・クリスチャンは忙しくあるべき?
教会での奉仕に限らず、仕事や学業や家事や育児などの日々の活動で、皆さん「忙しい毎日」を送っておられるでしょうか。あるいはそこまで忙しくない、「余裕のある生活」でしょうか。
私は今でこそ(ある程度)余裕のある生活を送っていますが、かつては教会で、ものすごく忙しい日々を過ごしていました。朝早くから夜遅くまで、時には徹夜して、働き続けていました。もちろん睡眠時間もありましたが、慢性的に寝不足だったと思います(空き時間が少しでもあると、すぐ眠りこんでしまうという状態でした)。食事も睡眠も不規則で、運動習慣もありませんでしたので、(今思うと)いつも体調がイマイチでした。
なぜそこまでするかと言うと、牧師からそう求められるからです。
「神の民はハードワーカーでなければならない」
そして聖書から、たとえばキリストと弟子たちが「休む間もなく」人々を迎えていた様子や、あるいは「霊に燃え主に仕えよ」とか「勤勉であれ」とかいう言葉が引用されるのでした。
牧師自身、忙しくしていたようです。「自分は秒単位で働いている」と口癖のように言っていましたから。で、その牧師からポンポン仕事を投げられるので、信徒は上記のような状態になるわけでした。
以前、体験談で「何でもかんでも奉仕を増やしたがる信徒」がいるというお話がありました。確かにそういう人もいると思います。ただうちの場合、それが牧師自身なのでした。奉仕を増やすというより、新しい活動をどんどん増やしていく、という感じでしたが。
だから信徒がみんな大変になるのでした。
さて問題は、それが聖書に照らして正しいのかどうか、信仰者は本来そうあるべきなのかどうか、という点だと思います。
果たしてクリスチャンは、体調を崩してまで(あるいは崩さなくても)忙しく毎日働き続けるべきなのでしょうか。そこまでしないと「神の御業」は達成されないのでしょうか。私たちがガツガツ働かなければ「神の御業」は滞ってしまうのでしょうか。私たちが疲弊して、それでも頑張って仕えることが、神の願いなのでしょうか。
皆さんはどう思われますか。
・衝撃的だった光景
1つ、私にとって衝撃だった出来事を紹介します。
あるとき、シンガポールの教会から、何人かの若者が来日しました。そして私の教会で一緒に活動しました。皆勤勉で良い人たちでした。一生懸命働いてくれます。
しかし1週間くらい忙しく過ごした後、彼らが「2、3日休みます」と言い出したのです。今思えば当たり前な話ですが、当時の私には衝撃的でした。「え、休むんだ?」という感じです。面と向かって言いはしませんでしたが。
それだけ、私たちに「休む」という感覚がなかったのです。
彼らはそれから数日間、ゴロゴロしたり、談笑したり、ゆっくり聖書を読んだり、遊びに行ったりしていました。牧師も相手が「お客さん」だから厳しいことは言いません。彼らは時間をかけてリフレッシュしているようでした。それを傍目に、私たちは変わらず忙しくしていたのですが。
でも「忙しくあるべきだ」という価値観の中にいながら、何となく彼らのことが羨ましく見えたのを、今でもよく覚えています。
さてそれからイロイロあって、やはりいつも忙し過ぎるのはおかしい、と気づきました。「勤勉」と「忙しい」は違うわけです。キリストご自身、いつも忙しかったわけではありません。よく山に引き篭もっていたではありませんか。
結局、病的とも言える牧師の活動過多に、付き合わされていただけだったのです。「ハードワーカーであれ」というのは聖書の言葉ではなかったのです。当たり前ですが。
・自分らしいリズムで生きること
今回紹介したいのはナターシャ・S・ロビンソンさんの記事「あなたらしいリズムの見つけ方」です。活動と休息のバランスについてです。彼女は「忙しく働く」ことより、適度な休息を取りながら、「自分に合ったペースで働く」方が大切だと書いています。
少し長いですが、以下に翻訳して紹介します。
(以下翻訳)
いつもフルスピードでは走れないから
力強い歌を聞くと、手拍子を打ったり声をあげたり、足でリズムをとったり、腕を振ったりしたくなりますよね。エモーショナルな歌を聞くと、涙が流れたり、古い記憶がよみがえったりしませんか。跳んだり踊ったりしたくなるメロディもありますね。
私たちの「魂」は、リズムとブルースにどこかで繋がっているのだと思います。意味深な歌詞は、人生のどこかで経験したことを思い出させ、とにもかくにも私たちが人間であることを再確認させてくれます。
でも、生きていれば仕方ないことですが、お気に入りの歌が子供の悲鳴や、ギチギチのスケジュールや、わずらわしい雑務でかき消されることがあります。いろいろな必要に迫られて、何とかしようとして、ひどく混乱し、自分自身を見失ってしまうことがあります。自分が誰で、何を求め、どこへ行こうとしているのかを。
その迷走感は、時に危険です。そういう時は意図的に誰かに相談してみたり、セルフケア、セルフリーダーシップを実践してみたりすると良いかもしれません。
セルフケア術
健全な状態を維持するには、それを継続する意思と、ちゃんとした自己認識が欠かせません。あなたのニーズや強み、弱点などを見極める性格診断テストで「己を知る」のも良いでしょう。楽しい人間関係やコミュニティの中にいるのも、ストレス解消に効果的です。
でもそういう自己認識やコミュニティより、「あなたらしいリズム」を見つける方がさらに重要です。
私が海軍にいた頃、毎日の(身体的な)トレーニングが必須でした。そういう訓練はあまり好きではありませんでした。でもその結果には満足でした。毎日エネルギーに満ち、目覚めが良く、食べるのが楽しかったですから。
でもそういうハードなトレーニングを始めて数年後、いろいろ状況が変わって、毎日はできなくなりました。週5日だった訓練を週3日にし、週2日にし、と徐々に減らしていきました。そしてついに、完全に止めてしまいました。日々の責任が増え、デスクワークが多くなったからです。つまり仕事とトレーニングの両立ができなかったわけです。すると数ヶ月で体重が戻りました。活力に欠け、睡眠は不規則になり、あちこち痛むようになりました。リズムが崩れてしまったのです。結局、私は生活全般を見直す羽目になりました。
ニーズを知る
とは言え、トレーニングに戻るのは簡単ではありませんでした。自分でやるにしろ、友達と一緒にやるにしろ、なかなかうまく行きません。ジムの会員になっても長続きしなかったです。いろいろ努力しましたがダメでした。これは真剣に対策を考えなきゃまずいなと、私は焦りました。
それで日常業務を調整して、確実に入れそうスケジュールを確保し、その時間にのみジムに行くことにしました。結局それがトレーニングを続ける唯一の方法でした。そこには、私が反復訓練にウンザリして辞めたくなっても、ちゃんと叱咤してくれるインストラクターがいたのです(翻訳者注:完全予約制のジムを利用したのだと思われます)。
たぶんあなたの葛藤は、身体的なトレーニングのことではないでしょう。もっと別の話を聞きたいのだと思います。たとえばカフェインの摂りすぎを抑える方法とか、学校に戻る方法とか、人間関係を改善していく方法とか。
しかしながら、「あなたらしいリズム」を見つける最初の一歩は、それを妨げている何かを特定することです。目標が何で、障害物が何で、どういうフラストレーションが生じているのか、はっきりさせることです(翻訳者注:この場合、筆者は週5日のトレーニングに戻らなければリズムを取り戻せないと思っていたけれど、それがそもそもの間違いで、現状に合った、もっと緩いペースでトレーニングをしたっていいんだと気付いた、というような意味です)。
友達と共に
良い友達はその手助けをしてくれます。あなたがこうでありたいと願う姿と今の姿とのギャップを素直に話してみて、快く助けてくれそうな友達はいますか。いるなら彼らとの関係を大切にしましょう。
あなたをストレスから解放させない一番の敵は、実はあなた自身なのです。私も神学生とフリーライターとミニスターという三足のワラジを履いて頑張っていた時は、ストレスがひどく、いつも疲れていました。フクロウみたいに夜遅くまで働いて、翌朝いつも通り早く起きる、という毎日を自分に課していたのです。でも友人(私の場合は夫でしたが)の知恵を借りて、日々の仕事を全部やりきろうとするのでなく、1日1日、無理なくできる範囲に留めることにしました。
仕事(あるいは教会奉仕)を柔軟に、余裕を持って進められるとしたら、素晴らしいことですね。それはあなたにとって、静かな週末を過ごすために平日ちょっと長めに働くことかもしれません。あるいは教会にお願いして、まとまった時間をもらい、勉強したり内省したりすることかもしれません。いずれにせよ、予定を一旦止めてみることも必要です。あれをしなきゃ、これをしなきゃ、といろいろ考えるのでなく、思い切って、あなたにとって大切な何かを優先してみて下さい。そういうことができるコミュニティを選ぶのも大切です。
楽しく自由にやりましょう
安息日に休むという(週1回の)リズムは、教会にとって神聖なものです。そしてそれは健康おいても良いものです。
忙しく働いた後は、よく休むようにしましょう。それは自分勝手なことではありません。むしろあなたの魂を健全に整える、ごく自然なリズムです。
また休息中は、「楽しむ」ことを意識してみて下さい。
「楽しむ」というのは、教会内ではあまり推奨されないことかもしれません。でも聖書は歌うことや叫ぶこと、踊ること、喜ぶことにたくさん言及しています。なぜか「楽しむ」という形ではあまり引用されないのですが。
私がよく思い起こす聖句は、ガラテヤ6章9節の「良い行いに疲れないように」です。私は自分自身に問います。この人生において、私が疲れないように支えてくれるものは何か、と。もちろんイエス様がそうですね。でも時々、少なとも私自身は、踊ることでリフレッシュされます。
楽しむことで、私たちのリズムはリセットされます。(意図的に)楽しむことで、重たい問題が少し軽くなり、違った見方ができるようになります。
今までの(ストレスフルな)リズムに固執していませんか。
あなたらしいリズムをちゃんと教えてくれる人はいますか。
疲れすぎないように自分自身を保つ方法はありますか。
あなたの日々の選択が、あなたの生活にそのまま反映されます。
あなたらしいリズムを見つけましょう。その中であなた自身の課題が見つかり、また目標が決まっていくと思いますから。そしてキリストを模範とし、セルフケアを怠らず、他者と深く繋がった生活を送ってほしいと思います。
(ナターシャ・S・ロビンソン)
(翻訳終わり)
・ペースはみんな違う
この記事に、私は大いに同意します。
もちろん生きていれば、忙しくあれこれ動かなければならない時もあります。避けられないこともあります。頑張らなければならない時もあるでしょう。でもそういうのが何週間も何ヶ月も続くようだと、ちょっと困ってしまいます。
私たちは自分にできるペース、ちょうどいいペースを見つけて、適度に活動するのが一番良いようです。そして十分に休み、楽しむことも大切なようです。
みんなペースが違います。割とハードに働く方が好きだと言う人もいるでしょう。あるいは余裕がなければダメだと言う人もいるでしょう。短時間で回復する人もいれば、時間をかけて回復する人もいます。みんな違うのです。大切なのは、自分にふさわしいペースを知ることではないでしょうか。
もちろん、仕事を選ぶのはなかなか難しいことです。学業や家事や育児、介護など、自分のペースでできないことも多いです。どうにもならないこともあるでしょう。
でも忙し過ぎる状態が長く続くのは、良いことではありません。ストレスが溜まったり、体調を崩したり、精神状態が悪くなったりします。人間関係にも影響してくるでしょう。
だから紹介記事にもある通り(状況をすぐには変えられないとしても)、自分自身の状態を客観的に見ること、他人に相談すること、高すぎる理想や先入観に気づくこと、自分に無理なくできる範囲や方法を見つけること、などが大切なのだと思います。
「やること」に振り回されるのでなく、自分のペースに「やること」を当てはめていく、と言ったらいいかもしれませんね。
・クリスチャンの本当の責任とは
単純に考えてみて、もし教会でクリスチャンの方々がいつも忙しく働き回っていて、ストレスフルだったり疲労困憊だったりたら、未信者の方はどう思うでしょうか。羨ましがるでしょうか。クリスチャンって大変だなと思うでしょうか。
あるいは反対に、ちゃんと働くけれど、休む時は休み、いつも余裕があって楽しそうだとしたら、どう思うでしょうか。
教会でクリスチャンとして存在することは、少なくともそれを見る人たちにとって、「クリスチャンとはこういう存在なんだ」と示すことです。本人が何をどう考えているかに関係なく。
だからバタバタと忙しい姿を見せるか、あるいは余裕のある姿を見せるかは、クリスチャン1人1人の責任だと言えます。そしてその結果も、それぞれが負うことになります。
さて、今現在教会で頑張ってらっしゃる皆さんは、どう考えるでしょうか。
最後に、私なりの健康維持のポイントを書きましょう。
食べ過ぎず、よく休み、よく寝て、適度な運動習慣を持ち、自分が楽しいと思えることを定期的にすることです。友達と食事したり、遊びに行ったりするのも良いでしょう。個人的にはスパや岩盤浴で身体をリラックスさせるのがお勧めです。特に忙しかった後は、たっぷり休むと良いです。
というわけで、休息は大切ですよ、というお話でした。
確かにいますね。聖書を引用して、「ハードワーカーでなければならない。」、「リバイバルには体力が必要だ」みたいなこと言う牧師やリーダー達が。どっぷり漬かっていると気づかないのですが、いざ、離れてみると自分の生活がいかに異常だったのかと思います。究極的に言えば、全能の神が先頭に立って働いているなら、クリスチャンが多少のんびりしていても、神の御国の拡大の妨げにはならないでしょう。だまされちゃあいけませんね。
返信削除Fuck
神が何かをされようとしていて、それを成し遂げるのに人間(教会)の力が必要で、だから「神の御心」に敏感な人間が必要なんだ、そしてそれが自分たちなんだ、というのが彼らの理屈ですね。
削除でもそれが本当なら、人間は神の道具に過ぎないことになる気がします。そこに神の愛や許しがどう関係してくるのか、わからなくなるのではないでしょうか。
記事にも書きましたが、私たちが消耗しきった廃人みたいになってまで働くのを、神が願うとしたら、どれだけサディストな神様なのでしょう。と私は思いますね。
教会のカルト化について書かれたブックレットにこのような話がありました。
返信削除ある新興宗教系プロテスタントで、信者が疲れ果てて「たまには休みをください」と教祖様にお願いしたそうです。
すると教祖様は「天国に行けば休める」
嘘のような本当の話です。吉本興業の「一生休んどれ!」なみで、「死ぬまで休むな!」なのです。
結局くたくたに疲れ果てて、口もきけなくなるほど疲弊しきった状態に信者を置くのが、目的の一つではないかと思います。
疲れ果ててしまうと、余計なことを考えられなくなるからです。北朝鮮が何かにつけて「〇〇戦闘」とやって、人民をあおって働かせるのと同じことでしょう。
疲れさせて思考力や判断力を奪う、というのは実際あると思いますね。
削除心も体も健康であることがやはり大切なのだと思います。人間誰しもがそうでしょう。
返信削除私の知り合いで、ある教会の賛美チームに入っていた人がいました。彼はある日椎間板ヘルニアになってしまい、腰と足が痛くて大変だったそうです。しかし牧師は彼の賛美奉仕を外すことはせず、これまで通り奉仕をさせ続けたのです。彼は足が痺れて体が反れてもマイクを持って歌い続けました。すると牧師が、賛美の合間の挨拶タイムで、「今日の賛美チーム、笑顔がないよ」と指摘してきました。当然牧師はヘルニアの事情を知っています。なのに平然とこんな言葉をかけられるのですから、なかなかのSっぷりです。さて、彼は内心「チクショー、早く終われ〜」と思いながらもどうにか笑顔で歌い切ることができたそうです。彼はヘルニアが完治するまでの3ヶ月間をこのように気合いで過ごしました。信仰がなくては神を喜ばすことはできません。気合いがなくては牧師を喜ばすことはできません。
一方平日勤務している会社では、同僚の人たちがその人の体調を心配し、大変優しくしてくれたそうです。上司がその人の仕事の内容を軽くしてくれたり、無理のないように配慮してくれたりしたため、その人は大変感動したそうです。ノンクリスチャンの方が牧師よりも健康に気遣ってくれるとは、何たる皮肉です。
カルト系クリスチャンはドSチャンです。
>呂布さん
削除私の知り合いでも、全く同じ様な仕打ちを受けた人がいるので、分かります。
こういうドS牧師は、「信徒によって、取り扱いが違うから」と言って、人に対する態度をコロコロ変えます。さらに、自分の下にいるリーダーを使って、(直接的にはやらない)自分の手を汚さないのが常套手段です。Dioの言葉を借りるならば、「カエルの小便よりも…下衆な!下衆な奴ら」です。
本当に終わってますね。今も、その教会ではあからさまな信仰虐待が行われているんでしょうね。いやはや。メリー苦しみマス。
Fuck
私も奉仕生活の終盤の方は、椎間板ヘルニアに悩まされていました。それでも働かなければならないと思っていましたので、呂布さんのお知り合いの方のお話が、まるで自分のことのようでした。
削除たしかに、彼らが「この世」と呼んで蔑む世界の方が、親切で優しいというのはあります。牧師から受けられなかった配慮を受けられて、感動したことが私もあります。
「この世にインパクトを与える」とか言うのなら、もうちょっと「この世」に見習ってほしいですね。
誰だったかフランス?の有名な哲学者の言葉に!
削除「悪人の悪は限度がある、善人の悪は限度が無い」
「地獄への道は善意で舗装されている」
っていうのがありますね!
主観的に善意で、「善意」に酔いしれてるとしたら怖いです。
私達も気を付けなければなりません。
善意だけに訂正が効かない、という現象ですね。これは良いことだ、正しいことだ、と信じているだけに厄介です。以前ツィッターに投稿した言葉を、もう一度ここに掲載しておきます。
削除「正義の反対は『悪』でなく、別の正義だった」
椎間板ヘルニアだったのですか。それは本当に大変でしたね。
削除牧師からは、「ヘルニアも神様からの取り扱いのうちの一つだから!」と非情な言葉をかけられていましたね。その人が成長するために神が与えているという説明をされて、ヘルニアで苦しんでる人が前向きになれるのでしょうか…アホかと。
私はこの、「取り扱い」という言葉が嫌いです。牧師はこの言葉で信徒を矯正しようとします。ある人は、セミナー中にゲホゲホ咳をしていたらセミナー後に呼び出されて、「何か隠している罪はない?その咳は悪魔の影響が原因。今主が取り扱っているんだよ!」と言われ、強制的に悔い改めさせられたそうです。え?咳してたらそんなになっちゃうの?
強制的に矯正する牧師は人権無視が当たり前です。
ありがとうございます。
削除今は運動習慣もあり、ヘルニアは全然大丈夫です。
私も「取り扱い」という言葉が嫌いですね。「あなたのこういう部分は神にあって変えられなければならない」みたいな文脈で、よく牧師が使っていましたから。でも結局それは牧師好みの人間、牧師にとって都合のいい人間に変えようという試みに、過ぎなかったと思います。それを「主の取り扱い」と言って神のせいにするのは、フェアでないですね。
それにしても咳をしただけで罪を告白させようとするのは、さすがにどうかしてますね。その牧師は自分が食事中にむせ込んで咳をしたら、自分の罪についてあれこれ考えるのでしょうかね。考えるわけないか(苦笑
みなさん もう12月ですねエ。ホントに早いものです。さて今回の「クリスチャンは忙しくあるべき?」に始まる<キリスト教プロテスタント教会のカルト化と健全性>。さすがに昨今の企業では「モーレツ社員」(クレージーキャッツの出演映画など……古すぎますか?)は化石の如き存在ですが、キリスト教会も似たような状況かもしれません。
返信削除fumimaru kさんがおっしゃられた彼らなりの解釈である、「神が何かをされようとしていて、それを成し遂げるのに人間(教会)の力が必要で、だから『神の御心』に敏感な人間が必要なんだ、そしてそれが自分たちなんだ」というのは、中に入ってどっぷり浸かってみると居心地いいしわかりやすいし単純だし熱心であることで満たされている修復されている、という思いになりやすい。けれどそれは中にいるからであって一歩でも外に出て客観視したり冷静になったりしてみると「あれ?」と気づかされます。
彼らなりの解釈理屈は、自分たちこそ神の導きがあるのだ、という自分たちに優位な都合いい解釈でしょう。神は全能ですから、わざわざ人間に力を借りる、人間(教会)の力が必要だなんてことはないでしょう。自分たちが熱心であることを確認し合いたい外に出したい(信じてもらえるかどうかは別にして)と熱心になっている一方で、独りよがりであることに気づかない。
どんなことにも言えるのだけど、客観性と冷静さを失ったら、ただのひとりで踊っているだけなんですよね。ある意味、ピエロのようなものではないかなと。
信仰は独りよがりではないはずなんですが。
スマイルさん
削除コメントありがとうございます。
たしかに、教会の中にいると気づかないことが沢山ありますね。外から見るとどう考えてもおかしなことが、中にいると自然なことに思えてしまうという。それだけ視野が狭くなってしまうのでしょうね。
カルト系教会は「神様が我らの力を必要としている」と主張しますが、そもそも神様と人間との関係は、そういう「力の貸し借り」ではないと私は考えています。もしそうだとしたら、私たちに必要なのは「神様」でなく「神様の力」ということになり、逆に神様が人間を造った理由も「人間」への関心でなく「人間の力」への関心、ということになってしまいますから。
おっしゃる通り、信仰は相手(神様)がいるはずのものですが、時としてその相手を無視した、独り善がりなものになってしまう危険性がありますね。
fumimaru kさん こちらこそありがとうございました。つまりこういうことなんでしょうね。自分たちの信仰の正しさ純粋さを証明したい、伝えたい、神さまに用いられているんだと、そのために、彼らは自覚も意識もしていないのでしょうが、神を自分の正しさの証明のために利用している、というのが言い過ぎなら、神を自分たちの考えや信仰に無理やり当てはめようとしているのではないか。それって、神は本当に喜んでくださるかなあ。ちょっと迷惑と思っていらっしゃるかも。
削除おっしゃる通りだと思います。
削除神を愛すると言いながら、その神を利用している、というのが実際のところだと思います。そんなこと絶対に認めないでしょうけれど。
確かに教職者やリーダーたちはいつも忙しそうにしていました。奉仕やら会議やら。平日の夜や土日は1日中教会で過ごす人も多かった気がします。しかもダラダラと長時間にわたって会議しています。彼らに休む時間などないのでしょうね。学生ならまだしも社会人がそれで良いのかなと思っていました。本人たちが好きだやっているなら別にいいのですが・・。
返信削除就職後の自分はきっとこうなってしまうと思ったことも脱会の理由の1つでした。
reiさん 横から失礼いたします。なるほど、とひざをうちました。というのは「忙しくしている」「忙しい教会活動伝道活動」に熱中していることで自分たちの信仰こそ正しいのだと、やっぱり思い込みや独りよがりになっているのではないかなと。もし仮にそれが神さまにとって喜ばれるとしても、他人にそれを強要したり強制するとしたら、それこそ神のみこころではないんじゃないか。脱会してよかったですね。
削除忙しいから「神に用いられている」、奉仕で大変だから「信仰に進んでいる」というのは、クリスチャンにとって陥りやすい落とし穴だと思います。
削除それだけならまだしも、「自分はこれだけ用いられていて忙しいんだ」みたいな信仰自慢になってしまうこともあります。
どんな良いことも、人の手にかかるとどうにでも変質してしまう、ということだと私は思います。
わたしがいた教会では12月が1年で一番大変な時期でした。
返信削除クリスマス集会の予定がびっしりと詰め込まれていたからです。
空きがないんです。
プライベートな時間などありませんでした。
8月くらいから準備を始め、秋にクリスマス集会の打合せ、会議、合唱の練習、レクリ―エーションの準備、買い出し等々・・・がどんどん押し寄せてくるので、私は毎年本当に大変な思いをしていました。
毎年毎年同じ内容のクリスマス集会を開いても新しい人はもちろん来ません。
教会員の付き合いでクリスマス集会だけ仕方なく来る人がほとんどだったと思います。
一応その人達のおかげでかなり広い会堂が満席になり、追加の椅子を用意したりするので、その様子を見て、牧師や役員たちは、口々に「神に用いられて素晴らしい集会になった」と喜んでいるんです・・・。そして、それが次の年も延々と続いていくことの繰り返しです。
私は疲弊し過ぎていてこのことをきちんと考える余裕がありませんでした。
教会を辞めてからは人間らしいクリスマスを過ごせているので、それが嬉しいです。クリスマスケーキ食べたり、クリスマス用品を買いに行ったり、プレゼントを買いに行けたりとか、当たり前のことなんですが、より嬉しく感じます。
ちゃんとしたリズムで生活しないと、本当に心が病んでしまうんだなと感じました。
ニャンタマさん
削除奉仕本当に大変でしたね。プライベートな時間がなかった、という状況がよくわかります。今は「人間らしいクリスマスを過ごせている」というのも決して大げさな表現ではありません(苦笑)。その通りだと思います。
どうぞ平和なクリスマスをお過ごし下さい。
ご指摘の通り、その手の教会は毎年毎年同じようなイベントを企画して、でも新しい人がほとんど来なくて、それでも「素晴らしかった」「恵まれた」と現実を直視しない言葉で締めくくる、ということを繰り返しています。しかもそれについて誰も指摘しない(できない)、気づかない、考えられない、という状況です。まさに病的な状態だと、私は思います。