クリスチャンは「神様の栄光」を現すために生きるのですか?(前半)

2017年12月19日火曜日

生き方について思うこと

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クリスチャンの生き方とは

 前回は「繁栄」という視点から、キリストの生涯をザッと振り返ってみました。
 彼のキャリアは大工から宗教革命家(ニート)へ、というものでしたが、おそらく金儲けはできなかったと思います。弟子たちの尊敬は得たでしょうが、彼らの大半は、処刑のとき散り散りになってしまいました。
 その後の復活、昇天という下りがキリスト教のキモなのはわかっています。だからあくまで「人間」としてのキリストの生涯は、という話ですね。

 さて今回は、そんなキリストの生涯から、じゃあ私たちはどう生きるべきなのか、という点について考えてみたいと思います。

「神様の栄光」と簡単に言うけれど

 クリスチャンはどう生きるべきなのか、という話でよく(教会内で)出てくるのは、こんなセリフたちです。
神様のために生きるべきだ
御心に従って生きるべきだ
神様の栄光を現すために生きるべきだ

 逆から言うと、こうなります。
自分のために生きてはならない
御心でないことをしてはならない
神様の栄光でないことをしてはならない

 これらの考え方が間違っているとは言いません。でも、ちょっと簡単に考え過ぎではないかな、と思うことがあります。

 昔、全国のチャーチスクールが集まって「励まし合う」という集会に参加したことがあります。ある分科会で、若い牧師が、小学校高学年の子供たちを集めて話しました。冒頭はこんなでした。
みんな、何のために生きているか、わかってるよね? そう、神様のためにだよね。みんな、神様の栄光を現すために生きてるんだよね。よくわかってるじゃん
 そこまでわかってればもう十分だ、みたいな感じでしたが、相手は小学生ですよ? そんな簡単に人生まとめてどうするんですか? とさすがに思いました。
 私は基本的に、人の話を肯定的に聞くタイプです。でもこれには同意できませんでした。あまりにも簡単に考え過ぎだと思ったからです。

 たとえばですが、「神様の栄光を現す」とは、具体的にどういうことでしょうか? それが悪いと言っているのではありませんよ。具体的にどういうことなんですか? という質問です。

 私が見てきたところによると、このあたりをほとんど考えないで「神様の栄光を現したい」と言っている人がいます。でも具体的に考えていないから、具体的な行動に繋がっていません。だからいつもそのセリフを「言うだけ」なのです。そしてそれを繰り返すだけです。そんなループに、いったい何の意味があるのでしょうか。

 人間、肝心なのは「何を言うか」でなく、「何をするか」なのです。

 では、「神様の栄光を現す」というのを、「それを見た人が『神様ってすごい』と思えるようなこと」と仮に定義してみましょう。つまりあなたの行動を見た誰かが「神様ってすごいんですね」と言ってくれたら、あなたは「神様の栄光を現した」ことになります。

 たとえば神学校を出て、牧師になって、どこかの教会で働くようになったら、それは「神様の栄光を現す」のでしょうか?
 でも一般の人がそれを見ても、「神様ってすごい」とは思いません。むしろ熱心すぎる牧師、あれこれうるさい牧師を見て「気持ち悪い」と思うことはあるでしょう。

 あるいは教会に忠実に仕え、日夜祈りに専心しているクリスチャンの方は、「神様の栄光を現す」のでしょうか? それを見て「すごい」と思うクリスチャンはいるでしょう。でも一般の人はなかなかそうは思いません。むしろ「そこまで宗教にハマってるんですね」と引き気味に思うのではないでしょうか。

 もうちょっと根本的なところで、牧師になる、伝道師になる、クリスチャンになる、ということ自体が「神様の栄光を現す」のでしょうか? でも不正を働く牧師もいます。悪事を働くクリスチャンもいます。そうでなくても、そもそも「牧師だから」「クリスチャンだから」というだけで、第三者が「神様ってすごいですね」と思うはずがありません。

 つまり牧師だから、クリスチャンだから、「神様の栄光」を現しているとはなりません。「肩書き」は関係ないのです。
 また頑張って伝道しているから、教会で一生懸命奉仕しているから、たくさん祈っているから、「神の栄光」を現しているのでもありません。もちろん教会の中では「素晴らしい」とか言われるでしょうけれど。

 と考えてみると、「神様の栄光を現す」というのが意外とわからないもの、簡単に決められないもの、一口に言えないものだとわかります。少なくとも、小学生が1分で理解できるものではありません。

その言葉、ちゃんと考えて使っていますか?

 最近ある記事で、ある牧師がこんなことを言っていました。
クリスチャンは転職するなら、それが神の御心なのか、神の栄光を現すことなのか、という視点で考えなければなりません

 ずいぶん綺麗なセリフで、かつ謎の上目線ですね。でもはっきり言って、抽象的で、無責任で、不親切です。神の御心とは何か、神の栄光とは何か、といった重要なポイントを曖昧にしたまま、読者に丸投げしているからです。その程度なら私にだって言えます(私はそんなこと言いませんが)。

 またあるクリスチャンは、「神様の栄光を現したい」と言って神学校に入ったり、途中で辞めて海外留学したり、途中で帰ってきてどこかの教会に入り浸ったり、就職したと思ったら辞めていたり、と行き当たりばったりないことを繰り返しています。結局「自分探し」をしているだけ、嫌なことから逃げているだけ、なのです。「神の栄光」など、その言い訳に過ぎません。厳しい言い方ですが。

 だから現場(おそらく一部でしょうが)では、「神の御心」とか「神の栄光」とかいうものが、すごく簡単に扱われているのです。簡単に考えられているのです。いや、ほとんど考えなしに使われているのです。

 知り合いの話です。
 そこの牧師が、「愛が流れる」という表現をよく使っていたそうです。だから知り合いも、誰かに福音を話すとき、「愛が流れる」という言葉をほとんど無意識的に使っていたそうです。で、ある時、職場の未信者の同僚から、こう訊かれました。「愛って流れるものなの?」
 知り合いは返答に詰まってしまったそうです。そう訊かれて初めて、自分がよく理解していないことに気づいたからです。

 おそらく多くの人が求めているのは、「神様の御心に従う」とか「神様の栄光を現す」とかいう字面ではありません。「で、どうするの?」という中身のはずです。そしてその中身は、上記のように、簡単に判定できるものではありません。
 だからクリスチャンの方には、そういうセリフをあまり気安く使ってほしくないな、と私個人は思っています。

 というわけで後半に続きます。

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