あなたらしいリズムの見つけ方・その3

2017年12月5日火曜日

「導き」に関する問題 教会の「健康」

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他者の意見も必要

「あなたらしいリズムの見つけ方」について書いています。3回目です。

 自分らしいリズムを維持するのに必要なものとして、「休息」「セルフケア」を挙げてきました。そして3つ目に必要なのは、「他者の意見」だと私は思っています。
 前回も少し書きましたが、自分のことは案外、自分ではわからないものだからです。

 他者に聞いてみると、自分にない視点、発想、気づき、アイディアをもらえることがあります。イマイチ同意できない意見も、後から正しかったとわかることがあります。聖書にも「2人は1人にまさる」みたいなことが書いてありますね。もちろんケースバイケースですが、1人で考えるより良い結果になることが、少なくありません。

 だから自分の状態や方向性を確認・修正するために、時々他者にアドバイスしてもらうのは有益だと思います。ただ問題は、「誰に聞くべきか」です。

神様に聞くべき?

 クリスチャンなのだから神様に聞くべきです、という意見があるかもしれません。
 神様はいつも最善の答えを持っています、正しい道を示して下さいます、だから祈って神様の導きを求めていくべきです、という考え方ですね。

 ただ「神の導き」は、当ブログでも度々書いてきましたが、どうしても恣意的になる傾向があります。つまり祈っている人が、「自分がこう感じるから、これは神様からの答えなんだ」と明確な根拠もないのに思い込んでしまう、ということです。
「祈っていてそう感じたのだから間違いありません」
「根拠は信仰にあります」
 などと言いますが、何の説明にもなっていないと私は思います。

 私の考えですが、「神の御心」は、すでに聖書に示されています。そこにある考え方や価値観を、私たちは学ぶべきです。そしてそれを目の前のイロイロな事柄、生活の中のアレコレに適用していくのです。もちろん迷ったり、葛藤したりします。でもそれで良いのです。自分ですべき葛藤を避けて、いちいち神様にあれですか、これですか、と聞こうとする方が無責任だと思います。
 唯一絶対の「正解」など、どこにもないのですから。

 それに「いつも神様に聞いて正しい道を選択をしていく」という考え方は、「すべてのことを益とする」という言葉との整合性が取れません。いつもベストな選択肢を選び、べストな結果が得られているなら、「(どんな結果であれ)益とされる」必要がないからです。

「神に聞く」というのは、もっと自省的なことだと思います。自分の内面を探り、今適用すべき聖書箇所があるだろうか、と考えることも立派に「神に聞く」ことです。自分の頭で積極的に考え、判断することです。そうでなくインスタントに答えを出してくれる何かに頼るとしたら、私たちの脳ミソは何のためにあるのでしょう。自分の人生は、自分で生きるものではないのでしょうか。

誰に聞くべきか

 では私たちは具体的に、誰のアドバイスを聞くべきでしょう。
 牧師でしょうか。長老でしょうか。先輩信徒でしょうか。あるいは有名牧師や、海外の著名人にメールすべきでしょうか。

 もちろん一概に言えませんが、むしろ教会外の人、クリスチャンでない人に聞いた方が有益だと私は思っています。クリスチャンに聞いても、答えがだいたい限定されるからです。彼らは信仰的なことからどうしても離れられないのです。

 だからあなたが教会で頑張っている人なら尚のこと、未信者の人の意見に耳を傾けるべきです。教会で頑張れば頑張るほど(それは悪いことではありませんよ)、どうしても客観性を失っていくからです。そしてイロイロなことが、見えなくなってしまうからです。
 皮肉なことに、教会や聖書に慣れ親しむほどに、私たちは教会外のことに疎くなっていくようです。そしてそれは「あなたらしいリズム」を見失うことにも繋がります。

 未信者の、信頼できる友人がいるでしょうか。いるなら大切にして下さい。そして彼らに伝道してあげようとか、救ってあげようとか高飛車なことを思うのでなく、単純に友人として接してほしいと思います。彼らの話に耳を傾けて下さい。そして「彼らは何もわかってない」と決めつけるのでなく、「もしかしたら自分の方がわかっていないのかも」と考えてみて下さい。
 そういう柔軟性が、クリスチャンには必要だと私は思います。

楽しむのは悪いこと?

 1回目の翻訳記事に、「休息」と同時に「楽しみ」も必要だとありました。
「楽しむ」ことで気分転換でき、自分自身をリセットできる、ということです。筆者のナターシャさんは踊るのが好きだと言っていました。

 たぶんクリスチャンの方の中には、
「いつも主にあって喜び楽しんでいます」
「神様と交わることが最大の楽しみです」
「聖書を読んで賛美して祈れれば幸せです」
 みたいなことを言う人もいるでしょう。それはそれで素晴らしいことです。しかしいささか抽象的ではないでしょうか。ここで言っているのはもっと具体的な、あるいは物理的な、個別的なことです。

 教会の中にいるばかりでなく、また賛美や祈りばかりでなく、時には自分の趣味に没頭したり、美味しいものを食べに行ったり、話題のスポットに遊びに行くのもいいと思います。旅行なんかもいいですね。リフレッシュされ、気持ちが豊かになります。

 私たちが楽しむことを、神様はどう思われるのでしょうか。けしからんと思っていて、何か「罰」を下すのでしょうか。あるいは「祝福を取り上げる」のでしょうか。それは「罪」なのでしょうか。そんなことどこにも書いていないと、私は思いますが。

 よく一般社会を「この世」と呼んで忌み嫌う人々がいます。でも私たちは間違いなく「この世」の中で、「この世」を相手に生きています。上も下もありません。
 あるいは「この世と調子を合わせていはいけない」という聖書箇所を盾に、「この世」からの分離を主張する人々もいますが、意味を履き違えていると思います。なぜなら「この世」は隅から隅まで、神様の作品のはずだからです。美しいものや良いものが沢山あります。幻の中で「汚れたものは食べられません」と言ったペテロに、神様は何と答えられたでしょうか(使徒行伝11章9節)。

 また、神様は私たちの健康を願わないのでしょうか。私たちが病気だと神様は嬉しいのでしょうか。違いますよね。私たちが健やかであることを願っておられるはずです。
 であるなら、私たちのメンタルヘルスについても、神様は気を配っておられるはずです。神様が作った世界の中で、私たちが喜び楽しんでいることを、願っておられるはずです。

健全性はバランスの上に立つ

 何にせよ、バランスが大切だと私は思います。
 私たちはいつも遊んでいるだけ、いつも休んでいるだけ、ではありません。時に働きます。時に苦労し、葛藤します。どれか1つの状態にずっと留まるなんてことはありません。
 少なくとも私は24時間ずっと遊び続けられないし、休み続けられません。何か有意義なこと、価値あること、誰かの役に立つことがしたくなります。

 そういうイロイロのバランスの中に、「健全」が形作られていくのではないでしょうか。

 ちょっと気が早いですが、もう少しで今年(2017年)も終わります。今年を振り返るには良い時期だと思います。よく休み、気分転換を図り、セルフケアをしたり、誰かのアドバイスを聞いたりして、リズムを整えてみてはいかがでしょうか。

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