生活保護費の減額と、格差の拡大
今年(2018年)の秋から、生活保護費の段階的な見直しがあるようです。
その結果、年齢や家族構成によって異なりますが、6割以上の世帯で「減額」になるとのことです。3割強の世帯は「増額」になるようですが。
ちなみに生活保護費は5年に1回、見直されています。受給していない低所得世帯との均衡を図るためですね。
当然ながら減額になって喜ぶ人はいません。だからこの見直しには方々から非難の声が上がっています。
ただ一方で、こんな声も(以前から)あります。
「生活保護を受けるのは恥」
「生活保護でパチンコしてるんだから減額は当然」
「生活保護は人並みの生活の為のものではない。最低限食べられるだけのものだ」
生活保護に否定的な人たちもいる、ということですね。もちろん「生活保護そのものに反対」というわけではないと思いますが。
これにさっそく反論(というか訂正)しますが、生活保護とは「最低限食べられるだけ」を保障するものではありません。
日本国憲法第25条第1項は「国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(生存権)とうたっていて、これが生活保護法の根拠となっています。だから「最低限食べられるだけ」では足りません。「健康で文化的な生活」でなければならないのです。
また、この当然の権利が「恥」なわけがありません。「恥」だと豪語する方は、ご自身が困窮する可能性を、考えていないんだと思います。
で、今回の「減額」が何を意味するかと言うと、生活保護を受給していない低所得世帯(つまり何とか保護を受けないで生活できている世帯)の収入が、以前より下がっている、ということです。
低所得世帯の貧困化が進んでいるから、生活保護もそれに引っ張られて下がっていく、ということですね。
少し前にアルマーニ監修の標準服を導入した小学校の記事でも書きましたが、日本は所得格差がどんどん広がっているようです。持てる者は更に持ち、持たざる者は更に持てなくなっているようです。だから前者はアルマーニを買い、後者は厳しい生活を強いられているわけです。
生活保護と自己責任論
生活保護に対する批判は、もう何十年も前からあります。冒頭に紹介した意見は、それこそ毎日の生活の中でも聞こえてきます。私も少なからず耳にしてきました。
生活保護を受けている世帯には、たしかに「これはどうなんだろう」と思うケースもあります。
たとえば保護費で毎日パチンコや競馬に精を出す人もいます(多少は勝てるから続くんでしょうけれど)。パチンコで稼いで寿司ばかり食べている人もいます。あるいは働けるように見えるけれど働かない人もいます。仕組みはよく知りませんが、不正受給できてしまう人もいます。
一方で切実なケースもあります。
知り合いに癌で闘病中の人がいます。家族がなく一人暮らし。体調が日々変動するので仕事には付けません。収入が途絶えてしまい、かつ毎月けっこうな治療費がかかりますから、生活保護を申請しました。いろいろありましたが結果的に保護が下り、今は治療に専念することができています。
まさにケースバイケースです。たしかに問題もありそうですが、かと言って生活保護の制度が絶対的に悪いとか、無駄だとか、そういう極端なことは言えません。
生活保護に対する批判の根底には、たぶん無意識的な「自己責任論」があると私は思います。貧困を招いたのは本人の責任だ、国が面倒みてやる必要なんてない、面倒みるから貧乏人が付け上がるんだ、働かないのが悪いんだ、みたいな。
そう明言しなくても、心のどこかで考えてるんじゃないかと思います。
そもそも日本に「社会保障」という考え方が入ってきたのは、近現代の話です。それまでは貧しければ(言い方が悪いですが)死ぬだけでした。だからそのへんの文化的・風土的「自己責任論」が、根強く残っているのかもしれません。
私は日本人は案外「不寛容」だと思っているんですけれど、そのへんも繋がっているかもしれませんね。
相対的なものを絶対評価するナンセンス
生活保護を巡る議論の1つは、「健康で文化的な最低限度の生活とは何か」という点です。
毎日必要な栄養が取れればいい、というのは文化的ではありません。プラスアルファの何か、心が満たされる何かが必要です。
じゃあそれは何なんだ? という話になると難しいですね。たとえばパチンコをやるのも「文化的」でしょうし、アルコールを飲むのも「文化的」でしょう。時々ちょっとした贅沢をするのも心の余裕には必要です。他にも映画を見たり、趣味に興じたり、旅行に行ったり、といった諸々も「文化的」に大切でしょう。
でもそれらのどこまでがOKで、どこからがOUTなのか、というのはなかなか決められません。「最低限度」の基準は、どこにあるのでしょう。
極端ですが、断食してでもパチンコしたい、という人もいます。服なんかどうでもいいから美味しいものが食べたい、という人もいます。だからそもそも個人個人で「最低限度」は違います。本来なら、個別的・相対的に対応するべきなのでしょう(もちろんそんなの現実的ではありませんよ)。
そういう意味で、生活保護という制度は、相対的なものを絶対評価で測ろうとする、ナンセンスな試みだと言えます。それぞれ違う価値観を持った人たちを、単一の尺度(お金)で測ろうとするのですから。
だから問題が生じるのは、当然と言えば当然かもしれません。
キリスト教と貧困
キリスト教は、貧困問題に対してどんなアクションを起こすべきでしょうか。あるいは起こさないべきでしょうか。
キリストの立場を考えるなら、「隣人を愛すべし」ですから、何らかの救貧活動をするのがふさわしいのでは、と私は思います。
歴史的に見ると、15世紀以降イギリスで、修道院が率先して救貧活動を行った事例があります。社会保障制度ができる前の話です。これが結果的にイギリスの社会保障制度に繋がりましたから、「キリスト教が社会保障を牽引した」と言えるかもしれません。
近年では、マザーテレサがインドで開いた「死を待つ人々の家」も有名ですね。その他にも大小様々なものがあるでしょう。
ではこの日本はどうかと言うと、やはりクリスチャン人口が少ないですから、なかなか難しいものがあります。個人的には、上野公園でホームレスの方々に炊き出しを行なっている教会を知っていますが、そういう「救貧」を前面に打ち出しているところは、少ないようです。
日本の教会は(と一概に言うこともできないのですが)、どちらかと言うと教会自体を維持するのに精一杯で、経済的にもマンパワー的にも、なかなか外向きになれないのが現状だと思います。
たとえばアメリカや韓国では、メガチャーチが大きな力を持っていますから、地域に大規模に働きかけることができます。一部には政治的な影響力を持つ教会もあるようです。それもこれも資金に余裕があり、動員できる人数が多いからですね。日本とは状況が違います。
以前の記事でも書きましたが、日本の教会は先細りが予想されています。20年後、30年後には今よりもっと人が減り、活動しづらくなっていくのですね。大きい教会と、閉じる教会との格差も広がるかもしれません。
生活保護費が減額されるなど、貧困がますます拡大していく中、「隣人愛」を標榜するキリスト教会がそれに対して何もできないとしたら、なんとも寂しい気がします。教会が貧困に手を差し伸べるのでなく、教会自体が貧困に陥っていくとしたら・・・。
さて、私たちは今のうちに、何かできることがあるでしょうか。
キリスト教は一般的に隣人愛の宗教と呼ばれます。その意味で、社会で起こる貧困問題や悲劇に対して無関心ではいられません。
返信削除しかし、聖書にはこういう記述もあります。
「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏(せっこう)のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。」マタイ26・6ー
これは、どういう意味でしょう? 結局、イエスという男も、普段は「貧しい人を助けよ」と言いながら、辛くなったら「貧しい人よりも私を優先しろ」と言うような、わがままな「教祖」にすぎなかったのでしょうか?
それとも、どんな方法であれ、イエスに真心を捧げようとした一人の女を、衆目の無責任なまなざしや発言から擁護しようとした「優しさ」だったのでしょうか?
「善きサマリヤ人の譬え」では、抽象的な貧者救済や弱者保護を説いたのではなく、「隣り人がいなくて困っている人の隣りに行って、自分から隣り人になれ」と説きました。
その観点から言えば、この時、この場において、最も「隣り人」を必要としていたのは、イエス自身だったのです。イエスは、翌々日には十字架に赴くことを知って煩悶しておりました。弟子の誰も理解できず、イエスの「隣り」に立つことができませんでした。ただ、一人の女だけが、イエスの「隣り」で、イエスの心の琴線に触れたのでしょう。
多くのクリスチャンは「隣人愛」と聞いて、スラム街や戦地や被災地のような「遠い」ところを思います。もちろん、そのような場所で苦しんでいる人も「隣り人」を求めている人々です。しかし、では「近く」では、そのような「隣り人」を求めている人はいないのでしょうか?
多くのクリスチャンは、イエスの弟子たちのように、「隣人愛だ! スラムへ行こう! 戦地へ行こう! 被災地へ行こう!」と「遠く」ばかりを見て、最も「近く」で「隣り人」を求めて煩悶している人を見過ごしているのではないでしょうか?
教会では、隣人愛の実践プログラムとして、ボランティアや炊き出しが行われますが、ついていけない信徒に対して「あの人は非協力的だ」と言い、教会でハブいているとしたら、「隣人愛」を実践しているのでしょうか? 彼の「隣り」には誰が立つのでしょうか?
このようなことは、社会福祉を目的とする組織でも、たびたびあることです。かつて、社会から貧困を根絶すべく高邁な大義を掲げて活動していた共産主義グループの内側では、罵声、怒号、暴力が日常的で、粛正やリンチにまで発展したことがありました。
「神は人となって、隣り人なき我々の隣りとなり、同伴者となった」
世界から貧困はなくならず、悲劇も尽きることはない。キリスト者は、革命家としてであっても、社会福祉事業家としてであっても、末端のボランティアとしてであっても、神の前で、あらゆる党派を越えて、全ての人の「隣り人、同伴者」となるべく召されているのではないでしょうか?
NGOで海外に派遣されると、数週間は「何もしなくていい」と言われると聞いたことがあります。なぜかというと、先進国の人間は、抽象的な福祉観を持って来るので、現地の人のニーズと合わず、かえってトラブルになるからですね。むしろ、何もせずブラブラして現地の生活に溶け込むにつれ、やるべきことが見えてくる、と。
大金を寄付することが隣人愛ではありません。ボランティアだけが隣人愛ではありません。その時、その場所で、自分の時間と生活の少しを割いて、他者の話しを多く聞き、他者の生活に多く合わせてみるということが大事なのではないでしょうか?
神の国は、貧しさも悲劇もない世界ですが、遠い所や遥か未来に来る世界ではなく、神に従おうとする人と人との「間」に成されつつある世界だと書いてあります。神の国は、「世界には貧しさと悲劇が尽きないけれども、私とあなたの「間」では、それを少なくしていこう」とする人と人の「間」から始まるのでしょう。そして、キリスト者は、その「間」に、一人でも多くの人を招くべく呼びかけられているのでしょう。
教会に関しては、私は、社会福祉に合理的だという理由からにしても、「富める教会」というのは矛盾のように感じます。大きなことができなくても、教会は、貧しい人々の中で、貧しい人々と同じく貧しく、貧しい人々と共にある教会。貧しい人々の悲しみや苦しみを自分のこととすることができる教会であってほしいと思います。
まったく同感です。読んでいて頷くことばかりでした。「私たちは誰かの隣人になるべく召されている」と私も思います。
削除そして隣人になるとは、独善的な「正義」や一方的な「愛」を押し付けることでなく、相手の状況をよく知り、そのニーズをできるだけ的確に掴むことから始まると思います。
その意味で隣人愛とは簡単なことでなく、むしろ時間のかかること、骨の折れることだと思いますね。
どこまでの覚悟があるのかと、私たちはいつも問われているのかもしれません(必ずしも大きなことをすべきだ、という意味ではありません)。
貧困の原因は政治につきますね。今日の新聞にも奨学金(奨学ローン)破産者が1万5千人を超えるとありました。40数年前、私が国立大学の学生だった時の授業料が、年額1万2千円。当時の私立大学の授業料が年額10万円程度(文系の場合)でしたね。
返信削除今では、国立が60万円以上、私学で100万円以上になっていますね。
給料が40数年前の10倍になっていないのですから、授業料がいかに値上げされたか、非常識な文教政策がこの間行われてきたことが分かりますね。
貧困がおこるのは、貧困化政策がなされているからで、貧困化政策を行ってきた政党、その政党を支持してきた国民に責任があるわけです。
貧困化政策を進める政策に賛同してきた宗教団体(**学会)は大いに反省すべきですね。教育費軽減を政策に掲げていますが、ウソツケと言いたいですね。
なるほど、たしかに授業料は激増していますが、平均的な収入はむしろ減少傾向ですよね。奨学金破産という悲劇、というか本末転倒、のようなことも起こるはずです。
削除奨学金では(手続きの煩雑さも含めて)私も苦労しました。「奨学」というより、「進学などしない方がいい」という逆のメッセージを大いに感じましたね。なにか間違っているのでは、という感覚がぬぐえませんでした。
私は10歳で父を亡くしました。39歳で膵臓癌。
返信削除母はベーチェット病と言う難病でした。この病気は膠原病の一つと言われ、エリテマトーデスや結節性紅斑(手や足に大きな紅いコブのような腫れが出来、とても痛み熱が出る)、アフター性口内炎(とても痛い口内炎で、食事もままならない)等、酷くなれば失明すると言われていました。
当然働く事さえままならず、時々入院もしましたが、父にもう手を尽くす事が出来ないので、故郷に帰って暮らしなさいと医師から言われて、半年間ではありましたが、家族でその小さな漁師町に移住。
信じられない父の身内の冷たい仕打ちに耐えて、生活保護のもと、何とか母と二人で小さな長屋の様な所を点々。
3か月と少しで父は衰弱と癌が拡がって亡くなりました。
その後逃げるように地元に戻り、中学、高校と進む事が出来ました。公立高校の担任の先生が、授業料免除申請を勧めてくれて、バス代とその他の諸々の資金のために、二本立ての奨学金を借りました。
卒業後、30歳の頃まで毎月数万円を市に返しながら働き、母は相変わらず生活保護需給。しかし当時市の保護課からは、早く親を引き取り面倒をみなさいと、しつこく催促されました。
収入も低くてとても養えない旨伝えると、それならば幾らかでも親に渡しなさいと言う。
年に数回その内容を文書で提出させられて、それでも別居していましたから会う機会も減り、結婚してからも何度も説得されましたが、その内に市長が替わり、あまり言って来なくなりました。
親であれば当然の事かも知れないのですが、もしも引き取り面倒をと言う事になると、一生親と暮らす羽目になりますし、自分の人生はどうなるのか?
母親は病弱の為に、役所にも追い立てられて、早く息子の所に行きたいと言う気持ちになります。
僅か数万円の保護費を削減するように、そう言う行政だったのです。
私は高校入学と同時頃に教会に行き出しますが、色んな悩みや父のいない差別感等からでした。
あとは西洋への憧れで。
その時教会や牧師は、当時幼稚園も経営していたからか、生活保護の人は水商売の女性などに多いな、と一色単にされました。結構貰ってるんでしょうと言われた記憶があります。
高校生ですから、あまり大人の言っている嫌みや妬み等には鈍感でしたから、ハッキリはわかりませんし、あまり覚えてもいないのですが、教会員の人でも一家族の方のみ、わかってくれたような覚えがあります。
今でもそのご家族とは、息子さんを通してお付き合いがあります。
あとは嫌な思い出しかありませんね。
生活保護のお陰で今の私があります。もしも需給出来なければ、この世に存在していないでしょう。
母は数年前に、父の分まで生きて、他にも癌を何種類も味わい、81歳の生涯を終えました。
すいません。長くなりました。
幼少期から成人した以降まで、大変な苦労をなさったと思います。ただでさえ過酷な状況ですのに、それにくわえて周囲の無理解、差別にも晒されて嫌な思いをされたと思います。長年の苦しみや葛藤が、今は少しでも報われていればいいのですが。
削除特に教会に対しては、どうしても愛やあわれみを期待してしまいますから、裏切られた時のショックは大きかったと思います。マリックさんはその後チャーチスクール関連でも苦労されたと思いますから、教会に対する嫌悪感は、当然の結果だと思います。
生活保護制度はいろいろ欠陥もあるでしょうが、それでも助かっている人々がいるのも事実ですね。「保護を受ける=恥」という誤解がとけていき、もっと生きやすい社会になればと願ってやみません。
ブログの内容も、他の方のコメントもとても胸に響きました。
返信削除私自身も病気で働けなくて生活保護を考える時がありました。幸い、病院の通院費は補助が出る事を知りそちらを利用しましたが「自分が税金を無駄に使っているのではないか?」と言う考えが頭から離れず、とても心苦しかったです。
隣人愛。
うちの母が昔、クリスチャンになって浮かれている身内に投げ掛けた言葉が
「隣人愛、隣人愛ってあんたは言うけれど、自分の家族も大事に出来ない人間に他所様の人は救えない。」
私はその時まだ子供だったので良くわからなかったですが、今はとてもわかります。
ボランティアをする事が悪い事ではないけれど、病気になった家族の元へは一度も帰って来ない。
自分の気持ちを他人に満たして貰う為の隣人愛なんて糞ですね。
ありがとうございます。
削除たしかに、聖書がどうのとか綺麗なことを言っているクリスチャンが、自分の家族や近い知り合いのこととなると我関せず、なんてことがありますね。なんて偽善者だろうと思うのですが。
お母様のその指摘は、すごく的を射ていると思います。言われた相手はどう感じたのでしょうね。全然響いていないとしたら、これまた困ったものです。
でも私たちもそういう事例を反面教師として、隣人愛について日々考えていかなければならないなあとも思います。
キリスト教だけの問題では無いですよ。日本共産党の活動家で、外では若者や女性の理解のある進歩的文化人を気取ってる人が、家庭内では封建領主とかも聞きました。(昔、地方議員さんと付き合いがあったので内部の話が時々耳に入ってきました。w)多分、仏教でもNPOでもどこでも同じではないでしょうか。そんなものです。
削除牧師職とは接する機会が少ないからギャップに傷つく事は想像に難く無いですが。
坊主がキャバクラに通っていても驚かないでしょ。(^^;
キリスト教の話をしているのですが、ありがとうございます。
削除福祉職の人間です。
返信削除貧困問題への関わりですと、生活保護を利用すること、福祉サービスを使うことは恥ではないことを伝えていくことも立派な活動だと思います。
生活保護を「税金ドロボー」なんて言う人もいますけど、年収1000万円以下の世帯は、基本的に払った税金以上のサービスを受けていると言われています。
なので、生活保護を利用してる人も、日本人の大多数の世帯も、「税金にお世話になっている」ことでは大した違いはありません。
それから、生活保護世帯や生活困窮者世帯ほど、貯蓄をしないで消費にお金を回しますから、彼らの消費活動で地域経済が潤うこと事実です。
なので、生活保護=社会の重荷ではありません。
また、憲法で「国の責任」としているのですから、生活保護費は全額国が支払うべきものです。
それなのに、市町村にも分担させているから、窓口で「水際作戦」みたいなことが行われているだけです。
国が全部責任を持つ本来のあり方にすれば、市町村の窓口だって申請に来た人をおいかえすような真似はしなくてすむかもしれません。
本当だったら、コンビニやスーパーなんかにも申請書が置いてあって、必要な人が自由に書類を取って申請すれば、生活保護費が支払われるものなんです。
パチンコやギャンブルに使っているとの批判はありますけど、憲法で「健康で文化的な最低限度の生活」をうたっている以上、使い方に選択肢があって当たり前です。
文化的な生活をするためには、選択肢があって自分で選べることが必須ですし、余暇活動が必要ですからね。
パチンコやギャンブルは、また別の問題として考えるものでしょう。
そういう生活保護制度や福祉サービスの誤解をといていって、サービスを利用することは恥ずかしいことじゃありません。
利用できるものは上手に利用して、自分らしい生活を築いていくんだという権利意識を持つことが大切です。
なので、キリスト教が貧困問題に関わるならば、「立派な私とかわいそうな彼ら」みたな上から目線はやめたほうがいいです。
クリスチャンは立派な人間ではありませんよ。
私たちと同じく、人に助けられながら生活しているフツーの生活者です。
生活者として、生活の悩みを抱えながら生活をやりくりしてることが大事じゃないかと思います。
ありがとうございます。
削除専門職の方の意見は、やはり深みがありますね。
当然の社会保障制度なのに、「恥ずかしいもの」ととらえている方が意外に多くいるようで、私も困惑しています。
福祉事務所の窓口でいろいろ難癖つけて「申請させないようにする」という水際作戦(?)は知り合いも経験したことがありますが、本当に腹立たしかったです。役所は役所で大変なのはわかりますが、困窮して途方に暮れている人たちには、もっと親身になってほしかったです。役所がはじめから門前払いさせる勢いだったら、ただでさえ申し訳ない気持ちで相談にやってくる人たちが、さらに萎縮してしまうと思うのですが・・・。
大阪市の愛隣地区で、長らく貧困問題に取り組んでこられた一人が本田神父さんです。社会活動の一環で、各教会が支援活動を行っています。
返信削除この活動に対して、批判があるのも事実です。
ホームレスになったのは本人が悪い、または神がそう望んでいるからそうなったのだ。
なぜ、教会が支援しなければならないのだ、という意見ですね。そういう意見もはっきりと言えるのが良いところかもしれませんが。
ホームレス支援は偽善的行為だ、そんな偽善的行為はやめるべきだと言う人もいますね。
貧困問題の解決にあたるのは、行政であり教会ではないという人もいますね。
世のため、人のために教会はあるのですから、できる範囲で慈善活動を行うことは必要ですね。それなくしては、教会存続の意味はないでしょう。
政治家にも、いろいろな人がいるのが当然で、言っていることとしていることが違う人がいるのも当たり前でしょう。
共産党の議員なのにとか、公明党の議員なのにとか、言ってみてもなあ、というのが感想ですね。キリスト教会の信者なのにか言うのと同じですね。
キリスト教会の第一の目的はたしかに礼拝なのでしょうけれど、同じように(可能な限りの)慈善活動もすべきだと私は思っています。もちろん活動の種類やコミットの度合いは千差万別ですけれど、「教会はそんな活動すべきじゃない」という意見には同意しかねますね。
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