ショーでも礼拝でもないダンス

2013年6月5日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 前回に続き、教会とダンスについて書きたい。今回はダンサーに視点を置く。

 礼拝としてのダンスと、ショーとしてのダンスは根本的に性質が異なると前回書いた。だからその用途も違うし、踊り手も違う。

 礼拝目的のダンスは、老若男女を問わずコミュニティの皆で踊るものなので、集団としての一体感がポイントとなる。この一体感は、キャンプファイヤーなどで踊るフォークダンスを想像したらわかりやすいかもしれない。基本的に「喜び」が原動力であり、自分たちも楽しみながら踊るのであって、ダンサーとしての質とか練習とかが重視されるものではない。
 むしろ上手に踊ろうとすることは、この手の礼拝にとって妨げであろう。

 一方でショーとしてのダンスは、程度の差はあれ、高度な練習と技術が求められる。そのうえ衣装とか舞台装飾とか照明とか演出とか、見せ物としての要素が必要とされる。ダンサーは相応の練習をしなければならないし、誰でもできるという訳ではない。内容によっては、身長や体型や性別、年齢等の制限が発生する。

 つまりショーとしてのダンスの踊り手は、プロとか、ダンスに覚えのある人とかが求められることになる。

 こう書くと、「じゃあショーとしてのダンスを教会でする意味はないのか」と言われるかもしれないが、そんなことはない。
 前回も少し書いたが、そういう舞台を観ることは、聖書や神様に対して理解を深める機会になるだろうし、伝道の機会にもなるだろう。見ることで何らかの感動を得られるなら、個人的礼拝のレベルにもなると思う。
 私が問題として取り上げたのは、そういったショータイムを礼拝と混同してしまうという点である。

 加えて書きたいのは、ダンサー自身も何を踊るべきか吟味すべきだということだ。

 ある牧師が大規模な若者向けの集会を計画していた。
 そのテーマは「この世の文化を勝ち取る」とかいうもので、要は一般の若者が好むようなショーをやろうということだった。
 その一つがダンスで、その牧師が打ち出したテーマは「セクシー」だった。しかもダンサーは全員中高生の女子である。これにはさすがに違和感を持った大人が多かったけれど、牧師の逆鱗に触れることを恐れ、公に発言する人はいなかった(私もそうだった)。

 そういう訳で、真面目な女子たちが一生懸命「セクシーなダンスって何だろう」と考えはじめた。
 結論から言うと、準備が本格化する前にその牧師は失脚した。集会の企画は白紙となった。そしてそのまま中止となった。
 女子たちはそれ以上セクシーだ何だと悩まなくて済んだのだが、あのまま準備が進んだらどうなっていただろうか。

 セクシーダンスはもちろん礼拝でないばかりか、伝道目的のショーにさえならない。
 しかしさらに悪いことに、彼女らはそれを礼拝と信じていた
 これは、硫黄島で敗戦が決まった日本軍の若い兵士たちが、命じられるまま自害していったのと少しも変わらない狂気だと私は思う。

 ダンスに限った話ではないけれど、私たちは自分の行為の意味とか目的とかについて、時々考えてみるべきだ。

 考えるのは案外面倒なことだし、毎日忙しくて、そんな余裕はないかもしれない。
 が、それを怠った結果、重大で取り返しのつかない事態に陥ったとしたら、完全なる被害者だと言い張ることはできないのではないだろうか

結論)
・ダンス鑑賞は、信仰の励ましや伝道にはなるだろうが、鑑賞そのものが本質的に礼拝となるのではない。
 
・よく考えて踊らないと、信仰の励ましにもならず伝道にもならない、ただのダンスになってしまう。

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