つい先日、ツィッター上で、カトリックの方とプロテスタントの方の論戦(?)があったようです。
詳しく読みませんでしが、論戦と言うほど高尚なものではない気がしました。あーまたか、くらいの感想でした。
プロテスタントの中でも時々同じような「衝突」が起こりますが、およそ宗教に関する論戦ほど不毛なものはないように私個人は思います。「神学論争」という言葉がある通り、ですね。
宗教に関する議論はやめた方がいいと私が思う理由は、それが個々人の信仰・信念・心情に関わるものだからです。また生育環境や生活歴の影響も受ける、感情的なものだからです。
たとえば二千年くらい前に処刑されたイエスを「神の子」と信じる、科学的根拠があるでしょうか。私の知る限り、ありません(もしあれば、世界中の人がクリスチャンになっているはずです)。にもかかわらず、私個人は彼を「神の子」と信じています。いったいなぜ? その合理的な説明は私にもできません。ただそう「信じたいから信じる」だけです。
そのように個人的な心情や感情が影響するのが宗教ですから、たとえ同じキリスト教であっても、違う教派どうしで議論したって何にもなりません。互いに信じていることを主張するだけになります。言うなれば、泥を投げ合うようなものです。意味がおわかりいただけるでしょうか。
ことカトリックvsプロテスタントに関しては、宗教改革というしがらみがありますから、「因縁の対決」みたいになってしまいます。これは本当にやめた方がいいですね(笑)。
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私個人は、プロテスタントの聖霊派で長年嫌な思いをした経験から、今はカトリックのミサの方に安息を覚えています。
ただ(カトリックの方には申し訳ないですが)、カトリックの教義に隅々まで納得しているわけではありません。ここで詳しく書きませんが、「え、そうなの」と思うようなことが、なくはありません。
じゃあプロテスタントの礼拝に通えばいいじゃないか、というもっともな意見を言われそうです。
でも私の心情的にそれはできません。いえ、できますけれど、あまりしたくありません。
一つだけ書かせていただきましょう。
プロテスタントの礼拝(プロテスタントで一括りにするのも乱暴だとは思いますが)で、牧師が30分も40分も50分も「メッセージ」と称して話し続けるの、あれいったい何なのですか。長すぎますよ。私はどうもあれが納得できません。
「今までそうしてきたから」
「それが伝統だから」
という言い訳はなしにしましょう。
礼拝に絶対必要な要素として、「30分以上の説教」があるのですか。ないですよね。
全ての教会を見て回ったわけではありませんが、ほとんどのプロテスタント教会で私が思ったのは、「この人(牧師)はマイクを持って話すのが好きなんだな」です。
つまり「聖書を解き明かす」という大義名分のもと、多くの牧師は、自分の話を「みんなに聞いてもらいたい」のです。
そんなことはない、と主張する牧師の方がいるでしょうか。主張するのは自由ですが、ご自分の胸に手を当てて、よく考えてみてからにして下さい。みんなが頷いたりアーメンと言ったりするのをみて、満足しているんじゃありませんか。
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プロテスタントで嫌な思いをしてカトリックに転向した、という人は残念ながら私のまわりにはほとんどいません。
もともとプロテスタントか、もともとカトリックか、だけです。
ですからあくまで私個人の感覚として書きますが、プロテスタント教会よりカトリックの方が居心地がいい、というのが正直なところです。教義云々の問題ではありません。
プロテスタント教会の濃すぎる人間関係、強すぎる同調圧力、監視社会に比べたら、カトリック教会のなんと軽やかなこと(笑)。濃すぎる人間関係がいいんだ、という人もいるでしょうけれど、私自身はそういうのはもうお腹いっぱいです。「30分以上の説教」も、もう十分に聞きました(もちろんこれからも、どこかのプロテスタントの礼拝に参加する機会はあるとは思いますが)。
というわけで、礼拝に参加する、ミサに参加する、というのは教義の部分を越えて、心情や感情に支えられているものです。
おそらく今プロテスタントで頑張ってらっしゃる人、カトリックで頑張ってらっしる人も、感情的な部分に少なからず負っているのではないでしょうか。
だから話は最初に戻りますが、宗教に関する議論はしない方がいいわけです。
自分が何を信じるかは自由です。でもその自由が他者にもあることを、私たちは忘れてはいけませんね。
礼拝時間、確かに長かったです。平均で45分くらいで、特別なイベントの時は1時間オーバー。しかも話が脱線してばかりで何が言いたいのか全くわからず。周りの人はアーメンアーメン言ってるけど本当に理解できてる?と聞きたい。
返信削除教会を転々としている時に聞いたのですが、
5分までは神の言葉、10分までは自分の言葉、それ以上は悪魔の言葉になると言っていました。人間の集中力なんてそんなものですし、短く簡潔なメッセージをお願いしたいですね。
ほんとうに長々とよくしゃべりますよね。何十年やってても話をまとめられない、ポイントを絞れない、簡潔に語れないというのは、牧師として職務怠慢だと私は思います。おっしゃる通り、5分で十分です。
削除以前にあるアジアの国で出会った現地在住のひとりの日本人で、日本語教会は嫌いなので現地教会の英語礼拝に出席している人がいました。
返信削除理由は日本人の教会は人間関係が面倒くさいし私生活に干渉されたくないからと言っていました。その人はfuminaruさんのように独裁牧師のカルト化した教会で酷い目にあった経験は無かったのですが、とにかく日本人教会の人間関係が鬱陶しいという事でした。もしこの人が日本にいたら日本人教会ばかりなので(笑)、カトリック教会のが合っているかもしれませんね。
神学的な教理は別にして、誰しも自分に合う教会に自分のスタイルで行けばいいのであって、それについて人がとやかく言うのはおかしいと思います。
海外に行っても日本語教会は人間関係が鬱陶しいのですね。それが日本人の習性なのでしょうか。私はそういうのが面倒臭くてたまらないタイプですので、どうにも理解できないのですが。
削除おっしゃる通り、教会を決める最大のポイントは教義や礼拝スタイルでなく、自分に合っているかどうか(すなわち居心地がいいかどうか)だと思いますね。
こんばんは。
返信削除私が行っていた教会は、礼拝時間が2時間弱とかはザラでした。説教だけでも1時間はありました。特別賛美、証しがある日などは賛美する時間も長時間になってきます。祈る時間が長すぎる人がいて、その人が感謝の祈りの当番になってしまうと、永遠に礼拝は終わりません。あまりにも長時間なので途中で帰ってしまう方達も珍しくなかったです。
牧師のプライベートとか全く興味ないですから、説教で話さないでほしいです。
「永遠に終わらない」というお気持ちよくわかります。メッセージもそうですが、祈りが長すぎるのも困りものですよね。途中で返って正解だと思います 笑
削除どの集団、社会、教会も、人間関係が一番難しいです。親分になって子分を動かしたい人もいるし、進んで子分になりたい人もいる。人間関係を濃くしたい人もいれば、濃いのは嫌いという人もいる。小さな教会だと、どうしても濃くなりがちですね。
返信削除自分に合った教会がよいと言うことになりますね。
先日、**キリスト集会という教会の講演会があって参加して、話を聞きました。その後、講師だった方と1時間くらいあれこれ話をしました。講師は福音主義ということで、聖書の無謬性についてあれこれ話しました。
談論風に世間話をするようにあれこれ話をすると楽しいですよ。論争風に話をすると最後にはけんかになりますね。
先日、エホバの方が久しぶりにやってきました。初めて男性の訪問者だったので、幹部でしょうとと言ったら苦笑いをしていました。エホバの聖書だが、英語版は2010年に新版が出ているのに、日本語版は古いままではないか、どうしてだと尋ねたら分からないと言っていました。あなたは幹部だから早く出すように言ってくれと要望すると、何事も神の御心ですので祈っていますという返事でした。祈りでなくて要望してくださいというと、私が言っても・・と言っておりました。
何事も談論風に話すことが必要ですね。
先の福音主義の講師ですが、聖書の無謬性に関して、ヨシュア記にある、太陽が静止する話に関して、神が望めば何でも出来ると言って言っておりました。
福音主義者は天動説を主張するのかと思いましたが。今から1965年に開催された第2バチカン公会議で、ガリレオの地動説は正しい、旧約の記述は事実ではないという決定がなされましたが、その際にも反対した司教が数人いましたが、さすがに今日では0人でしょうね。
談論風、というのは参考になりますね。私も試してみようと思います。
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