セルフケアの必要性
前回は「あなたらしいリズムの見つけ方」と題して、主に「休息」について書きました。
休息は誰にとっても必要ですね。人間の身体は、活動したら休息するようにできていますから。事実、多少の無理は効くとしても、私たちは永遠に働き続けることはできません。イザヤ書40章に「歩いても疲れず」という言葉がありますが、あれは比喩表現です。文字通り受け止めてはいけません。真に受けてどこまでも歩き続けたら、そのうち倒れるでしょうから(笑)。
ちなみに、もしあれが比喩でないと言うならば、「翼をはって上る」という部分も実行してみて下さいね。
とうのは冗談として。
忙しかったり、ストレスフルだったりすると、けっこうイライラしませんか。私はそうです。だから適度に休み、無理のないペースで仕事をしたり生活したりするのが大切だなあといつも思っています。その意味で私の「自分らしいリズム」は、かなりゆっくりかもしれません。
皆さんのペースは、いかがでしょうか。
でも実際のところ、「休息」だけではリズムの維持は難しいです。休日をちゃんと確保できたとしても、突発的に忙しくなったり、ストレスな出来事が起きたりして、簡単にペースが乱れてしまいますから。それだといくら休んでも、あまり意味がありません。
だからもう少し積極的に、あるいは意図的に、自分のペースを管理できた方がいいかもしれません。そしてその場合は、セルフケアが役に立つと思います。
セルフケアはたぶん、仕事をしている人にも、家事や育児や介護をしている人にも、教会で奉仕をしている人にも、その他のどんな人にも、役に立つスキルだと思います。
というわけで今回は、セルフケアについて考えてみます。
まず、あなたがしなければならないどんなこと(それがどれだけ大切なことだとしても)よりも、セルフケアを優先します。
「セルフケアを優先する」と聞くと、自己中心的に聞こえるかもしれません。「自分さえ良ければそれでいいのか」みたいな。
でも他人をケアする仕事や立場であるなら尚更ですが、セルフケアは絶対に優先しなければなりません。なぜなら自分が健全でないと、(種類や程度にもよりますが)誰のことも助けられないからです。
たとえば災害時の基本は「まず自分の身の安全を確保すること」です。自分が被災してしまったら、どうにもなりませんから。あるいは深夜に病院に行って、そこの医師がいかにも寝不足で意識朦朧だったら嫌じゃないですか。ちゃんとした医師に診てほしいですよね。
あるいはもっと単純に考えてみましょう。もし虫歯が猛烈に痛かったら、何かしようと思えますか。腹がよじれるほど痛くて死にそうな時に、ゆっくり伝道できますか。
だから「自分自身を顧みず、他者のために尽くす」というのは美談に聞こえるかもしれませんが、実際的にはいろいろ問題があるわけです。何かしようと思ったら、それに見合ったコンディションが必要なわけです。ちゃんと自分自身のことを顧みていないと、結果的に他者のためにならない、ということですね。
ストレスチェック
次に、日々のストレスをチェックしましょう。
最近、一般企業でも「ストレスチェック」が行われるようになりました。
従業員のストレスの度合いを(アンケートや聞き取り調査で)測り、メンタルヘルスを維持管理しよう、そしていろいろな問題が起こるのを防ごう、というわけです。
で、様々な手法や手順があるでしょうが、ストレスチェックで確認するのは概ね次の4項目です(順番に意味はありません)。
①食欲の有無
普通に食べられていたのに、なぜか食欲がなくなった、お腹が空かない、食べたくない、食べても美味しくない、などの場合、ストレス過多の可能性があります。
②睡眠状態
よく眠れていたのに、なぜか寝つけなくなった、途中で起きてしまう、目を閉じると不安になる、寝たけどスッキリしない、などの場合、ストレス過多の可能性があります。
③意欲の有無
以前に比べて、どうもやる気が出ない、だるい、起きるのも辛い、出掛けたり人に会ったりするのが億劫だ、などの場合、ストレス過多の可能性があります。
④体調
大きな病気はないけれど、なんとなく体調が悪い、ずっと風邪っぽい、どこかがずっと痛い、目が疲れたり肩がこったりしやすい、などの「はっきりしない不調」が続く場合、ストレス過多の可能性があります。
たぶん多くの人が、これらの症状を多少は経験したことがあると思います。でも酷くなってきたり、長く続いたりするようでしたら、専門機関に相談することをお勧めします。
あるいはそこまで酷くないならば、ある程度自分で環境を調節し、症状が治まっていくかどうか、見た方がいいでしょう。ストレスフルな状況を我慢しても、あまり良いことはありません。
牧会が大変?
時々、牧師や教会のリーダー的な人が(溜息まじりに)このように言うのを、聞くことがあります。
「牧会は大変だから」
私はどうも、この意味がよくわかりません。
もちろん言葉の意味はわかりますよ。そうでなく、なんでこういう発言になるのかわからない、ということです。
「牧会とは何か」という話をしてしまうと大変なので、ここでは「信徒を育てる」とか「信徒の成長を促す」とかいう意味としましょう。で、なんでそれが「大変」なのでしょうか?
「お前に何がわかる」とか言われそうですが、私もそういう立場で働いたことがあります。だから事情はだいたいわかります。その上で言うのですが、「信徒の成長」は、教える側の責任ではありません。教える義務はあるでしょうが、それで信徒がどうなるかは、はっきり言って本人次第です。
たぶん「牧会は大変」と言う人たちは、そのへんを勘違いしていると思います。私たちがいくら努力したところで、犠牲を払ったところで、誰かを変えることはできないのです。誰かの状況を変えることもできません。もし変わったとしたら、それはその人自身の意志です。私たちは何かの影響を与えることはできるでしょうが、最終的にどうするかは、本人次第なのです。
それを何とか変えようとして、試行錯誤を繰り返して、祈ったり悔い改めたり、泣いたり叫んだり、でも結局変わらない(自分が願った通りにならない)、あー牧会は大変だ、となるのではないでしょうか。
ちょっと脱線しましたが、そういうことでストレスを感じる人がいます。
以前にも書きましたが、ある牧師は信徒のことで悩み過ぎてしまい、睡眠薬なしに眠れなくなってしまいました。こういう話を聞くと、「なんて献身的で愛深い先生だ」と思われるかもしれません。気持ちはわかります。でもはっきり言いますが、そこまで抱え込んでしまうのは、対人援助者として適格でありません。あるいは準備が不足しています。
これがたとえば公的なカウンセラーだとしたら、「クライアントに振り回されている」ということで、プロとしての適性が疑われます。あるいは患者の言いなりになってしまう医師、患者が言った症状しか見ない看護師、利用者の要求通りのプランしか作れないケアマネ、なども同じで、やはりプロとしての適性が疑われます。
牧師は国家資格ではありませんが、一種の任用資格でしょうし、そうでなくても一般的に「専門家」と認識されているでしょう。だからプロと同様の適性が求められるはずです。
だとしたら、「牧会のせいで睡眠薬なしに眠れなくなってしまった」というのは、明らかに適性を欠くわけです。気持ちや情熱はわかるのですが。
だから牧会のことを考えていたら眠れなくなった、食欲がなくなった、憂鬱になった、体調が悪くなった、のなら、それこそセルフケアをしなければなりません。そして酷いようなら専門的な対応を考えなければなりません。牧会ウンヌン以前の問題です。厳しいようですが。
他人の方がよくわかっている
さてセルフケアの大切さについて書いていますが、時には他人に助言を求めましょう。
人間、自分自身のことより、他人のことの方がよくわかるものです。たとえば同僚が、いつも挨拶するのに今日はしてくれない、いつも会話が弾むのに今日は乗ってこない、なんだか機嫌が悪そうだ、としたら、すぐにわかりますよね。「あー今日は調子が悪いのかな」などと想像できます。でも当の本人は、案外気づいていないものです。
自分自身にも同様のことが言えます。自分では意識していない微妙な変化を、他人は案外敏感に察知しているものです。言わないだけで。
だからなるべく信用できる人、何でもはっきり言ってくれる人を選んで、助言を求めるのも手です。「ねえ、今日の私って変?」とか、何でもいいんですが。
ともあれ問題の把握すること
最後になりますが、セルフケアとは、自分の問題を何でもかんでも自分で解決しようとすることではありません。そうでなく、自分自身の状態を、できるだけ客観的に捉えようとする試みです。問題の解決でなく、それを把握しようとする試みです。
「今ちょっと忙しくて、気持ちが一杯一杯になっているな」
「こういう状況のせいでイライラしているな」
「ちょっとペースが速くなっていて良くないな」
みたいな感じですね。
でもそうやって問題を認識するだけでも、状況が改善していくことがあります。「気づく」というのは、大切なのですね。
教会で頑張ってらっしゃる皆さん、奉仕が忙し過ぎないでしょうか。気持ちが焦っていないでしょうか。最近よく休めているでしょうか。今のあなたは本当に「あなたらしい」でしょうか。
もしかしたら、ちょっと立ち止まってみたらいいかもしれません。
クリスマスが近いので、いつもより特別忙しいかもしれません。でもこういう時こそ、「自分らしいリズム」を、意識されたらいかがでしょうか。
私がある教会を離れる少し前のことです。私のいた教会に来るゲストは大体ワーワー元気な牧師でした。しかし、この日のゲストは落ち着いていて、「奉仕者の皆さん、疲れたときは休んでください。体を大事にしてください。あなたが無理にがんばらなくても主はあなたを変わらず愛されておられます」と説教をしました。私にとってこの言葉は衝撃でした。風邪を引いても熱を出しても気を張って霊に燃え主に仕え、無理をしてでも主のために頑張っていたのです。ですから、疲れたら休んでいいんだ、と初めて思ったのです。同じ神様の話をしているとは思えませんでした。心から言えます、あの日の説教は恵まれました。
返信削除しかし本当に衝撃だったのは、次の日曜日の礼拝で主任牧師が「先週の説教で言っていたことですが、私から少し訂正します」と言い前週の説教をディスったことです。この牧師の主張は、休むことが根本的な解決ではない、クリスチャンは勤勉で成長するべきだ、霊に燃え主に仕えることこそクリスチャンの喜びだ、といったものでした。ラストは、リバイバルを求めて祈りましょう!ファイヤー!と強引極まりない大仁田厚タイム。
え?ええー??言っていることが真逆だよ?何でゲストスピーカーの説教を批判するの?何なのこの牧師?
私がこの教会に疑問を持ち、ここからどうやったら抜け出せるのだろうと考え始めるきっかけの出来事でした。
驚いたことに、同じようなケースを私も知っています。
削除定期的に海外から来られるゲストで、私の教会の様子をだいたい知っている方がいました。たぶん、スタッフが忙しくしていると気づいたのでしょう、ある日のメッセージ中に「みなさんよく休みましょう」と何度か話してくれました。しかしそれを通訳する牧師が、「この考え方は日本人のメンタリティーには合わないけどね」と毎回付け足していました。そのゲストは日本語が少しわかる方でしたので、後から「驚いた」と言ってました。
教会で問題をが起こる少し前のことなので、やはりそれも末期症状の1つだったと思います。
そのタイミングで疑問を抱いたのは、正しい判断だと思います。
共感していただけたようで、私も驚いています。
削除牧師の思い通りに何でもしたがるのは、末期症状と確かに言えますね。外部スピーカーに対して失礼だとかは思えないほどの自己中っぷりなのです。信徒のライフワークバランスなど気にかけてはくれませんし、教会がまわれば他はどうでもいいのでしょう。
信徒たちはただ黙って聞くだけ。思考停止の羊の群れです。まさに、羊たちの沈黙。
苦しみを通りましたが、そこから出て来られたのは神の恵みなのだと私は考えています。
>呂布さん
削除>まさに、羊たちの沈黙。
出ましたね。呂布さんお得意のダブルミーニング(笑)クリスチャンがあの映画みても良いんですかね(笑)
確かに、思考停止状態で、一方的に牧師のメッセージを信じて疑わない信徒たちは多いですね。ペンテコステ&カリスマ系教会は、ほとんどそんな感じです。そういう信徒しか残れません。私もかつてはそうでしたが、もうあそこには戻れません。清春氏の言葉を借りるならば、「まざってしまえば楽になるだろう。でも僕には死ぬまで許せないだろう。」ですね。
はじめは牧師にも遠慮があったようだし、信徒の反応を見ていたようなところもあったと思います。けれど皆が簡単に言いなりになるので、次第に味をしめて、図々しくなっていったんだと思います。
削除信徒は信徒で、「皆そうしているから」「誰も疑っていないから」みたいな心理があり、また同調圧力もあったはずで、結果的に「物言わぬ羊」になってしまったんだと思います。
だから両者とも初めからそうだったのでなく(初めからそうだったら、さすがに違和感があるでしょう)、時間をかけて、徐々に変化していったのではないかと、私は考えています。
ふと立ち止まったり、冷静になって考えてみたり、自分たちの行いを検証したりという自浄作用が、残念ながらなかったのだと思います。
>呂布さん
返信削除ゲストスピーカーのメッセージを「補足」と称して、否定する牧師やリーダー達はいますね。私何人も見てきました。酷い人は、英語から日本語のメッセージ通訳中に、全く違う内容をしゃべっていました。英語が分かる人は、ほとんどいなかったのですが、私は開いた口がふさがりませんでした(苦笑)
抜け出すきっかけとなったのは、本当に良かったですね。この先生がこの教会によばれることは今後一切ないでしょうね(笑)
Fuck
「補足」というより、まるっきり「否定」ですね。ゲストに対しても失礼ですし、そこまで信徒をコントロールしたいのかと呆れてしまいます・・・。
削除ゲストスピーカーの話で、
返信削除休んで良いんだ、と心が喜んだ翌週に、
そのスピーカーの話した内容を否定して、大仁田厚。
その落差や衝撃は、想像するだけでもうなだれます。
field of lilyさん
削除察していただきありがとうございます。
今は冷静ですが、あの日は衝撃でした。今考えると、あの日の牧師は焦っていたのだと思います。ドーンと構えることもできたはずです。でも必死さが何とも痛々しいですね。そこまでしなければならないと思うほど、その牧師は信徒たちを信じていなかったのでしょう。教会を、もっと言うならば神に全き信頼をおけなかったのだと私は結論づけています。ある意味悲しい人です。
悲しい大仁田なのです。
まさしくその通りですね。
削除休んでいいんだと安心したのも束の間、次の週には完全否定され、まさに地獄(?)に突き落とされるような感覚だったと思います。
実は今も時々、相変わらず教会で頑張っているという夢を見ます。「あれ、解放されたはずじゃなかったっけ?」と思いながら牧師にあれこれ言われている、という夢です。とても寝覚めが悪いですね。