12月25日の夜、某教会のクリスマス礼拝に出席した。
受付でプリントを渡され、「印があるところを読んでください」といきなり言われた。すぐには事情が飲み込めなかったが、どうやら礼拝の最中に聖書朗読があり、何人かの信徒が割り当てられた箇所を順番に読む流れらしい。私が渡されたプリントにも印があり、つまりそこが私に割り当てられた箇所だった(どのプリントも違う箇所に印が付けられているようだった)。
牧師は冗談めかして「これは強制ですので」みたいなことを言った(細かい文言はうろ覚え)。隣にいた執事は「ただ事務的に読むだけです」と真顔。私は動揺しながらも「遠慮します」とプリントを返した。
朗読なんて誰だって出来るでしょ、とその牧師も執事も考えているようだった。ただ書いてあることを読むだけなのだから、何も難しくないでしょ、と。声を出すことに困難を抱えている人の存在など、想定していないようだった。
私は受付前のスペースに立ちながら、透明人間にされた気分だった。私の存在は想定されていなかった。
「そんな細かいことで大袈裟な」とか「気にしすぎでしょ」とか思う人もいるだろう(おそらく健常者だろう)。しかし吃音症で上手く言葉が出ないことが多い私には大問題だ。「そんな細かいこと」などではない。「そんな細かいこと」と言えるのが、まさに健常者の(少なくともこのケースにおいては問題なく発語できる人の)特権なのだ。あの牧師や執事がそうだったように。
その牧師や執事は、私が単に朗読するのが嫌で断ったと思ったかもしれない。私はその場でちゃんと説明すべきだったかもしれない。しかし不意打ちで動揺していたし、場は既に礼拝の厳粛な雰囲気になっていたので、声を上げる選択はできなかった(そもそもマイノリティの側が毎回毎回説明しなければならないのも不公平だと私は思う)。
そしてクリスマス礼拝中、私はずっと悶々としていた。牧師が敬虔そうに祈っていたが、よくそんなふうに敬虔ぽい顔ができるなと正直思った。
人々が見向きもしない馬小屋でキリストは生まれ、ごく少数の人々に祝われただけだった。だから見捨てられ、排除された人々に心を向けるのがクリスマスの意義だと私は思う。しかしクリスマスを祝うその教会の中で、私は見えない壁によって排除されていた。
私は憐れんでほしいのではない。ただ知ってほしいと思う。教会であれ何であれ、ほんのわずかな一言、ごく些細に思える一言が、誰かを完全に排除してしまうことがあると。「あの人が来なくなった」と教会の人々が残念がる場面を時々見るけれど、自分たちが追い出していないかどうか、どうか振り返ってみてほしい。