クリスチャンの生き方とは
前回は「繁栄」という視点から、キリストの生涯をザッと振り返ってみました。
彼のキャリアは大工から宗教革命家(ニート)へ、というものでしたが、おそらく金儲けはできなかったと思います。弟子たちの尊敬は得たでしょうが、彼らの大半は、処刑のとき散り散りになってしまいました。
その後の復活、昇天という下りがキリスト教のキモなのはわかっています。だからあくまで「人間」としてのキリストの生涯は、という話ですね。
さて今回は、そんなキリストの生涯から、じゃあ私たちはどう生きるべきなのか、という点について考えてみたいと思います。
「神様の栄光」と簡単に言うけれど
クリスチャンはどう生きるべきなのか、という話でよく(教会内で)出てくるのは、こんなセリフたちです。
「神様のために生きるべきだ」
「御心に従って生きるべきだ」
「神様の栄光を現すために生きるべきだ」
逆から言うと、こうなります。
「自分のために生きてはならない」
「御心でないことをしてはならない」
「神様の栄光でないことをしてはならない」
これらの考え方が間違っているとは言いません。でも、ちょっと簡単に考え過ぎではないかな、と思うことがあります。
昔、全国のチャーチスクールが集まって「励まし合う」という集会に参加したことがあります。ある分科会で、若い牧師が、小学校高学年の子供たちを集めて話しました。冒頭はこんなでした。
「みんな、何のために生きているか、わかってるよね? そう、神様のためにだよね。みんな、神様の栄光を現すために生きてるんだよね。よくわかってるじゃん」
そこまでわかってればもう十分だ、みたいな感じでしたが、相手は小学生ですよ? そんな簡単に人生まとめてどうするんですか? とさすがに思いました。
私は基本的に、人の話を肯定的に聞くタイプです。でもこれには同意できませんでした。あまりにも簡単に考え過ぎだと思ったからです。
たとえばですが、「神様の栄光を現す」とは、具体的にどういうことでしょうか? それが悪いと言っているのではありませんよ。具体的にどういうことなんですか? という質問です。
私が見てきたところによると、このあたりをほとんど考えないで「神様の栄光を現したい」と言っている人がいます。でも具体的に考えていないから、具体的な行動に繋がっていません。だからいつもそのセリフを「言うだけ」なのです。そしてそれを繰り返すだけです。そんなループに、いったい何の意味があるのでしょうか。
人間、肝心なのは「何を言うか」でなく、「何をするか」なのです。
では、「神様の栄光を現す」というのを、「それを見た人が『神様ってすごい』と思えるようなこと」と仮に定義してみましょう。つまりあなたの行動を見た誰かが「神様ってすごいんですね」と言ってくれたら、あなたは「神様の栄光を現した」ことになります。
たとえば神学校を出て、牧師になって、どこかの教会で働くようになったら、それは「神様の栄光を現す」のでしょうか?
でも一般の人がそれを見ても、「神様ってすごい」とは思いません。むしろ熱心すぎる牧師、あれこれうるさい牧師を見て「気持ち悪い」と思うことはあるでしょう。
あるいは教会に忠実に仕え、日夜祈りに専心しているクリスチャンの方は、「神様の栄光を現す」のでしょうか? それを見て「すごい」と思うクリスチャンはいるでしょう。でも一般の人はなかなかそうは思いません。むしろ「そこまで宗教にハマってるんですね」と引き気味に思うのではないでしょうか。
もうちょっと根本的なところで、牧師になる、伝道師になる、クリスチャンになる、ということ自体が「神様の栄光を現す」のでしょうか? でも不正を働く牧師もいます。悪事を働くクリスチャンもいます。そうでなくても、そもそも「牧師だから」「クリスチャンだから」というだけで、第三者が「神様ってすごいですね」と思うはずがありません。
つまり牧師だから、クリスチャンだから、「神様の栄光」を現しているとはなりません。「肩書き」は関係ないのです。
また頑張って伝道しているから、教会で一生懸命奉仕しているから、たくさん祈っているから、「神の栄光」を現しているのでもありません。もちろん教会の中では「素晴らしい」とか言われるでしょうけれど。
と考えてみると、「神様の栄光を現す」というのが意外とわからないもの、簡単に決められないもの、一口に言えないものだとわかります。少なくとも、小学生が1分で理解できるものではありません。
その言葉、ちゃんと考えて使っていますか?
最近ある記事で、ある牧師がこんなことを言っていました。
「クリスチャンは転職するなら、それが神の御心なのか、神の栄光を現すことなのか、という視点で考えなければなりません」
ずいぶん綺麗なセリフで、かつ謎の上目線ですね。でもはっきり言って、抽象的で、無責任で、不親切です。神の御心とは何か、神の栄光とは何か、といった重要なポイントを曖昧にしたまま、読者に丸投げしているからです。その程度なら私にだって言えます(私はそんなこと言いませんが)。
またあるクリスチャンは、「神様の栄光を現したい」と言って神学校に入ったり、途中で辞めて海外留学したり、途中で帰ってきてどこかの教会に入り浸ったり、就職したと思ったら辞めていたり、と行き当たりばったりないことを繰り返しています。結局「自分探し」をしているだけ、嫌なことから逃げているだけ、なのです。「神の栄光」など、その言い訳に過ぎません。厳しい言い方ですが。
だから現場(おそらく一部でしょうが)では、「神の御心」とか「神の栄光」とかいうものが、すごく簡単に扱われているのです。簡単に考えられているのです。いや、ほとんど考えなしに使われているのです。
知り合いの話です。
そこの牧師が、「愛が流れる」という表現をよく使っていたそうです。だから知り合いも、誰かに福音を話すとき、「愛が流れる」という言葉をほとんど無意識的に使っていたそうです。で、ある時、職場の未信者の同僚から、こう訊かれました。「愛って流れるものなの?」
知り合いは返答に詰まってしまったそうです。そう訊かれて初めて、自分がよく理解していないことに気づいたからです。
おそらく多くの人が求めているのは、「神様の御心に従う」とか「神様の栄光を現す」とかいう字面ではありません。「で、どうするの?」という中身のはずです。そしてその中身は、上記のように、簡単に判定できるものではありません。
だからクリスチャンの方には、そういうセリフをあまり気安く使ってほしくないな、と私個人は思っています。
というわけで後半に続きます。
今回の記事を読んで子供の頃を思い出しました。記事の内容に合ってないかもしれませんがすみません。
返信削除私は小学生で家庭内で問題を抱えていつも一人でした。そして一、二年に数日、クリスチャンに成り立ての身内が家に帰って来ました。
夜になると親の目の届かない所で「クリスチャンの素晴らしさ」を延々と教えられました。その頃の私には精神的に頼る人が日常的にいなかったので、宗教の話だろうが何だろうが自分の事を気にしてくれるのがとても嬉しかったです。きっとその時から「キリスト教」やそれ以外の「宗教」に興味が芽生えたのかもしれません。
そして教えられた内容は「どんなに辛くても、神様がいるから大丈夫。良い事をしてれば神様が見てる。」でした。
まだ子供だった私はそれを真っ直ぐに信じました。でもおかしいんです。頑張って生きてるのに、誰も助けてくれなくて。どうして私はいつも暴力や暴言で脅えながら暮らしているのかわかりませんでした。信じたくても信じられない。子供の頃に学んだ一つの矛盾でした。
少し大人になった時後もまだまだ続きました。自分の事が自分で決められない。自分の気持ちがわからない。人の為に頑張ってるのにいつも虚しい。これって自分の人生じゃないよな?って。
私は本当は子供の時に、キリスト教の教えなんかよりも、自分をちゃんと守ってくれる存在が欲しかったんだなと思います。たまに帰って来てくれる「神様」なんかより、信頼出来る「人間」が欲しかったです。
その辺の自分の子供の頃の心の歪みを気付いて、認めて、修正するのに多くの時間を費やしました。
だから「神様の言う通り」は人によっては本当に人生が変わります。特に子供は。
幼少期に大変な経験をされたとのこと、言葉がありません。
削除詳しい事情はわかりませんが、藁にもすがりたい状況で差し出されたのが「クリスチャンの素晴らしさ」で、とにかくそれにすがる他なかったのではないかと思います。でもおっしゃる通り、どれだけ頑張っても救われない、誰も助けてくれない、報われない、その失望感の大きさ、想像さえできません。
これは私の経験ですが、幼少期からの宗教教育は、やりすぎると良い結果になりません。その教えが健全であればまだ良いですが、とかく「頑張れば〇〇」「こうすれば〇〇」といった「成果報酬型」は、子どもの人格を歪める原因だと私は思っています。
おっしゃる通り、子どもは適切に保護されなければなりません。また信頼関係が必要です。時々やってくる「キリスト教」でなく、24時間365日守ってくれる「保護者(親に限りません)」が。
それを得られなかったのは、本当に悲しく辛いことです。
過ぎてしまったことはどうにもならないのですが、メビウスさんがそれに気付いて、修正に向かうことができたことが、せめてもの慰めではないかと思いました。
神の栄光を現すために生きる。どこかで聞いた言葉かと思ったら、カルバンのキリスト教綱要の中に人間は何のために生きるのかという問に関する答えがこれだった。もっとも、最初に書いた1536年版か?それとも大著の方か?どっちだったか。カルバンのいえば予定説、聖霊論の中で書かれているので読んだが実に面白い。1536年版では聖霊は証明できない、信じるしかないと書いていたのに、聖霊論の核心が予定説になっているのだ。予定説とは日本人にも分かりやすくいえば、何事も運命だということになるね。そうなるのはあらかじめ決められた運命によるというわけだ、例えば自分がカトリックを選んだと思っていても、それは神によって決められていたことだ、選ばないという選択をしても、それも神がそのように決められていたことだ、というわかだね。何事も運命だと思って(神による決定)だと考えて頑張りなさい(または諦めなさい)というわけですね。そのような生き方が神の栄光を現す生き方ということになりますね。カルバン主義の私の理解による解説ですが、間違っていないと思いますが・・・
返信削除ウェストミンスター小教理問答にも、同様のことが書かれていますね。
削除実は次回の記事で、運命論(予定説)についても書いています。ウェストミンスター小教理問答は私もよく参考にするのですが、カルヴァンの予定説には正直、反対です(理由は次回の記事に書いています)。
もっとも、予定説も解釈の仕方でいろいろだとは思いますが。
カルヴァンの予定説は哲学的な決定論(運命論)ではなく、神が救う人間と滅ぶがままにする人間は神の側であらかじめ予定されている、という説ですね。
削除誰が救いに予定されており、誰が滅びに定められているかは人間の側ではわからない。救いは人間の努力に左右されるのではなく、神の力によるという「神の自由」を強調したものと思われます。
予定説は「運命だから諦めろ」という説ではなく、救いに絶望している人に対しては「神の側で救いに選ばれている可能性があるから諦めるな」という説であり、救いを得ていると思って傲慢になっている人には「神の側で滅びに定められている可能性があるから、より謙虚になって神の言葉に耳を傾けて神に仕えよ」という説ですね。
予定説は本来、人を絶望させるための説ではなく、人に希望を与えて励ますための説ですよ。
以前の教会でも神様が喜ぶ喜ばないを牧師基準で子供達に言ってたな。子供たちの憧れる戦隊ものや、ヒーローものを神様が喜ばないとか、ぬいぐるみにも偶像になるから 子供たちがバツが悪そうに「神様喜ばないよね?」って言ってたのを思い出した。いちいち取り上げればキリがないが、そういったことが子供の人格形成に歪んだ思いをいれるのだと思ったね。教会で育った子は守られてる半分、牧師のさじ加減で毒麦半分だと思ってる。抜く作業ってのがこのあとの人生の宿題のような気がする。
削除KOJI OHIMAさん
削除なるほど、哲学的な運命論とカルヴァンの予定説を混同していました。私が明確に反対したいのは、哲学的な運命論の方です。ありがとうございます。
ですがお話を聞く限り、「救いに選ばれている可能性がある」「滅びに選ばれている可能性がある」というのは、正直なところ、あまり希望を感じませんでしたね。
匿名さん
削除毒麦を抜く作業がこのあとの人生の宿題、というのは言い得て妙だと思いますが。たしかに教会に入り浸って育った子は、独特の(あるいは歪んだ)価値観や考え方を持っていることが多いです。
たとえばですが、ある人は「自分は特別だ」と子供の頃から強く信じたまま、成人して、就職して、そこで結局自分が何者でもないことに気づいた、という経験をされたそうです。ある種の喪失体験というか。
教会で子供を育てるのは、良い面もあるとは思いますが、なかなか難しい問題をはらんでいると私は思います。
毒麦ってある程度成長するまでは抜くと、根が張っているためよい麦までダメになるそうな。。。その様子を成長の中で自分で判別して抜き取る作業に比喩していったつもりでしたが。。。妙だったかしら。。。でも聖書を間違った解釈で多々植え付けられていることもありうるのであながち、間違いではないのでは? 判別できないうちに聖書にはない事がらや牧師の言葉、その教会でしかまかり通らない教え、習慣、風習、などが身についてると分別にものすごく困惑すると思います。 ま、私も偉そうなこと言えた義理ではないが。
削除匿名さん
削除誤解されたようで申し訳ありません。「言い得て妙」は「うまい表現ですね」という意味です。「その通りだなあ」と思ったので、選んだ言葉でした。気分を害されたらすみません。
おっしゃる通り、教会では聖書にない考え方なども一緒くたに教えられますから、何がキリスト教で、何がそうでないのか、子供であれば余計に混乱するかもしれません。
これは私の持論ですが、ある程度「自我」が形成され、物事を自分なりに判断する力が付くまで、教会には入り浸らない方がいいと思いますね。
その通りです。
返信削除私が言いたい事を、代わりに言ってくださってありがとうございます。
マリックさんは確か、お子様をチャーチスクールかホームスクールで育てられた経験がおありだと思います。やはり私と同じような問題意識を持たれたのではないでしょうか。
削除チャーチスクールやホームスクールは、その全てが間違っているとまでは思いませんが、やはり特有の問題や難しさ、弊害があったように思います。そしてその原因の一つに、記事に挙げたような「考えの甘さ」「浅はかさ」があったと私は考えています。
やはり人生は簡単ではないですし、いろいろな視点や考え方がありますから、一概に「聖書に従っていれば大丈夫」「神に祈れば大丈夫」などと、教えるべきではないと思います。
ありがとうございます。
削除家内の友人の御主人が、我が国でホ―ムスク―ルとチャ―チスク―ルを広めたH・I氏で、元々こちら私達が住む北海道のA市でN○Kと言う放送局に勤めておられて、故三浦綾子・光世氏とも交流があり、御夫妻の特集番組を作成する等ディレクターとして活躍された方でした。
それらのとても近しい関係と、私達家族が当時求めていた信仰の方向性と相俟って、子供達を神の喜ばれる歩みに導きたいと言う純粋な思いから、土台はホ―ムスク―ルとして教材をI氏から調達し、丁度当時所属していた教会がチャ―チスク―ルを設立したためそのI氏との関わりも重複して、また宮城県のP・B氏の関連や全国的な関わりも含めて、牧師の意向に従い入学させました。
しかしほどなく家内と牧師婦人の意見が合わない事や学費の問題等で、向こうから辞めさせた方が良いのでは?と、突き放されて路頭に迷ってしまったので、やむなくホ―ムスク―ル一本で再出発しました。
しかし家内が専業主婦として子供達を英語教材で(英語は解らないのですが)教え、殆ど子供達の自主的な学習に頼り切っていました。
そうする内に家内の体調が(長年患う腰の痛み)悪化。長男は高校まで行かず、次男は中学まで行かず、長女は小学校まで行かない状態で、万事休す。
ここで神の手が介入されて奇跡的に、長男は大学入学、次男は一時島根県の某キリスト教の高校に入学して一年半、こちらの私立高校に編入してその後大学へ、長女は中学から高校へ入学しそれぞれ、これからの人生設計を建てる軌道に乗りつつあります。
親としましては、偏向した教育?で、子供達の人生を狂わせるとんでもないシステムに従わせてしまった悔いと心残りがありますが、今や子供達はあの時を振り返ってみて、どうしよう?と絶望するしかない失われた期間をも克服し、当時の教材が英語であったという事が幸いしたのか、3人とも英語は(だけですが)ネイティブ並の会話力です。
これからの時代は英語必須となりますので、せめてその礎を据える役割が出来たか、と今は不思議な神の助けに涙しています。
実は私達夫婦も結婚当時から、家内の友人が今やセクハラ問題から風化しつつある、B・J氏の国○福○キリスト教会&小○者出版で、今も要職にある女性牧師から、まだそのビジネスが小さい頃から度々誘われていました。
この夏も帰省中会いましたが。
しかし、結局は選ぶのは自分自身ですし、選択の自由は私達個人の手にあります。
幾ら神の遣いよろしい牧師や宣教師等が「これは神の物だから間違いがない。沢山の仕事が世の中にはあるが、神の仕事こそ尊い物だから、御声を聴く者はその道に従うべきだ」等と言おうが、安易に誘いに乗ってしまうと、自分の人生を台無しにしてしまうばかりか、家族をも路頭に迷わせる事になります。
赤の他人が、自分の人生に責任など持つ訳がないのです。
今つくづく思うのは、宗教とは心の問題であり、神との関係は一人一人個人的な物。
他人が中間に介在すべきではないと言う事ですね。
「神の栄光のために・・」こういうセリフは耳にタコができるほど聞きました。私が何かを始めようとすると、「それって神様の栄光のためになるの?」と毎回聞かれました。以前体験談でも少し触れましたが、卒論の内容をあれこれ聞いた挙句「神様の栄光のためになる卒論にしないといけない」と言われました。日本のクリスチャン人口の少なさとかをテーマにしたら?と謎の提案もされました。神学部ならそれでいいかもしれませんが、私は経済系の学部なのでそんなテーマの卒論はそもそも受け付けてもらえません。もちろんそんなテーマにはしていません。
返信削除神の栄光になることをしなさい→神の栄光にならないことはしてはいけない→神の栄光にならないことをしたら神はあなたを罰するといった考え方になっていきました。神への恐怖心を叩き込まれたような気がします。
しかし記事でも仰っているとおり、彼らは神の栄光が具体的に何であるのかを分かっていないと思います。結局は信徒をコントロールするためのセリフでしかないのではないでしょうか。
「御心に従えば祝福される」「神の栄光を現せば祝福される」という考え方が、いつしか「そうしないと呪われる」みたいな言い方に変わっていくのが、カルト化傾向の特徴ですね。指導者への従順が求められ、断ると酷い目に遭うぞ、という「宗教的な脅し」です。
削除人の恐怖心をいいように利用しようとしているだけで、もはやキリスト教とは言えないと、私は思います。
それにしても、卒論にまで口を出すだけでなく、「神の栄光」まで持ち出すのは論外ですね。だったらご自分で書いたらどうですか、とか私なら言いたくなります。たぶんロクなことを書かないと思いますが。
ある真面目な友人が引越しをするためにアパートの部屋探しをしていたときに、早天祈祷会に来ていました。そこの教会のリーダーはその人の引越しの話を聞くと、神の栄光になるようにね!と謎発言をしていたのが聞こえました。もはや意味不明です。
返信削除その人は結果的に教会の近くにアパートを見つけて引越しをし、教会奉仕がわんさか増えた生活をするようになりました。
神の栄光をあらわす生き方=教会で活発に活動し全てを捧げる、これを教え込む指導者は新たな信徒奴隷をリクルートしているように思います。
神が、わたしの栄光をあらわしなさい!奉仕をもっと増やしなさい!と命じているのでしょうか?
誰が得をしているのか、そのことに気付かなくてはなりません。
おっしゃる通りですね。「神の栄光」が方便として使われていると思います。そうやって牧師がいいように使える「信徒奴隷」が増えていくのは、見るに堪えません。
削除別の教会の友人ですが、昔はとても明るく快活で、「神様のために生きていきたいです」と真面目に言っていた人がいました。でも数年後に再会したら、一応笑顔は見せるのですが、やつれて疲れ切っていて、どう見てもメンタルがやられていました。話を聞くと、牧師に土地や家まで奪われてしまったようでした。それなのに「これも神様のためなんですよね」とか言っていて、これはもう法的に動くしかないなという状況でした。
真面目な人ほどバカを見てしまう、というのを目の当たりにした出来事でした。
愛があるなら、それはおかしなことだとその人に伝えましょう。。。神様無理強いはしないんで、手放したくないのにとりあげません。とちゃんと伝えましょう。取り上げたいのは牧師です。ってね
削除「愛があるなら・・・伝えましょう」とおっしゃいますが、その後私がその友人に何を伝えたのか、ご存知なのですか?
削除「ミニストリーに使えることが、世界で一番尊い仕事だ」と公言している牧師にあったことがあります。当時は、それを聞いて嬉しかったのですが(ミニストリーに身を置いていたから)、今振り返ると、この言葉はヤバいですね。暗に、他の職業を見下しているように聞こえます。本人にはそんな気持ちはないのかもしれませんが。神様から見て、あの職業が、この職業よりも尊いとか、ミニスターをより愛するとかはないと思います。そんなことだったら、えこひいきの神ですよ。神の栄光を表してます感を振りまく奴らは本当にきもいですね。
返信削除「神に直接お仕えする仕事が、もっとも尊い仕事だ」みたいなことを言いますよね。明らかに他の職業を見下していると思います。そんなことおおっぴらには言いませんが。
削除でも社会はいろいろな職業のいろいろな仕事で成り立っていますし、教会の信徒もいろいろな仕事をしているはずですので、そんなこと言ってはいけないと思いますが。
だいいち「神に仕えている」という牧師が、結局自分の見栄のため、繁栄のため、お金のためにやっているとしたら、それほど卑しい仕事はないと思います。