教会と地域社会の関わり・その2

2014年8月28日木曜日

教会と地域社会

t f B! P L
 教会と地域社会の関わりについて2回目。

 前回のまとめ。
「地域を福音化する」みたいなスローガンを掲げて、積極的に地域に関わろうとする教会(牧師)がある。けれどその実態は、地域に対する一方的な押し付けであることが多い。また信徒に過重な奉仕を強いるという点も見逃せない。そういう教会は地域の行事には一切参加せず、教会が提供するものこそ一番だ、みたいに考えている。
 以上、まとめ終わり。

 後半の方で触れたけれど、そういう教会は最初から、地域に対してずいぶんと上目線である。「地域に仕える」と言っているけれど、裏腹に「やってあげている」「自分たちが犠牲になってあげている」という心理が見え隠れしている。
 たとえばゴスペルコンサート。流行の曲を福音風の替え歌にしたり、ゴスペルっぽくアレンジしたりして、したり顔で披露している。「ほら、すごいでしょ?」とか言いたげだ。これは良いものだ、この地域の住民に必要な、ありがたいものだ、自分たちはそれを無償で提供してやっているんだ、などと思っているのが、簡単に読める。

 しかしその割に、提供するもののクオリティは低い。たとえば上記のゴスペルコンサートで言えば、素人が短期間、頑張って練習した程度である。いわゆる本物のゴスペルを聴きたい人からしたら、まったく聴くに耐えない。一般的に言えば、知り合いや関係者らが義理で聴きにくるアマチュアバンドにも劣る。
 しかしやっている方は、「これだけ頑張って練習したんだから価値があるはずだ」「この苦労を無償で提供するのだから、みんな感心して聴くはずだ」みたいな勘違いをしている。音楽の話で言えば、売れなきゃ消えるだけの音楽業界の厳しさを、完全にナメている
 あるいは「目的は福音を伝えることなんだから、多少ヘタでもいいでしょ」みたいに開き直っているかもしれない。

 もちろん、ゴスペルもゴスペルコンサート自体も悪くない。素人がそういうチャレンジをしてはいけないという話でもない。そういう個々のクリスチャンの努力を否定したいのでもない。そうでなく私が問題に思うのは、独り善がりな押し付けをもって「地域に仕えています」と平気で言う教会(牧師)の厚顔無恥についてである。

 彼らの言う「地域に仕える」とは、地域社会と足並みを揃えようとか、共に生きようとか、地域の人々の必要(伝道とか救いとかいうレベルでなく)を満たそうとかいうことではない。自分たちのような上位の存在が、下位の未信者に施してやるんだから、とにかくありがたく思え、みたいなことなのだ。

 まさかそんなことはないだろう、と思う人がいるかもしれない。けれどそれはちょっと考えが甘い。ある牧師など、日常的に未信者を蔑視していて、「ノンクリ(未信者のこと)なんてこんなもんだ」というのが口癖になっていた。「ノンクリなんてどうせ霊的なことなどわからない」「目が開かれてないから言っても無駄だ」「自分たちが祈って支えてやらなきゃダメなんだ」などと真顔で言う。
 いったい何様なのだろうか。

 ある時、そういう牧師が三百人規模のコンサートを企画して、あれやこれやと頑張って準備をした(もちろん実働は信徒たちだ)。当日のリハーサルになって、「音響にうるさい」牧師が、やれ低音がどうとか、ゲインがどうとか、「音作り」を始めた。やたら時間をかけてリハーサルを終えた牧師が、満足げに言った。「クリスチャンはどの分野においてもプロでなければならない
 さてコンサートが始まり、信徒の関係者らで一応席は埋まって、無事に終わった。帰りがけ、カラオケが趣味という未信者のご婦人が一言。「音が悪くて聞きづらかった。次はもうちょっと良くした方がいい

 やはり、もうちょっと謙虚になって、地域の未信者の方々の声に耳を傾けるべきだろうと思う。自分たちの方が優れている、という根拠のない自信は置いておいて。

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