カルト系宗教に傾倒しやすい人? しにくい人?

2017年11月9日木曜日

カルト問題

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 突然ですが、カルト系宗教に傾倒するのはどういう人だと思いますか?

 皆が皆ではない、ある性格傾向の人たちが傾倒するのだ、と思われるでしょうか? つまり、カルト系宗教に傾倒するのは「ある人たち」だけで、それは彼ら自身の問題なのだ、と。
 あるいは反対に、どんな人にもその可能性はある、場合によってはどんな人もカルト系宗教に傾倒することがある、と考えるでしょうか? つまり、関係ない人などいない、と。

 今回はこの点について、考えてみたいと思います。

・仇となる宗教的関心


 私が見てきた教会を、振り返ってみましょう。
 優しい人や親切な人が多かったです。いろいろ声を掛けてもらったり、助けてもらったりしました。でも一方で、いろいろな人がいたのも事実です。少数派ですが、変な人もいました。優しくない人もいました。あまり関わりたくない人もいました。けっこう何でもアリな世界だったと思います。
 それだけ思うと、「特定の性格傾向」というのはない気がします。

 では、なぜ教会に来るのか、という点で考えてみましょう。
 皆、何かに期待するから教会に来るのでしょう。期待がなかったら来ません。
 単に友人に誘われたから、女の子が沢山いそうだから、ケーキやお菓子があると誘われたから、みたいな期待感は除外します。すると残るのは、「神様がいるなら知りたい」みたいな、宗教的な期待でしょう。あるいは超自然的な何かに対する期待でしょう。そうではないでしょうか。

 ということは、教会にいろいろな人がいるとしても、「宗教的関心」という共通点があることがわかります。これが原因でしょうか。でも宗教的な関心を持つ人が全員、カルト系宗教に傾倒するわけではありません。むしろカルトとは程遠い、常識的な範疇で宗教活動をしている人は多いと思います。

 これはプロテスタント教会に絞った話になりますが、いろいろな教団教派があって素人には判別し難い、という問題があります。
 たとえば同じような宗教的関心を持ったAさんとBさんがいるとします。Aさんは近所のC教会に行きました。Bさんは知り合いの紹介でD教会に行きました。CとDは全然違う教会です。でもAさんにとってはC教会が、「キリスト教」もしくは「教会」になります。同じくBさんには、D教会がそれになります。
 さて、C教会はオーソドックスなスタイルで、信徒に全然干渉してきません。Aさんはそこでのんびり教会生活を送ります。教会外で葬儀があれば、行って焼香もします。
 一方、D教会はイケイケなスタイルでした。毎週の礼拝、什一献金、奉仕は信徒の絶対義務です。焼香? 偶像崇拝する気ですか? と怒られます。Bさんはそこでストレスフルな教会生活を送ることになりました。でも一度通いはじめた責任みたいなものがあり、なかなか辞められません。

 と、いうようなことはどこででも起こっていると思います。
 すなわち宗教的関心は「吉」と出る場合と、「凶」と出る場合があるということです。
 もちろん、宗教的関心は悪いものではありません。しかし無知のため、カルト系宗教に足を踏み入れてしまうことにもなります。本人がそう望んでいなくても。
 まとめてみましょう。
 カルト系宗教に傾倒しやすい「ある性格傾向」というのはないように思われます。しかし「宗教的関心」が仇となって、カルト系宗教に関わってしまう可能性はあります。
 と、いうのがここまでの結論です。

・宗教的関心は、ない人にはないのか

 よく巷で言われることの一つに、こんなのがあります。
「宗教に頼るのは心の弱い人間だ」
 もっともらしく聞こえますが、皆さんどう思われますか。

 私が思うに、心の強弱と宗教は関係ありません。価値観や世界観の問題です。「もしかしたら神様がいるかも」と、「神なんていない」は、考え方の違いに過ぎません。「心の強い人」がみんなどちらか一方しか考えず、「心の弱い人」がみんなもう一方しか考えない、なんてことはありません。それこそ非論理的です。

 だから宗教的関心の有無も、そもそもの価値観・世界観によって左右されます。
 成育歴によるものか環境によるものか教育によるものかわかりませんが、もともと無神論的に考える人がいます。彼らは「神なんていない。人生は自分で切り開くものだ」みたいに考えます。
 一方でもともと宗教的関心が高い人もいます。彼らは「神様がいるかもしれない。そしてこの人生は神様と関わりがあるかもしれない」と考えます。
 どちらが宗教と関わりを持ちやすいかは、言うまでもありません。

 では無神論的な人は、決して、宗教的関心を持たないのでしょうか。

 どこで聞いた話だったか覚えていませんが、「死なんて怖くない」と豪語していた無神論者が、末期癌の告知を受けた途端、うろたえて泣き叫んだと聞いたことがあります。死に直面して初めて、その恐ろしさを実感したのかもしれません。そこで誰かが全知全能なる神の話をしたら、その無神論者はどんな反応するでしょう。無神論を引っ込めないとは限りません。

 実はこういう例を、実際に見たことがあります。
 知り合いに実際に起きた話です。彼はバリバリ働いている最中に病に侵されました。重い病気でした。彼は身寄りがなく、親しい人間もおらず、まったくの孤独でした(私は当時さほど付き合いがありませんでした)。入院して、退院して、でも将来の展望も何もなく、毎日自宅で無為に過ごしていたそうです。
 そんなある日のことです。玄関の呼び鈴が鳴りました。出てみると、優しそうなご婦人が立っています。彼女は顔色の悪い彼を見て、大丈夫ですか? ちゃんと食事されてますか? 良ければお話しませんか? と語りかけます。彼は泣きそうになりながら、彼女の話を聞きました。冊子を渡されました。見ると「神」とか「楽園」とか「救い」とか書かれています。
 翌日には、彼は教えられた教団施設に足を運んでいました。
 書き忘れましたが、彼はガチガチの無神論者でした。シニカルで、現実的な人でした。それが死に直面したことで、宗教的関心を呼び覚ましたのでしょうか。

 またある牧師の息子の話です。彼は教会にも神様にもウンザリで、かと言ってやりたいこともなく、毎日暴走族の真似事をして過ごしていました。そして事故に遭い、重症を負いました。その事故の瞬間、彼は「神様助けて」と叫んでいたそうです。自分でも意外だったと、後から聞きました。

 つまり、宗教的関心は個人の価値観や世界観に起因しますが、危機的状況に陥ると一気に高まることがある、ということです。
 自分ではどうにもならない絶望的状況に置かれると、人は超自然的なものを求めたくなるのかもしれません。全員が全員ではないかもしれませんが。いずれにせよ、これは重要な点だと私は思います。

・絶望的な状況に要注意

 カルト系宗教の実態が語られるたびに、
「なんでそんなところに行くんだ」
「なんでそんなもの信じるんだ」
 みたいな感想が聞かれると思います。常識的に考えておかしいと思うのでしょう。だから「カルト系宗教に傾倒するのは特殊な人間だけだ」という考え方が起こるのかもしれません。

 でも上記のように、根っからの無神論者であっても、コンディションによっては意外なくらいあっさり宗教に傾倒することがあります。それが健全な宗教なら良いですが、カルト系だったら問題です。でも経験や知識がないと、その判別はできません。ロシアンルーレットみたいなものです。

 一つ言えるのは、人は絶望的・危機的状況になると、藁にもすがる思いでなく、本当に藁にすがってしまうとうことです。そのタイミングこそ、誰もがカルト系宗教にハマってしまう瞬間だと言えます。これは決して他人事ではありません。私はそう考えています。

 だから私がお願いしたいのは、皆さんの周囲で悲劇に見舞われて落ち込んでいる人がいたら、変な宗教に手を出さないよう見守ってあげてほしい、ということです。
 クリスチャンの方は、そういうのを教会に誘うチャンスと考えるかもしれません。でもできればそういうことも考えてほしくありません。なぜならフェアでないからです。相手は正常な判断力を欠いているのです。そういう時に教理を教え込んで信じさせても、本人が自由に選択したことにはなりません。

 というわけで私の結論は、誰もが状況次第でカルト系宗教に傾倒し得る、ということです。
 皆さんはどう思われますか。

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