2017年10月30日月曜日

ハロウィンと教会の関係(翻訳あり)

・今年もハロウィンの記事

 今年もハロウィンがやってきました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 街は少し前からハロウィン一色といった感じです。昨日も仮装している人たちを少なからず見掛けました。年中行事として普及してきている感じです。皆さんの街はいかがでしょうか。

 クリスチャン界隈では、一部でやはり議論が起こっているようです。「ハロウィン悪魔崇拝説」に関する議論です。この議論も秋の風物詩みたいになってきました。かく言う私もこの時期に毎年ハロウィンの記事を書いているのですが。しつこくてすみません(笑)。
 ただ、今年はちょっと趣きを変えようと思います。

・ハロウィンの流行→悪魔崇拝説の流行

 さて、ハロウィンを「悪魔崇拝だ」と主張する人々がいます。カボチャや仮装に悪魔的な意味があって、クリスチャンであってもこの時期に仮装すると呪われる(?)みたいです。
 その真偽は、一旦脇に置きましょう。
 彼らははるか昔、ハロウィンが日本でほとんど認知されていなかった頃から、そういうことを言っていたのでしょうか? いいえ。私の知る限り、言っていませんでした。少なくとも昨今のようにハロウィンが流行る前までは、何も言っていませんでした。
 
 では何故、今になって「ハロウィン悪魔崇拝説」を叫ぶのでしょう?
 おそらく、巷でハロウィンが流行っているからです。
 そして海外から「悪魔崇拝説」が入ってきたからです。
 
 もし流行っていなかったら、彼らはハロウィンなど問題にしなかったでしょう。どうでも良かったはずです。
 もしどうでも良くないなら、つまりハロウィンが本当に危険極まりない代物なら、流行るずっと以前からそう主張していなければなりません。なんなら流行るのを阻止するくらいの気概があってもいいでしょう。でもそういうことはありませんでした。ここ最近(ここ10年くらいで)、急にハロウィンにケチを付け出したのです。なんだか不思議じゃありませんか。
 
 多分あの手の人たちは、ハロウィンそのものを問題視しているのではありません。「流行」に食い付いているのです。だから将来ハロウィンが騒がれなくなり、仮装する人もパーティーをする人もいなくなったならば、彼らも「ハロウィン悪魔崇拝説」など言わなくなるでしょう。少なくとも今ほどの熱量では。彼らの言う「ハロウィンの危険さ」自体は、何も変わらないはずなのに。

 要は、巷でハロウィンが流行っているように、彼らの間でも「ハロウィン悪魔崇拝説」が流行っているのです。善悪の問題でもなく、罪かどうかの問題でもなく、流行の問題です。と、私は見ています。

・不毛な議論でしかないルーツ巡り

 またこういう話になると、必ずと言っていいほどハロウィンの「ルーツ」が取り上げられます。
「ハロウィンの始まりは◯◯です」
「いや、正確には由来は××だ」
「いやいや、実はハロウィンとは△△なんだよ」
 こういうのが繰り返されるので、私は正直イライラします。だってそんなこと言われたって、正誤を確認できないじゃないですか。言われたことをそのまま信じるか、信じないかの二択じゃないですか。でもそういう根拠のない話を鵜呑みにするのが、信仰なのでしょうか?
 
 たとえばある人は「ハロウィンはもともとは悪魔崇拝の大祭典だった」と言います。「ケルト人の生贄儀式に由来する」とも言います。でもそんなこと、もう確認できないじゃないですか。歴史的資料(ただの不気味な画像ではないですよ)があるのなら、開示して下さい。でもないのなら、いったいどうやって調べたのですか? 
 
 偉い人が「実は◯◯なのです」と言い、ある人々は「そうですか」と信じます。でも他の場所では他の権威者が「実は××なのです」と言い、そこの人たちはそれを信じます。そんな話です。それってキリスト教信仰なのですか?
 もちろん、過去を調査することが全て無駄だと言っているのではありません。たとえば考古学的な調査などは有用でしょう。でも「ハロウィン悪魔崇拝説」はそれとは関係ありません。

 要は、ルーツをあれこれ言い合って、ああでもないこうでもない、結局答えが出ない、人をやたら脅かすだけ、そんな議論は無駄じゃないですか、と私は言いたいのです。

・そもそも悪魔崇拝とは何ぞや

 千歩か一万歩か譲って、ハロウィンに「悪魔崇拝的な要素」が隠されているとしましょう。
 では、「悪魔崇拝的な要素が隠されている」から、何なのですか?

 そのへんで仮装をしている子らが、「これって悪魔崇拝だぜえ、ヘッヘッヘッ、すげえだろ」とか言っているのでしょうか? あるいはそう意識しているのでしょうか? いいえ、彼らは単に仮装を楽しんでいるだけです。あるいは親に着せられているだけです。悪魔を崇拝しているのではありません。そして悪魔を崇拝していないのだから、それは悪魔崇拝ではありません。すごく単純な話ですが。
 
 仮に、仮にですよ? ハロウィンの仮装という「行為」によって、悪魔に「呪われる」としましょう。でもそのことを知らないで仮装したのなら、その人に落ち度はありません。そして知らないでしたことは、キリスト教的には罪ではありません。だから結果的に悪魔崇拝に繋がる行為だとしても、知らないでしたのなら、それは悪魔崇拝でも罪でもありません。そんな意識はないのですから。
 
 では、悪魔崇拝でも罪でもないのに、なんで「呪われる」んですか? 神様ってそんなに弱いんですか? だったらキリスト教っていったい何なのですか?

・ある教会の試み

 さて、最後に CT Pastors から、ハロウィン関連の記事を翻訳して紹介します。
 タイトルは"5 Creative Alternatives to Trunk-or-Treat"(トランク・オア・トリートの5つの代案)です。著者はサブリナ・クラウスマンさん。牧師夫人でライターで、著作に "Zombie Christian" があります。教会開拓や伝道活動に力を入れている方のようです。彼女は、教会はハロウィンを利用しましょう、と言っています。ちょっと長いですが、興味のある方はお読み下さい。
 
(以下翻訳)
 
「トランク・オア・トリートの5つの代案 ―ハロウィンを恐れないで、利用しましょう―」
 
 
 今年もやってきました。オバケやゴブリンが近所の通りを闊歩する時期です。仮装した子供たちがクスクス笑って、ドアからドアへお菓子を探し回る時期です。
 多くの人にとって、ハロウィンは楽しい、心温まるイベントです。しかしクリスチャンの間には、この休日をどう扱うべきの議論があります。さてハロウィンに参加することは、ハロウィンを「祝う」ことなのでしょうか?
 その議論の結果にかかわらず、ハロウィンが絶好のチャンスなのは間違いありません。ハロウィンは隣人たちを教会に誘う機会にもなるからです。でも我々は何をすべきでしょう?

 クロスポイント・チャーチ(フロリダ州スプリング・ヒル)の牧師ウェイン・コルドバはここ10年間、「仕える伝道」というコンセプトで伝道してきました。彼はこう言及します。イエス・キリストと初期の弟子たちは、まず人々の物質的必要のために仕え、その見返りとして「福音を語る権利」を得たのだ、と。今日の私たちも同様だと彼は言います。すなわち地域のコミュニティにまず仕えることで、私たちは「聞いてもらう権利」を得るのです。

 コルドバはハロウィン向けの2種類のイベントを提案しています。
(1つは)企画を準備して人々を教会に誘う、いわゆる「来てもらうイベント」です。これは「トリック・オア・トリート」の代わりになります。たとえば伝統的な「トランク・オア・トリート」や秋祭りなどがそうです。私の教会では「来てもらうイベント」としてファミリー・ワーシップ・ナイトを企画していますが、ここで「トランク・オア・トリート(駐車場内を、子供たちがお菓子を求めて車から車へと渡り歩くイベント)」をやります。これはひどく人気があります。でもこの手のイベントは、数ヶ月の準備を要します。

(もう1つは)それとは反対に「出て行くイベント」です。これは教会のメンバーが地域に出て行くものです。コルドバは説明します。「『来てもらうイベント』は教会のマンパワーとお金を食い潰してしまうことが多いですが、これならメンバーが最後まで協力し合って(あるいは仲良くやって)いけます。小さなグループ(数組の家族など)がこの手のイベントを主導するなら、必要なリソースは割と簡単に(グループ内で)集まります。そして地域のコミュニティに仕えるために、(少人数なので)協力しあって働くことができるのです」

 どちらの種類にもそれぞれメリットがあります。企画者はハロウィン・イベントの目的を決め、それに沿った選択をすべきでしょう。ハロウィンに使えそうな5つのイベントを、以下に紹介します。
(翻訳者注:イベント紹介が趣旨ではないので、この部分は簡単な説明のみにさせていただきます)

1.医療フェス
 地域の医療機関と連携し、教会で無料の検診や講習会を開いてもらう。参加者には食事を提供したり、衛生材が入ったバッグをプレゼントしたりする。

2.乾いた骨
 旧約のエゼキエル書から、現代の様々な問題(貧困、人種差別、人身売買など)について認識を深めていく(セミナー形式?)。

3.這うものたち
 地元のNPOや任意団体を招いて展示会や説明会を開催する。

4.逆トリック・オア・トリート
 家々を巡ってお菓子をもらうのでなく、ギフトバッグを用意して各家庭に配って歩く。

5.ハロウィン・ロースト
 教会のセル・グループが主体となってホームパーティーを開き、近隣住民を招待する。

 おそらく誰かがこんなことを尋ねるでしょう。「何故教会がこういう活動をするのですか?」メンバーはこう答えることができます。「私たちは単に実際的な方法で神様の愛を示したいだけです」
神の無償の愛を「行動」で示すことで、私たちは、隣人たちと霊的な問題について話す機会を得ていくのです。

 コルドバは言います。「隣人たちにより効果的に仕える方法を探し求める教会が、いつも、より革新的な方法を見つけ出すのです」

 くわえて、その革新的な方法は人々のハロウィン体験を変えていくでしょう。コルドバはそれを見てきたそうです。「子供たちは、教会員たちの寛大さに触れ、それを真似るようになりました。そして仮装を自慢するためでなく、イベントを一緒に楽しむために教会に来るようになりました」
 ハロウィンを利用してコミュニティに関わることを、教会は恐れてはなりません。コルドバも言います。「ハロウィンは贈り物です。それを利用しないならば、神の愛を人々に伝える機会、人々と繋がりを持つ機会を、投げ捨ててしまうのです」
 
(翻訳終わり)
 
・人々が求めているもの
 
 ハロウィンの善し悪しでなく、利用できるものは利用しよう、という考え方が合理的で私は好きです。それに医療フェスとか、やることが違いますね。日本ではまず無理ではないでしょうか。
 
 結局人々は、ハロウィンそのものが好きなのではありません。「仮装とお菓子とパーティーを楽しめるイベント」が好きなのです。そしてその容れ物がたまたまハロウィンだっただけです。だからハロウィンの深い意味とか、起源とか、そんなことはどうでもいいわけです。悪魔崇拝など、これっぽっちも関係ありません。
 
 だから教会が何か「価値ある機会」を提供してくれるなら、そしてそれが本当に「価値がある」のなら、人々は教会に来るでしょう。すべては選択なのです。そして教会に来ないなら、そこに価値を認めていないのです。ただそれだけです。霊的とか悪魔とか、関係ありません。
 
 一部のクリスチャンは今年もハロウィンの起源がどうとか霊的にどうとか捏ね繰り回していますが、はっきり言って何の役にも立ちません。そんな暇があるなら上記の教会のように、地域に出て行ったらいいでしょう。もちろんそこで悪魔がどうとか言わないでほしいですが(笑)。

2017年10月28日土曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第64話

 月曜日の夜7時になった。
 会堂には主だった信徒らが集まっている。もちろんキマジメくんもいる。楽器の奉仕者らは既に持ち場に着いて、静かな曲を流している。事前に牧師の指示があったのだ。
 キマジメくんも既にパソコンとプロジェクターを立ち上げていて、どの曲を歌うことになってもすぐ歌詞を出せるよう、準備していた。スムースに歌詞を出さないと、あとで牧師に怒られるからだ。
 信徒らは隣どうしで声を落として喋ったり、聖書を読んだり、スマホをいじったり、目を閉じて俯いたりしている。7時を5分過ぎたが、まだ牧師は現れない。
 溝田牧師がミーティングや集会に遅れるのは日常茶飯事だった。特に最近は時間通りに来ることがない。「重要な電話」が長引いたり、「大切な面会」が長引いたり、急用が入ったり、というのがその理由だった。確かに一緒にいると、溝田牧師は忙しそうだった。よく電話が掛かってくるし、よくメールの着信音が鳴るし、よく話しかけられる。牧師自身、「自分は秒単位で働いているんだ」と日頃から言っていた。牧師とは大変な仕事なんだなあと、キマジメくんは感心したものだった。
 10分を過ぎたところで、会堂のドアが開いた。そしてリッチ兄弟に続いて、溝田牧師が入ってきた。それにサトリコ姉妹が続いた。3人でどこかに行っていたのだろう(よくあることだ)。
 溝田牧師は講壇に向かって歩きながら、すばやく左右を見回した。信徒の揃い具合を確かめているようだ。とたん、信徒の間に見えない緊張が走った。喋り声が止んだ。キマジメくんも思わず身構えていた。溝田牧師に見られると、何故か緊張してしまう。皆それは同じようだった。
 リッチ兄弟とサトリコ姉妹は最前列の席に座った。牧師はそのまま講壇に立った。
「皆さん、まず賛美をして、霊の雰囲気を高めていきましょう」
 遅れたことに対する言及が一言もなかった。いつもなら何か言うのだが。しかし既にイントロが始まり、皆立ち上がっている。キマジメくんは急いでパソコンを操作して、該当する曲の1ページ目を映し出した。溝田牧師は眉間に皺を寄せて、天を仰いでいる(「神様から語られている」ときの顔だ)。
 賛美が何曲か続いた。アップテンポなものから、次第にスローなものへ。最後の選曲は盛り上がりやすい、皆が好んでいる(と思われる)ワーシップソングだった。案の定、盛り上がった。何度かサビを繰り返したあと、溝田牧師がウォーッと叫ぶ。それに呼応してドラムが激しいビートを刻み、ギターが高音で鳴く。コーラスたちも悲鳴に近い雄叫びをあげる。会衆も泣いたり叫んだり踊ったりだ。狂ったようにブルブル震える者もいる。跪いて肩を震わせる者もいる。どれも「圧倒的臨在」によるものだった(とキマジメくんは信じていた)。例によって窓ガラスが曇っている。熱気で結露したのだ。
 そうやってひとしきり騒いだあと、会堂内は急速に静まった。溝田牧師が指揮者のように片手を振り上げたからだ。楽器は演奏をやめ、キーボードのストリングス系の音だけが小さく残った。同時に照明が徐々に暗くなり、牧師の姿が辛うじて見えるくらいの光量になる。背後でスモークが薄く漂い、光を反射してほのかに輝く。(それもこれも牧師の指示によるものだ)。幻想的な光景だった。
 溝田牧師は静かにマイクに向かって語りかけた。
「皆さん、これから始まる霊の戦いに備えましょう。この教会は今、霊的戦いに導かれているのです。そしてこの戦いは激しく、油断のならないものです。敵であるサタンは巧妙に罠を張っていますから。身を引き締め、しっかりと目覚めていないといけません。我らは神の軍隊なのです」
 荘厳な雰囲気に呑まれ、皆アーメンと言った。既にむせび泣いている者もいる。牧師は続ける。
「今、ヨシュア記が私の胸に強く迫っています。ヨシュアのようであれ、と主が語っておられるのです。イスラエルの民を率いて約束の地を勝ち取った、あの偉大な指導者ヨシュアのように、この教会もこの地域を勝ち取っていかなければならない! 主がそう語っておられるのです!」
「アーメン!」
「我らは霊的イスラエルなのです。教会よ、この召しを受け取りなさい!」
「アーメン!」
「立ち上がれ、イスラエル! 信仰によって今堅く立ちなさい! 神の軍隊として!」
「アーメン!」
 また牧師の指示によって演奏が再開された。いきなりフルボリュームだった。ドラムが激しく叩き、ギターとベースが高速で刻む。照明が一気に点灯する。スモークが勢いよく舞い上がり、舞台を包みこむ。牧師は絶叫している。会衆もそれに応えて総立ちになり、手を挙げ、誰もかれもが叫んでいる。泣いている。激しく体を揺らしている。ものすごい臨在だった(とキマジメくんは思った)。
 そうやって再び騒いだあと、牧師は「招き」を始めた。
「霊の戦いに備えたいと願う人、霊的武具を身に付けたいと願う人は、前に出てきなさい。按手の祈りをします。神の民よ、このタイミングを逃してはなりません。今、主が強く働いておられます! 霊の賜物を受け取りなさい!」
 奏楽は辛うじて隣の人の声が聞こえるくらいのボリュームまで下がった。信徒たちは一斉に講壇前に集まる。先週のメボ・ルンド聖会の時のように、何列かの列になった。そして溝田牧師が端から順に手を置いて祈るのだった。
 牧師が1人目の額に手を置き、「御霊を受けよ!」と怒鳴った。すると、押されたのかどうかわからないけれど、その信徒(サトリコ姉妹だった)が後ろに倒れるのだった。と言ってもバタンと倒れるのでなく、膝から崩れ落ちる感じだ。続いて2人目もすぐに倒れた。続いて3人目も。4人目も。右ならえでどんどん倒れて行く。結局1列目は全員倒れた。牧師は2列目に移った。するとやはり端から順番に倒れていくのだった。これが御霊の働きなのか、とキマジメくんは思った。
 そして2列目が終わりかけた時だ。1人だけ、倒れない信徒がいた。溝田牧師はそこでリズムが崩された形になり、一瞬よろめいた。牧師はその信徒を見た(おそらくそれまで、あまりにペースが早かったので誰の顔も見ていなかった)。それはタタカイ兄弟だった。彼はしっかり両足で立っていた(意地でも倒れないぞ、という意思表示のようにキマジメくんには見えた)。溝田牧師は一瞬思案したようだったけれど、タタカイ兄弟の額から手を離し、次の信徒に移った。するとどうだろう、今度はなかなか倒れなくなった。倒れる信徒と倒れない信徒が、半々くらいになったのだ。
 それが何を意味するのか、キマジメくんにはわからなかった。
 ともあれ「招き」は終わり、溝田牧師は講壇に戻った。前に出てきた信徒たちは各々立ち上がり、席に戻った。演奏は静かに続いている。
「皆さん、霊の雰囲気が高まっています」溝田牧師は落ち着いた口調で始める。「こういう場にいることで、私たちの霊は鍛えられるのです。霊の目がはっきりと開き、霊のことが、明確にわかるようになるのです。皆さん、私たちはさらにさらに霊的に開かれていくでしょう。主に期待しましょう。アーメンですか?」
 アーメン、と会衆が返す。
「今、この教会は次のフレーズに移行しようとしています。これは霊的なステップアップです。そしてその鍵は霊の戦いです。私たち教会は、これから霊の戦いに邁進していきます。そしてこの地域を奪還していきます。天の御国をこの地に引き入れます。天国をここに下ろすのです。主の御名によって」
 またアーメンの斉唱が起こった。何やらすごいことが起こりそうだ、とキマジメくんは思った。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年10月26日木曜日

【翻訳】心の病があっても教会に行って良いのですか?

・心の病と教会

 心の病があっても、教会に行って良いのでしょうか?

 答えは当然イエスだ、と言う人がどれくらいいるでしょう。そしてイエスと言う人たちはクリスチャンでしょうか。教会関係者でしょうか。あるいは未信者の方々が、「教会ってそういうところでしょ?」というイメージから、そう言うのでしょうか。
 あるいは逆に、ノーと言う人がいるかもしれません。そう言うのはどういう人でしょうか。

 今回はその問いに答えるべく、まずChristiany Today Pastors(CT Pastors)の以下の記事を紹介します。

Is your church healthy for people with Mental Illness?(CT Pastors)
(あなたの教会は心の病がある人々にとって健全ですか?)

 筆者はマイケル・R・ライルズ医学博士。博士のもとには、心の病を「教会に知られたくない」と葛藤する信徒がひっきりなしに来るそうです。彼らの多くは、心の病を教会に知られることで拒絶されたり断罪されたりするのではないか、と恐れているようです。
 では冒頭部分を翻訳して紹介します。

―――――以下翻訳―――――

 地域教会のメンバーである患者に、私がいつも尋ねることがあります。彼らの(心の病からくる)葛藤について、牧師やセルグループのリーダーやメンターに打ち明けたことがありますか、と。何人かは「そんなことしたくない」と答えました。双極性障害を持つある女性は、教会で精神的に傷つけられたと言います。「(教会での)霊的な欠落は、私の精神的な欠落に関係していると思います」彼女は続けます。
「私は教会で孤独でした。だから友達を作ろうと思って、信徒の人たちを夕食に招待しました。でも彼らは私の双極性障害を知ると、それは罪だと説教し、癒されるか無視するかだ、と言いました。私は病気をないもののようにするのは嫌でした。真の友情とコミュニティを求めていました。説教でなくて。私がほしかったのは、私を人間扱いしてくれる友人、ハグ・・・、そして多分、新しい治療法を試してくれる誰かだったのです」
 信仰を持つ人々は、彼らの心の病を打ち明けることに対して、必要以上に恥じ、また必要以上に罪責感を持っています。

―――――以上翻訳―――――

 さて、教会で心の病を「打ち明けたくない」と思う人が少なくないようです。何故でしょうか。拒絶され、断罪され、説教されるかもしれない、と思うからです。そして(ある教会では特に)その可能性が高いからです。
 アメリカの原理主義的教会には、「LGBTは地獄へ堕ちろ」みたいなことを平気で言うところがあるようです。そういう教会でLGBTの方々がカミングアウトすると思いますか。しないですよね。それと似ているかもしれません。ちょっと極端な例ですが。

 私が知っているいくつかの教会を思い浮かべてみましょう。心の病のある方々が来たとして、積極的に(そして継続的に)関わろうとする教会はほとんどないように思います。さすがに断罪まではしないでしょうが、距離を取り、腫れ物のように扱うのが想像できます。「どう扱ったら良いかわからない」という事情もあるでしょう。
 中には信徒が個人的に理解を示し、積極的に接してくれるケースがあるかもしれません。その人が橋渡し役になってくれて、心の病のある人も教会に順応していけるかもしれません。でもそれは教会の体制としてそうなのではありません。たまたまです。だから初めからそういうことを期待して行ったら、少なくとも私が知っている教会群では、失望することになると思います。

 皆さんの教会は、どうでしょうか。

 ただ心の病と言っても、傍目にそれとわかる場合もあれば、なかなかわからない場合もあります。周期的に良くなったり悪くなったりすることもあります。だから対応の難しさはそれぞれです。一括りにはできません。

 いずれにせよ、昨今のプロテスタント教会の多くは、心の病のある人々を受け入れる準備ができているとは言い難いと思います。そこまで手が回らない、というのが実情ではないでしょうか。
 また心の病だけでなく、身体障害やその他の様々な障害、様々な(通常とは異なる)状態の人々を受け入れる準備も不足しているように思います。たとえば車椅子の方や要介護状態の高齢者のために、バリアフリーが施されている教会がどれくらいあるでしょう。あるにはありますが、多くはありません。
 大きな教会は別かもしれませんが、おそらく多くの教会は、来会者として健常者だけを想定していると思います。ここで言う健常者とは、とりあえず自分の足で歩けて、常識的な行動ができる、という意味です。そういう人たちだけを歓迎する雰囲気がないでしょうか。「いろいろな人がいていい」と言いながら、あらかじめ「来ていい人」を決めていないでしょうか。

 さて、もう一度問いかけてみましょう。
 心の病があっても、教会に行って良いのですか?

・教会側の準備

 同記事の最後に、心の病のある人々を受け入れようとする教会が答えるべき、8つの質問があります。これは心の病のある人々が、教会に尋ねたい事柄でもあります。翻訳して以下に掲載します。

1.正直に話しても、私の安全は保障されますか?
2.私を拒絶したり、非難したりしませんか?
3.私の話を、ちゃんと最後まで聞いてくれますか?
4.私に説教するだけではありませんか?(説教なしに話し合うことができますか?)
5.私と一緒に、痛みを通ってくれる人がいますか?
6.私を見捨てないでくれますか?
7.私は希望を持てますか?
8.イエス様は私のこの状況と、どういう関係があるのですか?

 以上の質問に明確にイエスと答えられる教会が、どれくらいあるでしょう。日本ではマンパワーの不足が深刻になっている教会が多いので、なかなか難しいとは思いますが。

 もう一つの難しい点が、心の病の専門性です。「祈れば治る」みたいなことを簡単に言う牧師がいますけれど、精神疾患について理解しているとは言い難いです。あるいは善かれと思って余計な介入をしてしまい、症状を悪化させてしまう人もいます。心の病に介入するには専門的なアプローチが必要なのです。
 教会はそういう治療的介入をするのでなく、あくまで支持的態度で接するべきだと私は思います。つまりその人を無条件に受け入れること、非難したり断罪したり拒絶したりしないこと、誰か適当な人が継続的に関わること、難しそうだったら医療機関に繋げること、などで彼らを支えるのです。
 以下のリストも参考にしてみて下さい。心の病をキリスト教的にどう捉えるべきか、私なりに考えてみました。

・心の病は、罪ではありません(あるいは、罪の結果ではありません)。
・心の病は、「祈れば癒される」と断言できるものではありません。
・心の病のある人は、当然ながら人間であり、尊厳を持っています。
・心の病による症状は、多くの場合制御不能です。本人のせいではありません。
・心の病そのものは、キリストとの関係を妨げるものではありません。

・「クリスチャン消防団」

 最後に、同記事の結論部分を翻訳して紹介します。

―――――以下翻訳―――――

 教会は『クリスチャン消防団』になる必要があります。心の病のゆえ炎上し、誰も近づけなくなっている人々のもとへ、私たちが走っていくのです。そして彼らの必要を知り、安全な環境を整え、耳を傾けるのです。彼らは兄弟姉妹なのですから。そして真理の三角形(神の愛に基づく希望、適切な科学的アプローチ、聖書の言葉の真実さ)をもって、彼らに仕えるのです。

―――――以上翻訳―――――

 ライルズ博士は、教会は心の病のある人々に積極的に関わっていくべき存在だ、と言っています。アメリカと日本ではいろいろ事情が違うでしょうが、本来そうあるべきだと私も思います。
「どなたでも歓迎です」という看板を掲げる教会はたくさんありますが、それが実質の伴った、文字通り誰が来ても適切に受け入れられ、安心が提供されるようなものであることを、願ってやみません。

2017年10月24日火曜日

【体験談】絶対にお勧めできない教会(HN:reiさんの体験談)

 今回もまた、皆様から頂いた体験談を掲載させていただきます。
 某福音派教会に約3年間通われたreiさんが、そこで見たものとは。タイトルにもあります通り、「お勧めできない」と言わしめる出来事の数々があったようです。
 どうぞお読み下さい。

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・絶対にお勧めできない教会(HN:rei さんの体験談)

 私は以前韓国系福音派教会に通っていた者です。今回は私が経験したことを投稿しようと思います。

 その教会では、毎年2回夏と冬に近隣のいくつかの大学に出向いて、無許可でゴスペルライブを開催します。もちろん無許可なので、会場となる教室は、そこの在学生の信徒がいれば借りてもらいます。いなければ教室ではなく、広場などで行っているようです。大学側にバレて、追い出されたことが何度かあるそうです。
 ライブ前には教会の教職者が大学構内で宣伝活動をします。もちろんこれも無許可です。歩いている学生やベンチに座っている学生(1人でいる人がターゲット)に声を掛けて、連絡先を交換できればオッケーという感じで行います。

 ライブ後には、教会で行うコンサートに誘います。その際に、「教会」という単語をなるべく使わないようにします。こちら側の情報はなるべく明かしません。教会名などは名乗らないのです。「ゴスペル」をエサに教会に誘い込む手口です。なので正体を隠した勧誘行為だとネット上では割と有名になっています。少し前までは勧誘の人数にノルマがあったようですが、牧師がセクハラ事件を起こしてからは無くなったと聞きました。

 セクハラ事件というのは、私がそこに通う以前にあった出来事です。セクハラというより性犯罪と言った方が正しいかもしれません。警察沙汰にならなかったのは、それが発覚した際、内輪で話を付けたからのようです。被害者は訴訟など起こさないよう密約させられ、結局全員泣き寝入りせざるを得なかったそうです。

 体罰も常習化していたようです。実際、私は腕を叩かれたり物を取られたりしたことがあります。また礼拝中に伸びをして怒られたこともあります。

 その教会の人たちは未信者を「かわいそうな魂」だと言って見下します。そんな上から目線で厚かましい態度で伝道はしないでほしいと常日頃思っていましたが、そんなことを口にすれば怒られてしまうので言いませんでした。

 毎年夏には、3泊4日ほどのキャンプがあります。そのスケジュールがとてもハードなのです。1日中講義でみっちり。休む時間などありません。特に椅子などなく、地べたに座りっぱなしで腰が痛くなります。また真夏なので暑さで体力を消耗します。「恵まれた」と言っている人がたくさんいますが、半分以上は気のせいなんじゃないかと思います。祈るときは大声で祈ります。ネット上では「絶叫祈祷」と呼ばれています。個人的にはもっと静かな場所で祈りたかったです。

 教職者は守秘義務を守ることすら出来ません。私が相談した内容は、数日後には他の信徒に知れ渡っています。さすがにショックでした。誰にでも言えるような軽い内容のことではなかったからです。また、人の私生活に必要以上に介入してきます。就職のことでも「主日は守れるところがいい」「なんでその会社にしたのか」「神様の栄光のために就職しなさい」と言ってきました。逆に神様の栄光にならない職があるのでしょうか。恋愛にしても、卒論にしても何にでも介入してきます。もう何も言いたくなくなります。それくらい好きにさせてくれと言いたいです。
 主日は絶対厳守しなければいけないという暗黙の了解があります。遊びに行くなど御法度。そんなことを言えば教職者は嫌な顔をします。
 とにかく何をするにも「聖書的、聖書的」が口癖のような人たちです。それが間違っているとは言いませんが、そのせいで大勢の人間が傷を負って教会を去っていきました。人を愛すると言いながら、愛する対象は決まっています。「聖書的な人」しか愛さないのです。LGBTの人たちはあからさまに差別しますし、「治す」といった発言をしているようです。それが果たして主の愛と呼べるものなのでしょうか。結局条件付きの愛なのだと思います。教会に居る人だけを愛する。教会を出た人はサタンにとりつかれたとでも教えているのかもしれません。その証拠に、連絡をしてみても一度も返ってきたことがありません。まるで手のひらを返したような態度です。こんな教会から抜けられて本当に良かったと今では思っています。
 後輩が同じような勧誘に引っかかって欲しくない。そう思います。

 他にもいろいろ経験しましたが、それはまたの機会にしたいと思います。(終わり)
―――――――――

 以上になります。
 学内での無許可のライブ、セクハラ、体罰、信徒に対する過剰な要求と介入、差別、折り合わない信徒の追放と、 どれも重大な人権侵害を含んでいます。特にセクハラ(性犯罪)に関しては、詳細はわかりませんが、正式に事件として扱われるべきだったかもしれません。
 この手の牧師が問題なのは言うまでもありません。けれど過酷なキャンプにもかかわらず「恵まれた」と言う人が多いように、問題は信徒の側にもあります。信徒が牧師を擁護することでカルト化を助長させる、という問題です。

 教会での性犯罪というと、聖神中央教会の事件を思い出します。あれも複数の被害者を出してしまいました。けれど発覚には時間がかかりました。何故でしょうか。事件の性質上、被害者が声を上げにくかったこともあると思います。けれど教会の場合、信徒の立場では牧師を非難しにくい、という事情も絡んできます。「教会のために頑張ってくれている牧師先生なのだから」「牧師先生にはお世話になっているから」「先生は神の器なのだから」というような心理で牧師を神聖不可侵にしてしまうのです。

 でも牧師は神様でなく、間違いを犯すことがあり、他の皆と同じように「罪」ある存在です。信徒と何ら変わりません。というか、未信者の方々ともほとんど変わりません。ただ神様を信じているというだけです。だから特別視される理由は何もありません。悪いことをすれば当然その責を負います。

 と、いう当たり前のことが、(一部の)教会では当たり前となっていないようです。依然として牧師は不可侵のままです。だから牧師の好き放題になってしまっています。そしてそれに右ならえする信徒が多いので、今回の体験談のようなことになってしまうのですね。
 日本のキリスト教界(のもちろん一部ですが)ではこんなことがもう何十年も続いています。そろそろ変えて行かなければならないのではないでしょうか。私はそう考えています。

 体験談を投稿して下さったreiさん、ありがとうございました。他にもいろいろ経験されているそうなので、また宜しければシェアして頂ければと思います。

2017年10月22日日曜日

【体験談】忙しすぎる教会のミュージカル(HN:ハミリオンさんの体験談②)

 前回「忙しすぎる教会」と題した体験談をシェアして下さったハミリオンさんから、追加の体験談を頂きました。前回の体験談にも書かれていた「年末恒例のミュージカル」の詳細についてです。さて、「忙しすぎる教会」のミュージカルとは、どのようなものなのでしょうか。

 なお今回も、頂いた原文を私フミナルが編集加筆し、ご本人の了承を得て掲載しています。
 ではどうぞ。

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・忙しすぎる教会のミュージカル(HN:ハミリオンさんの体験談②)

 年末恒例のミュージカルは、伝道活動の1つとして重要視されていました。
 このミュージカルに出演するにはまずオーディションを受けるのですが、前回も紹介した通り、出演希望でなくても全員受けなければならない雰囲気がありました。断るのも一苦労です。

 オーディションには何故か「自己紹介」の時間があって、名前だけでなく学校や学年、部活や習い事の有無まで言わされました。そして部活や習い事をやっているとなると、その曜日や時間まで言う羽目になるのでした。

 ミュージカルの練習が始まると、土日祝日は必ず潰れます。学校行事などで参加できない場合は、事前に監督か関係者に連絡して、了承を得なければなりません。無断欠席などしたら出演させない、などと脅迫まがいなことまで言われます。だから友達と遊ぶなど不可能でした。ひたすら練習です。
 そういう状況ですので、受験を控えた中学3年生や高校3年生は、基本的に出演しません。勉強などできませんから。しかし中には出演する人もいました。受験などどうでもいいと思っているのか、あるいは現実逃避しているのか、よくわかりませんでしたが(中にはすでに進路が決まった人もいました)。

 10月に入るといよいよ練習が厳しくなりました。金曜の夜から泊まり込んでの「合宿」状態です。そこでは食事作りの奉仕もあり、教会の姉妹らが駆り出されるのでした。まさに教会を挙げてのイベントです。
 またミュージカルのポスターやチラシが完成すると、全員総出で職場や学校、近隣の店舗などに貼らせてもらいに出向くのでした。出演しようがしまいが関係ありません。また1枚3千円ほどのチケットも友人知人に買ってもらうべく、皆で営業行脚です。これは小学生や中学生が大きなお金を持つことになるので、正直心配でしたが。

 ミュージカルは全て手作りでした。台本や音楽、振り付け、衣装やメイク、大道具や小道具など、全てスタッフによる自作です。それでいて全員無償の奉仕だったと思います。まさに献身を要求されました。ちなみに舞台に出演できるのは高校生までで、高校卒業後は裏方のスタッフとして関わるようになります。ミュージカルに夢中な人たちが、率先して裏方に徹していました。
 ミュージカルのために教会がここまでするのかな、と見ていて疑問ばかりでした。
 ちなみに、ミュージカルによる伝道効果があるのか定かではありません。

―――――――――――――――

 以上になります。
 私自身、かつて教会で同じようなイベントを経験したことがありますので、何となく情景が想像できます。私だけでなく、おそらくこの手の教会に通ったことがある方なら誰でも、同じような経験をされたのではないでしょうか。

 あくまで一般信徒の目線から言えば、こういうのは「大変だけど楽しい」イベントかもしれません。文化祭をみんなで頑張って盛り上げよう、みたいなノリの。たとえば出演者は舞台に立って「目立つ」ことで満足感を得るでしょうし、裏方はその舞台を「作り上げた」という満足感を得るでしょう。そういう意味で「楽しい」「夢中になれる」イベントなのかもしれません。
 そしてそういう側面がなければ、こんなふうに何年も続かないのではないかな、と思います(もちろん全員が全員楽しんでいるということではありません)。

 ただそれは信徒側の感覚です。こういったイベント自体を主導する側、つまり牧師側の目線は、また違ったものになるでしょう。

 何ヶ月も前から泊まり込んで練習する(時間的献身)、その準備が最優先される(精神的献身)、舞台製作全般を自分たちで行う(物質的献身)、そしてそれら全てを拒否することができない(しづらい)、というこれら一つ一つが意味するのは、牧師への「絶対的従順」です。牧師の指示命令には全員一丸となって従わなければならない、という雰囲気を作り出すのに、ミュージカルなどのイベントは持ってこいなのです。

 信徒たちは「大変だけど皆で頑張るから楽しい」ので、ある程度の満足感があるでしょう。しかし牧師は「全員を従順なコマとして動かせる」から満足するのです。そしてそれを「神への従順」にすり替えているのです。信徒たちは気づきませんけれど。

 つまり、信徒たちはいいように利用されている、ということです。本人たちはなかなかそうは認めないでしょうけれど。ミュージカルなどの「素晴らしいものを作り上げた」という自負がありますから。
 牧師の思惑は、その背後に隠れているのです。
 また「伝道が目的だ」というのも怪しいと思います。このミュージカルにどのくらい伝道効果があったのか、今回の体験談から読み取ることはできませんが、事実、この手のイベントで新しい信徒を獲得できた、という話はあまり聞きません。「やり遂げた」という内輪の満足感で終わってしまうことがしばしばです。
 しかし少なくとも、「信徒たちを服従させて一つのイベントを実行する」という牧師の目的は、見事に達成されているわけです。

 もちろん、こういう牧師や教会ばかりではありません。しかし、こういう牧師や教会はあります。その事実から目を背けてはならないと、私は思いますね。

 再び体験談を投稿して下さったハミリオンさん、ありがとうございました。
 当ブログでは引き続き皆様からの体験談を広く募集しています。これは皆に伝えたい、知らせたい、注意喚起したい、という体験をお持ちの方、ぜひご投稿下さい。お待ちしております。

2017年10月20日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第63話

 しばらく間があって後、溝田牧師が突然笑い出した。ワハハと声をあげて、いかにも楽しそうに。まわりの皆はどう反応すべきか困ったのだろう、互いに顔を見合わせている。が、徐々に笑いが広がっていく。そして結局皆が笑い出すのだった。
「タタカイ兄弟、君は、君は本当にねえ・・・」溝田牧師は笑いすぎて息も絶え絶えだ。「君は、私のことを神、神様か何かだとでも、思っているのかい?」
 そしてまたワハハと笑い出す。全員が笑っている。笑っていないのはキマジメくんとタタカイ兄弟くらいだ。
「どういうことですか?」
 明らかに不満な様子のタタカイ兄弟が大きな声で言う。
「どうもこうもないだろう!」牧師はまだ笑っている。「なぜ癒しが起こらなかったのか? なぜ霊的な激動が起こったのか? そんなこと私にわかるわけないだろう? 全ては神の御心なんだよ、タタカイ兄弟。なすも神、なさぬも神だ。それでも信仰をもって受け止めるのが、我々神のしもべの務めじゃないのかね? え?」
 一瞬真面目な顔に戻った牧師だったが、また頰が緩んだ。「それなのに君ときたら、なぜですか、なぜですかって・・・」
 堪え切れなくなったのだろう、溝田牧師はまた盛大に笑った。それにつられて皆の笑い声も大きくなる。
「いい加減にしたまえ、タタカイ兄弟。君は将来、お父上の後を継いで牧師になる身だろう」溝田牧師は今度こそ真顔になって言った。「そんな子供じみたこと言ってないで、もっと霊の目が開かれるように祈りなさい。でないと霊的なことがわからない、世俗的な牧師になってしまうぞ」
「まあまあ、タタカイ兄弟はまだまだ若いですからね」
 そう言ったのは溝田牧師の隣に座るリッチ兄弟だ。彼は今回の集会で何かの奉仕をしたわけではないけれど、なぜか反省会に参加していた。理由は誰も聞けない。
「でもお若いのに立派ですね」他の誰かがそう言った。それをキッカケに、そうだそうだ、タタカイ兄弟はまだ若いんだ、だからわからなくても仕方ないんだ、温かく見守るべきなんだ、という声が次々とかかった。そしてそういう雰囲気になった。まるきり子供扱いだ(とキマジメくんは思った)。これではタタカイ兄弟が何を言っても「子供の戯言」みたいに受け取られてしまう。
 タタカイ兄弟自身もそれがわかったようで、苦い顔で押し黙ってしまった。唇を尖らせて、机の下で拳を固く握っている。キマジメくんは見ていられなかった。苦々しい気分なのはキマジメくんも同じだった。タタカイ兄弟が自分自身のように見えた。彼ほど堂々と異を唱えることは自分にはできなかったけれど。
 結局メボ・ルンド聖会に関しては「素晴らしかった」「恵まれた」「また来年もやろう」という話になり、反省会は終わった。話題は早くも次に移った。
「ところでこのところ、強く導かれていることがあります」溝田牧師は相変わらず脚を組んでふんぞり返ったまま言う。指で机をコツコツ叩いている。「それは霊の戦いです。やはりこの地域を霊的に解放する必要があります。今回の集会でもそう痛感しましたね、神の御業が妨げられていると。この地域が解放されなければ、私たちは神の力強い働きを見ることができません。神が御業を現したいと願っているにもかかわらず」
 例によってアーメンという応答が起こる。
 その後も溝田牧師の話が延々と続いた。諸外国が「霊の戦い」でどれだけ解放されたのか、諸外国でどんなすごい御業が起きているのか、日本がどれだけ「閉ざされて」いるのか、日本の閉塞感の正体がいったい何なのか、といった話だった。キマジメくんは聞きながら揺れていた。メボ・ルンド聖会の話はどうも腑に落ちなかったけれど、「霊の戦い」によって状況が変わっていくのなら、辻褄が合うような気もした。神様が正しいのは間違いないし、自分たち人間には全てのことはわからないという溝田牧師の話も、間違いではないと思う。
(やはり自分が未熟だから、こんなふうに感じてしまうのだろうか)
 キマジメくんの思考は、いつも通りそこに行き着くのだった。
 見るとタタカイ兄弟は熱心にメモを取っている。彼は基本的に真面目な人なのだ。そして熱心なのだ。疑問に思えば声を上げるし、おかしいと思えばおかしいと言う。でも神様のために生きたいと願っているのだ。
 キマジメくんは自分のことが恥ずかしく思えた。タタカイ兄弟のようにはっきり反論することができないし、気持ちを切り替えて話を聞くこともできない。いつまでもウジウジと考えてしまう。
(これではダメだ)
 キマジメくんはいろいろ考えるのをやめて、溝田牧師の話に集中しようと思った。そしてメモを取りはじめた。
「といわけで、この教会はしばらくの間、霊の戦いに専心することにします。実は役員会でも全会一致でその結論に達しています」
 長い話の末、溝田牧師はそう結論づけた。「とりあえず明日の夜、7時に全員集まるようにして下さい。詳しいことはそこで話します。今日ここにいない兄弟姉妹にも皆で伝え合うように」
「先生、24時間の祈りはどうしますか」
 誰かがそう言った。「24時間の祈り」とは、溝田牧師のイスラエル旅行以来続いていた活動だ。まだ24時間体制にはなっていないけれど、今も毎晩会堂で行われている。
「ああ、あれね。しばらく休みましょう」牧師は即決した。「休むと言うか、形を変えましょう。会堂で祈るのでなく、外に出て行って霊の戦いをするのです。この地域のために。主がそう願っておられるのですから、私たちは従うのみです。そうではありませんか?」
 アーメン、という応答が起こる。
 しかし「24時間の祈り」は、きたるべく終末に向けた準備として「欠かせない」と牧師が言っていたはずだ。それをこんな簡単に休んでいいのだろうか。キマジメくんは手を挙げてそのことを尋ねようかと思った。しかし先ほどの牧師たちの大笑いを思い出すと、それも躊躇われた。タタカイ兄弟の方をチラッと見たが、彼は特に気にした様子もなく、まだメモを取っていた。
 いずれにせよ、教会はまた忙しくなりそうだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年10月18日水曜日

【体験談】忙しすぎる教会(HN:ハミリオンさん)

 今回は読者の方から頂いた体験談を紹介します。
 ハンドルネーム、ハミリオンさんが高校時代から数年間通った教会での体験です。
 題して「忙しすぎる教会」
 なおハミリオンさんによる原文を私フミナルが編集加筆させていただき、ご本人の了承を得て掲載しています。
 
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・忙しすぎる教会(HN:ハミリオンさんの体験談)

 私がかつて通っていた教会の話です。
 いわゆる「子供伝道」に力を入れている教会でした。伝道と言っても、楽しいイベントやオモチャやお菓子で子供たちを「釣る」ような感じでしたが。また子供と一緒になって大人たちもワイワイ楽しそうに遊ぶのですが、何とも痛々しく見えました。みんな無理をしていると言うか。

 とにかく忙しい教会でした。
 年4回のキャンペーン、年2回のセミナー、サマーキャンプ、教会創立記念フェスティバル、年末恒例のミュージカルと、いつも奉仕ばかりです。学生やサラリーマンなどは休日返上で奉仕しなければならず、休みなどありません。
 そんな状況だから働く職場も限定されます。日曜は必ず休み、木曜は(祈り会のため)残業なし、転勤不可、など。教会中心の生活を求められます。学生も同じで、部活動などしている余裕はありません。だからみんな中学生になると、部活か教会か選ぶことになります。当然ながら学業も二の次になります(学生の本分は学業だと思うのですが)。
 私は高校時代からこの教会に通いはじめましたが、その時すでに部活動をしていました。すると他の信徒から「まだ部活やってんの?」と、まるで悪いことでもしているみたいに言われました。正直怖かったです。

 教会は「弟子訓練」を取り入れていて、「牧師絶対服従」を教え込んでいます。マインドコントロールのようでした。そのせいか、信徒は上記のような万年奉仕に文句一つ言いません。むしろ喜んで頑張っているようでした。
 そういう人が大多数でしたから、奉仕に参加しないというだけで、罪悪感を感じてしまうのでした。

 年末恒例のミュージカルにはかなり力を入れています。出演希望者はオーディションを受けるのですが、出演希望でなくても受けなければならない雰囲気があります。私も年下の信徒から「(オーディションに)出るよね?」と聞かれましたが、無言の圧力を感じました。ミュージカルに誰もが夢中になっている、そんな空気を作りたいようでした。
 そのミュージカルは平日に開催されます。だから出演者もスタッフも会社や学校を休んで参加するのが当たり前でした(中には積極的に休みたい人もいるようでしたが)。

 教会には数々のルールがありました。
 偶像崇拝禁止、飲酒喫煙禁止、学生は部活動禁止、女性は礼拝では必ずスカートを着用(でも膝丈より短いスカートはダメ)、信徒どうしの連絡先交換禁止、教会内では賛美以外歌ってはいけない、などです。
 でもこれらのルールは明文化されておらず、誰もはっきり教えてくれません。注意されて初めて知るような形です。ずいぶん不親切だなと思いました。

 教会学校の教師が、生徒(信徒)の家に訪問する、いわゆる家庭訪問の制度がありました。しかし私の担当教師は日時など告げずいきなり訪ねてきました。ずいぶん非常識だなと思いました。私の家族はクリスチャンでなく、「家族に伝道しないで下さい」ともお願いしてあったのに、それも破られたようで興醒めでした。
 その教師はサマーキャンプの夜にも信徒と1対1でカウンセリングみたいなことをするのですが、カウンセリングというより説得みたいでした。何とかして私をコントロールしたいようで、重ね重ねウンザリでした。

 おかしいと思うことは他にもありました。
 たとえばあるイベントで射的やチョコバナナなどの出店をしたとき、お客さんに「ありがとうございます」と言ったら、先生に注意されました。「お金を取っているわけじゃないんだからそれは言わないで」とのこと。でもわざわざ来てくれたお客さんに何も言わないのは逆に失礼じゃないでしょうか。
 またイベントの度にサイダーをかけ合ったり、トマトを投げたりパイを投げたり、無駄遣いが多かったです。お金がどこから出ているのか知りませんが、教会がやることなのか疑問でした。
 イベント冒頭にいつも牧師や教師が聖書の話を延々とするのも疑問でした。

 私は大学に進学しましたが、前述のように忙しい教会でしたので、学業に支障をきたすのが目に見えていました。
 だから離れました。(終わり)
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 以上になります。
 忙しすぎる、弟子訓練を導入している、牧師絶対服従を教える、信徒どうしの連絡を禁止する、(部活動などの社会的な)行動を制限する、というのはどれも、教会のカルト化の要因として挙げられているものです。それだけで教会がカルト化していると断定できるものではありませんが、要注意と言わざるを得ません。
 また年がら年中イベント等で忙しいと、それはそれで(人によっては)充実感があるでしょうが、多くの場合疲れてしまって、判断力が削がれ、余計に牧師の言いなりになってしまう、という危険性があります。ひどくなると自分がやっていることの善悪がわからなくなってしまいます。あるいは「不本意だけど、言われたから(神様のために)やらねばならない」という被害的・強制的・義務的な側面が強くなります。ほとんどカルト化の一歩手前みたいな状態です。というかカルト化している教会には、それらの状態が例外なく見られます。

 キリスト教会と言っても本当にピンキリです。実際にはカルト化なんて無縁なところが多いでしょうけれど、中には上記のような教会もあります。よく知らないで通っている方は、注意された方がいいでしょう。

 体験談を寄稿して下さったハミリオンさん、ありがとうございました。

2017年10月16日月曜日

教会(宗教)に必要なもの?

・清水富美加さんの「出家」に思ったこと

微妙に古い話ですが、某宗教団体に「出家」した若手女優、清水富美加さんについて少し。

 富美加さんは芸能活動中だった2017年の初めに突如「出家」して、「出家騒動」などと騒がれました。記憶にある方も多いかと思います。詳しい事情は今もってわかりませんが、おそらくのっぴきならない事情があったのだと思います。あまり騒がないであげてほしいな、と私個人は思いました。もちろん多方面に相当な迷惑がかかったのでしょうけれど。
 今彼女がどうなっているのかわかりませんが、後悔のない生き方ができていればと、願ってやみません。

 私は演技の上手下手はイマイチわからないのですが、富美加さんの表情や喋りはエキセントリックかつマニアックな雰囲気があって好きです。演技というより素なのかもしれませんが、人を惹きつけるものがあります。
 先日も富美加さん主演の映画『暗黒女子』を見ました。女子高が舞台の、歯が浮くセリフ連発の、それでいて女子たちの深い「闇」が描かれた作品です。富美加さんの役は、お高くとまったお嬢様でありながらとんでもない残虐性を隠し持っている、それでいて嫌味がなく潔いという、まさに彼女にピッタリなものでした。


 本筋に関係なくもないので、ちょっとだけ『暗黒女子』の紹介をさせて下さい。
 ミッション系のハイソな女子高で、文学サロンの生徒が1人、屋上から転落死します。彼女はなぜ殺されたのか? それをテーマに、サロンの他の生徒たちがそれぞれの推理を小説という形で展開します。すると生徒1人1人に、彼女を殺す動機があったことがわかります。互いに疑心暗鬼になる中、最後は被害者自身の「小説」が披露され・・・。
 結末まで見るとわかるのですが、富美加さんが全部持ってった感じです。彼女の闇は誰より深く、誰より「暗黒」だったのでした。

 富美加さんが強烈な個性とカリスマ性を持っていることを証明するに足る1本でした。

・教会(宗教)のリーダーとカリスマ性の関係

 富美加さんは「出家」して千眼美子(せんげんよしこ)と名乗るようになりました。そして同じタイミングで教団が開設した芸能プロダクションに所属しました。
 教団側が彼女をいわゆる「特別扱い」したのは、推して知るべしでしょう。良い広告塔になると期待したのでしょうか。その後の話はほとんど聞きませんが、彼女の活動はきっと教団にとってプラスなのだと想像します。

 私はその教団のことはほとんど何も知りません。しかし想像するに、あれだけ大きな団体ですから、カリスマ的な広告塔が必要なのだと思います。信徒を強力に引っ張っていくには、何よりカリスマ性が必要だからです。そして彼女はそれに足る魅力を持っていました。

 これは宗教団体だけの話ではありません。人はいつも魅力的な人物を求めています。政治の世界を見てみても、小泉元首相とか、小池東京都知事とか、スピーチが上手くてドラマチックな展開を見せる人たちに、人気が集中する傾向があります。

 キリスト教プロテスタント系の教会にも、同じことが言えます。いわゆる有名教会、成長著しい教会のリーダーには、カリスマ的な人が多いです。カリスマ的な人だから信徒が沢山集まり、結果的に教会が有名になったり成長したりするのかもしれません。あるいは多くの信徒が集まる中でカリスマ性が増していくのかもしれません。
 中には教会が大きい割に牧師が凡庸(失礼な言い方ですみません)なケースもありますが、そういう場合はだいたい、お父さんがすごいカリスマ的な人物でした。

 余談ですが、お父さんが頑張って大きくした教会を、息子世代がダメにする、というのも結構見ますね。悲しいことですが。そもそもなんで世襲制なんだって話でもありますが。

 教会政治のあり方によって事情は変わると思いますが、概ね言えるのは、教会のリーダーにはカリスマ性があったほうが「有利」だということです。前述の通り、カリスマ牧師は人を集めやすいからです。

「そういうことでなく、純粋にキリスト教教理の素晴らしさだけで勝負すべきだ」と言う人がいるかもしれません。しかし「教えを広める」という性質がある以上、その人物の魅力の有無はどうしても関係してきます。本人がいくら否定したとしても。やはり人間的に尊敬できたり好感が持てたり、好印象を持てたりする相手でないと、多くの人はちゃんと話を聞こうとしません。宗教的な話なら特にそうだと思います。

 ただ教会のリーダー(牧師や宣教師でしょう)に求められるカリスマ性とは、単にルックスの良さではないと思います。それ以上に喋りの技術とか、人との関係を築くテクニックとか、相手を安心させる技術とか、そういういわばコミュニケーション・スキルでしょう。これがうまい人が、前述の有名教会などにも多いです。
 私が知っている外国人牧師も、もう日本語ペラペラなのですが、はじめの二、三言だけでいきなり人々を魅了する力を持っています。あれはまさにカリスマと呼ぶべきでしょう。ルックスは全然そうではありませんが(やっぱり失礼)。この人について行きたい、と思わせる何かを持っています(私はついて行きたいとは思いませんが)。事実、その人の教会は大きいです。

 わかりやすく言えば、教会の大きさとリーダーのカリスマ性は比例する、ということでしょう。もちろん(繰り返しになりますが)教会政治のあり方や教団教派によって、事情が違ってくるとは思います。

・カリスマ性の副作用

 さて、これまでの話をポーンとひっくり返すようですが、私たちが注目すべきはあくまで教理そのものであって、リーダーのカリスマ性ではありません。カリスマ性は人々を魅了しますが、その副作用として人々を思考停止にもするからです。そして信徒が思考停止してしまうと、こと宗教に関しては、あまり良いことがありません。下手すると、リーダーのやりたい放題になってしまいます。

 これは矛盾しているようですが、大切なポイントだと思います。すなわちカリスマ性は人々を集めるけれど、人々を盲目にもさせます。教会を大きくするけれど、リーダーに心酔した信徒ばかりにさせます。クリスチャンを多くするけれど、彼らが「良い」クリスチャンかどうかはわかりません(何をもって「良い」とするかはまた別の話になります)。
 ではどうすればいいんだ、という話ですが、少なくとも私たちは、そういう問題があることは知っておくべきでしょう。そして願わくは、リーダーのカリスマ性をよく理解し、それに魅了されすぎないようにバランスを取ることのできる信徒が増えてほしいものです。

「キリストの教え」と、「その教えを語る人」とは別個に考えましょう、ということですね。
 これは書くと当たり前に見えますが、実際に教会生活を送ってみると、なかなか難しいかもしれません。

 千眼美子さんが今後どういう活動を展開していくのかわかりませんけれど、前述の通り、後悔のない生き方をしてくれればいいなと、同じく宗教に傾倒する者として心から願っています。

2017年10月13日金曜日

元キリスト教原理主義者の雑感・その2

 また雑感として書きます。
「雑感」と書くと、何となく気軽な感じがしていいですね。もともとそんな大それたことを書くブログではありませんが。
 何にせよ気軽というのは大切だと思います。大したことを書こうと思うと、なかなか筆が進みませんから。
 というわけで、今回も割とどうでもいい話になると思います。

・「神の家族」について

 私は原理主義的教会で頑張っていた頃、同じ教会員の皆さんを「神の家族」と呼んでいました。と言っても血が繋がっていたわけではありません。そう教えられていたからです。教会の慣習として信徒どうし「兄弟姉妹」と呼んでいたので(多くの教会がそうでしょう)、「家族」と呼ぶことに特に違和感はありませんでした。親しくても親しくなくても、同じ教会に集っているなら誰であれ「神の家族」なのでした。

 この呼び名について特に考えたことはありませんでした。前述の通りそう教えられていたからです。家族が増えて嬉しいなあくらいに思ったかもしれません。でも教会がイロイロあって解散した後、改めてこの呼び名の意味について、考えるようになりました。

 よく教会ではこんな風に言われていました。
「神の家族は血よりも濃い絆で結ばれている」
 なんか任侠映画のセリフみたいですね、今思うと。とにかく実の家族より強い絆が「神の家族」にはある、ということでしょう。くどいようですが私はそう教えられたので、単純にそうだと考えていました。もともと単純な人間ですし、あれこれ考えるタイプでもなかったので(それは決して褒められたことではありませんが)。

 それにこれは的を射ている面もあります。
 私のように地方から上京して都会で教会生活を送るような場合、遠くにいる肉親より、近くにいるクリスチャン仲間の方が、より「家族的な機能」を果たしてくれるからです。たとえば風邪でダウンした時に実家に連絡しても(遠方だと)どうにもなりませんが、親しい「神の家族」なら見舞いに来てくれます。気軽にご飯を食べたり、買い物に行ったりもできます。それどころか教会生活が何年にも及ぶと、互いのことを知り尽くしてしまって、互いの家のキッチンのどこに何があるかまで把握している、みたいな仲になることもあります。
 もっともそこまで親しくなる人は、そう多くはないですが。

 ただ、その親しさを「神の家族だから」で結論づけるのは早急ではないかな、と今は思います。
 なぜなら、同じ教会員でなくても、親しくなる相手とは必然的に親しくなるからです。そこに「神の家族の絆」が必要になるとは思えません。
 また逆に「神の家族」であっても、親しくなれない人とは親しくなれません。その場合、「神の家族の絆」がちゃんと機能しているとも思えません。そうではないでしょうか。

 そういうことを考えると、「神の家族」とは何なのか、という話になります。
「べつに仲が良いことだけが神の家族ではない」という意見があるかもしれません。「イザという時にちゃんと結束できるのが神の家族なんだ」と。でも人間、イザという時は案外誰とでも結束できるものです。緊急時に見ず知らずの人間どうしが協力する、なんてことはザラにあります。

 それに実際、「私たちは神の家族だ」と言い合っていた人たちが今は心底憎み合っている、というケースは少なくありません。1980年代の「キリスト教会のカルト化」が顕著になった頃から、あるいはそれ以前から、あちこちで同じ教会員どうしの反目は起こっています。大げさな言い方かもしれませんが、同じような歴史を教会も繰り返しているわけです。

 旧約聖書でイスラエルの十二部族について読んでみて下さい。彼らは神に選ばれた民族であり部族であるはずですが、互いに殺し合っています。また新約聖書を読んでみると、教会内で多くのイザコザや争いが起こっていたことがわかります。

 さて、「神の家族」とは何なのでしょう。

 私の実体験から言えることは、教会で重大な問題が起こると、「神の家族」だった人たちが最大の敵になりえる、ということです。ただの敵ではありません。最大の敵です。強い絆で結ばれていると思っていた分、それが拗れた時のダメージが(互いに)大きいのかもしれません。そして拗れるとハンパでない反目、ハンパでない対立、ハンパでない断絶に発展することがあります。もちろん、全員が敵になるわけではありませんが。

 これはあくまで私個人が経験したことなので、全てにおいてそうだ、神の家族なんてインチキだ、と言っているわけではありません。
 しかしながら「神によって結ばれている」とか、「神にあって愛し合うことができる」とか、「苦しい時こそ信仰によって支え合える」とか、そういう綺麗な包装紙で包まれている「神の家族」という表現の中身について、ちょっと立ち止まって考えてみても、悪くはないだろうと思うわけです。

  私の場合で言えば、「神の家族」と思っていた人たち一人一人のことを、実はそこまで深く知っているわけではありませんでした。同じ教会にいて、一緒に礼拝したり奉仕したりしているから自動的に(あるいは思考停止的に)「神の家族だ」と思っていただけで、本当はその人がどんな人なのか、◯◯と言ったらどういう返事をする人なのか、ちゃんと知っていたとは言えません。もちろん人によって関係性は違いますから、気心の知れた人もいました。しかしそうでない人が圧倒的に多くて、それでも平気で「神の家族」と思っていたわけです。
 これは、我ながら不誠実な態度だったのではないかと、反省するばかりです。

 しかし今、同じ教会員のことを「神の家族だ」と言っている人たちは、どれくらい相手のことを知っているのでしょう。どれくらいの絆で結ばれているのでしょう。けっこう怪しいのではないかと思いますが(あくまで想像です)。
 少なくともキマジメくんの教会は、間違いなく「教会員はみな神の家族」であると主張しますが、実はお互いのことをさほど知っているとは言えません。深い絆で結ばれているわけではありません。何かあればその関係性は簡単に破綻していくでしょう。
 なぜそうハッキリ言えるのか? そういう設定だからです(笑)。

・教会で傷ついた人にしてはいけないこと

 教会でイロイロ酷いことがあって、結果的に解散になって、さてこれからどうしようとなった時、私はクソ真面目でしたので、「どこか他の教会に行かなければ」と思いました。本当だったらしばらく教会は行かなくても良かったと思うのですが、まあそれができなかったわけです。
 他にもそういう真面目な人がいましたし。

 で、言い方が悪いかもしれませんが、いくつかの教会を「お試し」させてもらうことにしました。いろいろな教団教派を見てみたかったのです。そしてそれぞれ違う教派の、場所的にも時間的にも行きやすいところをいくつかチョイスしてみました。その中には(知り合いの紹介もあったので)ある聖霊派の教会もありました。聖霊派とは私の古巣のグループです。

 教派によって礼拝スタイルが全然違うのに驚きましたね。当たり前なのでしょうけれど。その中で、勝手がわかっているという意味で一番落ち着いたのはやはり聖霊派でした。長年そういう礼拝をしてきたので、これも当たり前と言えば当たり前なのですが。

 しかし思わぬ落とし穴がありました。
 その聖霊派教会の祈祷会(?)みたいなものに参加した時、リーダーからいきなりこう言われたのです。
「代表の祈りをして下さい」
 教会で頑張っていた頃は、代表の祈りは普通にしていました。しかし前述の通り教会で紆余曲折あって後の私は、すっかりそういうことができなくなっていたのです。具体的に言うと、祈れなくなっていました。
 もちろん「形」だけならできるのですが、心からの祈りは捧げられませんでした。だから「代表の祈り」を頼まれて、正直困ってしまいました。私の境遇を知っていてよくそんなこと言えますね、とも思いました。そんなふうに困惑や疑問や怒りでグルグルしたまま、全然心のこもっていない祈りを捧げて、その場は収めましたが。

 これを読んで下さった皆さんには、このリーダーを反面教師にしてほしいですね。すなわち、教会で傷ついた人に「代表の祈り」とかさせないで、そっとしておいてあげてほしい、ということです。あえて言葉を掛ける必要もありません。なんでもない雑談をして、じゃあまたねーって気軽に見送ってあげてほしいです。話を聞いてあげようとか、助けてあげようとか、そういう心遣い自体は嬉しいのですが、あまり求めていません。
 これはもちろん私の場合の話なので、他の人はまた他の対応を望むのかもしれませんが。

 というわけで今回の雑感終わりです。(続く?)

2017年10月11日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第62話

 翌週の日曜日、礼拝の後、「メボ・ルンド聖会」の反省会が開かれた。
 奉仕に携わった兄弟姉妹が一同に会する。キマジメくんもその中にいた。溝田牧師は相変わらず遅れてやってきた。サトリコ姉妹を引き連れて。
「いやー遅れてすまないね。どうしても外せない電話があったものだから」
 牧師はそう言いながら誕生日席にドカッと座ると、足を組んだ。差し出された水を一口飲むと、「紅茶はないの?」と誰にともなく言う。すぐさまサトリコ姉妹が立ってキッチンに向かった。
「さて、じゃあ始めようか。先週のメボ・ルンド聖会を皆で振り返ってみて、次に繋げようか」
 牧師はふんぞり返って一同を見渡す。 
 アーメン、という声が起こった。
「じゃあ、1人ずつ順番に感想を言ってって。でも小学生みたいなのはやめてね。霊に深く感じたことを、端的に話してみて」
 霊に深く感じたことと言われてキマジメくんは正直困ってしまった。何を言ったらいいのだろう。皆は何と言うのだろう。しかし幸いキマジメくんの番は後の方だった。さっそく端のスタッフから「霊的感想」を言い始めた。
「最初から最後まですごい臨在でした」
「主の啓示と癒しに満ちていました」
「身体的癒しというより、心の癒しが顕著に起きたように思います」
「ルンド先生にただただ感謝です。ルンド先生をまた呼ばなければならないと感じます」
「あのおばあちゃん(酸素吸入の老婦人のことだろう)のために祈っている時、涙が止まりませんでした」
「本当に素晴らしい集会でした。言葉がありません」
 誰もが口々に絶賛している。
 しかし正直なところ、キマジメくんにそういう感想はなかった。どちらかと言うと、「何も起こらなかった」としか思えない。これは自分の「霊」が未熟だからだろうか。皆はもっといろいろ感じたり気づいたりしたのだろうか。だとしたら自分はもっと成長しなければならない。それにしても自分だけがこんなに鈍感なのだろうか。
「でも癒しは起こりませんでしたよね?」
 キマジメくんの思考に同調するかのように、誰かがタイミングよくピシャリと言った。とたんに場の空気が固まった。溝田牧師の目が一瞬鋭くなったのをキマジメくんは見逃さなかった。
 発言者に皆の注目が集まる。例によってタタカイ兄弟だった。どこからともなく溜息が聞こえた気がしたが、気のせいだったかもしれない。
「なんだね、タタカイ兄弟?」
 溝田牧師がゆっくり尋ねた。しかし今のが聞こえなかったわけではあるまい。
「癒しの集会でしたけど、癒しは起こりませんでしたよね?」
 タタカイ兄弟は一際大きな声で言い直した。「そうじゃありませんか?」
 一同、ザワザワどよめく。
「皆さん素晴らしいだとか感動しただとか言ってますけど、結局癒しは起こらなかったんだから、癒しの集会としては失敗だったんじゃないんですか? という意味です」
 今度ははっきりと溜息が聞こえた。溝田牧師だった。
「君には表面しか見えていなんだね、タタカイ兄弟」
「表面?」
「そう。君には表面しか見えてないんだよ。物事、特に癒しや奇蹟といった事柄の場合は、もっと深い部分を見なければならないんだよ。霊的な部分と言ってもいいかもしれないね。いずれにせよ表面だけ見ていると、大事なことをすっ飛ばしてしまうんだよ、タタカイ兄弟。そんな態度では何も学べないな」
 そこまで言ったところで、牧師は紅茶を何口か飲んだ。その間もタタカイ兄弟から目を離さない。獲物を狙うような目だ(とキマジメくんは思った)。
 溝田牧師はふんぞり返った上体を少し起こして、机に肘をついた。
「たぶん皆の中にはよくわかってない人もいるだろうから、それについてちょっと話そうか。じゃあ今からちょっと、弟子訓練していいですか?」
 溝田牧師は皆の反応を待つ。そして繰り返す。「弟子訓練していいですか?」
 アーメン、という声がちらほら上がった。「弟子訓練する」とはつまり、何かを話して教えるということだろう。あまり気分のいい言い方ではなかった(とキマジメくんは思った)。
「じゃあちょっと講義するけど、物事には順序があるんだよ。そう、順序、順番、わかるよね。で、どんな順番かって言うと、まずは霊の領域。そしてこの物質界。そしてまた霊の領域。こういう順番があるの。だから癒しも奇跡もまず霊の領域で起こるんだよ。でも霊の領域だから見えないの。でも起こってるの。そしてそれが物質界、つまりこの目に見える世界に、遅れて現れるの。そこにはタイムラグみたいなものがあるから、実際にあの集会の場で何も起こっていないように見えても、実は大変なことが起こってたんだよ? 君にわからなかっただけなんだよ? 私にはビンビン伝わってきたからね、聖霊様の圧倒的な働きが。あの集会で」
 その後も溝田牧師は聖書を引用しながら話を続けた。たとえば創世記において、アダムとエバは禁断の木の実を食べても実際には死ななかった、でも彼らの霊はあのとき既に死んでいた、それから何百年後に物質的な寿命を迎えて彼らの肉体は死んだ、これは物事がまず霊の領域で起こり、次に物質界で起こることの証明だ、云々。
 他にも様々な引用があったけれど、要はあの集会で何も起こらなかったように見えたのは間違いで、実際には「霊的に」すごいことが起こっていたんだ、それがわからないのは「霊的訓練」が足りないからだ、というような話だった。
 溝田牧師はそこまで話し終えると、また紅茶を続けて飲んだ。空になったようで「お代わりもらえる?」とサトリコ姉妹にカップを差し出した。 
 タタカイ兄弟はじっと黙って聞いていた。
「だから物事は霊的な目で見ないとダメなんだよ、我々クリスチャンは」溝田牧師は勝ち誇ったように言い放つ。「皆、先週の集会で霊的な激動があったの、わかったよね? あれがわからない人なんていたの? ちょっと信じられないなあ」
 それまで押し黙っていた一同が、「ああ、たしかに感じました」「やっぱりそうでしたよねー」「いやあれはすごかったですね」「もうただただハレルヤですー」などと言い出す。
 キマジメくんは正直なところ、「霊的な激動」なんてまったくわからなかった。皆本当に感じたんだろうか? 見ると受付係の姉妹もウンウン頷いて「すごかったすごかった」と言っている。でも彼女はたしかずっと受付にいたし、ミニストリー中はほとんどスマホを見ていたはずだ。「霊的な何か」を感じる余裕など、あったのだろうか。
 とはいえ、溝田牧師の話自体はわかった。霊的なものが先になり、物質的なものが後になる、と言うのならそうなのかもしれない。でもキマジメくんにはまだ疑問があった。
「先生、ちょっと質問なんですが」
 キマジメくんは思い切って手を挙げた。「ルンド先生の海外の集会では、その場で癒しが起こっているようなんですが、それはどうしてですか。時間差はないようですが」
 溝田牧師はまた溜息をついた。「キマジメくんはまだそんなことを言っているのか。君はもっと霊の目が開かれる必要があるね。あのねえ、海外と日本では、悪霊の働き方が全然違うんだよ。海外では癒しは奇蹟がバンバン起こっても、日本は悪霊の層に覆われているから、いろいろ妨げられてしまうんだよ。残念ながらね。だから私たちは祈って打ち破っていかなければならないんだよ。そういつも言っているだろう」
 溝田牧師は呆れたようにフンと鼻を鳴らした。
 キマジメくんは何も言えなくなって俯いてしまう。
 そこでタタカイ兄弟がまた手を挙げた。
「なんだい、タタカイ兄弟。まだ何か?」と溝田牧師。
「悪霊に妨げられて癒しが起こらない、ということですか?」タタカイ兄弟は大きな声で言った。「ならどうしてその霊的な激動は起こったんですか? 悪霊に妨げられているんじゃないんですか?」
「ん?」と溝田牧師が返答に詰まったのを、そこにいた誰もが感じた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年10月8日日曜日

元キリスト教原理主義者の雑感

「預言」について、小難しいことを3回続けて書きました。なんだか頭が疲れましたね。読んで下さった方も疲れたんじゃないかと思います(ただの想像)。
 というわけで今回は息抜き的に雑感を書きたいと思います。どうでもいい話になると思うので大変恐縮なのですが。

1年という期間の重み

 早いものでもう10月ですね。今年もあと3ヶ月を切りました。ちょっと気が早いですが、今年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか。
 私個人はちょっとペースダウンして、今年はゆっくり過ごしました。何度か書いている通り、今年の3月でようやく学校が終わり、ちょっと休みたい気分だったからです。休むと言っても仕事はしなければならないので、まあ適当に働いていたわけですけれども。

 私が常々思うのは、「時間」は人間にとって最も貴重で、掛け替えのないものだということです。物や金銭はなんとか取り返すことができても、時間だけは取り返すことができませんから。有意義であろうがなかろうが、過ぎた時間はもう返ってこないわけです。当たり前ですけれど。だからできるだけ有意義でありたいと私自身は願っています。

 具体的には、何かを「積み上げる」ことが大切だと考えています。何かコレと思うものを、年月をかけて、コツコツと積み上げていくのです。
 私はこの3月に学校を卒業し、資格試験に合格しました(お祝いの言葉を頂きありがとうございました)。約3年間学習を積み上げて、資格をゲットしたわけです。これは素直に嬉しいことでした。
 ただ私が言っている「積み上げる」とは、資格とか学習とかだけの話ではありません。日々コツコツ努力することの全部に当てはまると思います。筋トレで筋肉や体力を蓄えることも、英会話教室で英語力を身に付けることも、毎日真面目に働いて職場で信頼を得ることも、すべて一朝一夕にはできません。ある程度の期間、コツコツ続けた結果として得るものです。
 その1回1回は大したことないかもしれません。英単語を10個覚えたところで、ほとんど何にもなりません。でも毎日10個ずつ覚えていったら、1年後には今読めない英文が読めるようになっているでしょう。その10個を大したことないと思うか、重要な一歩と思うかで、違ってくるわけです。

 1年間という時間は誰にとっても同じ長さですが、どう過ごすかは皆違います。無為に過ごすことできます(無為が悪いわけではありません)。逆に何かを積み上げることもできます。そして私は後者の努力が好きなわけです。べつに押し付けるつもりはありませんが。

 さて、2017年は、皆さんにとってどんな1年だったでしょうか?(やっぱり気が早い)

・私はすごい原理主義者でした

 2013年の3月からこのブログを始めて、はや4年半が経ちました。もうすぐ5年の節目になります。何年書いても文章が上達しないのが問題ですが(それこそ積み上げられてないってことですね笑)。

 カルト化教会というニッチすぎる分野ですけれど、皆さんから頂く反応はハッキリ2つに分かれます。賛成か反対です。カルト化の被害に遭われた方は概ね賛成してくれていると思います。応援のコメントも沢山頂いています。しかし反対するのがどういう人たちなのか、(あまり議論をしないので)イマイチわかりません。原理主義的な教会の皆さんなのでしょうか。
 私は「預言」や「異言」や「癒し」などの奇跡系体験には懐疑的です。また「終末」や「携挙」を強調するのに反対です。「霊の戦い」や「ダビデの幕屋の祈り」などはもはやキリスト教ではないと考えています。もしかしたら、そのへんが原理主義の皆さんの反感を買っているのかもしれません。よくわかりませんが。
 でも私自身、生粋の原理主義者でした。たぶんそのへんの原理主義者がビックリするくらい過激でした。だから原理主義の皆さんがどう考えているのか、何を大切にしているのか、よく知っています。当ブログではあえてそれらを批判的に書いていますので、まあ怒られても仕方ないのかもしれませんけれど。

 でも当ブログを読んで怒られる原理主義の皆さんは、私がもともと「仲間」だったことは心に留めておいて下さい。そして「何が」私をここまで変えたのか、そのへんに興味を持って頂けると嬉しいです。

・クリスチャンのブログとは何ぞや

 以前、当ブログにこんなようなコメントを頂きました。
「聖書の引用のない(クリスチャン)ブログはダメだ」
 その人いわく、聖書の引用が沢山あるブログは「良いブログ」だそうです。逆に引用のない(当ブログのような)ブログはダメなようです。
 ずいぶん乱暴な言い方だと思いますが、皆さんどう思われますか。

 単純に考えて、クリスチャンが書くブログに聖書の引用があるかないかは、そのブログの「目指すもの」によって変わってくるんじゃないでしょうか。聖書解釈を披露したいなら、当然ながら沢山引用することになるでしょう。でもそういう必要がなければ引用しないでしょう。それだけのことだと思いますが。

 それに聖書引用が多いからって、そのブログが「良い」かどうかはわかりません。聖書引用でビッシリになった記事を皆さん読みたいですか。私はあまり読みたくありませんが。

 私のブログはキリスト教カルト化教会をテーマにしています。だから読者はカルト被害者か、そいう教会にいる人か、あるいはそういうことに興味のある人になると思います。聖書を読んで知っている人たちです。だからあえて言及しなくても「わかる」だろうと私は想定しています。
 それに全く引用しないわけでもありません。どこそこの書簡を読んで下さいとか、こんなようなことが書いてありますとか、そういう形の引用なら結構しています。もちろん必要に応じてですけれど。

 あまり聖書引用をしない理由は他にもあります。カルト被害に遭われた方の中に、「聖書の言葉さえ見たくない」という人が少なくないからです。私もそういう時期があったのでよくわかります。だから聖書がどうこうという講釈はあまりしません。

 そういう諸事情を無視して、「引用が多い=良いブログ」「引用がない=ダメなブログ」と決めつけてしまうのは、なんとも浅はかじゃないかなと私は思います。
 繰り返しますが皆さんはどう思われますか。

 何だかんだ言いつつ、また小難しいことを書いてしまった気がしますね。大変失礼しました笑。それではまた。