以前の記事で「クリスチャンは一般社会より上」という意見を肯定したが、よくよく考えると疑問が生じたので、訂正したい。
これは言い換えると「クリスチャンはエリートである」ということだと思う。
聖霊派の牧師に、この説の支持者が少なくないようである。
この説の根拠として考えられるのは、
①クリスチャンがイエス・キリストの十字架による贖いを受けた特別な存在であること
②旧約のダニエル書に見られるダニエルの優秀さ
③詩編4:3が「聖徒を特別に扱われる」(新改訳)と言っていること
④クリスチャンがイエス・キリストから大宣教命令と世界管理命令を受けていること
あたりが主要だと思う。他にもあるかもしれない。
私はこの説を単純に信じていた。が、考えてみると、これは傲慢からくる思想のような気がする。
理由は次の通りだ。
①について、十字架による贖い(罪の許し)を受けていることと、エリートであることとはそもそも関係がない。
②について、聖徒の一人であるダニエルが優秀だったから、聖徒が皆そうだとは言えない。実際、全ての聖徒たちが優秀だったとは書かれていない。
③について、詩編4:3は口語訳だと「聖別された」となっていて、「特別」というニュアンスはない。また仮にあったとしても、「特別」と「エリート」は関係ない。
④について、それらの命令を受けているから私たちは優秀だ、という理屈は飛躍しすぎている。小学生が母親に「宿題やんなさい」と言われて「あんなの簡単だよ」と減らず口を叩くのと同じ理屈だ。そうでなく、重い責任として厳粛に受け止めるべきではないか。
という訳で、いかに私が考えていなかったかがわかった。
この「クリスチャン=エリート」説は、繁栄の神学の影響ではないかと思う。
成熟したクリスチャンは繁栄していなければならない、出世していなければならない、「勝ち組」でなければならない、優秀性を証明していなければならない、ということだ。
ある牧師は「この世の文化を勝ち取る」とか、「この世に影響を与えていく」とか、一般社会を征服しコントロールすることに固執するような発言をしている。私たちクリスチャンに命じられているのは「支配」でなく「管理」なのだが。
優秀なのは全然悪いことではないけれど、優秀でなければならない、というのはずいぶん窮屈は話だ。
それに、人の多様性を否定することにもなる。一種類の人間しか価値が認められないコミュニティには、他の種類の人間は居られない。それに、「優秀」の定義もいろいろあるだろう。
この「クリスチャン=エリート」説を肯定するのは自由だが、そういう人はルカの福音書17:10を一度じっくり読んでみてはどうだろうか。
「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)
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