教会と地域社会の関わり・その3

2014年8月29日金曜日

教会と地域社会

t f B! P L
 教会と地域社会の関わりについて3回目。

 コメントでもいただいたけれど、2011年3月の東日本大震災の際には、その教会の「地域への働きかけ」のスタンスが顕著に現れたのではないかと思う。非常事態なのだから通常の姿は見られない、という意見もあるだろうけれど、私は逆に、そういう時こそ教会の本質が現れるのではないか、と思っている。

 もちろん、教会によって事情は様々だから、あの時何もしなかったから、その教会は地域に対する心がない、ということにはならない。したくてもできない状況はある。また東日本大震災だけを挙げて論じる話でもない。
 そうでなく私がここで論じたいのは、あの時「何かをした」教会が、それを「なぜしたか」いうことで、その行いと動機が、平時よりも顕著にその教会の本質を現すのではないか、ということだ。

 ちょっと思い出話を含めながら書いてみたい。

 東日本大震災発生から一週間以内に、私が知っているだけでも複数の福音派教会が現地入りした。そしてそれぞれに拠点をかまえて被災地支援活動を行った。時に協働することもあった。
 私も参加させてもらったけれど、被災直後の数日間は何をしたら良いかわからなかった。あまりにひどい状況だったからだ(このときの体験については、別の機会に詳しく書ければと思っている)。と言っても自分たちにできる最善を尽くすしかない訳で、炊き出しとか、支援物資を受け取ってもらうとか、瓦礫の撤去とか、被災地の必要には全然足りないのだけれど、とにかくそういうことに専念するしかなかった。現地では物資を得られないので、使い切ったら東京に戻り、補給してまた現地に入る、というような日々をしばらく繰り返した。

 この時の活動に、何か裏とか打算とかがあったとは私には考えにくい。牧師の頭の中はわからないけれど、少なくともボランティアを買って出た信徒らの動機は純粋だったはずだし、一生懸命だったし、何の見返りを求めるものでもなかった。と思う。
 実際、この期間、私たちは自分たちをクリスチャンだとか教会だとか紹介したことはなかった。ただのボランティアとして活動しただけだった。

 しかしそういうボランティア活動も、次第に変質していった。
 私たちの活動範囲で言えば、4月半ばくらいには、ほとんど炊き出しの必要がなくなった。現地の店も開き、物資の不足も解消された。瓦礫撤去の必要はまだまだ沢山あったけれど、少人数の素人では限度があった。
 その代わり、海外の教会からの大人数のボランティア(皆クリスチャン)を受け入れて現地に送ったり、彼らの活動場所をコーディネートしたり、集まった大量の支援物資の受け取り先を探したり、といったマネジメント業務が増えていった。
 同時に牧師は、コンサートとか、子ども向けのイベントとかいう娯楽(?)を現地で主催するようになった。その頃には方々から義援金が集まってきていて、そういう活動費に充てられた(と思う)。
 コンサート会場では、自分たちの支援活動の様子が映像が流された。牧師が小さな女の子に物資を手渡す姿が、感動的なBGMと共に流された。今思うと、恩着せがましい「頑張ったアピール」でしかなかったけれど。

 次に牧師は事業展開に乗り出した。支援活動中に得たコネとかノウハウとかを、うまく利用できると思ったのかもしれない。そして企業へのプレゼンなどで、被災地支援の様子を大いに利用した。前述の感動的な写真ももちろん使われた。「私たちはこんな慈善活動をいち早く、多くの犠牲を払って、でも喜んでやってきました」というアピールに他ならなかった。

 もちろん新規に事業展開しようとしたら、失敗する訳にはいかないから、あることないことアピールするだろう。それはビジネスとして当然だ。自分たちの活動をアピールし、能力をアピールし、ビジョンをアピールし、それに出資してもらうのがビジネスだからだ。
 けれど、初めは無垢なボランティアとして支援活動に徹し、「すべきことをやっただけです」みたいな謙遜さをアピールしていたものが、今度はそれを踏み台にして事業に乗り出していく、というのは、何を意味するのだろうか。

 それはビジネスマンであれば「計画だった」と言えるだろう。けれどクリスチャンとしては、「聖書的に見せかけた打算」ということではないだろうか。初期の頃のボランティアが純粋な奉仕だったとしても、結果的にその「善行」を「宣伝」として利用し尽くすのだから、被災地の方々を愛したのでなく、自分勝手に利用したに過ぎないのではないだろうか。

 これと似たような光景がある。
 あやしい健康食品を売る会社が、無料のセミナーとか講習会とかを何度も開き、そこで高価なサンプルをばら撒いて、顧客を集める。彼らは「お客様の健康のために!」と熱弁して、毎回大量の無料サンプルを配る。集まった人々は、「本当にいいの?」とか言いながらもらって帰る。口コミでその話が広がっていく。そんなことが何度か続いた後、最終的に、その会社はより高価な商品を顧客に買わせることに成功する。

 果たしてその会社は、地域住民を愛していたのだろうか。
 その答えは、上記の教会(牧師)が被災地の方々を本当に愛していたかどうかと、根本的に同じだろうと思う。

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