前回のまとめ。
「地域を福音化する」みたいなスローガンを掲げて、積極的に地域に関わろうとする教会(牧師)がある。けれどその実態は、地域に対する一方的な押し付けであることが多い。また信徒に過重な奉仕を強いるという点も見逃せない。そういう教会は地域の行事には一切参加せず、教会が提供するものこそ一番だ、みたいに考えている。
以上、まとめ終わり。
後半の方で触れたけれど、そういう教会は最初から、地域に対してずいぶんと上目線である。「地域に仕える」と言っているけれど、裏腹に「やってあげている」「自分たちが犠牲になってあげている」という心理が見え隠れしている。
たとえばゴスペルコンサート。流行の曲を福音風の替え歌にしたり、ゴスペルっぽくアレンジしたりして、したり顔で披露している。「ほら、すごいでしょ?」とか言いたげだ。これは良いものだ、この地域の住民に必要な、ありがたいものだ、自分たちはそれを無償で提供してやっているんだ、などと思っているのが、簡単に読める。
しかしその割に、提供するもののクオリティは低い。たとえば上記のゴスペルコンサートで言えば、素人が短期間、頑張って練習した程度である。いわゆる本物のゴスペルを聴きたい人からしたら、まったく聴くに耐えない。一般的に言えば、知り合いや関係者らが義理で聴きにくるアマチュアバンドにも劣る。
しかしやっている方は、「これだけ頑張って練習したんだから価値があるはずだ」「この苦労を無償で提供するのだから、みんな感心して聴くはずだ」みたいな勘違いをしている。音楽の話で言えば、売れなきゃ消えるだけの音楽業界の厳しさを、完全にナメている。
あるいは「目的は福音を伝えることなんだから、多少ヘタでもいいでしょ」みたいに開き直っているかもしれない。
もちろん、ゴスペルもゴスペルコンサート自体も悪くない。素人がそういうチャレンジをしてはいけないという話でもない。そういう個々のクリスチャンの努力を否定したいのでもない。そうでなく私が問題に思うのは、独り善がりな押し付けをもって「地域に仕えています」と平気で言う教会(牧師)の厚顔無恥についてである。
後半の方で触れたけれど、そういう教会は最初から、地域に対してずいぶんと上目線である。「地域に仕える」と言っているけれど、裏腹に「やってあげている」「自分たちが犠牲になってあげている」という心理が見え隠れしている。
たとえばゴスペルコンサート。流行の曲を福音風の替え歌にしたり、ゴスペルっぽくアレンジしたりして、したり顔で披露している。「ほら、すごいでしょ?」とか言いたげだ。これは良いものだ、この地域の住民に必要な、ありがたいものだ、自分たちはそれを無償で提供してやっているんだ、などと思っているのが、簡単に読める。
しかしその割に、提供するもののクオリティは低い。たとえば上記のゴスペルコンサートで言えば、素人が短期間、頑張って練習した程度である。いわゆる本物のゴスペルを聴きたい人からしたら、まったく聴くに耐えない。一般的に言えば、知り合いや関係者らが義理で聴きにくるアマチュアバンドにも劣る。
しかしやっている方は、「これだけ頑張って練習したんだから価値があるはずだ」「この苦労を無償で提供するのだから、みんな感心して聴くはずだ」みたいな勘違いをしている。音楽の話で言えば、売れなきゃ消えるだけの音楽業界の厳しさを、完全にナメている。
あるいは「目的は福音を伝えることなんだから、多少ヘタでもいいでしょ」みたいに開き直っているかもしれない。
もちろん、ゴスペルもゴスペルコンサート自体も悪くない。素人がそういうチャレンジをしてはいけないという話でもない。そういう個々のクリスチャンの努力を否定したいのでもない。そうでなく私が問題に思うのは、独り善がりな押し付けをもって「地域に仕えています」と平気で言う教会(牧師)の厚顔無恥についてである。
彼らの言う「地域に仕える」とは、地域社会と足並みを揃えようとか、共に生きようとか、地域の人々の必要(伝道とか救いとかいうレベルでなく)を満たそうとかいうことではない。自分たちのような上位の存在が、下位の未信者に施してやるんだから、とにかくありがたく思え、みたいなことなのだ。
まさかそんなことはないだろう、と思う人がいるかもしれない。けれどそれはちょっと考えが甘い。ある牧師など、日常的に未信者を蔑視していて、「ノンクリ(未信者のこと)なんてこんなもんだ」というのが口癖になっていた。「ノンクリなんてどうせ霊的なことなどわからない」「目が開かれてないから言っても無駄だ」「自分たちが祈って支えてやらなきゃダメなんだ」などと真顔で言う。
いったい何様なのだろうか。
ある時、そういう牧師が三百人規模のコンサートを企画して、あれやこれやと頑張って準備をした(もちろん実働は信徒たちだ)。当日のリハーサルになって、「音響にうるさい」牧師が、やれ低音がどうとか、ゲインがどうとか、「音作り」を始めた。やたら時間をかけてリハーサルを終えた牧師が、満足げに言った。「クリスチャンはどの分野においてもプロでなければならない」
さてコンサートが始まり、信徒の関係者らで一応席は埋まって、無事に終わった。帰りがけ、カラオケが趣味という未信者のご婦人が一言。「音が悪くて聞きづらかった。次はもうちょっと良くした方がいい」
やはり、もうちょっと謙虚になって、地域の未信者の方々の声に耳を傾けるべきだろうと思う。自分たちの方が優れている、という根拠のない自信は置いておいて。
学芸会程度のゴスペルコンサートですか(苦笑)。ただでも行こうとは思いませんが。
返信削除これならまだデパートが11月になると必ずやる、クリスマスツリーの点灯式のほうがはるかにましです。毎年この時期にデパートは正面玄関に大きなクリスマスツリーを出して点灯式をやるのですが、そのときにはいつもキリスト教の幼稚園の園児たちによるクリスマスソングの演奏があります。道行く大人たちも立ち止まり、「あらまあ、かわいらしい」と目を細めます。こちらのほうがまだかわいらしい年齢の子供たちですし、経済振興のためになっている分、新興宗教系のプロテスタントによるゴスペルコンサートよりはるかにいいと思います。(しかし新興宗教系のプロテスタントはなぜいつもゴスペルなのでしょうか?なぜグレゴリオ聖歌をやらないのでしょうか?音楽性に優れた云々・・・なこだわりもあるようですが、それなら同じ素人によるものでも、聖イグナチオ教会の聖歌隊によるグレゴリオ聖歌のほうがはるかにポイントが高いですし、私個人はこちらのほうを聞きに行きたいと思います。)
新興宗教系のプロテスタントの中には、「2011年3月の東日本大震災のときに被災地にいって、被災地の方々のために仕えました!」と自己宣伝を必死になってやっている教会があります。
一体何をやったのかと聞くと、いちおう炊き出しもしたことはしたようですが、あくまでそれはアリバイっぽい感じでした。実は本当の目的は炊き出しではなく、自分たちのゴスペルコンサートを聞かせることと聖書のみことばを書いたカードの配布でした。「こんな時だからこそゴスペルと聖書のみことばによって、福音をのべ伝えることが大事なのだ。あちらもそれを一番渇望しているし感謝するはずだ」という自分たちのエゴ丸出しな信念からでした。
しかし信念をもってやれば相手方に必ずありがたがられるというのも、ずいぶんおかしな話ではないでしょうか。家も財産も失って明日からどうやって生活していけばいいのか?と途方に暮れている人たちを前に「ハレルヤ~!」と歌い、腹の足しにもならない聖書のみことばなる「なにやらありがた~いもの」が書かれたカードなんて、新興宗教はなんと頭のおめでたいものなのかと呆れて開いた口がふさがりませんでした。
彼らには共感というものがありません。アフリカの餓死しそうな子供にパーティードレスを着せて、「ほら、きれいでしょう?これは私たちの善意だから、あなた方はありがたがっているわよね?」とやって、いったいなんになるのでしょう?
|しかしその割に、提供するもののクオリティは低い。たとえば上記のゴスペルコンサートで言えば、素人が短期間、頑張って練習した程度である。いわゆる本物のゴスペルを聴きたい人からしたら、まったく聴くに耐えない。一般的に言えば、知り合いや関係者らが義理で聴きにくるアマチュアバンドにも劣る。
返信削除しかしやっている方は、「これだけ頑張って練習したんだから価値があるはずだ」「この苦労を無償で提供するのだから、みんな感心して聴くはずだ」みたいな勘違いをしている。音楽の話で言えば、売れなきゃ消えるだけの音楽業界の厳しさを、完全にナメている。
あるいは「目的は福音を伝えることなんだから、多少ヘタでもいいでしょ」みたいに開き直っているかもしれない。
地域対策からズレますが、だいたいミュージシャンは、まずは自分の音楽表現を、ファンを含めてたくさんのひとに聞いて欲しいと思って、活動しますよね。無論、カラオケで自分たちの曲が歌われれば権利使用料を稼げる点で、さらに多くの人に歌ってくれるといいなとも考えるでしょう。
コンテンポラリークリスチャンミュージックにゴスペルフォーク、まとめて「さんび(笑)」は、歌手というかリーダーが、自分たちが歌う以前に、教会員を含むすべてのひとたちに、礼拝や集会で声をそろえて歌ってほしいと最初から思っているので、考えてみればずうずうしいと言えないでしょうか。
その歌が気に入れば誰が止めたって自ずから歌うだろうに、最初からさんびしましょう、主をたたえましょう、とやるので、知らない歌を、いやいや、どうでもいいと思っている歌なんか、誰が歌うかよ!と考えてしまうのは罪でしょうか?
ちなみに僕は、「さんび(笑)」はハッキリ言って嫌いです。
=コンテンポラリークリスチャンミュージックにゴスペルフォーク、まとめて「さんび(笑)」は、歌手というかリーダーが、自分たちが歌う以前に、教会員を含むすべてのひとたちに、礼拝や集会で声をそろえて歌ってほしいと最初から思っているので、考えてみればずうずうしいと言えないでしょうか。=
削除この部分についてです。メインライン系教団の礼拝指針などにも記述されているように、礼拝には「公同の礼拝」という性質が有ります。会衆が声をそろえて歌うことが期待されるのはそういう神学、礼拝学に基づいているわけで、「ずうずうしいと言えないでしょうか。」という問いかけには、そういうことではありませんとお答えするのが一応の模範解答ではないかと思います。それは、コンテンポラリークリスチャンミュージックであろうと讃美歌であろうと同じであります。
公同の礼拝は出エジプトの頃から発展し始めて現代に至る礼拝学上の伝統でありますから、そういう部分への理解を深めていただければと思います。
また、誰が歌うかよ!と考えてしまうのは罪でしょうか?という部分については、個々の神との関わりによって変わることであろうと思いますので、断言できる類の事柄ではないように思います。しかし、公同の礼拝という部分からすれば、神への捧げものとして心を合わせるということが主旨ですから、歌声を合わせないにしても、心を合わせた姿勢でそこに参席していることが大事かと思います。歌そのものに対する好悪の感覚自体は自然で個人的なもので、礼拝の心には直接関連付けせずに扱える事柄であると思います。
ゴスペルの話題になっておりますので、一言。
返信削除実は私この5月から、住んでいる街のあるゴスペルグループに入会し、歌っております。
もともと歌が好きで、キリスト教入信当時の約35年前、教会の聖歌隊に入って特訓?を受け?
て、どのような歌でも歌う事が出来る様になりました。
入会に当たっては、約30年前に働いていた仲間の誘いがあっての事でしたが、実は、もう一つこの街には大きなゴスペルグループがあり、ここの代表者(実はもうその役目を退かれたのですが)と知り合いという事もあって、何度も入会しようかどうしようか、ずるずると今に至るのですが、ここはいわゆる「キリスト教的な」グループで、毎週の練習時にはお祈り・説教が必ずあるのです。歌にも日本語で「神を賛美します」と言うようなものがあるそうで、コンサートに行った人は違和感を覚えたとの事です。
いわゆる何でも「伝道」につなげたい思いがあるのでしょう。
確かにゴスペルとは、もともと黒人が、欧米白人至上主義のプロテスタントの教えの下で、有色人種である黒人を、人間と家畜の中間の様に捉えて奴隷とし、売り飛ばしたり、酷使したりと言う歴史の中で、皮肉にも「ご主人」である白人の信仰しているキリスト教の神を彼らも「信じて」、彼ら自らの運命をその「神に」叫んだ、信仰=その魂の叫びをスピリットにしているはずです。
しかしその意志を、我々何の不自由もない現代日本人が表現しようとしても、無理があります。
そして、新興宗教系のキリスト教が、何が何でも「伝道・宣教」目的で「ゴスペル」を「利用」している、と言うような風情です。
翻って私たちのグループは、代表者自身がそのような動きに違和感を感じ、一線を画し、1今年0周年を迎えるのですが、創設2年目からある方を通して、東京を中心に「プロ」として活躍されているあるゴスペルグループとの深い関わり、指導やコンサートでのコラボレーション、しかも、このプログループは、米国はニューヨークのある世界的なプロゴスペルグループとのコラボレーションもあり、3段構えで自信を持って活動しております。従いまして、お客様を元気に出来る「良い歌」であるなら、例えばアナ雪の「ありのままで」なども歌います。
ですから、有料のコンサートです。
付け焼刃の、布教目的の、何でも「キリスト教」化したい人間の思惑には、対抗しております!
ちなみに、教会では「賛美リード」をしておりますが・・・・・・・。
匿名2014年8月30日 1:32 さんへ
返信削除|メインライン系教団の礼拝指針などにも記述されているように、礼拝には「公同の礼拝」という性質が有ります。会衆が声をそろえて歌うことが期待されるのはそういう神学、礼拝学に基づいているわけで、「ずうずうしいと言えないでしょうか。」という問いかけには、そういうことではありませんとお答えするのが一応の模範解答ではないかと思います。それは、コンテンポラリークリスチャンミュージックであろうと讃美歌であろうと同じであります。
賛美歌としてその教会で歌われているものであればいざ知らず、ギターを教会で弾きたくて表現を妥協したような若者がさんび(笑)をでっちあげて、さあ皆さん歌ってください、とやるのがずうずうしいと言っているのです。
「会衆」が声をそろえて歌う、そんな70年代にあったといううたごえ喫茶みたいなやり方が最善と思って主張するひとたちは、礼拝中にバスやアルトの音域でうたってはダメとも言うのです。
まずは、自分たちで歌え、そして周知させて気に入ってもらって、参列者の誰かが歌い出せば、まわりもノッて心をあわせてくるでしょう。
賛美とはそういうものではないですか?
|公同の礼拝は出エジプトの頃から発展し始めて現代に至る礼拝学上の伝統でありますから、そういう部分への理解を深めていただければと思います。
中世カトリックにそのやり方がありましたかね?
バッハヘンデルから300年くらいでしょう。その時代はそれすら悪魔的とか言われませんでしたか?
さんび(笑)が礼拝の伝統の継承だなんて、言いすぎです。
|また、誰が歌うかよ!と考えてしまうのは罪でしょうか?という部分については、個々の神との関わりによって変わることであろうと思いますので、断言できる類の事柄ではないように思います。しかし、公同の礼拝という部分からすれば、神への捧げものとして心を合わせるということが主旨ですから、歌声を合わせないにしても、心を合わせた姿勢でそこに参席していることが大事かと思います。歌そのものに対する好悪の感覚自体は自然で個人的なもので、礼拝の心には直接関連付けせずに扱える事柄であると思います。
賛美歌集を新しくした「日本の」キリスト教会において、礼拝中に歌わないという態度をとれば幹部役員の道は許されず、それ以外の妥協したひとたちを後にして、賛美歌ジプシー、下手すれば棄教者となるのです。
いまや賛美歌は、21世紀日本のキリスト教会のつまづきの石だと思います。
賛美歌、聖歌、さんび(笑)を問わず。
お返事をいただいた方の匿名でございます。
削除ご説明いただき、「ずうずうしい」の件了解いたしました。その段の最後の「賛美とはそういうものではないですか?」に関しましては私は公同の礼拝の原則からすると少々異論が有りますが、「ずうずうしい」絡みで考えますればお考えは十分理解できます。
中世カトリックの取組にそういう部分が有ったかというご指摘に関してです。伝統とは言いましても原則の部分のことを申し上げているわけで、実践がすでに確立されていたということではありません。「発展し始め」と表現いたしましたように、時代によって少しずつ変遷を経ているわけであります。さんび(笑)と表現なさりたいものに、そういう背景が少しも関係ないということにもならないであろうと思います。
後段の実践は私は聞き及んでおりませんので何とも申し上げようがございませんが、讃美歌が教会の躓きの石かどうかは、個々の教会なり教団なりの態度によろうかと思います。
明確化のご応答を感謝いたします。
匿名2014年8月30日 12:40 さんへ
返信削除|さんび(笑)と表現なさりたいものに、そういう背景が少しも関係ないということにもならないであろうと思います。
あえて、おわびします。
コンテンポラリーやゴスペル、フレイズを好きなひとは確実にいて、それは自分がそういうのと讃美歌21を嫌いなのと同じくらい確かなことだと。
何であれ違法なことでもないのに、ひとの好きなものを中傷するのは、よいことではありませんでした。
僕は30年以上も前から「友よ歌おう」が嫌いで、大学聖書研や教会青年会で楽しそうに歌われるのが苦痛でしかなく、歌のときに黙っていると聖霊の満たしがないとか肉的だとかかたくななのは救われないとか、しょっちゅう言われたのに加えて、それが讃美歌21や新聖歌のかたちで礼拝にまで上がりこまれた今時の流れに、暗闇で歯噛みするというのはこういうことかと、出エジプトのファラオへの災いはそういうことかと、痛感しているのです。
ひとが教会から消えるのは、そういう理由もあると、わかっていただけると助かります。
そして、あらためて、申し訳ありませんでした。
お返事いただいた匿名でございます。
削除私の方では、中傷をなさったとは受け止めておりません。
「友よ歌おう」をめぐってヘタレCさんに投げかけられた出鱈目な評価や説明は、指導者が外れであったことを示しております。さぞ嫌な思いをなさったであろうと、心中お察しいたします。自分が「優っている」とか「正しい」とか思っているパリサイ人的クリスチャンは、隣人に容赦ないので困ります。それが神の御心をそこなっていることに気付かないので性質が悪いのです。
恵と平安をお祈りいたしました。