クリスチャンって本当にエリートなの?

2013年6月6日木曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 以前の記事で「クリスチャンは一般社会より上」という意見を肯定したが、よくよく考えると疑問が生じたので、訂正したい。

 これは言い換えると「クリスチャンはエリートである」ということだと思う。
 聖霊派の牧師に、この説の支持者が少なくないようである。

 この説の根拠として考えられるのは、

 ①クリスチャンがイエス・キリストの十字架による贖いを受けた特別な存在であること
 ②旧約のダニエル書に見られるダニエルの優秀さ
 ③詩編4:3が「聖徒を特別に扱われる」(新改訳)と言っていること
 ④クリスチャンがイエス・キリストから大宣教命令と世界管理命令を受けていること

 あたりが主要だと思う。他にもあるかもしれない。

 私はこの説を単純に信じていた。が、考えてみると、これは傲慢からくる思想のような気がする。
 理由は次の通りだ。

 ①について、十字架による贖い(罪の許し)を受けていることと、エリートであることとはそもそも関係がない。
 ②について、聖徒の一人であるダニエルが優秀だったから、聖徒が皆そうだとは言えない。実際、全ての聖徒たちが優秀だったとは書かれていない。
 ③について、詩編4:3は口語訳だと「聖別された」となっていて、「特別」というニュアンスはない。また仮にあったとしても、「特別」と「エリート」は関係ない。
 ④について、それらの命令を受けているから私たちは優秀だ、という理屈は飛躍しすぎている。小学生が母親に「宿題やんなさい」と言われて「あんなの簡単だよ」と減らず口を叩くのと同じ理屈だ。そうでなく、重い責任として厳粛に受け止めるべきではないか。

 という訳で、いかに私が考えていなかったかがわかった。

 この「クリスチャン=エリート」説は、繁栄の神学の影響ではないかと思う。
 成熟したクリスチャンは繁栄していなければならない、出世していなければならない、「勝ち組」でなければならない、優秀性を証明していなければならない、ということだ。
 ある牧師は「この世の文化を勝ち取る」とか、「この世に影響を与えていく」とか、一般社会を征服しコントロールすることに固執するような発言をしている。私たちクリスチャンに命じられているのは「支配」でなく「管理」なのだが。

 優秀なのは全然悪いことではないけれど、優秀でなければならない、というのはずいぶん窮屈は話だ
 それに、人の多様性を否定することにもなる。一種類の人間しか価値が認められないコミュニティには、他の種類の人間は居られない。それに、「優秀」の定義もいろいろあるだろう。

 この「クリスチャン=エリート」説を肯定するのは自由だが、そういう人はルカの福音書17:10を一度じっくり読んでみてはどうだろうか。

「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)

QooQ