「祈り」について・その3

2014年6月5日木曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L
「祈り」について。3回目。
 
 前2回で、祈りにおいて陥りやすい間違いについて書いてきた。端的に言うと「祈りが形骸化する」「教理に固執しすぎる」といった種類の間違いだ。これは私自身も陥りやすいものだし、多くの人にとってもそうだと思う。人間誰しも、人からどう思われるか、多少の差はあれ気になるものだ。
 
 こういった間違いに陥りやすく、かつそれを修正しづらいのは、実はクリスチャン歴の長い人たちだ。クリスチャンになったばかりの人の方が、ものを知らない分、純粋に祈れるし、間違いを認めやすい。そうできないのは、いわゆるクリスチャンのベテランに多い(と私は思っている)。
 
 クリスチャン歴の長い人たちは、その信仰生活がどうであれ、教会内では必然的に「先輩」になっていく。新しく教会員になる人は皆「後輩」だから、先輩としていろいろ教えたり、指導したりする機会が自然と増えてくる。また長い分、教会学校の先生とか、ある奉仕のリーダーとか、そういう立場に就く可能性も高い。大小の集まりで、「代表の祈り」をする(させられる)ことも多いだろう。

 だからどうしても、ちゃんとした聖書知識を持っていなければとか、模範的な信仰生活を送っていなければとか、そういう言外のプレッシャーに晒されることになる(その結果立派な信仰生活を送れるとしたら、そういうプレッシャーも決して悪くはないけれど)。また、特に男性なら、プライドみたいなものもあるだろう。
 
 そして、そのプレッシャーは当然「祈り」にも現れる。たとえば後輩が大勢いる中で代表の祈りをするとなったら、先輩としては当然、立派な、あるいは感動的な、あるいは御言葉に溢れた、あるいは的確な、「良い祈り」(?)をしなければと思うだろう。だからそうなるように、頑張って祈ることになる。
 しかしそういう視点で祈ること自体、すでに「形骸化」が始まっている。神に祈ることよりも、その祈りが人々にどう受け入れられるかを気にしているからだ。
 とは言っても、だからその祈りはまったくの嘘だ、と言うつもりもない。そこには真実な思いも少なからず含まれているだろう。けれど、そうでないものが多分に混じっているし、それは祈った本人が一番自覚している。

 この自覚をどう扱うかが、一番重要だと私は思う。すなわち、その自覚に向き合い、祈りや信仰の形骸化に危機感を覚え、どうにか真実な心に立ち戻ろうとするか、あるいは無視するか。
 その自覚を無視しても、周囲にはわからない。自分の祈りが「人目を気にした祈り」であると知っているのは、自分自身だけだからだ。そしてそれを上手に続けられるなら、その人はいつまでも「祈りがすごいですね」とか、「祈りの人ですね」とか、「立派な信仰ですね」とか言われ続ける。

 その路線で行くのは全然かまわない。けれど、すごく虚しいのではないかと思う。
 たとえば牧師が「この地にリバイバルを!」とか叫ぶタイプだとしたら、自分としてはさほどそれを願っていなくても、泣きながら「リバイバルを!」とか祈らなければならなくなるからだ。
 そして一度そうすると、「熱く祈る人」「信仰の人」というようなイメージが付いて尊敬される。その尊敬に応えるためには、そしてそのイメージを崩さないためには、更に熱い祈りをしなければならなくなる。自分はそんなこと、さほど願っていないにもかかわらず。

 そういう蟻地獄みたいなスパイラルに陥るのは大変気の毒だけれど、端から見ると「道化」みたいだ。周囲の期待に応えて、泣いたり叫んだり、神妙になったりして、敬虔なクリスチャンを演じるからだ。そして更に気の毒なのは、その祈りはもはや演技であり、神様とはほとんど何の関係もないということだ。

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