「試練」は乗り越えるもの? 逃れるもの?

2021年10月19日火曜日

キリスト教信仰

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神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない」(コリント人への手紙第一1013節/口語訳)

 これはクリスチャンが好きな聖句の一つだ。一般に引用されるくらい有名でもある。2019年に白血病と診断された競泳の池江璃花子選手も、この言葉に触れていた。


 実際、試練(と思われるような状況)にある人はこの言葉で励まされるかもしれない。「きっと耐えられるはずだ」と思えるかもしれないから。その意味では希望の言葉になり得る。


 しかし、「耐えられない試練には会わせられない」は、「会った試練は必ず乗り越えられる」とも言い換えられる。これはなかなか辛いことだ。遭遇する試練は全部乗り越えなければならなくなるから。簡単に「頑張って乗り越えろ」という話になってしまう。その意味で絶望の言葉にもなり得る。


 希望と絶望はいつも紙一重。


 この言葉に限らず、聖書は正しく引用しなければならない。同じ13節は「のがれる道も備えて下さるのである」と続いている。つまり試練はいつも「乗り越える」ものではなく、逃げなければならない状況もある、ということだ。「逃げるが勝ち」とはよく言ったもの(これは聖書の言葉ではないけれど)。


 そもそも、試練(と思われるような状況)には様々な種類がある。全て一括りにして「乗り越えられるはずだ」と言うのは乱暴すぎる。教会でよく聞くのは、牧師の夫からDVを受け続ける妻(いわゆる「牧師夫人」)、というケース。これは妻にとって「乗り越えられる試練」なのだろうか。乗り越えることで「信仰的に成長できる」ケースなのだろうか。断言するが、そういう種類のものではない。直ちに周囲が介入して止めなければならない種類のものだ。夫にも妻にも専門的な援助が必要になる(もちろん夫に牧師を続けさせるべきではない)。


 例えば信徒が重い病気に罹ったら、教会はどのような声を掛けるだろうか。

 上記の池江選手のように「神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています」と言うだろうか。しかしこれは本人が、自分で言うから良いのだ。病気を治すことができない他人が掛けていい言葉ではない。治らなくても責任を負えないのだから。


 もう一つ考えなければならないのは、DVや病気を個人の「試練」と考えるべきなのか、という点だ。試練は英語で Trial という。「試み」や「試験」、「審査」といった意味だ。神はその人を試みるために、あえて病気にするのだろうか。では病気で死んだ人は、「神の試みにかなわなかった」のだろうか。DVを告発した妻は「神からの試練を投げ出して」「聖職者である夫を貶めた」のだろうか。だとしたら、なんてサディステックな神なのか。


 このように、何が「試練」で何が「被害」かはよくよく考えなければならない。乗り越えるべきか逃れるべきかを含めて、他人が勝手に決めていいものではない。それ自体が暴力になる。


 信仰は時として、非常に暴力的だ。



 最後にもう一つ。

 聖書には素晴らしい言葉が沢山記されているが、「もろばの剣」と書かれている通り、使い方次第で有益にもなれば有害にもなる。希望にもなれば絶望にもなる。聖書を引用する人はその点を肝に命じなければならない。

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