クリスチャンは貧困問題についてどう考えるべきですか?

2018年2月24日土曜日

教会と地域社会

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生活保護費の減額と、格差の拡大

 今年(2018年)の秋から、生活保護費の段階的な見直しがあるようです。
 その結果、年齢や家族構成によって異なりますが、6割以上の世帯で「減額」になるとのことです。3割強の世帯は「増額」になるようですが。
 
 ちなみに生活保護費は5年に1回、見直されています。受給していない低所得世帯との均衡を図るためですね。

 当然ながら減額になって喜ぶ人はいません。だからこの見直しには方々から非難の声が上がっています。
 ただ一方で、こんな声も(以前から)あります。

「生活保護を受けるのは恥」
「生活保護でパチンコしてるんだから減額は当然」
「生活保護は人並みの生活の為のものではない。最低限食べられるだけのものだ」

 生活保護に否定的な人たちもいる、ということですね。もちろん「生活保護そのものに反対」というわけではないと思いますが。

 これにさっそく反論(というか訂正)しますが、生活保護とは「最低限食べられるだけ」を保障するものではありません。
 日本国憲法第25条第1項は「国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(生存権)とうたっていて、これが生活保護法の根拠となっています。だから「最低限食べられるだけ」では足りません。「健康で文化的な生活」でなければならないのです。

 また、この当然の権利が「恥」なわけがありません。「恥」だと豪語する方は、ご自身が困窮する可能性を、考えていないんだと思います。

 で、今回の「減額」が何を意味するかと言うと、生活保護を受給していない低所得世帯(つまり何とか保護を受けないで生活できている世帯)の収入が、以前より下がっている、ということです。
 低所得世帯の貧困化が進んでいるから、生活保護もそれに引っ張られて下がっていく、ということですね。

 少し前にアルマーニ監修の標準服を導入した小学校の記事でも書きましたが、日本は所得格差がどんどん広がっているようです。持てる者は更に持ち、持たざる者は更に持てなくなっているようです。だから前者はアルマーニを買い、後者は厳しい生活を強いられているわけです。

生活保護と自己責任論

 生活保護に対する批判は、もう何十年も前からあります。冒頭に紹介した意見は、それこそ毎日の生活の中でも聞こえてきます。私も少なからず耳にしてきました。

 生活保護を受けている世帯には、たしかに「これはどうなんだろう」と思うケースもあります。
 たとえば保護費で毎日パチンコや競馬に精を出す人もいます(多少は勝てるから続くんでしょうけれど)。パチンコで稼いで寿司ばかり食べている人もいます。あるいは働けるように見えるけれど働かない人もいます。仕組みはよく知りませんが、不正受給できてしまう人もいます。

 一方で切実なケースもあります。
 知り合いに癌で闘病中の人がいます。家族がなく一人暮らし。体調が日々変動するので仕事には付けません。収入が途絶えてしまい、かつ毎月けっこうな治療費がかかりますから、生活保護を申請しました。いろいろありましたが結果的に保護が下り、今は治療に専念することができています。

 まさにケースバイケースです。たしかに問題もありそうですが、かと言って生活保護の制度が絶対的に悪いとか、無駄だとか、そういう極端なことは言えません。

 生活保護に対する批判の根底には、たぶん無意識的な「自己責任論」があると私は思います。貧困を招いたのは本人の責任だ、国が面倒みてやる必要なんてない、面倒みるから貧乏人が付け上がるんだ、働かないのが悪いんだ、みたいな。
 そう明言しなくても、心のどこかで考えてるんじゃないかと思います。

 そもそも日本に「社会保障」という考え方が入ってきたのは、近現代の話です。それまでは貧しければ(言い方が悪いですが)死ぬだけでした。だからそのへんの文化的・風土的「自己責任論」が、根強く残っているのかもしれません。
 私は日本人は案外「不寛容」だと思っているんですけれど、そのへんも繋がっているかもしれませんね。

相対的なものを絶対評価するナンセンス

 生活保護を巡る議論の1つは、「健康で文化的な最低限度の生活とは何か」という点です。

 毎日必要な栄養が取れればいい、というのは文化的ではありません。プラスアルファの何か、心が満たされる何かが必要です。
 じゃあそれは何なんだ? という話になると難しいですね。たとえばパチンコをやるのも「文化的」でしょうし、アルコールを飲むのも「文化的」でしょう。時々ちょっとした贅沢をするのも心の余裕には必要です。他にも映画を見たり、趣味に興じたり、旅行に行ったり、といった諸々も「文化的」に大切でしょう。

 でもそれらのどこまでがOKで、どこからがOUTなのか、というのはなかなか決められません。「最低限度」の基準は、どこにあるのでしょう。

 極端ですが、断食してでもパチンコしたい、という人もいます。服なんかどうでもいいから美味しいものが食べたい、という人もいます。だからそもそも個人個人で「最低限度」は違います。本来なら、個別的・相対的に対応するべきなのでしょう(もちろんそんなの現実的ではありませんよ)。

 そういう意味で、生活保護という制度は、相対的なものを絶対評価で測ろうとする、ナンセンスな試みだと言えます。それぞれ違う価値観を持った人たちを、単一の尺度(お金)で測ろうとするのですから。
 だから問題が生じるのは、当然と言えば当然かもしれません。

キリスト教と貧困

 キリスト教は、貧困問題に対してどんなアクションを起こすべきでしょうか。あるいは起こさないべきでしょうか。
 キリストの立場を考えるなら、「隣人を愛すべし」ですから、何らかの救貧活動をするのがふさわしいのでは、と私は思います。

 歴史的に見ると、15世紀以降イギリスで、修道院が率先して救貧活動を行った事例があります。社会保障制度ができる前の話です。これが結果的にイギリスの社会保障制度に繋がりましたから、「キリスト教が社会保障を牽引した」と言えるかもしれません。
 近年では、マザーテレサがインドで開いた「死を待つ人々の家」も有名ですね。その他にも大小様々なものがあるでしょう。

 ではこの日本はどうかと言うと、やはりクリスチャン人口が少ないですから、なかなか難しいものがあります。個人的には、上野公園でホームレスの方々に炊き出しを行なっている教会を知っていますが、そういう「救貧」を前面に打ち出しているところは、少ないようです。

 日本の教会は(と一概に言うこともできないのですが)、どちらかと言うと教会自体を維持するのに精一杯で、経済的にもマンパワー的にも、なかなか外向きになれないのが現状だと思います。

 たとえばアメリカや韓国では、メガチャーチが大きな力を持っていますから、地域に大規模に働きかけることができます。一部には政治的な影響力を持つ教会もあるようです。それもこれも資金に余裕があり、動員できる人数が多いからですね。日本とは状況が違います。

 以前の記事でも書きましたが、日本の教会は先細りが予想されています。20年後、30年後には今よりもっと人が減り、活動しづらくなっていくのですね。大きい教会と、閉じる教会との格差も広がるかもしれません。

 生活保護費が減額されるなど、貧困がますます拡大していく中、「隣人愛」を標榜するキリスト教会がそれに対して何もできないとしたら、なんとも寂しい気がします。教会が貧困に手を差し伸べるのでなく、教会自体が貧困に陥っていくとしたら・・・。

 さて、私たちは今のうちに、何かできることがあるでしょうか。

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