いきなり始めます。前半から続けて読んでいただけると、流れがわかりやすいかと思います。
ではどう生きるべきなのか
では、私たちはどう生きるべきでしょうか。
神は私たちの人生に、どう関係するのでしょう。あるいは私たちは、神にどう関わるべきでしょう。
私たちの人生の大半は、学校で学んだり、就職して働いたり、育児したり介護したり、休養したり、定年して老後を過ごしたり、といった活動になります。いろいろなルート、いろいろな内容があるでしょう。ぶっちゃけた話、神と全く関係ない人生を送ることもできます。実際、大半の日本人がそうだと思います。
その中で「神の御心に従って生きたい」「神様の栄光を現したい」と願うことは、立派なことだと私は思います。自ら積極的に神に関わって生きていきたい、ということでしょうから。
でもそうであるなら、前半での注意点に加えて、いくつかの点に注意しなければなりません。
恣意的な「神の御心」
まず第1に、これは何度も書いていることですが、「神の御心」はどうしても恣意的になる、という点です。
あなたが何か具体的な「神の御心」を求めているとしましょう。たとえばあなたが学生で、「〇〇大学に進むべきでしょうか?」と神に尋ねたいとします。
あなたはこんなふうに祈るでしょう。「神様、私は〇〇大学に進学すべきでしょうか?」
これ自体は、よく聞く話ですね。
でもこの質問は、イエスかノーでしか答えられないクローズド・クエスチョンです。ここでさっそく疑問が生じます。神様は自由に語られるはずなのに、なぜ初めから二択に絞り込んで訊くのか、という疑問です。なぜ〇〇大学が前提になっているのでしょうか? その前に、なぜ大学進学が前提になっているのでしょうか? 他の道の可能性はないのでしょうか?
これは、言い方が悪いかもしれませんが、神様を追い込むような訊き方です。どうせ訊くなら、「進路をどうするべきですか?」みたいなオープン・クエスチョンにすべきです。
そうでなく、いきなり「〇〇大学は―」みたいな二択の質問にしてしまうのは、初めから、〇〇大学が気になっているからに他なりません。
「神の御心」を求めると言うとき、「心に浮かんだことは神様からの答えだ」と安易に言う人がいます。でも皆さん知っておいて下さい。人の心に浮かぶのは、その人が普段から気にしている事柄です。悩んだり迷ったり願ったりしていることが、自然と浮かんでくるのです。逆に言うと、気にしているから「御心」を求めたくなるのです。そしてその時点で、既に「神の御心」を絞り込んでしまっているのです。
どういうことだか、わかりますか。
そういう人は、何か答えがほしい時に神に祈ります。何もなければ、そういう祈りはしません。つまり、「答えがほしい」から、「そこに神の答えがある」と決めつけているのです。では、神様は他のメッセージを持っていないのでしょうか?
こちらが答えてほしい時に神の答えがある(そうでない時にはない)、と考えるのは、神をコントロールしようとすることです。
その手の人は、神に訊きたいと言いながら、神に自由に語らせる気はないのです。
簡単な例を示してみましょう。
ある人が「チョコレートを食べたい」と思っています。こう祈ります。「神様、今チョコレートを買うべきでしょうか?」
その人はチョコレートを食べたいので、チョコレートのことが頭から離れません。だから結局、何だかんだ理由を見つけて、「あ、これは神様がチョコレートを買いなさいと言っているサインだ。その確信がきた」と決めつけてしまうでしょう。
では他のタイミングで、神様がポテトチップスについて彼に語ろうとしたら、彼は果たして聞くのでしょうか?
ほしいから訊く。ほしくなければ訊かない。恣意的とは、まさにこういうことです。
ほしいから訊く。ほしくなければ訊かない。恣意的とは、まさにこういうことです。
まさかチョコレートのことで祈る人はいないと思いますが(食べたかったら自由に買って下さいね)、もっと重大なことで、これと同じようなことをしている人がいます。私はそれを、以前から「御心の捏造」と呼んでいますけれど。
「神の御心」の運命論的危険性
第2に、「神の御心」を運命論のように考えてしまう、という点です。
私たちの人生は神によって細かく導かれるべきだ、と言う人がいます。つまり、私たちの人生は神によってあらかじめ決められているんだから、それに従うべきだ、ということです。私たちの選択のようでありながら、実は神の選択なのだ、と。
その論法で、こんなふうに言う人たちがいます。
「私が牧師になるのは神の定めでした」
「私の献身は神のご計画だったのです」
「私は嫌だと言ったのに、結局神は私を牧師にしました」
じゃああなた自身の意思は何なのですか? と私は訊きたくなります。そんなに嫌なら辞めればいいんじゃないですか? それとも神に無理やり押さえつけられて、牧師就任のサインを泣く泣くさせられたんですか? 本当はあなたがそれをしたかったんじゃないんですか? と。
最近も若い人が、こんなことを言ってました。
「あーこれはもう状況的に、自分は牧師になれって言われてるんですね。逃げ道なくなっちゃったなあ」
なんてひねくれた言い方でしょう。本当はあなたが牧師になりたいんでしょう? 神のせいにしてはいけません。
私たちの人生が、神によってあらかじめ決められている、というのは危険な考え方です。
たとえばあなたが、一生懸命教会に仕え、伝道し、その生涯の大半を神に捧げたとします。そして終わりの日、主と対面します。きっと褒めてもらえると、あなたは思っているでしょう。でも主は言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」
またある人は、教会をサボり続け、奉仕なんて少しもしないまま人生を終えました。終わりの日、主は彼に言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」
つまり善行を積んだ人も、悪行を積んだ人も、「神があからじめそう決めていた」ことになってしまうのです。
であるなら、どんな罪を犯した人も、その人の責任ではないことになります。神によってそう決められていたのですから。そして世界中のあらゆる犯罪も、憎むべき犯罪も、忌むべき犯罪も、全部神の計画だったことになります。すると、あなたが何かの事件の被害者だとしたら、その真犯人は、実は神だったのです。
と、いう話になってしまいます。それでも、運命論を支持しますか?
「神の召し」とは
「では、神の召しはどうなんですか?」とある人は訊くかもしれません。
神が一人一人に用意しておられる計画があるのではないですか、という問いですね。
でもそれを「運命」と混同してはいけません。「召し」の詳しい定義はここではしませんが、「召し」は「召し」です。「決定された運命」などではありません。
つまり、「召し」が何であれ、あなたがそれについてどう考えるのであれ、どうするかはあなた次第ということです。
だから、「私は嫌だったのに神様ガー」みたいな言い方は、してほしくないのです。
あなたが決めるのです。神はあなたに何も強制されませんから。神はあなたをどこにも追い込みませんから。繰り返しますが、神のせいにしないで下さい。
「神の栄光を現す」生き方?
前半にも書きましたが、「神の栄光を現したい」と簡単に言う人がいます。でも具体的なことは何もしません。カルト牧師でさえ、「主に栄光を帰します」と涙ながらに言います。でも本当は、自分が栄光を受けたいのです。
今まで見てきたように、「神の栄光を現す」というのは口で言うほど簡単なことではありません。それが何なのかも、私たちは実はよくわかっていないかもしれません。
私が愛読している「ウェストミンスター小教理問答」は、こう言っています。
(以下引用)
問2.
どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。
答
神の言葉(聖書)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。
(引用終わり)
つまり「聖書を読み、それを実行すること」が「神の栄光を現す」ことだと言っているわけです。具体的には、新約聖書のキリストの教えの部分が、その中心になると私は考えていますが。
キリストの生き方、歩み方、働き方を調べてみて下さい。彼は弱い者、苦しむ者、虐げられた者と共にいたはずです。そして彼らを責めるのでなく、愛したのです。
映画『沈黙』をご覧になりましたか。潜伏キリシタンたちが迫害され、拷問され、苦しんでいるその最中、神は沈黙していたのでしょうか。いいえ、彼らと共に苦しんでいたのです。というのが、あの作品の中心的なメッセージでした。
聖書を実行するのは、クリスチャンであれば当然だと私は考えます。そして聖書を実行することが「神の栄光を現す」ことになるのなら、わざわざ「神の栄光を現したいです」などと、言わなくていいのです。
そんな信仰アピールは要らないので、どうぞ信じるままに行動して下さい。
それが、「神の栄光を現したい」クリスチャンの皆さんに、私が言いたいことですね。
参考文献
と、いう話になってしまいます。それでも、運命論を支持しますか?
「神の召し」とは
「では、神の召しはどうなんですか?」とある人は訊くかもしれません。
神が一人一人に用意しておられる計画があるのではないですか、という問いですね。
でもそれを「運命」と混同してはいけません。「召し」の詳しい定義はここではしませんが、「召し」は「召し」です。「決定された運命」などではありません。
つまり、「召し」が何であれ、あなたがそれについてどう考えるのであれ、どうするかはあなた次第ということです。
だから、「私は嫌だったのに神様ガー」みたいな言い方は、してほしくないのです。
あなたが決めるのです。神はあなたに何も強制されませんから。神はあなたをどこにも追い込みませんから。繰り返しますが、神のせいにしないで下さい。
「神の栄光を現す」生き方?
前半にも書きましたが、「神の栄光を現したい」と簡単に言う人がいます。でも具体的なことは何もしません。カルト牧師でさえ、「主に栄光を帰します」と涙ながらに言います。でも本当は、自分が栄光を受けたいのです。
今まで見てきたように、「神の栄光を現す」というのは口で言うほど簡単なことではありません。それが何なのかも、私たちは実はよくわかっていないかもしれません。
私が愛読している「ウェストミンスター小教理問答」は、こう言っています。
(以下引用)
問2.
どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。
答
神の言葉(聖書)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。
(引用終わり)
つまり「聖書を読み、それを実行すること」が「神の栄光を現す」ことだと言っているわけです。具体的には、新約聖書のキリストの教えの部分が、その中心になると私は考えていますが。
キリストの生き方、歩み方、働き方を調べてみて下さい。彼は弱い者、苦しむ者、虐げられた者と共にいたはずです。そして彼らを責めるのでなく、愛したのです。
映画『沈黙』をご覧になりましたか。潜伏キリシタンたちが迫害され、拷問され、苦しんでいるその最中、神は沈黙していたのでしょうか。いいえ、彼らと共に苦しんでいたのです。というのが、あの作品の中心的なメッセージでした。
聖書を実行するのは、クリスチャンであれば当然だと私は考えます。そして聖書を実行することが「神の栄光を現す」ことになるのなら、わざわざ「神の栄光を現したいです」などと、言わなくていいのです。
そんな信仰アピールは要らないので、どうぞ信じるままに行動して下さい。
それが、「神の栄光を現したい」クリスチャンの皆さんに、私が言いたいことですね。
参考文献
カルバンの予定説をどう考えるかということで、コメントをいただきました。運命論ではないということですが、キリスト教綱要第3篇第21節「永遠の選びについて、神はこれによって、あるものを救いに、あるものを滅びに予定したまう。」をそのように読むかということになりますね。救いか滅びかを神は予定している、誰が救われ滅びるかは人間には分からない、神の予定を人間は変えることができない、ということでしょうか。どのような環境に生まれてくるかは本人が決めることができない。自殺する(安楽死も含める)以外はどのように死ぬかも本人が決めることができない。どのように生きるかということを、本人がどれだけ自由に決めることができるのかということですね。本人が自由に選択しているつもりでも、それは限定された環境条件の中での選択ではないかというわけですね。限定された環境条件は神が予定されたことかどうかは人間には分からないですが。例えば、僕は日本に生まれ、高度経済成長期に育ち、云々ということは、運命だったのか、それとも神の御意志だったのか等と言い出したらきりがないですね。
返信削除運命論にせよ、カルヴァン的予定説にせよ、私はちょっと同意しかねますね。
削除でも、「たしかに自分でこれを選んだ。でも結果的にそれは神の御心だった」みたいなことは、私たちは人間の理解を越えていますが、神にあっては不可能ではないのかな、とも思います。あくまで「神は人間の理解を越えている」という意味においてですが。
先日、予定説について意見させていただいた者です。
削除私自身カルヴァン派ではありませんし、二重予定説に全面的に賛成できるわけではありませんが、しかし宗教改革の動機を考えるうえではとても重要です。
予定説はカルヴァンが体系的に主張しましたが、「予定」の教理はパウロにはじまり、アウグスティヌス、ルターと引き継がれてきた考えですね。
パウロはユダヤの律法主義に対して、アウグスティヌスはペラギウス派の行為主義に対して、ルターはカトリックの教会規則に対して、「救いは神の自由な意志によって与えられるもので、人間の努力によって取引できるものではないのだ」ということを強調したものと思われます。
「神は全知全能で、救いについてあらかじめ予定している」と聞くと、論理的に私達の生活の意思決定や一挙手一投足まで神は決めているかのような考えてしまいますが、予定説の主張者はみな聖書の教えている救いについてのみ考えているのであって、運命論的なことは全く関心がなかったように思われます。
それどころか、カルヴァンもルターもアウグスティヌスも、神についてわかることは聖書に啓示されたことだけであって、聖書を離れて神についてあれこれ判断することは「人間の越権行為」で全て間違っており、むやみに詮索すべきでないと主張していたと思われます。
予定説が希望だったのは、律法やキリスト教道徳に照らして「全く救いに価しない」とされ、絶望していた人々に「たとえ今は罪の力に抗えなくとも、神に選ばれている人は人生の途上で神が介入して必ず生まれ変わらせるから、絶望してはいけない」と説いたことですね。
他方、律法やキリスト教道徳に照らして落度がなく、救いを所有していると思っている人には「どんな敬虔も神が滅びに定めた人なら、滅びの器として悪の力の支配にゆだねられるから、高慢にならず、神の前でへりくだらなければならない。」と伝えたことですね。
また、誰が救いに選ばれ、滅びに定められているかは人間にはわからないから、人間の基準で人を裁いて貶めたり、持ち上げたりしてはいけない、ということですね。
つまり、予定説の効果は、救いと滅びの中間に信仰者を常に「宙ぶらりん」にすることによって、絶望させることなく、安心して妥協させることもなく、常に聖書に照らして自己を検討し続けるキリスト者を生み出したことにありました。
結果、このような予定説の影響にあるキリスト教徒の多くが「神の栄光のため」にと損/得、快/苦を越えて勤勉に仕事をした結果、ヨーロッパに近代資本主義が広がる力となったというのはマックス・ウェーバーの著作で有名ですね。
予定説にも問題があるかと思いますが、宗教改革者たちがなぜ神の予定を強調せざるおえなかったのかを考えるために長々と書かせていただきました。
KOJI OSHIMAさん
削除わかりやすく丁寧な説明を、ありがとうございます。
救いと滅びの中間に信仰者を常に「宙ぶらりん」にする、という表現で、だいぶ合点がいきました。そのように強調する必要が当時の時代背景にはあった、ということですよね。またそれが人々を勤勉たらしめた、というのは興味深いことだと思います。
であるなら、現代には現代に適した(あるいは必要な)メッセージがあるのかな、とも思います。それが何なのか、大変興味がありますね。
いずれにせよ、教えていただいてありがとうございました。もっと勉強しなきゃなと思いました。
実に興味深く読ませていただきました。ウェーバーは僕の卒論だったこともあり、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」や「古代ユダヤ教」など懐かしさがこみあげてきます。新約でいえば、ヤコブ書をどう考えるかということにもなりますね。僕はパウロ書簡よりヤコブ書の方が好きなのです。ルターは、旧約から続編部分(カトリックでは正典)の削除を実現させたが、新約ではヤコブ書と黙示録を削除させようとしたができなかったのはなぜかということにつきますね。ルターは「奴隷意志論」と書いてエラスムスの「自由意志論」を批判しましたが、僕はエラスムスに賛成ですね。極論すれば、人間は神から自由意志を与えられており、神を否定しようがしまいが勝手でしょというわけです。神を否定する人間でも、良き行為があれば、その行為を神が是とすれば救われるというわけですね。エラスムスの著作を読んでいると万人救済説だなあと思いますね。
削除Kametaniさん
削除いつも深い知識や教養から教えていただきありがとうございます。
私はここ数年で、だいぶ自分の信じる神学を修正してきたように思います。ずっと聖霊派の狭量で偏った教えを信じてきましたが、(その反動かもしれませんが)今はどちらかと言うと「万民救済説」を信じたくなっています。というか、そうであったらいいのではないかなと考えています。
「福音を聞いて信じた者だけが救われる」という話ですと、どうしても「死ぬまで一度も福音を聞く機会がなかった人」や「本当は信じたかったけれど、その時の状況で信じるとまで言えなかった人」や「生まれながらに土着の宗教を信じていて、その固定化された価値観ゆえキリスト教会を受け入れられなかった人」などが、報われないからです。かと言って「セカンド・チャンス」という説はどう考えても怪しげですし。
本当に「信じるかどうか」が唯一の指標であるなら、人類全員に公平なチャンスがなければならない、と私は思うのですが、それって「人間的な」考え方なのでしょうかね。
私は「福音を聞いて信じた者だけが救われる」という考えこそ人間的な考えだと思うのです。
削除なぜかというと、この考えこそ「神の全能、神の自由」を制限しているかのように思われるからです。
イエスが産まれた後で、イエスの言葉を聞いた者だけが救われるとすれば、なぜ「神の国でアブラハム、イサク、ヤコブと預言者と共に宴会の席につく」ことができるのでしょうか?
イエスは「私に向かって「主よ、主よ」と言う者が神の国に入るのではなく、ただ父の意志を行う者が入る」と言いました。
また、パウロはローマ書で、「ユダヤの律法を知らなくとも、その心の良心で律法を満たしている異邦人がいる」と言いました。
たとえイエスの言葉に接する機会がなかったとしても、もしイエスの言葉に接していたとしたら、イエスを正しいと認めて従った人々がいるのではないでしょうか?
神は全知全能で、人の外的条件ではなく心の深みまで見通すのだとすれば、イエスの言葉に接する機会を持ちえなくとも、イエスと同じ志を持ち、イエスと同じく行う人々をイエスと共におらせるでしょう。
ガンジーは一生涯ヒンズー教徒であることを止めませんでしたが、イエスを正しいと認め、イエスに従いました。他方、「私はクリスチャンだ。イエスを神として、キリストとして信じる」と言いながら、イエスとは正反対の振る舞いをする人がいます。神の国、つまり神の支配をその身で体現しているのはどちらでしょうか
?
イエスの時代のユダヤ人と異邦人の転換は、この時代のクリスチャンとノンクリスチャンの間でも起こり得るでしょう。律法を誇りとしながら、律法に従わないユダヤ人が神の前で斥けられたように、イエスを誇りとしながら、イエスに従わないクリスチャンは神の前で斥けられるでしょう。主人の心を知りながら、主人に背いた僕は、主人の心を知らないがゆえに従えなかった僕よりも、より多く鞭打たれるでしょう。多く与えられた者は、多く神から要求されているのです。
「石ころからアブラハムの子孫を興し」「後の者を先に、先の者を後に」したもう全能の神は、クリスチャンが石ころを見るように見下げているノンクリスチャンからイエスに従う人々を興したもうでしょう。クリスチャンは彼らがアブラハム、イサク、ヤコブとその他義人と神の国で宴会を広げているのを見て歯噛みをすることになるでしょう。
新約聖書で「信仰」と訳されているギリシャ語の「ピスティス」は本来は「信頼」を意味する言葉だと聞きました。信頼の対象が人ではなく神なので「信仰」と訳されるわけです。
つまり、「信仰によって救われる」と言うとき、キリスト教信仰を持っているから救われるのではなく、イエスにおいて働いている神の力を信頼しているがゆえに、神の力によって救われるのです。
神は何者にも制限されません。死者を甦らせ、罪人を義としたもう神の力は「全ての人を救う神の恵み(テトス2・11)」であって、あまねく全ての時代、全ての場所、全ての人に及ぶことを私は信じております。
率直なご意見ありがとうございます。こういう論議、好きなのです。映画「沈黙」にもありましたか?イエズス会が日本宣教に来たとき、信者からの質問で困ったのが、信者のご先祖様は天国に行くのか、地獄に行くのかという問でした。ダンテの神曲、地獄篇、地獄の一等席にいるのが、プラトン、ソクラテスなどの哲学者たちでした。当時の人々の常識では、キリスト教を知らない人たちは地獄に行くと考えていたのですね。ただ、この地獄の一等地、良いところなのです。神曲を読んで、天国や煉獄より、地獄の一等地に行きたいと思いましたね。
削除映画で「奇跡の丘」パゾリーニの傑作ですが、パゾリーニは有名な無神論者、彼がマタイ伝を映画化したわけですが、当時のイタリアででは妨害運動、上映反対運動が起き、上映に際しては妨害派が多数押しかけやじりたおそうとしたとのこと、映画を見た妨害派は、涙を流して感激して帰ったとの逸話もありますね。時のローマ教皇はこの映画を推薦映画として信者に見ることを勧めましたが。死んだパゾリーニは天国、地獄にどちらに行くのでしょうか。
神は、人間の行いを見ているのかいないのか、ということになりますね。どのような行いを是としているのかというになりますね。
クリスマスを迎えて、イエスキリストは全人類を救いに来たのか、イエスを信じる者を救いに来たのか、イエスを知らなかった人たちをも、知ろうとしなかった人たちをも、救いに来たのかということでしょうね。イエス誕生以前の人類、イスラム教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、その他の宗教信者、無神論者、は救われるのかということですね。
私なりの回答では、私は万人救済論者ですので、良きサマリア人は救われるですね。
予定説の流れで申しますと、誰が救われるか否かに関しては、やはり人間にはわからないと思うのです。
削除よきサマリヤ人は救われるでしょう。しかし、誰がよきサマリヤ人であるかは、人間にはわかりません。外面上の行いに現れない様々な動機が人にはあるからです。
神が人の外面ではなく、心の深みまで見て裁くのだとしたら、やはり誰が救われるか否かについての神の意志は常にブラックボックスで、人にはわかりません。
パウロでさえ、「自分自身は良心に照らして何の落度もないけれど、しかし、だからといって神の前で義とさているわけではない。主が全てを明らかになさるまで、自分を含めた誰をも裁いてはならない」と言いました。
イエスを知らず、神の戒めとも全く無縁の生き方をして亡くなられた方はどうなるのでしょうか?
これについても、むやみに「地獄だ」と裁くべきではないでしょう。聖書には、「イエスは死者と生者の主となるために、死んで生き返られた」とあり、ぺテロ書には「イエスは陰府に降られたとき、ノアの時に不従順のゆえに水に流された人々の霊にのべ伝えられた」とあるからです。
彼らが救われるかどうかはわかりません。しかし、彼らのため祈ることは許されているでしょう。
創世記の堕罪を信じなくとも、この世の人間の悪や争い、苦しみは普遍的です。それと同時にに、それらに立ち向かうイエスの言葉や行いもまた普遍的です。
クリスチャンが大嫌い、パウロが大嫌い、聖書の神が大嫌いという人は山ほどいますが、イエスが嫌いという人を私は知りません。
イスラム教やユダヤ教でも、イエスを神として信じることはできませんが、預言者やラビとして尊敬されております。
神を信じる人が救われるのではなく(悪霊でさえ神は唯一と信じておののいている)、イエスを正しいと認めて従う人が、神のまことの意志を行う者だとすれば、宗教の違いに関係なく、無神論者であっても、イエスに従い、この世の悪や苦しみに立ち向かう者は神の支配に服するのではないでしょうか?
イエス・キリストは「全ての人を救う神の恵み」であり「一人の人も滅びることなく、悔い改めに至ることを望む」神の忍耐であるという言葉は揺るがない。
神の選びは、滅ぼすための選びではなく、全ての人を救うための選び。
ローマ書11章によれば、ユダヤ人が退けられて福音が異邦人へともたらされたのは、ユダヤ人が滅びるためではなく、全ての人が救われて、ユダヤ人も救われるためだとあります。
予定説が見直されるべきだとするなら、このようなイエス・キリストにおいて全ての人を救おうとされた神の決定という観点からでありましょう。
削除Kametaniさん、OSHIMAさん
議論を深めて下さり、ありがとうございます。
私はカルト被害や、虐待被害、その他諸々の被害に遭われた方々の回復されることを主に願っており、そのために何ができるだろうかと考えながら、ブログを書いております。しかしやはり、自分自身の神学的な理解が深められていないと、説得力のある文章が書けないだろうとも思います。だからこのような議論は、良い刺激となっています。
私は常々、正しいことは何だろう、正しい聖書解釈とは何だろう、と考えていますが、その探求はおそらく生涯続くものだろうと予感しています。その意味で、OSHIMAさんがおっしゃった「宙ぶらりんの状態」というのはよく理解できます。
「神の救い」とは何なのか、ということを今回また考えさせられました。
私は人生で初めて4福音書を読んだ時(10代後半のことでした)の衝撃を、まだ覚えています。それまでの価値観をことごとく逆転させられた体験でした。貧しいものは幸いである、悲しむものは幸いである、といったキリストの言葉の数々が、私という人間をまさに作り変えようと動き出したように感じました。
もしかしたら神の言葉(聖書)に触れるということ自体に、「神の救い」が含まれているのかもしれません。ちょっと意味がわからないかもしれませんが。
私が以前通っていた教会では牧師の不祥事が発覚し、教会が空中分裂するという出来事がありました。その際にあるリーダーが「教会に残るべきでしょうか」と祈ったところ「そこにとどまれ」と言われたそうです。周りの信徒はだから神様の声は聞こえるんだとかそんなことを言っていたような気がします。
返信削除でも結局のところそれは神の声が聞こえた訳ではなくて、その人自身の意志だと思います。自分の意志を神の御心とすり替えたのでしょう。今考えればおかしな話です。それに感動する信徒も考えることが出来ていませんね。
それは典型的な「自分の感覚」だと思います。聖書のどこかで読んだ「とどまれ」という言葉を、たまたま思い出したのではないでしょうか。あるいは「残りたい」という自分の「願望の声」を聞いたのだと思います。
削除いずれにせよ証拠はないので、語られたとか示されたとか、何でも自由に言えてしまいます。特にリーダーという立場でしたら、「この人なら神の声が聞こえるのかも」みたいなイメージを持たれやすいので、言いやすいでしょうね。結局それが神の声だったのかどうか、確かめる方法もありませんし。
基本的に、「神の声を聞いた」という人は信用してはいけないと思います。
いつも興味深く読ませております。
返信削除教会によってほんとうに様々ですね。
私たちの教会は霊的働きを信じ、またウェストミンスター小教理問答も学んでいます。
その学びのなかで、神の栄光を表すということは
「教会の奉仕を沢山おこない、献金をたくさん捧げ、牧師の言うことを疑いなく聞き、良い信徒であるべき」
ということとは全く違うことだと学んでいます。
フミナルさんも書かれましたように
私たちの生活の多くは教会外(家庭、学校、仕事)で過ごします。
だから生活の中で、どのように生きるかということを学びました。
人である以上、多かれ少なかれ悩みや苦労は誰でも持っています。
教会で良い信徒であっても家庭や職場で良い父母、人でなければ
神の栄光を表すということは難しいです。
そして、良い父母、人であることは思いのほか難しいことです。
悩み、苦しみ、絶望の何ある時、
その時こそ、キリストによって希望を持つことができるかが大切なことではないでしょうか?
そして、そのために毎週日曜日に礼拝の中で神と向き合っているのではないのでしょうか?
弱さの中でもがきながらも、問題から逃げず
祈りながら自分の弱さや問題に真摯に向かう姿勢のなかで希望が持てるのではないでしょうか?
そして、その中でその希望を持つことが、神の栄光が現れる時だと学んでいます。
※そこを乗り越えたとき、同じ悩みをもつ人の希望にもなれます。
良い信徒でなくていい、
奉仕が出来ないならしなくていい
ほんの少しの献金でもいい
家族で遊びにいくなら、たまには礼拝を休んでもいい
牧師のメッセージに疑問をもっていい、ただ聖書は疑うな!
時には受け取りにくいメッセージもある、
だって人間だもの。
家庭の中で、学校の中で、職場の中で、生活の中で、苦しい中で
自分らしくいられているか、キリストによって希望がもてる者でありたいとおもいます。
Hosannaさん
削除真摯なコメントありがとうございます。
Hosannaさんのように、バランス感覚のある信仰生活を送ってらっしゃる方のお話を聞くと、なんだか安心します。きっと良い教会のなのだと思います。
聖書にはたしかに、忍耐が希望を生むと書いてあります。だから問題や苦しいことを通して、私たちはその向こうに希望を見ることができるかもしれません。そのためにこそ、私たちは神と向き合うのかもしれませんね。
いつも興味深く読んでいます。
返信削除メインラインのプロテスタントの信徒です。
この記事とも全く関係ないこととは思えないのでここにコメントさせていただきますが、
教団の王子北教会の牧師がTwitterで、
「キモくて金のないオッサン」と教会、ということについてここ数日とても興味深いことを書いています。
https://mobile.twitter.com/oujikitachurch
「キモくて金のないオッサン」というワードがネット上の論壇で生まれたワードで分かりづらいかもしれませんが、ぜひご一読いただきたいです。
(この記事に関連づけるとすれば、キモくて金のないオッサン、とは、とてもではないが神の栄光なんて表せそうにない人、という意味が近いです)
できればこのテーマについて触れていただけたらとてもうれしいです。
ありがとうございます。
削除一連のツィートを拝見し、一応フォローもさせてもらいました。
「キモくて金のないオッサン」のツィートを全部は見れてないのかな? まだよく意味がわかっておりません(すみません)。文脈的に理解しないといけないのでしょうね。ちょっと勉強してみます。
とりあえず、「被害的な心境になっていて、関わるのが難しい人」くらいに理解しています。間違っていたら教えて下さい(重ねてすみません)。
「 神様は自由に語られるはずなのに、なぜ初めから二択に絞り込んで訊くのか? 」・・・鋭い指摘ですね。
返信削除先日ある人が、「自分は 〇〇 で 〇〇をしたいと願っていたのだけれど、残念ながら神の御心ではなかったのでそれは実現しませんでした。」という話をしていました。
そのことは自分が希望していた進路だと正直に話されていたのですが、結果が希望どおりにならなかったのは神の御心でなかったというオチが私は抵抗がありました。最後まで自分で責任を持って欲しかったです(笑)。
「神からこの道を示されました」等は論外ですが、希望する道へ進めるよう導いて下さいと願うのは当然で私もそう祈ります。一方、その結果がどうであっても人間に神の御心が簡単にわかる筈がないという意識も持つ必要があると思います。
人間的な見方での順調や挫折、成功や失敗が御心の判断基準になってしまうのは短絡的すぎる気がします。
Teoさん
削除ありがとうございます。
「結果が希望通りでなかったから神の御心でなかった」というのは、Teoさん自身がおっしゃるように、短絡的だと思いますね。神様を思い通りにコントロールしたい、でもできなかった、という話なんじゃないかと思います。