「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」というマタイ6章33節の言葉を、「ひたすら自分を犠牲にして神に(教会に)仕えるべき」というニュアンスでとらえる教会やクリスチャンがいるかもしれない。少なくともかつての自分はそうだった。
結果、自分のことは二の次で、とにかく教会奉仕に励むことになる。それで疲れたり大変な思いをしたりすることが名誉でありさえする。惜みなく献金した結果、子どもの教育費を用意できなかったり、老後の蓄えがなかったりもする。
そういう痛ましい犠牲の上に立つのが「主の教会」なのだろうか。
そういう痛々しいのがクオリティの高い信仰生活なのだろうか。
「神様を第一にする事」と「自分自身を顧みない事」はイコールでないはずだけど、このように混同されがちだと思う。自分自身を犠牲にして、辛いのを我慢して、願いを諦めて奉仕に勤しむことが美徳(信仰?)とさえされる。その「献身」は尊敬すべきかもしれないけれど、そこまで自分のQOLを下げてまで信仰すべきか、自分には疑問だ。
歯を食いしばって頑張って、耐え難きを耐えるのがいかにも「十字架の苦しみにあずかる」行為で、信仰的で、殉教精神に満ちている、みたいな価値観が一部にあると思う。でもそれが24時間365日続くとしたら、信仰生活とはすなわち苦行でしかないのでは。
神様は人間にそういうのを求めているの?
「神様を第一とする」と「自分自身をケアする」は両立できるはずだし、その方が結果的に健全だと思う。
アスリートは最高の成績を出すために、普段から心身を管理し、試合に向けてコンディションを整えていく。それと同じで、我々もよく寝てよく食べて、いろいろ楽しむ方が、結果的にクオリティの高い信仰生活が送れる気がする。