じても良い、信じなくても良い、という意味です。そこにはキリスト教も含まれています。なのに何故クリスチャンだけが、他の宗教はダメだと言い、信じる自由を奪うのでしょうか。

 私が常々感じるのは、キリストの教えは愛と寛容であるはずなのに、当のクリスチャンと言われる人々からそれが感じられない、ということです。もちろん皆が皆ではありません。素晴らしい方々もいます。でも中には、聖書を振りかざして他者を押しのける、実に不寛容な人たちがいます。
 そういう人がよく、この「キリスト教は宗教じゃない、神との関係だ」みたいなことを、したり顔で言うのですが。

・キリスト教ってそんなに特別なの?

 自分の信じる宗教は他の宗教とは違うんだ、自分の宗教こそ本物なんだ、と思いたいのは皆同じです。どの宗教の人もそう思っています。たとえばイスラム教の皆さんは、アッラーと自分との関係こそ本物だと信じています。仏教の皆さんは、悟りを得て解脱することこそ最高の目標だと信じています。他の宗教も、それぞれの教理に沿ったゴールなり目標なりを設定していて、それぞれ本物だと信じています。
 だから「キリスト教だけは『宗教』という枠組みから外れた、特別なところにある」と主張するのは、クリスチャンがそう言いたくなるのは当然ですが、いささか手前勝手と言わざるを得ません。

 また多神教ならともかく、一神教である限り、どうしても「神と自分との関係」が重要になってきます。その一対一の関係がリアルでなければ、信じる意味がないからです。そしてそれはキリスト教に限ったことではありません。一神教なら(たぶん)どこでもそうです。

 たとえば、前述のイスラム教がそうですね。イスラム教徒の皆さんはアッラーを信仰し、その教えを守って生きています(熱心な人ならば、でしょうが)。それはもちろん「良い裁きを受けたいから」というご利益主義的動機もあるでしょうが、基本的にはアッラーとの「個人的関係」を重視しているからです。だから彼らにとって、それは「宗教」でなく日常生活の一部なのかもしれません。
 であるなら、「宗教でなく神との関係だ」というのはイスラム教も同じだということになります。なぜキリスト教だけが、他の宗教を押しのけて「宗教でなく神との関係だ」と主張できるのでしょう。

 あるいは、スピリチュアル系の話になりますが、「守護霊様」を信じている人々もいます。彼らは組織に属するのでなく、個人個人で、それぞれ「高次の存在」との繋がりを信じています。たぶん彼らにとってそれは宗教でなく、より個人的な何かでしょう。
 ということは「宗教でなく神との関係だ」と言えるのは、むしろ彼らの方になります。

 あるいは実際の治療の現場では、アルコール依存症の方々が社会復帰するための、「12のステップ」というのがあります。その中に「自分なりに理解した神(Higher Power)に自分自身を委ねる」というステップがありますが、これは考え方としては、上記の「高次の存在」に近いと思います。つまりここにも、「宗教でない神との関係」があるわけです。

 何が言いたいかというと、キリスト教を「特別」だと思っているのは、クリスチャンだけだ、ということです。

 これは最終的に、他の宗教に対してどういう態度を取るべきか、という話になるでしょう。すなわち他の宗教を全て排除しようとするのか、あるいはどの宗教も尊重し認めていくのか、という個人個人の選択になります。わたしはそこにクリスチャンとしての、というよりむしろ人間としての品格が出ると思うのですが、さて皆さんはどう考えるでしょうか。

・英語の掛け合わせはありがたいの?

「宗教」(religion)」でなく「神との関係(relationship)」である、というのは見てわかる通り、religionrelationshipを掛けたものです。英語圏的な発想ですね。誰が最初に言ったのか知りませんが、英語を使ってうまく掛け合わせたからといって、それが聖書の真理というわけではありません。

 このセリフを初めて聞いた頃は、私も単純にそうだよなと思って感動しました。だから偉そうなことは言えないのですが、教会で講壇から語られることを、何でもかんでも鵜呑みにしてはいけないと思います。よくよく考えてみて、本当なのかな? とか、これの背後にはどんな考え方が潜んでいるのだろう? とか、じっくり吟味することをお勧めします。そうすることで、最初は見えなかったものが、徐々に姿を現してくるかもしれませんから。

 最後にオマケですが、英語の掛け合わせなら私にも作れます。今パッと考えたのですが、こんなのはどうでしょう。

「私たちは主にあって拒絶(rejection)を乗り越え、喜び(rejoyce)を得ることができます!」(眉唾)

 なんかそれらしくないですか。使いたい人がいたらどうぞ自由に使って下さい(笑

2017年11月23日木曜日

【体験談】薄っぺらい教会(HN:ニャンタマさんの体験談)

 今回は読者の方からいただいた体験談を紹介します。
 ニャンタマさんはある教会に7年ほど属しておられましたが、その間「教会の闇」を沢山見てこられたそうです。そして最終的にその教会を「薄っぺらい」と結論づけるに至りました。さて、ニャンタマさんは何を見たのでしょうか。
 今回もニャンタマさんからいただいた原文を私フミナルが編集し、ご本人の了承を得て掲載しています。

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薄っぺらい教会(HN:ニャンタマさんの体験談)

 ニャンタマと申します。
 以前通っていた教会の話をします。
 私はそこに入信して1年経たないうちに役員を押しつけられ、引っ越すまで逃げられない状態になっていました。教会を良いものだと感じたのは、最初の半年位です。それ以降は、教会の闇を散々見せられてきました。

牧師の私物と化す献金

 そこの牧師は、とにかく献金を集めたがっていました。
福音宣教のため、伝道のため、という理由で土地を買ったり、会堂を建てたりを繰り返していました。億単位のお金が動いていたと思います。
 牧師が使う車も、献金で賄われていました。それも高級車です。牧師の言い分は「人を送迎するのに使うので、安い車では面子が立たない」というものでした。と言っても私用で使うのがほとんどなのですが。それに牧師の面子とは、いったい何なのでしょう。
 でも結局、牧師の要求はいつも役員会で承認されるのでした。役員と言っても形だけなので当然ですが。私が所属していた7年間に、少なくとも会堂を2回建て、高級車を3回買い替えています。車をそんなに頻繁に替えなければならない理由がわかりません。ちなみに牧師の個人宅まで、献金で建てられたのでした。

 献金の収支報告は一応ありましたが、あってないようなものでした。項目が大雑把なうえ、どんな操作がされているかわかりませんから。対外宣教費とか、接待費とか、雑経費とか、中身はまさにブラックボックスです。牧師の一存でどうにでもなってしまいます。

 献金は「個人の自由だ」と言いながら、決して自由ではありませんでした。
 なぜなら誰が幾ら払ったか、あるいは払っていないか、把握しているのです。そして払っていない人を呼び出して、催促するのです。
 私も払って下さいと直接言われたことがあります。結局牧師の私用に使われるのかと思うとバカらしくて、払いませんでしたが。
 とにかく払わないことが自衛になると、私は考えていました。

牧師の不倫

 年輩の牧師でしたが、信徒の婦人と不倫関係にありました。礼拝の後に密会しているという噂が前々からあったのですが、あるとき発覚しました。けれど、なぜか辞任させようという動きになりませんでした。擁護する声が大きかったのです。発言力のある役員たちは「個人の恋愛のことだから」と黙認する構えでした。もちろん反対する人たちもいました。教会は分裂騒動に発展しました。
 牧師本人からは、何の説明も謝罪もありません。そういう話になっても「個人的なことだから」とかわすばかりです。
 彼は最終的に教会を出て行きましたが、結局献金で建てた私邸で、不倫相手と暮らしているようです。

信仰深さ(?)のアピール合戦

 当時私は青年会に所属していました。
 メンバーどうしでどれだけ信仰深いかのマウンティング合戦が繰り広げられていましたので、正直キツかったです。嫌々参加していましたので、今は当時の人たちと一切関わっていません。

 Aさんはとにかくいつでもどこでも伝道する人でした。
 あるとき、ショッピングモールで買い物中、Aさんがそこの店員さんにいきなり伝道しはじめたことがあります。店員さんは相手が一応客ですから、無下にできません。Aさんはそれを知ってか知らずか、平気で話し続けます。私は唖然としてしまい、何も出来ませんでした。悔しかったです。
 でもAさんはあとで「神の福音を伝えることが出来た」と嬉しそうでした。どこでも伝道できる私ってすごい、というアピールだったのです。

 他にもあります。青年会で公園でランチをとった時です。Aさんは子連れの若いお母さんを見つけて、さっそく伝道していました。
 お母さんは迷惑そうでしたが、3歳位の男の子がメンバーと遊びはじめてしまったので、離れるに離れられません。
 Aさんは最後に「今度ぜひ私たちの教会に来て下さい! 住所は~~です」と場所を詳しく教えました。
 あとから「今日は素晴らしかった、イエス様の福音を伝えることが出来た。あのお母さんたち、教会に来てくれないかなぁ」と喜んでいました。もちろん来ませんでしたが。
 Aさんは伝道をすればするほど、教会に人を連れてくればくるほど、信仰が深くなると考えていたようでした。

 同様に、Bさんは奉仕をやればやるほど信仰が深くなると思っていたようです。
 Bさんは奉仕をどんどん増やしたがる人でした。私は役員をやらされていましたので、これ以上増やしたくなかったです。しかしBさんはあれもこれもと手を広げていきます。朝から晩まで教会にいて、どんなミーティングにも顔を出します。次第にいろいろ仕切りたがるようになりました。
挙句の果てに、私の個人的なことにまで口を出すようになりました。
「この日は空いてるから、奉仕出来るんでしょう?」
「もっと職場の人にも伝道した方が良いよ」
「どこで洋服買ってるの?」
「これは高いんでしょう?」
「結婚するなら絶対クリスチャンでないと。あと結婚式は教会でね」
「結婚式はどうするの? 招待客はどこまで呼ぶの?」
 という感じで、持ち物から恋愛結婚まで、あらゆる場面で口出ししてきました。私の主人との恋愛や結婚にもです。

 Cさんはいつもヘラヘラしていました。
 本人は「いつも喜んでいなさい」を実践していると思い込んでいたのかもしれません。でも言うことがいつも大袈裟で、そんなこと思っていないだろうということを平気で言います。目上の人間に対して大袈裟に媚びて、気に入った役員がいれば付いて回ります。教会の不正会計、牧師の不倫などいろいろ発覚した時もヘラヘラと楽しそうでした。正直不快でした。

 でもまともな人もいました。
 私が入信して1年くらい経った頃、少し年上の女性が入会されました。彼女とは話題が合い、短い間でしたが仲良くさせてもらいました。
 けれど彼女は、2年経たないうちに辞めました。最初の年はよく礼拝で見かけたのですが、だんだん来なくなり、次第にフェードアウトした形です。キッカケは、やはり役員による私生活への介入だったようです。交際相手のことなど突っ込んだ質問をされて嫌になったのではないでしょうか。何度電話しても出ない、と役員は言っていました。
 彼女は本当に一般常識のある方でした。でもそういう人は教会に残りません。まともな人がどんどん辞めていくので、教会には変人しか残らないのではないでしょうか。

その他もろもろ

 教会の方針もいまいちよく分からなかったです。
 あのイベントが良いと聞けばそれに飛びつき、この企画で成功したと聞けばそれに飛びつき・・・の繰り返しでした。
 バーベキュー、流しそうめん、焼き肉、アイスクリームパーティ、お菓子まき等々・・。食べ物で釣るイベントしか思いつかないのか、薄っぺらい教会でした。
 これは私個人の感想ですが、教会で出される食べ物はどれも美味しくなかったです。食べ物で釣るのはかまいませんが、だったらもっとクオリティを上げるべきだと思います。

 牧師も、教会員も全てが薄っぺらい教会でした。
 口先だけの信仰を語っているだけでしたね。
 私は結婚を機に引っ越しましたので、自動的に教会を辞めることになりました。でもそれで本当に良かったと思っています。(終わり)

――――――――――

 以上になります。
 このところ体験談を紹介させていただく機会が増えていますが(皆さんありがとうございます)、やはりどこででも、同じようなことが起こっているのだなと改めて思います。

 当ブログは牧師の問題点を取り上げることが多いですが、今回のお話を見てもわかる通り、信徒の側にも問題があります。行き過ぎた伝道、他者への過剰な干渉、不誠実な態度など、どこででも見られます。伝道して何が悪い、人の世話を焼いて何が悪い、とか言われそうですが、やられる側の気持ちも考えてほしいですね。

 クリスチャンが持つべき必須のスキルがあるとしたら、それは「他者への適切な思いやり」だと私は考えます(それはクリスチャンばかりではありませんが)。この人は今何を考えているのだろうか、こうされたら嫌じゃないだろうか、今自分に何ができるだろうか、などと考えることです。もちろん考えてもうまく行かないことがありますし、失敗することもあります。でもそういうことを通して少しずつ、学んでいけばいいのではないでしょうか。

 もちろん、「その人にとって何が一番良いのか」というのは難しい問題です。時には「何もしない」方がいいことだってあります。選択肢が多い分、迷うことも多いでしょう。
 それでも、相手が嫌がっていること、迷惑がっていることには早く気づくべきだと私は思います。

 熱心なクリスチャンになると、伝道しなければとか、人々を救わなければとか、そういう使命感に駆られて周りがよく見えなくなってしまうことがあります。これはクリスチャンだけでなく、他の宗教の方々にも見られる傾向ですが。
 しかし私たちが福音を伝えていくとしたら、相手は未信者の方々なのですから、やはり最低限の思いやりや配慮が必要なのではないでしょうか。
 日本全体を見ると、キリスト教界は長いこと伸び悩んでいるようです。その原因としていろいろな要因が考えられると思いますが、その中に「他者への思いやりの欠如」があるように、私には思えてなりません。

 皆さんは、どうお考えでしょうか。
 貴重な体験談を投稿して下さったニャンタマさん、ありがとうございました。

2017年11月21日火曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第67話

 赤い鳥居の前で、溝田牧師は足を止めた。皆も牧師の近くで立ち止まった。約20人の集団。キマジメくんは後ろの方にいたけれど、牧師が何か話しはじめたので、近くに寄った。
「みんな見たまえ。この神社は小高いところに立っているだろう。これは街を見下ろして、監視するという意味があるんだ。なるほど、どうりで街が縛られているわけだ」
 確かに神社は小山の上にあった。鳥居から割と急な階段が続いており、頂上部分に拝殿が見える。高さにしてビル3階分くらいだろうか。拝殿そのものはこじんまりしている。周囲を木々に囲まれており、照明の類もないので、上はほとんど真っ暗だ。
「見た目は小さいが、だからと言って悪霊が弱いわけではない」牧師は厳しい口調だ。「むしろこういう高所に陣取る悪霊は、階級的に高いことが多い。海外でもこういう例を見たことがある。みんな、気を抜かないように」
 信徒らは小さくハイと返事した
 と言っても、さほど声の大きさを気にする必要はなさそうだった。ここはキマジメくんもよく通る道だが、周囲を小学校と工場と、どこかの会社の建物とに囲まれている。当然ながら夜は無人だ。神社の裏手は住宅街だけれど、間に小川が流れている。こちら側で多少声を出したって、まず聞こえないだろう。
「まずここで祈ろう」と溝田牧師。「鳥居の向こう側は敵の陣地だ。霊的な影響を受けないように、みんな血潮によるカバーリングを受けなければならない」
 皆アーメンと言う。
 そして言われるまま円陣を組む。隣どうし手を繋ぐ。しばらく沈黙があって後、牧師が「異言」で祈りだした。
「おー、シャバラバラバラ・・・。主よ主よ。おーシャバラバラバラ・・・」
 釣られるように皆も祈りだす。キマジメくんも声を落として「異言」で祈った。そして5分くらい経っただろうか、溝田牧師が急に黙ったので、皆も一斉に「異言」を止めた。
「主よ、十字架の血潮を仰ぎます」牧師が祈る。「おー主よ。血潮を私たちに注いで下さい。十字架の血潮を。そして私たちを敵から守って下さい。いや、敵を打ち滅ぼすことができるように、霊の力を増し加えて下さい。神の武具を着させて、強めて下さい。・・・」
 祈りがしばらく続いた。キマジメくんは気になってチラッとまわりを見た。人の気配はない。神社の方にも特に動きはない。敵はすぐそこにいるのだろうか。近くにいて、この祈りを聞いているのだろうか。だとしたら攻撃をしてくるのではないだろうか。キマジメくんは急に落ち着かなくなった。

「よし、では中に入ろう」祈り終えた牧師が言う。「誰か、今祈っていて何か感じたことはなかったか?」
 皆互いの顔を見た。すぐにカンカク姉妹が手を挙げて発言した。
「なんでしょう、ここに来てからずっと、圧迫感があります。なにか押し潰されそうな感じです。気分もちょっと悪いです。これは、敵の妨害かもしれません」
 カンカク姉妹は教会の古株である。溝田牧師が開拓を始めた頃からずっと仕えているらしい。中年のご婦人だけれど、いつも目がキラキラ輝いている、活発な人だ。祈りもいつも力強い。
「やはりな」と溝田牧師。「敵はまず、こちらの祈り手を攻撃してくるんだ。祈り手は教会の灯台の役割を果たしているから、真っ先に攻撃して、我々の霊的な視界を妨げようとするんだ。それが敵の策略だ。みんな、今カンカク姉妹のために特別に祈ろう。守られるように」
 というわけで、今度は皆でカンカク姉妹を取り囲む。四方八方から手を伸ばしてカンカク姉妹に触れる。姉妹は首を垂れて目を閉じている。溝田牧師が彼女の正面に立ち、頭に手を置いた。
「おー主よ、今この姉妹を、あなたの愛するこの姉妹を、特別に守って下さい・・・」
 そして祈り終えると、まわりの姉妹たちが順々にカンカク姉妹をハグする。そして「大丈夫よ」とか「祈り続けますね」とか声をかける。カンカク姉妹は半泣きになって、うんうん頷いている。
 カンカク姉妹が「祈り手」になったのは、だいぶ以前のことだ。「とりなしの祈り」という活動が教会で始まった時、カンカク姉妹が自ら「とりなしの祈り手」として声を上げたのだった。確かに姉妹の祈りは激しく、強く、深いところを洞察しているようだった。それに信仰歴も長い。だから彼女が「祈り手」になるのを、誰も反対しなかった(もっとも溝田牧師が同意したことには誰も反対などできないのだけれど)。
「カンカク姉妹、私たちが付いているから大丈夫だよ」溝田牧師も優しく声を掛ける。「それと、何か感じることがあったら、すぐにシェアしてほしい。祈り手は、主から特別に語られることが多いから。特に、事が起こる前にね」
「はい」と姉妹。表情が明るくなっている。これが祈りの力だろうか。
 そして気を取り直して、一同階段を上がっていく。と言っても3階程度なので、すぐ拝殿に辿り着いた。頂上部分にはわずかな石畳しかなかった。両脇は木だ。相当狭い。20人がひしめき合って立つのがやっとだった。
「みんな落ちないように」牧師が言う。「落ちたらシャレにならんぞ」
 少し笑い声が起こった。牧師が冗談を言ったと思ったのだ。しかし溝田牧師は厳しい口調で続けた。
「ところでこの神社は裏手に川があるが、実は水は危険なんだ。悪霊の力を伝える力があるからね。この川の流れに沿って、悪霊の悪い影響が流れていくんだ。だからここから川下は、霊の雰囲気が悪くなっているだろう。たぶん事件などの発生率も極端に高くなっているはずだ。調べればきっと、そういう結果が出ると思う」
「やっぱり・・・」またカンカク姉妹が言う。「あの水の音、なんだか嫌な感じがします。不吉な音です。もしかしてこの社は、水の神のようなものを祀っているのではありませんか?」
「その可能性は高いだろう」と牧師。「これは、このあたりの歴史を調べてみる必要があるな。そして敵の種類を特定し、効果的に戦う必要があるだろう。水の悪霊なのか何なのか、わからないことには血潮でしっかり縛ることができないからね」
 皆一様に黙っている。「霊の戦い」をしたことがない人たちが多いから、無理もない。キマジメくんも同じだった。高所からの監視とか、水の効力とか、悪霊の階級とか、初めて聞くことばかりで、圧倒されていた。

(これが「霊の戦い」の現場なのか)
 怖いけれど、嬉しくもあった。見えないけれど、この世界に影響を与える力が存在していて、自分はその力を体験できる立場にいる。そして世界をより良い姿に変えていくことができる。そのことが誇らしかった。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年11月19日日曜日

ビジネスリーダーと化す牧師たち

ラジオから流れてきた「ビジネスリーダー論」

 先日たまたまラジオが聴こえてきて、仕事中でしたが、何となく聴いていました。どの局のどの番組か知りませんが、ソフトバンクの孫社長について、長年の部下が語る、みたいな内容でした。孫社長の辣腕ぶりが披露されていました。

 それによると、孫社長はいかにも「やり手」のビジネスリーダーといった感じです。メールは3行以内、必要なら即電話会議、数字しか信じない、分析したら即決断、資料は相手を動かすためにある、などなど。
 中でもインパクトがあったのは、相談したい時はTPO関係なく即電話し、相手より先に話し始める、というヤツでした。これ、やられた方はたまったものではありませんが。
 どうやら孫社長は押しの強いタイプみたいです。一言で言うとワンマン。でもあれだけの大企業を引っ張り続けるには、それくらいのタフさが必要なのでしょう。ビジネスリーダーかくあるべし、みたいな。

 そういうビジネスリーダーは彼以外にも沢山いそうです。パッと思いつくだけでも楽天の三木谷氏とか、旧ライブドアの堀江氏とか、サイバーエージェントの藤田氏とか。みな若くして起業して、一定の成功を収めまています。彼らはそれぞれビジネスリーダーと言っていいでしょう。

 皆さんはそういうのに憧れるでしょうか。彼らと一緒に働きたいでしょうか。正直私は全然憧れません。すごいなとは思いますが。
 だって、いつ電話会議が始まるかわからないんですよ? いつでも訊かれたら「正解」を即答せねばならないんですよ? 常に結果が求められるんですよ? そういうのが好きな人もいるでしょうけれど、私は遠慮したいです。まあしたくても採用されないと思いますが笑

ビジネスやりたい系牧師
 
 ところでその孫社長の話を聴きながら、ある牧師のことを思い出していました。
 彼はいわゆる「若手」の部類で、二世で、まあ何というかビジネスマンみたいな人でした。教会を使ってビジネスがしたかったようです。カルチャー教室とかカフェとか福祉系事業とか、いろいろ手を出していました。結局どれも中途半端でしたが。
 
 だから教会運営とか信徒の扱いとかも、ビジネスライクでした。
 ホウレンソウはしっかりしなさい、メールは即返信しなさい、言われた以上の仕事(奉仕)をしなさい、言われる前に動きなさい、悪いことはすぐに相談しなさい、報告は結論からしなさい、などなど。
 ミーティングも頻繁でした。イベントの前後は必ずミーティングづくしです。休日でも夜でも急に呼ばれます。朝起きるとメールであれこれ指示が入っています。
 まさに上記の孫社長みたいな感じです。忙しかったですね。
 
 彼が言うに、これからの時代は教会もビジネス・マインドで展開しなければ、行き詰ってしまうとのこと。だからビジネスなんだと。本当かどうか知りませんが。
 だから聖書の読み方にも、ビジネス・マインドが入ってきます。話が上手かったので、そのうち聖書がビジネス啓発本みたいに見えてきました。
 
 聖書の原則をビジネスに適用すればうまく行く、ということで、
「受ける(テイク)より与える(ギブ)方が先」
「命を失う(リスクを取る)覚悟がなければ成功しない」
「たくさん撒けば(いろいろ試せば)たくさん得られる」
 みたいなことを言っていました。
 ずいぶん説得力がありました。そのへんの論理構成はまさにビジネスマンでした。
 
 でも今思うと、どこまでが聖書の原則で、どこまでがビジネス・マインドなのか、よくわからなかったですね。混じりあっていたような気もするし、ほとんどビジネスの話だった気もします。
 いずれにせよ、彼がやりたかったのはキリスト教会でなく、キリスト教会を使ったビジネスだったんじゃないかと思います。
 
めざせ、ビジネスリーダー(?)
 
 彼のような牧師は他にもいました。と言うか、付き合いがあった教会の牧師はほとんどそんな感じでした。
 みんな若手(と言っても40~50代位ですが)で、二世で、事業を展開しています。サッカークラブとか、音楽活動とか、カフェとか、福祉系事業とか、まあどこも似たような感じでした。
 
 見た目も似ていました。服装はTシャツにデニムにジャケットが多いです。携帯はスマホで、タブレットも小さいノートPCも持っています(でもあんまり使えていません)。携帯で話すときはハンズフリー。名刺は半透明とか細長とかの非定型。SNSのプロフィール写真は奥さんとピッタリくっついたやつ。メッセージはパワポ必須。そして何気に、自分のやってる事業をアピールします。
 
 誰もかれもがビジネスリーダーをめざしているようでした。キリスト教会の牧師というよりは。
 
 でもそう思われるのも嫌だったのでしょう。信徒のケアもしっかりやってますよ、というアピールもよくしていました。本当は事業なんかどうでもいいんです、信徒が成長してくれれば、と言う人もいました。かと言って事業をやめる訳ではありませんでしたが。
 
 最近掲載させて頂いた体験談は「金儲けしたい牧師」の話が多かったですが、彼らは金儲けというより、「ビジネス的にも教会的にも成功した牧師」を志向しています。もちろん金儲けもしたいでしょう。でもそれより優先したいのは、成功なんだと思います。
 そしてそのツールが、ビジネス・マインドなのですね。
 
 彼らは孫社長の話とか喜んで聞くと思います。
 
信徒を育てる教会? 犠牲にする教会?
 
 でもそういうキリスト教的ビジネス、あるいはビジネス的キリスト教は、どこかに歪を生むと思います。
 現に上記の牧師の教会では、信徒が犠牲になっていました。
 
 ちょっと考えてみて下さい。その教会で奉仕をしているとします。すると、いつミーティングに呼ばれるかわかりません。友人と食事をしている最中に電話がかかってきて、今すぐ来いと言われます。電話を無視しても何度も鳴り続ける上、後から長々と叱責されます。あれしろこれしろといつも指示があり、夜になっても帰れません。なにか失敗すると責められ、信仰が足りないとか言われます。無茶な要求も多々あります。でも全部「訓練」ってことにされます。しかも訓練だから全部無償です。
 
 冒頭の孫社長のやり方をもっと酷くして、教会に持ってきたような感じですね。そういうのが好きだという人にはいいかもしれません。でもいわゆるキリスト教を求めてきた人には、あり得ない事態ではないでしょうか。
 
 さて、そういう教会でビジネスまがいの活動をして、信徒は本当に「成長」するのでしょうか。と言ってもビジネスマンとしての成長でなく、クリスチャンとしての成長ですよ。
 クリスチャンとしてちゃんと成長できるなら、それでもいいかもしれません。その犠牲にも意味があったということでしょう。
 でもそうでないなら、その犠牲はいったい、何の為だったのでしょうか。誰の為だったのでしょうか。
 
 皆さんはどう考えますか。

2017年11月17日金曜日

クリスチャンって断食した方がいいのですか?

断食する? しない?

突然ですがクリスチャンの皆さん、「断食」しますか?

 これはたぶん教団教派によって「する・しない」が分かれるトピックだと思います。断食するところは「メッチャする」し、しないところは「しない」のではないでしょうか。
 ちなみに私が普段問題として取り上げている聖霊派は、断食をメッチャする方です(ただし聖霊派でも、しない教会が一部にあるかもしれません)。

 申し訳ありませんが、他の教派のことは詳しく知りません。ただ伝統的な教派では、断食という言葉はあまり聞きませんね(詳しい人がいたら教えて下さい)。たぶんやらないのかな?

 いずれにせよ、私はここで断食をすべきだとか、断食なんてしなくていいんだとか、そういうことを言うつもりはありません。するもしないも、それぞれの信仰なり信念なりがあると思いますから。それは尊重されるべきでしょう。
 あとこれは私個人の考え方ですが、聖書には断食を絶対にしなければならないとか、逆に絶対にしてはならないとか、そういうことは書いていないと思います。

 皆さんは(あるいは皆さんの教会は)どうお考えでしょうか。

 ちなみに余談ですが、またキリスト教信仰とは全然関係ありませんが、現代はとんでもないくらい飽食・過食な時代です。だから時々断食するくらいで丁度いいかもしれません(笑)。もちろん身体的な理由で断食なんて絶対できないという人は、しなくていいんですよ。また1日3食ちゃんと食べるのが健康に良いという定説を、否定する気もありません。

 と、いう前提で書きますが、時々食事を抜いてみるとか、軽めにしてみるとか、一定期間低カロリー食で過ごすとか、そういうのも良いと思います。現代(日本)の食糧事情ですと、下手すると1日に三千や四千、あるいはそれ以上のカロリーを摂ってしまいますから。簡単に食べ過ぎになってしまい、毎日続いたら(長期的には)大変なことになり得ます。
 だからキリスト教信仰とは全然関係ない話として、断食そのものは、やってみるのも良いかもしれません。かく言う私も1日断食とか、あえて低カロリーで過ごすとか、そういうのを時々やって体調を整えています。食べる時間と食べない時間をきっちり分けることで、胃腸を休めるのもお勧めです(そのへん詳しく知りたい方はメール下さい笑)。
 くどいようですが、これはあくまで健康管理の話ですよ(笑)。

断食の実態は

 さて話を戻して、断食を推奨するキリスト教会では、具体的にどのようなことが行われているのでしょうか。私が見てきたいくつかの例を、紹介してみましょう。
(あくまで一教会の事例ですので、参考程度にして下さい)

・特別な「導き」を求めて断食する
 何でもいいんですが、人生における転機、たとえば進学とか就職とか、転職とか、献身とか、そういう割と大きな決断をするときに、しばらく断食します。ただしその結果、何らかの答えが与えられるとは限りません。

・重要な「お願い事」があって断食する
 たとえば重い病気に罹ったとか、仕事で失敗して解雇されそうだとか、大きな借金を抱えてしまったとか、そういうシャレにならない事態に直面したときに、しばらく断食します。ただしその結果、問題が解決するとは限りません。

・集会などのイベントの前に皆で断食する
 規模の大きい伝道集会を開く前なんかに、その集会の祝福なり成功なりを祈願して、皆で断食します。皆と言っても、全員で一斉に断食するのではありません。たとえば今日の朝は私、昼はあなた、夜は彼、明日の朝は彼女、みたいな感じで、担当を決めて分担していきます。「連鎖断食」と言いますね。ただしその結果、集会が成功するとは限りません。

・「霊の戦い」に備えて断食する
 ダニエル書10章に、ダニエルが特別な「啓示」を受けたとき、3週間の断食をしていた、という記述があります。このことから、「霊的な働き」をする際は断食が有効なのだ、みたいな解釈があります。ただし本当に有効かどうかは立証されていません。

 さて、おおよその方向性がおわかり頂けたでしょうか。要は、何か重大な局面になると断食する、ということです。
 もちろんですが、この断食とはただ「食事を我慢する」ということではありません。本来食事をする時間を祈りに費やす、ということですね。わかりやすく言えば。
 たぶん韓国のチョー・ヨンギさんの話だったと思いますが、「食べるという肉の欲を制して祈るので、より霊的に敏感になれる」「身体が弱るだけ霊的になれる」「だから断食は良いんだ」みたいな感じです。
 だからこの手の教会で断食をしている最中の人たちは、「自分、今すっげー霊的になってる」みたいに思っているわけです。それが本当かどうかは、定かでありませんが。

 よくSNSや個人のブログなんかでも、
「今日で断食◯日目です。メッチャ恵まれてます」
「この前断食したら、こんな恵みがありました!」
 みたいなご報告をされている方がいますが、まず上記と同系統と見ていいでしょう。
 要は「断食すると良いことがある」ということです。

聖書は何と言っているの?

 たぶん聖書にお詳しい方なら、断食に関連する聖書箇所をポンポンポンと挙げられるでしょう。でも私はそこまで研究熱心ではありませんので(すみません)、おそらく誰も読み間違えないであろう、基本中の基本だけ挙げるに留めます。でも、何でも基本は大切なんですよ(笑)。
 さて、マタイの福音書6章16〜18節に、最低限これだけは覚えておけよ、的な断食の基本が書かれています。要約するとこうです。

 断食は、人に知られないようにやりなね。

 これだけです。
 断食の目的や方法はともかく、キリストが断食について一番明言しているのは、この部分だと思います(他にあったら教えて下さい)。
 おそらくノーマルな読解力をお持ちの方なら、この部分を読み違えることはないでしょう。どう読んでも、明らかに、こう言っていませんか。
「断食は他人にアピールするものではありません」

 では翻って、昨今の断食の実態を見てみましょう。
 上記の「導き」を求めるにしても、「お願い事」をするにしても、イベントの成功を願うにしても、「霊の戦い」をするにしても、断食することを明確に他者に伝えていることがほとんどです。「断食◯日目です」なんてまさにそうでしょう。「アピールするものではない」とはっきり書かれていることを、はっきりアピールしてしまっているのですね。

 こういうのはぶっちゃけ、「自慢したい」だけではないでしょうか。
「これだけ断食して、これだけ恵まれたんです」
「こんなに長く断食して、苦しいけど、熱心に主にお仕えしてるんです」
「自分はこんな断食ができるくらい霊的なんです。あなたがたとはレベルが違うんです」
 そういうアピールがしたいのではないでしょうか。本人にはそういう自覚がないのかもしれませんが。

 またこういうのは断食に限らず、いろいろな場面で見られます。
 たとえば今日はこんな仕事があって、その後これこれのイベントがあって、終わったらどこどこに直行して、大変だけど健康が守られますように、みたいな。
 それただの「忙しい自慢」じゃないですか? と私は思ってしまいます。

断食からエキュメニカルへ(?)

 若干話が逸れましたが、そういうわけで断食そのものは、してもしなくても、どちらでもいいものだと私は思います。けれど断食を率先して行っている人たちを見ると、どうもズレてるんじゃないかな、と感じるわけです。

 だから断食とは何なのか、皆でもう一度見直してみた方がいいのかもしれません。その「皆」というのが誰のことなのか曖昧ですけれど。でもエキュメニカルを目指すのであれば、こういった1つ1つの事柄について意見を出し合って調整していくプロセスが、絶対必要になるのでしょうね。そういうのが実現したらいいと思います。現に「断食」1つとっても、だいぶ考え方が違うようですから。
 実際に話し合うとなったら、それはそれで大変そうですけれどね笑

 と、断食を巡って、そんなことを考えてみた次第です。

2017年11月15日水曜日

【体験談】全てをむしり取る教会(HN:reiさんの体験談②)

 今回は読者の皆さんから頂いた体験談をお送りします。
 以前も投稿して頂いたreiさんの、追加の体験談です。強制的な伝道や奉仕、リーダーたちの非常識、その他の諸々を通して、reiさんはついに教会を離れる決意をします。さて、決定的な要因は何だったのか。前回のものと併せてお読み下さい。

――――――――――
全てをむしり取る教会(HN:reiさんの体験談②)

 以前体験談を投稿させていただいたreiです。前回投稿してから、いろいろ思い出したことがあったのでシェアしたいと思います。

 前出のセクハラ事件を機に、教会内で騒動がありました。結果的に新しい牧師が招聘されました。でも首がすげ替えられただけで、やることは同じです。むしろさらに教会開拓だ、伝道だ、と旗が掲げられて、信徒は奉仕や献金など負担を強いられるようになりました。セクハラ事件(と言うより性犯罪)の反省も何もありません。

電車伝道

 毎年8月下旬から9月上旬ごろ、何人かの信徒(10人ほど)が各地方の教会を訪問するというイベントがあります。私の時はY県とA県とS県でした。基本的に新幹線は使わず、「青春18きっぷ」を使ってローカル線で行きます。その道中、車内で伝道することが義務化されていました(普段から伝道の訓練なるものがありました)。
 二人一組になって、一人でいる乗客に声を掛けます。未信者用の冊子を一緒に読んで、それを受け取ってもらえれば成功、といった感じです。もちろん違法行為です。でもリーダーらは「実りがあるから重要なんだ」と言っていました。
 当然ながら、車内では白い目で見られます。電車内で勧誘する宗教団体に良い印象はないでしょう。日本宣教に情熱があると言いながら、キリスト教のイメージを悪くさせてどうるするんだと思いました。
 私は嫌で嫌で仕方ありませんでした。でもやりたくないと言っても、聞き入れてもらえませんでした。

非常識な教職者

 教職者たちにもいろいろ驚かされました。教職者と言っても、教会がやっている神学校(私塾)を出ただけの、学位などない人たちでしたが。
 彼らは教養だけでなく一般常識にも欠けていました。私は偶然、教職者宛に届いた税金の督促状を見たことがあります。滞納していたのでした。それなのに信徒(特に新来者)たちにはあれこれ奢っていて、よくわからない金銭感覚でした。
 違法駐車も平気でやります。待ち合わせ時間も守りません。何の連絡もなく1時間も2時間も遅れてきて、何の謝罪もありませんでした。「あなたの祖父母は天国にはいない」と言われたこともあります。その真偽は別として、本人に向かってそんなことを言うなんて、随分デリカシーのない人だなと思いました。
 こんな人たちから聖書を教わりたくないと、心底思いました。

半強制参加のキャンプ

 前回夏のキャンプについて書きましたが、冬にもキャンプがあります。冬の方は施設を借りるので夏ほどの辛さはありませんが、スケジュールはびっしり詰まっています。
 私の友人は、このキャンプを断るのが大変だったそうです。予定があると言えば「そんな約束は後からでも埋め合わせできる。このキャンプは違う。絶対に恵まれるから行った方がいい」と言われ、それでも断るとあからさまに不機嫌な態度になったそうです。教職者やリーダーだけでなく、その人と仲の良い信徒まで駆り出して、総出で連れて行こうとするのでした。
 私も金銭的な理由で断ったら、教職者が参加費を全額負担してくれたことがありました。例の滞納者ですが。どこからお金が湧いてくるのか、不思議で仕方ありません。

ライブで大騒ぎ

 私はキャンパスでのライブの運営を担当したことがあります。教室を借りたり、ビラを作ったり、あれこれ手配したりしました。でもライブの許可を取ったわけではなかったので、大学側にバレないようにしなければなりません。それなのにライブ当日、教職者たちは通りがかる学生に手当たり次第に声をかけたり、アンプで大音量を出したり、わざわざドアのそばで歌ったりと、まるで見つけてくれと言わんばかりでした。当然隣の教室にも人がいました。もし通報されでもしたら、教室を借りた私の責任になります。内心とても冷や冷やしました。そのことを打ち明けると、教職者たちはその場では納得してくれました。しかし後から「あの人には神様が見えていない。リバイバルが起ころうとしているのに」と言っているのが聞こえてきました。
 別に嘘をついてまでリバイバルを起こす必要なんてない、と思いました。

ダミーサークル

 実はこの教会は、いろいろな大学にダミーサークルを作っています。私のところはボランティアサークルを名乗っていました。ライブ以外(特に新歓期)に伝道するときは「ボランティアをしないか」と誘います。教職者は毎週、各大学を回って集会を持つことになっているので、まずはその集会に来るように言います。この集会では「教会」というワードは厳禁でした。怪しまれないようにするためです。でも最終的に教会に誘い込みます。だから本人は意図せずして教会に出入りすることになります。そしてある程度定着したところで聖書の教えを叩き込む、という感じです。

教会を離れた理由

 キッカケは、私の扱い方が雑になったと気づいたことです。教職者、信徒共にです。初めはあれこれ親切でしたが、それが手のひらを返したように変わりました。ものを盗られたり壊されたり、携帯を勝手に見られたり、個人的なことでからかわれたりしました。同じ頃に礼拝時間が勝手に変わっていたりと、教会全体に不満があったのも要因の1つです。

 ちょうど大学の卒論、就活の時期でしたが、卒論にまで口を出されました。
「なんでそのテーマなの?」
「それが神様とどう関係あるの?」
 前回も書きましたが、就職についても恋愛についても、同じように介入されました。
 ここにいては自分の好きなことが出来ない。そう感じて離脱を決意しました。その教会の問題点を長年指摘している専門家がいましたので、話を聞いてもらい、アドバイスをいただいたきました。そしてその日のうちに教職者に「もう教会には行かない。不必要な訪問や連絡はしないでほしい」とだけメッセージを送り、それきりです。

 結局、私は教会に利用されただけだと気づきました。
 元々金儲けのために作られた教会です。日夜教会のために尽くす信徒だけが重要なのです。信仰はそのための道具に過ぎません。信仰と言っても、聖書の基本的な知識と教会のルールを叩き込めば完成する信仰モドキですが。カップラーメンみたいなものです。

 本当にこの教会を抜けることができて良かったと思います。教会に疑いを持ち出したのは就活真っただ中の時でした。教職者から言われた通りの条件(主日絶対厳守など)ではどうしても上手くいかず、かなり悩みました。教会を去り、無事に内定をもらうことが出来てホッとしています。教会に居続けたら、きっと人生のすべてを教会にむしり取られていたのではと思います。(終わり)
――――――――――
 
 以上になります。
 こういう教会やリーダーの実態は、当ブログを読んで下さっている方はご存知だと思いますが、決して珍しいものではありません。特徴や傾向は様々ですが、根本的に同じような問題を抱えた教会やリーダーが、至る所で見られます。驚くくらい同じことをしている場合もあります。

 私はこの手の問題ありなリーダーを見るといつも考えます。この人は「最初から」こうだったのだろうか? あるいは少なくとも最初は、良い動機を持っていたのだろうか? と。
 私が甘いのかもしれませんが、どんな牧師も初めは金儲けなど考えない、信徒を心底大切にする、あくまでキリストの教えに従順な、良い牧者であろうとしたのではないか、と考えてしまいます。そう期待してしまいます。実際のところはわからないのですけれど。 

 しかし最初がどうであれ、上記のような状態になってしまったら、もはや教会のリーダーとして適格とは言えないでしょう。残念なことですけれど。
 実はここには書いていないのですが、冒頭の牧師の交替を巡る騒動は、相当大きなものでした。しかもあり得ない決着の仕方をしてしまっています。結局加害者が美味しい思いをし、被害者はやられっぱなしです。「正義は勝つ」など幻想なだけでなく、そもそも正義などどこにもないのではないか、とさえ思ってしまいます。

 さて神様はこのような状況をご覧になって、いったい何と言われるのでしょうか。

 最後に1つ、読んでいて見過ごせなかったのが、大学のダミーサークルの存在です。甘美な言葉で学生たちをサークルに誘い込み、まとめて教会に送り込むという勧誘モデルは、新興系プロテスタントだけでなくいろいろな新興宗教が実践しているようです。その被害者の多くは大学に入ったばかりの、ほとんど高校生みたいなものでしょう。当然ながらその手の知識や経験、判断力に乏しいですから、良いカモになってしまいます。この被害の実態がどれくらいの規模なのかわかりませんが、決して小さくないと思います。

 つまりreiさんのような方が、今日もどこかで苦しんでいる、ということです。
 身近なところにそういう人がいる方は、ぜひ注意してあげて下さい。そして被害を少しでも減らし、第2のreiさんを作らないことが、この体験談を掲載する大切な意義だと私は考えています。

参考

 reiさんの前回の体験談、「絶対にお勧めできない教会」はこちらからどうぞ。

2017年11月13日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第66話

 1週間後の月曜日の夜。
 キマジメくんは少し早く教会に着いた。珍しく、溝田牧師が既に来ていた。牧師は最前列に座って、サトリコ姉妹と何か話している。舞台では楽器の奏楽者らが既にスタンバイしていた。ピアノが静かな曲を流している。
 キマジメくんは遅刻したかと思って驚いたが、時計を見ると、7時まであと15分ある。単に牧師が早かっただけのようだ。少し早くなった鼓動を感じながら、さっそくブースに入り、パソコンとプロジェクターを立ち上げた。
 信徒は徐々に集まりつつあった。まだ席は半分ほど空いている。月曜の夜だから、たぶんギリギリに来る人が多いのだろう(先週もそうだった)。
 パソコンの準備が終わると、キマジメくんは聖書を開いた。ヨシュア記を読んでくるよう言われたので、この1週間で数回目を通していた。概要は理解したつもりだ。まだ時間があるから、1章を軽く読み直してみる。
 そうこうしているうちに席が埋まっていく。5分前には概ね揃ったようだった。そこで溝田牧師が講壇に立った。まだ7時まで数分ある。
「皆さん、今日は霊の戦いの重要な日です」牧師は眉間にシワを寄せている。厳しい表情だ。
「この重要な時に、時間ピッタリに来るなどあり得ません。もっと早くに来て、祈り備えるべきです。なのに私が見ていたところ、15分前でも半分くらいしか揃っていません。これはいったいどういうことですか!」
 突然の叱責に、会堂中が沈黙した。ピアノの奏者も驚いて演奏を止めてしまった。その時ちょうど会堂に入って来た信徒は、ただならぬ雰囲気を感じて、いそいそと席に着いた。
「我らは神の軍隊のはずです。いったいどこの世界に、戦闘準備をしない軍隊がありますか? あなたがたは準備もしないで戦いに出るのですか? それでは敵にやられるだけです! 目を覚ましなさい、神の教会よ!」
 普段勢いよくアーメンと返す人たちも俯いたままだ。誰も何も言わない。キマジメくんも顔を上げることができなかった。こんなことなら15分前でなく、もっと早くに来れば良かった。
 牧師はしばらく黙って、会衆を右から左へ見つめていた。足が小刻みに動いて、カツカツと床を踏み鳴らしている。それからおもむろにマイクを上げた。
「皆さん、それぞれで、主に悔い改めの祈りを捧げなさい。頭から灰をかぶるつもりで、心から悔い改めるのです。そして目覚めるのです。心を引き締めて、この戦いに備えなさい。そうできない者はもう帰って結構。戦いの邪魔になるだけですから。私1人で戦いに行きます」
 すると皆一斉に祈り出した。椅子から降りて跪く人もいた。すすり泣いて祈る人もいた。どこかから激しい嗚咽が聞こえてくる。ピアノがまた静かな演奏を始めた。
「皆さん、悔い改めは力となります。その力をもって、もう一度立つのです。神の勇士として!」
 今度はアーメンが起こった。そして何人か立ち上がる。
「愛する兄弟姉妹、今こそ、霊に目覚める時です。あなたがたは霊的盲目であってはいけません。霊の目が大きく! 大きく開かれるよう祈りなさい! そして霊の覚醒が起こるように! アウェイク! アウェイク、チャーチ!」
 牧師の指示でバンドの演奏が始まった。いきなりのフルボリュームである。信徒は全員総立ちとなった。今度はあちこちで叫び声が起こる。
 そのまま賛美に突入した。戦いをテーマにした曲だ。皆拳を振り上げたり、床を強く踏んだり、雄叫びを上げたりする。そして最後に牧師が勝利を宣言し、全員でアーメン三唱をした。
 会堂中が勝利感に包まれた。
「皆さん、我々はこうやって勝利していくのです」溝田牧師は先程とうって変わって笑顔になっている。「私たちの霊の戦いは、祈りと礼拝によって、既に勝利を得ているのです。勝利が先行しているのです。それから実際に現場に行き、あとは勝利を宣言するだけです。私たちには圧倒的な勝利が約束されているのです!」
 盛大なアーメンが起こった。牧師がもう怒っていないとわかって、皆安心した様子だ。
 それから挨拶の時間になった。皆席を離れて、互いに握手したりハグしたりする。キマジメくんもブースを出て、数人と握手した。これは明文化されていないが、異性とは握手のみ、同性とはハグまで可、というのがルールとなっている。ただし溝田牧師だけは例外で、若い姉妹が相手でも正面からハグしている。
「では皆さん、席に着きましょう」牧師に促されて着席した。挨拶の間に、先週と同じ「霊的勢力図」がホワイトボードに貼り出されていた。
「今夜は予告通り、この地図に従って霊的戦いに出て行きます。教会周辺の3つの寺社を攻め取ります。だから我々は3つのグループに分かれて、同時多発的に戦いを展開します」
 アーメンが起こる。
「では兄弟姉妹、御霊に促されるまま、3つのチームに分かれましょう。人に聞くのでなく、それぞれが御霊の促しに従って下さい。そうすればそれぞれ相応しいチームが作られるでしょう。今夜は3人のリーダーを立てましたから、それぞれ自分が共に行くべきと思うリーダーのところに集まって下さい」
 牧師の指示に、どよめきが起こる。3人のリーダーとは溝田牧師、サトリコ姉妹、そしてリッチ兄弟だった。牧師は中央の講壇に、サトリコ姉妹は左手に、リッチ兄弟は右手に位置している。信徒はそれぞれ移動した。
 キマジメくんは正直なところ、「御霊の促し」についてはよくわからなかった。ただサトリコ姉妹もリッチ兄弟も、どうも苦手だった。かと言って溝田牧師にもあまり良い感情はないのだけれど、それでも一番すんなり選べたのは牧師だった。
 見てみると、信徒は概ね三等分に分かれたようだ。サトリコ姉妹のところだけ、若い信徒が多かった。確かに年輩の信徒は、若い彼女のところには行きづらいかもしれない。
「アーメン、良いチーム分けだと思いますね」牧師はザッと見回してそう言った。「ではそれぞれのチームで祈ったら、さっそく出発して下さい。また後で、ここで会いましょう」
 溝田牧師のチームは、牧師が手短に祈ってさっそく出発となった。皆でぞろぞろ会堂を出て行く。そしてすっかり人通りのなくなった夜道に出ると、キマジメくんは中学時代の林間学校を思い出した。こんなふうに皆で夜道を歩いて、肝試しに行ったものだった。
「近所迷惑にならないように、皆静かにするように」
 先頭を歩く牧師が、小声で言う。20人くらいの行列である。確かに怪しく思われるかもしれないので、ここは目立たない方が賢明かもしれない。
 ところでキマジメくんにとって「霊の戦い」はこれが初めてだった。だからどういうものなのか、全く勝手がわからない。もしかしたら悪霊が姿を現すとか、何らかの反撃をしてくるとか、そういう危険なこともあるのだろうか。溝田牧師は海外で「悪霊追い出し」をしたことがあるらしいから、何があっても対処できるのだろうけれど。
 キマジメくんは小声で、「主よ我らを守って下さい」と祈った。幸い、誰にも聞かれなかったらしい。皆黙々と歩いている。
 するとちょうど暗がりの中に、目的の神社が姿を現した。(続く)


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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年11月11日土曜日

【雑記】メンタリング補足・カルト化の反対・ドラマチックな信仰?

・メンタリングについて補足

 少し前に「メンタリングと弟子訓練のちがい」という記事を書きました。すると「メンタリングも結局人のコントロールが入るからちょっと怖い」という趣旨のコメントをいただきました。

 仰る通りだと思います。
 メンタリングとは基本的に、メンターがメンティーに対話を通して助言するものです。だからその対話にも助言にも、何らかの意図を含ませることができるでしょう。やろうと思えば。だから簡単に、人をコントロールするものにもなり得ます。それなら弟子訓練と何も変わりません。
 その意味で「ちょっと怖い」と思われるのは、至極当然です。むしろ「怖い」と思っていただいた方が安心かもしれません。それくらい、危険な教会は危険ですから。

 ただ私があの記事を書いたのは、単純に、個人的に、「メンターがいたらいいなあ」と思っているからです。私の話をじっくり聞いてくれて、そのまま肯定してくれて、いい感じの助言を(頻繁にでなく)くれる、信頼できる人がいたらいいなあ、と思うわけです。皆さんそういうの欲しくないですか。
 もちろん、その人の言いなりになるのではありません。嫌なものは嫌と言います。違うと思ったら違うと言います。で、その人も、私が拒否したら「そうなんだね」とシンプルに受け止めてくれます。決して無理強いしません。そういう関係です。

 実はそれに近い関係を、かつて持っていました。
 彼は私より少し年下でした。教会歴でも私が先輩でした。だから必然的に、あるいは自然に、私が彼の話を聞くことが多くなりました。私はあれこれ考えて彼に助言しました。良く言えば、私は彼にとってメンターのような存在だったかもしれません。
 でも彼は決して、私の言いなりにはなりませんでした。私の助言は彼にとってあくまで参考程度でした。意見が合わないこともしばしば。大喧嘩になったこともあります。お互い、大事に思う部分が微妙に違うのでした。
 彼と私との関係は、決して十分でなかったにせよ、たぶん良いものだったと思います。歩む道は同じでありませんでしたが、そのへんも互いにわかり合って、認め合っていたと思います。彼がどう思っていたのかは、正確にはわかりませんが。

 ともあれ彼との関係は、今も私にとってモデルケースとなっています。クリスチャンどうし、支配とか被支配とかでなく、互いに尊重し合える、年齢や立場が違っても等しい関係でいられるモデルケース。簡単に言えば、単に「クリスチャンの友達」なんですけどね。
 このモデルケースがなかったら、今頃「メンターがほしい」なんて言ってないと思います。

 というわけで、メンタリングにも危険性があるのは重々承知しているのですが、それでもなお私にはメンタリングに期待する部分があるわけです。
 あるいはメンタリングと言うとちょっと重たいかもしれませんね。でしたら「何でも相談できるクリスチャンの友達がほしい」で全然いいです。
 皆さんにはそういう存在はいますか。いるならそれは大変喜ばしいことです。是非その関係を、大切にして下さい。いないなら私のように「メンターほしいなあ」と言ってみませんか。それでメンターができる保証は全くありませんが笑

・カルト化の反対は

 いつも読んで下さっている方はお気づきと思いますが、最近「英語記事の翻訳」をボチボチやっています。主に米国のクリスチャニティ・トゥデイ(日本のとは全く関係ありません)の無料記事から、興味のあるトピックを選んで勝手に翻訳(あるいは一部翻訳)しています。上記のメンタリングの記事もその一環です。

 なぜ翻訳かと言うと、理由は2つあります。
 1つは単に英語力を身に付けたいからです。世界の情報の7割は英語だと、どこかで聞いたことがあります。だから英語がわかれば世界が広がるかな、情報が増えるかな、というのもあります。それにもともと英語に関心がありましたので、時間もあるし、ちょっと本腰入れてやってみるか! と思ったわけです。いつまで続くかわかりませんが。

 もう1つは、「教会のカルト化」を防ぐには、詰まるところ「教会の健全化」について考えなければならない、と思うようになったからです。当たり前と言えば当たり前の話なのですが。
 で、「教会の健全性」とは何か、という問いに挑戦したいと思っています。そしてそのヒントを得ようと、とりあえず海外の情報を当たってみた次第です。単純すぎるかもしれませんが。

 ただ、翻訳しっぱなしにするつもりはありません。海外情報が全部健全だと思っているのでもありません(それこそ非論理的でしょう)。「この人はこういうことを言ってます」みたいなスタンスで、自分なりの「健全性」を模索していきたいのです。いわゆる批判的に読む、というヤツですね。
 そして、「こういう試みは良いのではないか」「日本でも適用できるのではないか」というものを紹介していきたいと思っています。

 もちろん今まで通り、カルト化の問題点についても書いていくつもりです。『キマジメくん』などまさにそうです。ただ少しずつ、「健全性」についても書いていきたい。そんなところです。

・ドラマチックな信仰?

 さっそく海外ネタですが、こんな言葉を見つけました。

 You want to walk on water? Get out of the boat!
(水の上を歩きたかったら、ボートから出なくては!)

 当たり前ですが、これは水の上をウォーキングする方法について教授しているわけではありません。「奇跡」を見たいなら、思い切って信仰に踏み出さなければならない、と言っているわけです。もう少し実際的な言い方をするなら、「成功したいならリスクを取るべきだ」みたいな感じです。
 皆さんこれを聞いてどう思われますか。

 私ははっきり言って、こういうのは好きではありません。
 もちろん言いたいことはわかります。極端な例ではありますが、何かやろうとしている人の背中を押し出す、「励まし」系の言葉と捉えれば、悪い気もしません。

 でもこれは下手すると、ビジネスセミナーの宣伝文句みたいにもなります。リスクなくして成功なし、みたいな。
 そして信仰を何かドラマチックなもの、成功を保証するもの、人生を良くするための手段、みたいにしてしまいます。要は、繁栄の神学。

 あなたがクリスチャンであるなら、キリスト教を信仰する目的は何ですか。裕福になるためですか。地位や名誉を得るためですか。事業で成功するためですか。夢を実現するためですか。そのどれかであるなら、あなたが信じているのはキリスト教でなく繁栄の神学です。キリスト教っぽいけどキリスト教ではない、成功哲学みたいなものです。

 聖書を開いてみましょう。いわゆる現代的な「成功」を収めた人がどこにいますか。信仰者の多くは、むしろその逆ではなかったですか。キリストはサクセスストーリーの主人公でしたか。彼は地上で最も苦しんだ人の1人ではなかったですか。

 だから、信仰的なリスクを犯せば奇跡を体験できる! みたいな物言いに私は賛成できません。信仰に歩むことを否定しているのではありません。奇跡を否定しているのでもありません。信仰に歩めば良い思いができる、という発想を否定しているのです。
 たとえば礼拝に参加して「恵まれました」と言う人がいますけれど、私たちは恵まれるために礼拝するのでしょうか。では恵まれる見込みがなかったら礼拝しないのでしょうか。礼拝は捧げものでなく、何かを得るための手段なのでしょうか。

 そういうことを考えると、上記の言葉がなんとも薄っぺらく見えてきます。
 つまり海外情報にも薄っぺらいものがある、ということですね。当たり前な話ですが笑

2017年11月9日木曜日

カルト系宗教に傾倒しやすい人? しにくい人?

 突然ですが、カルト系宗教に傾倒するのはどういう人だと思いますか?

 皆が皆ではない、ある性格傾向の人たちが傾倒するのだ、と思われるでしょうか? つまり、カルト系宗教に傾倒するのは「ある人たち」だけで、それは彼ら自身の問題なのだ、と。
 あるいは反対に、どんな人にもその可能性はある、場合によってはどんな人もカルト系宗教に傾倒することがある、と考えるでしょうか? つまり、関係ない人などいない、と。

 今回はこの点について、考えてみたいと思います。

・仇となる宗教的関心


 私が見てきた教会を、振り返ってみましょう。
 優しい人や親切な人が多かったです。いろいろ声を掛けてもらったり、助けてもらったりしました。でも一方で、いろいろな人がいたのも事実です。少数派ですが、変な人もいました。優しくない人もいました。あまり関わりたくない人もいました。けっこう何でもアリな世界だったと思います。
 それだけ思うと、「特定の性格傾向」というのはない気がします。

 では、なぜ教会に来るのか、という点で考えてみましょう。
 皆、何かに期待するから教会に来るのでしょう。期待がなかったら来ません。
 単に友人に誘われたから、女の子が沢山いそうだから、ケーキやお菓子があると誘われたから、みたいな期待感は除外します。すると残るのは、「神様がいるなら知りたい」みたいな、宗教的な期待でしょう。あるいは超自然的な何かに対する期待でしょう。そうではないでしょうか。

 ということは、教会にいろいろな人がいるとしても、「宗教的関心」という共通点があることがわかります。これが原因でしょうか。でも宗教的な関心を持つ人が全員、カルト系宗教に傾倒するわけではありません。むしろカルトとは程遠い、常識的な範疇で宗教活動をしている人は多いと思います。

 これはプロテスタント教会に絞った話になりますが、いろいろな教団教派があって素人には判別し難い、という問題があります。
 たとえば同じような宗教的関心を持ったAさんとBさんがいるとします。Aさんは近所のC教会に行きました。Bさんは知り合いの紹介でD教会に行きました。CとDは全然違う教会です。でもAさんにとってはC教会が、「キリスト教」もしくは「教会」になります。同じくBさんには、D教会がそれになります。
 さて、C教会はオーソドックスなスタイルで、信徒に全然干渉してきません。Aさんはそこでのんびり教会生活を送ります。教会外で葬儀があれば、行って焼香もします。
 一方、D教会はイケイケなスタイルでした。毎週の礼拝、什一献金、奉仕は信徒の絶対義務です。焼香? 偶像崇拝する気ですか? と怒られます。Bさんはそこでストレスフルな教会生活を送ることになりました。でも一度通いはじめた責任みたいなものがあり、なかなか辞められません。

 と、いうようなことはどこででも起こっていると思います。
 すなわち宗教的関心は「吉」と出る場合と、「凶」と出る場合があるということです。
 もちろん、宗教的関心は悪いものではありません。しかし無知のため、カルト系宗教に足を踏み入れてしまうことにもなります。本人がそう望んでいなくても。
 まとめてみましょう。
 カルト系宗教に傾倒しやすい「ある性格傾向」というのはないように思われます。しかし「宗教的関心」が仇となって、カルト系宗教に関わってしまう可能性はあります。
 と、いうのがここまでの結論です。

・宗教的関心は、ない人にはないのか

 よく巷で言われることの一つに、こんなのがあります。
「宗教に頼るのは心の弱い人間だ」
 もっともらしく聞こえますが、皆さんどう思われますか。

 私が思うに、心の強弱と宗教は関係ありません。価値観や世界観の問題です。「もしかしたら神様がいるかも」と、「神なんていない」は、考え方の違いに過ぎません。「心の強い人」がみんなどちらか一方しか考えず、「心の弱い人」がみんなもう一方しか考えない、なんてことはありません。それこそ非論理的です。

 だから宗教的関心の有無も、そもそもの価値観・世界観によって左右されます。
 成育歴によるものか環境によるものか教育によるものかわかりませんが、もともと無神論的に考える人がいます。彼らは「神なんていない。人生は自分で切り開くものだ」みたいに考えます。
 一方でもともと宗教的関心が高い人もいます。彼らは「神様がいるかもしれない。そしてこの人生は神様と関わりがあるかもしれない」と考えます。
 どちらが宗教と関わりを持ちやすいかは、言うまでもありません。

 では無神論的な人は、決して、宗教的関心を持たないのでしょうか。

 どこで聞いた話だったか覚えていませんが、「死なんて怖くない」と豪語していた無神論者が、末期癌の告知を受けた途端、うろたえて泣き叫んだと聞いたことがあります。死に直面して初めて、その恐ろしさを実感したのかもしれません。そこで誰かが全知全能なる神の話をしたら、その無神論者はどんな反応するでしょう。無神論を引っ込めないとは限りません。

 実はこういう例を、実際に見たことがあります。
 知り合いに実際に起きた話です。彼はバリバリ働いている最中に病に侵されました。重い病気でした。彼は身寄りがなく、親しい人間もおらず、まったくの孤独でした(私は当時さほど付き合いがありませんでした)。入院して、退院して、でも将来の展望も何もなく、毎日自宅で無為に過ごしていたそうです。
 そんなある日のことです。玄関の呼び鈴が鳴りました。出てみると、優しそうなご婦人が立っています。彼女は顔色の悪い彼を見て、大丈夫ですか? ちゃんと食事されてますか? 良ければお話しませんか? と語りかけます。彼は泣きそうになりながら、彼女の話を聞きました。冊子を渡されました。見ると「神」とか「楽園」とか「救い」とか書かれています。
 翌日には、彼は教えられた教団施設に足を運んでいました。
 書き忘れましたが、彼はガチガチの無神論者でした。シニカルで、現実的な人でした。それが死に直面したことで、宗教的関心を呼び覚ましたのでしょうか。

 またある牧師の息子の話です。彼は教会にも神様にもウンザリで、かと言ってやりたいこともなく、毎日暴走族の真似事をして過ごしていました。そして事故に遭い、重症を負いました。その事故の瞬間、彼は「神様助けて」と叫んでいたそうです。自分でも意外だったと、後から聞きました。

 つまり、宗教的関心は個人の価値観や世界観に起因しますが、危機的状況に陥ると一気に高まることがある、ということです。
 自分ではどうにもならない絶望的状況に置かれると、人は超自然的なものを求めたくなるのかもしれません。全員が全員ではないかもしれませんが。いずれにせよ、これは重要な点だと私は思います。

・絶望的な状況に要注意

 カルト系宗教の実態が語られるたびに、
「なんでそんなところに行くんだ」
「なんでそんなもの信じるんだ」
 みたいな感想が聞かれると思います。常識的に考えておかしいと思うのでしょう。だから「カルト系宗教に傾倒するのは特殊な人間だけだ」という考え方が起こるのかもしれません。

 でも上記のように、根っからの無神論者であっても、コンディションによっては意外なくらいあっさり宗教に傾倒することがあります。それが健全な宗教なら良いですが、カルト系だったら問題です。でも経験や知識がないと、その判別はできません。ロシアンルーレットみたいなものです。

 一つ言えるのは、人は絶望的・危機的状況になると、藁にもすがる思いでなく、本当に藁にすがってしまうとうことです。そのタイミングこそ、誰もがカルト系宗教にハマってしまう瞬間だと言えます。これは決して他人事ではありません。私はそう考えています。

 だから私がお願いしたいのは、皆さんの周囲で悲劇に見舞われて落ち込んでいる人がいたら、変な宗教に手を出さないよう見守ってあげてほしい、ということです。
 クリスチャンの方は、そういうのを教会に誘うチャンスと考えるかもしれません。でもできればそういうことも考えてほしくありません。なぜならフェアでないからです。相手は正常な判断力を欠いているのです。そういう時に教理を教え込んで信じさせても、本人が自由に選択したことにはなりません。

 というわけで私の結論は、誰もが状況次第でカルト系宗教に傾倒し得る、ということです。
 皆さんはどう思われますか。