「間の長さ」もいいものだ

2013年6月1日土曜日

キリスト教問題

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 本日6月1日は、多くの公立小中高校が運動会だったようだ。
 私の子の中学校もそうだったので、観覧させてもらった。先生方やPTAの方々が尽力されているのを見て頭が下がる思いだった。生徒たちも皆一生懸命で、見ていて気持ちが良かった。

 まったく文句はなく、逆に何も協力できなくて恐縮なくらいなのだが、一観客の視点として、一つ気になったことがある。それは「間の長さ」だ。
 競技と競技の間が長くて、待たされる場面が少なからずあった。

 が、大勢の子どもを動かさなければならない訳だから、スムースにできないこともあるだろう。安全面を考慮したらなおさらだ。そういうことを考えると、「何待ちなの?」とイライラするべきではないと思う。そもそも一学校の行事なのだ。お金を払って観覧するショーとは違う。

 では何故気になったかと言うと、元牧師のMが「間をあけるな」とよく怒っていたのを思い出したからだ。

 礼拝やコンサートや特別集会に、Mは異常なまでに時間と労力をかけていた。そしてリハーサルになると、すべての段取りに高度なスムースさを求めた。BGMの流れるタイミングや照明のオンオフのタイミング、入退場やアナウンスのタイミングなど、プログラムのすべてが隙間なく流れることを要求し、少しでもモタつくものなら「何やってんだよ」と罵声を浴びせる。関係者は皆ビクビクしながらやっていただろう。私もそうだった。

 それはMに言わせると「プロ志向」であり、「クリスチャンは一般社会より上をでなければならない」ということだったかもしれない。

 その主張はどちらも、基本的に間違ってはいないと思う。
 けれど、入場料をもらうようなイベントをやっている訳ではないし、関係者は全員、時間のない素人なのだ。そこまでのクオリティを求めるべきとは到底思えない。仮に求めるとしても、できないからと怒鳴り散らすのは明らかに間違っている。牧師の品性としても大いに疑問であろう。

 それに「一般社会より上」であることを証明することと、集会をスムースに進めることとは直接関係ない。単に「ショー」をやりたいだけだろう。
「こんなにすごいショーができるんだ」と証明したところで、それは信仰とも、神の愛を伝えることとも、まったく関係がない。ただMの能力が証明されるだけだ。

 子どもの運動会を観覧しながら、そんなことをふと考えていた。
 Mの失踪から早くも一年が過ぎた。そういうことを考えたり、「間の長い」運動会をのんびり観覧したりできるのは、本当に良いことだと思った。

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