ある日ふと気づいたら、キリスト教の話をして分かり合えるのが、ほとんど「今はもう教会に通っていない人」ばかりになっていた。自分としては不満や文句でなく、真面目にキリスト教の話をしているだけなのだけれど。それが「教会の中では話せない話」や「教会生活を送っているクリスチャンには受け入れ難い話」になってしまっているようで悲しい。
先日も「この人はクリスチャンじゃない」「その信仰はキリスト教の信仰じゃない」と言われた。もうn回目になるけれど。一体わたしの何を知っているのだろうか、と不思議に思う。自分では一応クリスチャンだと思っているのに、それを真っ向から否定されるのも悲しいことだ。
そして教会から排除されがちなマイノリティを支援する活動をしている人たちの多くが、かつて教会でつまずいたり、傷ついたり、嫌な思いをした人たちであることも悲しい。マイノリティが別のマイノリティをケアする構図。大きな問題なく教会生活を送っている人たち(その多くはマジョリティだろう)は、この現実をどう受け止めるのだろうか。
こういう現実を見ると、教会は人を救うところでなく、教会に上手くフィットする人を仲間に引き入れるムラだと考えざるを得ない。「どなたでも歓迎です」という教会の常套句は、そろそろ見直すべきでないだろうか。「教会に来ないと救われない」とか「この神を信じないと救われない(地獄行き)」とか言いながら、人を選り好みしていないかどうか、よくよく考えてみてほしい。
もちろん、教会も地域によって不審者とかタチの悪い酔っ払いとかお金目当ての人とかの対応に追われていて、「誰にでもオープン」にできない現実がある。そういう現場の苦労は(わたしも長く経験したので)大いに同情する。しかしこれは、教会は地域の社会福祉を担って下さい、という話ではない。マイノリティや教会に不満を抱える人を排除しないで下さい、という話だ。
実はわたしは自分の信仰が何なのか、よく分からなくなっている。キリスト教の教義はよく理解しているつもりだけれど、信じているかどうかと問われたら正直返答に困る。神に対して(あるいはイエスに対して)愛情というより苦々しさを覚えているから、その存在は逆に信じているはずだけれど。
いずれにせよわたしの信仰のスタンスだと、どの教派のどの教会にも受け入れてもらえない気がする。最近仕入れた言葉で言えば、「野生のクリスチャン」にしかなれないのかもしれない。