聖書の「あなたの心を見張れ」とか「絶えず喜んでいなさい」とかの心の在りようを示す箇所を毎日のディボーション等で集中的に取り上げて、「どうすればポジティブで生産的な心持ちになれるか」みたいな思索を繰り返すのは、自己啓発活動に近いのでは。キリスト教要素を取り入れた自己啓発活動、みたいな。
キリスト教書店の福音派・聖霊派系のコーナーは、そういう本で溢れている。
「心は感謝に満ちて」
「思索という名の戦場」
「サタンを追い出せ!」
「内なるヒーリング」
「荒野をサバイブする」
「御声を聞く四つの秘訣」
「慰めの力」
などなど(署名は一部脚色)。
自分の心持ち、自分の状態、自分の生活をいかに良いものにするか。そこがフォーカスされる。その系統の教会では特にそこが強調される。結果、どうしても自己啓発的になる(信徒ばかりのせいではない)。
もちろん宗教は自分がより良く生きるため、何らかの(物理的あるいは精神的な)「救済」を得るためのものでもある。宗教を通して自分の幸福を求めるのは全然悪いことではない。けれどそれに終始するのをキリスト教と呼んでいいものか。
また「苦しみを神様に委ねよう」とか「神様が勝利の道を備えて下さる」とか教えられて自分の心とガッツリ向き合うのは、素人がセルフ・カウンセリングするようなもので、キリスト教と心理学と精神分析のハイブリットのように見える(わたし自身の信仰生活は要はそのようなものだった。自分の内面ばかり見つめて右往左往する無益な日々だった)。個人的には危険だと思うので、お勧めできない。
厳格な福音派系でも、身体的な疾患ならすぐ「病院に行こう」という発想になる。よほど先鋭化していなければ医療の否定まではしない。しかしなぜか精神的な疾患になると、「癒し」とか「奇跡」とか、「信仰があれば癒される」とか、急にスピリチュアルな話になってしまう。心だって素人がいじくり回すのは逆効果でしかないのに。
教会でニワカ・カウンセリングを受けて「神様が付いてるから大丈夫」と一時的に喜んでも、結局何も解決していなかった、と気づく瞬間がある。しかしそれを認めるのは難しい。表向きは改善したはずだから。カウンセリングや「神の癒し」を否定することになるから、専門機関に行くのも憚られる。そうやって内心は苦しいまま、顔だけ笑って教会生活を送るのは、言い方は悪いが地獄ではないだろうか。
キリスト教には(おそらく多くの宗教には)自己啓発的な要素があるし、カウンセリング的な要素もある。けれどそこに終始してしまうと、容易に本質を見失う。
どうやったら「立派なクリスチャン」になれるか、どうやったら心が安定してブレない信仰が持てるか、どうやったら立派な奉仕者になれるか、みたいな自分自身のありよう(be)にこだわる人が多いけれど、どれだけ素晴らしいbeになっても意味がないとわたしは思う。信仰者の本質は何をするか(do)だから。
「信仰義認」と「信仰の行い」はしばしばクリスチャンの間で議論になる。が、それらは対立概念でなく、補完関係であるはずだ。なぜなら義認の先に行動があるはずだし、行動の動機には義認があるはずだから。
だから「神様がこんなふうに語ってくれました♪」とか「主が私をこんなふうに用いて下さると信じます」とかの自分語りに終始している人を見ると、「で、結局あなたは何をするんですか?」と冷たいながら尋ねたくなる。