使徒行伝5章38節の「神から出たものでないなら自滅するから放っておけばいい(要約)」を問題のある牧師や教会にそのまま適用して、「神の御心なら彼らは自滅するから放っておけばいい(=批判する必要はない)」と無責任に言うクリスチャンがいる。けれど現実には、批判しないと、彼らを野放しにするだけだ。いつまで経っても何も解決しない。
そう主張する人たちは、「神の御心」とか「神の介入」とかに信頼しすぎだと思う。実際には、問題は人間が人間に(時に強く)訴えなければ、全く解決しない。聖書を俯瞰しても、神や王やリーダーたちに訴えなければならなかった人物が沢山いるではないか。
そして「神の御心なら彼らは自滅するから放っておけばいい(=批判する必要はない)」と言えるのは、その問題で自分自身が困っていないからだ。他人事なのだ。彼らは自分がボコボコにされている最中に、「神様が止めて下さるだろう」などと悠長に言えるのだろうか。
牧師の夫から長年DVを受けてきた妻が、教会で何度もヘルプサインを出してきたけれど、周囲は「夫婦の問題だから」とか「神が取り扱われるから」とかいう言い訳で無視してきた。最終的に介入せざるを得なくなったが、あのまま放置して妻が殺害でもされたら、「それも御心だった」などと言うのだろうか。
神が超自然的に人の手を止めることはない。もし止めてくれるなら、あらゆる悲劇は起こっていない。しかし現実には日々、悲惨なことが起こり続けている。教会の中でも外でも。
だから個人的に、「神様が何とかしてくれる」などと私は信じない。信じられない。それが私の信仰だ。
「神の御心だけが成る」という綺麗事を並べるだけで酷い状況を放置し、結果的に最悪の事態を引き起こしたなら、その「信仰」は加害でしかないし、その「神」は加害者でしかない。どこにも「愛」などない。
そして「愛」の話になると、「厳しくするのも愛だ」とか「試練さえも愛なのだ」とかのトンチンカンな意見が飛んでくるけれど、加害と被害のパワーバランスの不均衡を無視している。「愛」とは弱くされたもの、虐げられたものを余計に追い詰めるためのものではない。