いきなり始めます。前半から続けて読んでいただけると、流れがわかりやすいかと思います。
ではどう生きるべきなのか
では、私たちはどう生きるべきでしょうか。
神は私たちの人生に、どう関係するのでしょう。あるいは私たちは、神にどう関わるべきでしょう。
私たちの人生の大半は、学校で学んだり、就職して働いたり、育児したり介護したり、休養したり、定年して老後を過ごしたり、といった活動になります。いろいろなルート、いろいろな内容があるでしょう。ぶっちゃけた話、神と全く関係ない人生を送ることもできます。実際、大半の日本人がそうだと思います。
その中で「神の御心に従って生きたい」「神様の栄光を現したい」と願うことは、立派なことだと私は思います。自ら積極的に神に関わって生きていきたい、ということでしょうから。
でもそうであるなら、前半での注意点に加えて、いくつかの点に注意しなければなりません。
恣意的な「神の御心」
まず第1に、これは何度も書いていることですが、「神の御心」はどうしても恣意的になる、という点です。
あなたが何か具体的な「神の御心」を求めているとしましょう。たとえばあなたが学生で、「〇〇大学に進むべきでしょうか?」と神に尋ねたいとします。
あなたはこんなふうに祈るでしょう。「神様、私は〇〇大学に進学すべきでしょうか?」
これ自体は、よく聞く話ですね。
でもこの質問は、イエスかノーでしか答えられないクローズド・クエスチョンです。ここでさっそく疑問が生じます。神様は自由に語られるはずなのに、なぜ初めから二択に絞り込んで訊くのか、という疑問です。なぜ〇〇大学が前提になっているのでしょうか? その前に、なぜ大学進学が前提になっているのでしょうか? 他の道の可能性はないのでしょうか?
これは、言い方が悪いかもしれませんが、神様を追い込むような訊き方です。どうせ訊くなら、「進路をどうするべきですか?」みたいなオープン・クエスチョンにすべきです。
そうでなく、いきなり「〇〇大学は―」みたいな二択の質問にしてしまうのは、初めから、〇〇大学が気になっているからに他なりません。
「神の御心」を求めると言うとき、「心に浮かんだことは神様からの答えだ」と安易に言う人がいます。でも皆さん知っておいて下さい。人の心に浮かぶのは、その人が普段から気にしている事柄です。悩んだり迷ったり願ったりしていることが、自然と浮かんでくるのです。逆に言うと、気にしているから「御心」を求めたくなるのです。そしてその時点で、既に「神の御心」を絞り込んでしまっているのです。
どういうことだか、わかりますか。
そういう人は、何か答えがほしい時に神に祈ります。何もなければ、そういう祈りはしません。つまり、「答えがほしい」から、「そこに神の答えがある」と決めつけているのです。では、神様は他のメッセージを持っていないのでしょうか?
こちらが答えてほしい時に神の答えがある(そうでない時にはない)、と考えるのは、神をコントロールしようとすることです。
その手の人は、神に訊きたいと言いながら、神に自由に語らせる気はないのです。
簡単な例を示してみましょう。
ある人が「チョコレートを食べたい」と思っています。こう祈ります。「神様、今チョコレートを買うべきでしょうか?」
その人はチョコレートを食べたいので、チョコレートのことが頭から離れません。だから結局、何だかんだ理由を見つけて、「あ、これは神様がチョコレートを買いなさいと言っているサインだ。その確信がきた」と決めつけてしまうでしょう。
では他のタイミングで、神様がポテトチップスについて彼に語ろうとしたら、彼は果たして聞くのでしょうか?
ほしいから訊く。ほしくなければ訊かない。恣意的とは、まさにこういうことです。
ほしいから訊く。ほしくなければ訊かない。恣意的とは、まさにこういうことです。
まさかチョコレートのことで祈る人はいないと思いますが(食べたかったら自由に買って下さいね)、もっと重大なことで、これと同じようなことをしている人がいます。私はそれを、以前から「御心の捏造」と呼んでいますけれど。
「神の御心」の運命論的危険性
第2に、「神の御心」を運命論のように考えてしまう、という点です。
私たちの人生は神によって細かく導かれるべきだ、と言う人がいます。つまり、私たちの人生は神によってあらかじめ決められているんだから、それに従うべきだ、ということです。私たちの選択のようでありながら、実は神の選択なのだ、と。
その論法で、こんなふうに言う人たちがいます。
「私が牧師になるのは神の定めでした」
「私の献身は神のご計画だったのです」
「私は嫌だと言ったのに、結局神は私を牧師にしました」
じゃああなた自身の意思は何なのですか? と私は訊きたくなります。そんなに嫌なら辞めればいいんじゃないですか? それとも神に無理やり押さえつけられて、牧師就任のサインを泣く泣くさせられたんですか? 本当はあなたがそれをしたかったんじゃないんですか? と。
最近も若い人が、こんなことを言ってました。
「あーこれはもう状況的に、自分は牧師になれって言われてるんですね。逃げ道なくなっちゃったなあ」
なんてひねくれた言い方でしょう。本当はあなたが牧師になりたいんでしょう? 神のせいにしてはいけません。
私たちの人生が、神によってあらかじめ決められている、というのは危険な考え方です。
たとえばあなたが、一生懸命教会に仕え、伝道し、その生涯の大半を神に捧げたとします。そして終わりの日、主と対面します。きっと褒めてもらえると、あなたは思っているでしょう。でも主は言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」
またある人は、教会をサボり続け、奉仕なんて少しもしないまま人生を終えました。終わりの日、主は彼に言います。「うん、わたしがそう決めていたからね。そうなって当然なんだよ」
つまり善行を積んだ人も、悪行を積んだ人も、「神があからじめそう決めていた」ことになってしまうのです。
であるなら、どんな罪を犯した人も、その人の責任ではないことになります。神によってそう決められていたのですから。そして世界中のあらゆる犯罪も、憎むべき犯罪も、忌むべき犯罪も、全部神の計画だったことになります。すると、あなたが何かの事件の被害者だとしたら、その真犯人は、実は神だったのです。
と、いう話になってしまいます。それでも、運命論を支持しますか?
「神の召し」とは
「では、神の召しはどうなんですか?」とある人は訊くかもしれません。
神が一人一人に用意しておられる計画があるのではないですか、という問いですね。
でもそれを「運命」と混同してはいけません。「召し」の詳しい定義はここではしませんが、「召し」は「召し」です。「決定された運命」などではありません。
つまり、「召し」が何であれ、あなたがそれについてどう考えるのであれ、どうするかはあなた次第ということです。
だから、「私は嫌だったのに神様ガー」みたいな言い方は、してほしくないのです。
あなたが決めるのです。神はあなたに何も強制されませんから。神はあなたをどこにも追い込みませんから。繰り返しますが、神のせいにしないで下さい。
「神の栄光を現す」生き方?
前半にも書きましたが、「神の栄光を現したい」と簡単に言う人がいます。でも具体的なことは何もしません。カルト牧師でさえ、「主に栄光を帰します」と涙ながらに言います。でも本当は、自分が栄光を受けたいのです。
今まで見てきたように、「神の栄光を現す」というのは口で言うほど簡単なことではありません。それが何なのかも、私たちは実はよくわかっていないかもしれません。
私が愛読している「ウェストミンスター小教理問答」は、こう言っています。
(以下引用)
問2.
どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。
答
神の言葉(聖書)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。
(引用終わり)
つまり「聖書を読み、それを実行すること」が「神の栄光を現す」ことだと言っているわけです。具体的には、新約聖書のキリストの教えの部分が、その中心になると私は考えていますが。
キリストの生き方、歩み方、働き方を調べてみて下さい。彼は弱い者、苦しむ者、虐げられた者と共にいたはずです。そして彼らを責めるのでなく、愛したのです。
映画『沈黙』をご覧になりましたか。潜伏キリシタンたちが迫害され、拷問され、苦しんでいるその最中、神は沈黙していたのでしょうか。いいえ、彼らと共に苦しんでいたのです。というのが、あの作品の中心的なメッセージでした。
聖書を実行するのは、クリスチャンであれば当然だと私は考えます。そして聖書を実行することが「神の栄光を現す」ことになるのなら、わざわざ「神の栄光を現したいです」などと、言わなくていいのです。
そんな信仰アピールは要らないので、どうぞ信じるままに行動して下さい。
それが、「神の栄光を現したい」クリスチャンの皆さんに、私が言いたいことですね。
参考文献
と、いう話になってしまいます。それでも、運命論を支持しますか?
「神の召し」とは
「では、神の召しはどうなんですか?」とある人は訊くかもしれません。
神が一人一人に用意しておられる計画があるのではないですか、という問いですね。
でもそれを「運命」と混同してはいけません。「召し」の詳しい定義はここではしませんが、「召し」は「召し」です。「決定された運命」などではありません。
つまり、「召し」が何であれ、あなたがそれについてどう考えるのであれ、どうするかはあなた次第ということです。
だから、「私は嫌だったのに神様ガー」みたいな言い方は、してほしくないのです。
あなたが決めるのです。神はあなたに何も強制されませんから。神はあなたをどこにも追い込みませんから。繰り返しますが、神のせいにしないで下さい。
「神の栄光を現す」生き方?
前半にも書きましたが、「神の栄光を現したい」と簡単に言う人がいます。でも具体的なことは何もしません。カルト牧師でさえ、「主に栄光を帰します」と涙ながらに言います。でも本当は、自分が栄光を受けたいのです。
今まで見てきたように、「神の栄光を現す」というのは口で言うほど簡単なことではありません。それが何なのかも、私たちは実はよくわかっていないかもしれません。
私が愛読している「ウェストミンスター小教理問答」は、こう言っています。
(以下引用)
問2.
どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導くために、神はどのような規範を与えておられますか。
答
神の言葉(聖書)が、どうしたら神に栄光を帰し、神を喜びとすることができるかについて、わたしたちを導く唯一の規範です。
(引用終わり)
つまり「聖書を読み、それを実行すること」が「神の栄光を現す」ことだと言っているわけです。具体的には、新約聖書のキリストの教えの部分が、その中心になると私は考えていますが。
キリストの生き方、歩み方、働き方を調べてみて下さい。彼は弱い者、苦しむ者、虐げられた者と共にいたはずです。そして彼らを責めるのでなく、愛したのです。
映画『沈黙』をご覧になりましたか。潜伏キリシタンたちが迫害され、拷問され、苦しんでいるその最中、神は沈黙していたのでしょうか。いいえ、彼らと共に苦しんでいたのです。というのが、あの作品の中心的なメッセージでした。
聖書を実行するのは、クリスチャンであれば当然だと私は考えます。そして聖書を実行することが「神の栄光を現す」ことになるのなら、わざわざ「神の栄光を現したいです」などと、言わなくていいのです。
そんな信仰アピールは要らないので、どうぞ信じるままに行動して下さい。
それが、「神の栄光を現したい」クリスチャンの皆さんに、私が言いたいことですね。
参考文献