集団陶酔しているだけでは・・・?

2013年6月8日土曜日

キリスト教問題

t f B! P L
 先日、舞浜のディズニーシーに行った。
 実は初めてだったので、事前に下調べをしておいた。調べてわかったのは、アトラクションよりショーを楽しむ為のパークだということだった。

 私は劇やミュージカル等の舞台が好きだから、そこでのショーを大いに楽しめた。非常にハイクオリティで、単純に感動できる。
 が、各ショーのテーマは「精霊」だったり「魔法」だったりするから、一部(?)のクリスチャンは毛嫌いするかもしれない。

 それはさておき、あるショーでの観客の熱狂ぶりには、目を見張るものがあった。ダンサーたちの掛け声に合わせて、皆で手拍子したり踊ったり歓声を上げたり、どんどんヒートアップしていく。リピーターの方々がそれを先導しているようでもあった。有名アーティストのライブでも時々見られる光景だ。
 私はディズニーのキャラクターたちが特別好きな訳ではないが、その熱狂の渦に入っていくのは容易だったろうし、むしろその方が楽なように思えた。普段大声を出すことなんてないけれど、そこでなら思いっきり叫べそうな気がした。
 いわゆる「集団陶酔」と呼べる現象だ。

 私個人は、そのショーだけは楽しめなかった。
 その観客の熱狂ぶりが、恐ろしかったからだ。

 もちろん、それが悪いというのではない。ディズニーファンの方は存分に楽しんだらいいと思う。

 私が何故恐ろしかったかと言うと、母教会での礼拝を思い出したからだ。礼拝の後半、熱気と熱狂がどんどん増していき、誰もが人格が変わったように泣いたり叫んだり、踊ったり、笑ったり、何とも形容しがたい光景が、毎週のように繰り広げられた。

 それをMは「御霊にある自由」とか「聖霊の圧倒的臨在」とか「エゼキエル43章が言う主の栄光」とか呼んでいて、私も含めて皆そうだと信じていた。
 そしてそういう「臨在」を受けられる自分たちを、何か特別な存在のように思っていた

 が、ディズニーシーの熱狂的なショーを観ながら、果たしてあれは本当に主の臨在だったのだろうか、特別なことだったのだろうか、単に集団陶酔状態に陥っていただけではないだろうか、という疑問を抱いてしまった。

 ある教会を指して、「とてもいい教会です。最初はその熱気に驚くかもしれませんが、きっと生きた神様に出会えます」と純粋に勧めるクリスチャンがいる。けれど、その出会いが本当に神様なのか、あるいは単なる陶酔感なのか、いったいどうやったら判別できるのだろうか?

 モーセは神から授かった杖で、数々の奇跡を行った。が、それと同じ奇跡をエジプトの呪術者たちも行った、と聖書に書いてある(最終的には神の御業を真似ることはできなかったが)。
 このことは、重要な教訓としなければならないと私は思う。つまりニセモノは確かに存在していて、それを見分けることは簡単ではない、ということだ。

 前にも書いたが、私たちは注意して見分けなければならない時代に生きている。そして悲しいかな、人は簡単に騙されてしまう。

 いや私は騙されていない、私の教会こそ真実だ、という人がいるかもしれない。

 それはそれで幸せなことかもしれない。が、「私は絶対騙されない」という人ほどオレオレ詐欺の被害者になるという事実を、よくよく考えてみることをお勧めする。

追記)
 神の臨在をすべて否定する気はない。が、その「臨在」を受けた結果「私たちは特別だ」という優越意識を持つとしたら、何かが間違っているのは確かだ。

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