皆が皆ではない、ある性格傾向の人たちが傾倒するのだ、と思われるでしょうか? つまり、カルト系宗教に傾倒するのは「ある人たち」だけで、それは彼ら自身の問題なのだ、と。
あるいは反対に、どんな人にもその可能性はある、場合によってはどんな人もカルト系宗教に傾倒することがある、と考えるでしょうか? つまり、関係ない人などいない、と。
今回はこの点について、考えてみたいと思います。
・仇となる宗教的関心
私が見てきた教会を、振り返ってみましょう。
優しい人や親切な人が多かったです。いろいろ声を掛けてもらったり、助けてもらったりしました。でも一方で、いろいろな人がいたのも事実です。少数派ですが、変な人もいました。優しくない人もいました。あまり関わりたくない人もいました。けっこう何でもアリな世界だったと思います。
それだけ思うと、「特定の性格傾向」というのはない気がします。
では、なぜ教会に来るのか、という点で考えてみましょう。
それだけ思うと、「特定の性格傾向」というのはない気がします。
では、なぜ教会に来るのか、という点で考えてみましょう。
皆、何かに期待するから教会に来るのでしょう。期待がなかったら来ません。
単に友人に誘われたから、女の子が沢山いそうだから、ケーキやお菓子があると誘われたから、みたいな期待感は除外します。すると残るのは、「神様がいるなら知りたい」みたいな、宗教的な期待でしょう。あるいは超自然的な何かに対する期待でしょう。そうではないでしょうか。
ということは、教会にいろいろな人がいるとしても、「宗教的関心」という共通点があることがわかります。これが原因でしょうか。でも宗教的な関心を持つ人が全員、カルト系宗教に傾倒するわけではありません。むしろカルトとは程遠い、常識的な範疇で宗教活動をしている人は多いと思います。
これはプロテスタント教会に絞った話になりますが、いろいろな教団教派があって素人には判別し難い、という問題があります。
たとえば同じような宗教的関心を持ったAさんとBさんがいるとします。Aさんは近所のC教会に行きました。Bさんは知り合いの紹介でD教会に行きました。CとDは全然違う教会です。でもAさんにとってはC教会が、「キリスト教」もしくは「教会」になります。同じくBさんには、D教会がそれになります。
さて、C教会はオーソドックスなスタイルで、信徒に全然干渉してきません。Aさんはそこでのんびり教会生活を送ります。教会外で葬儀があれば、行って焼香もします。
一方、D教会はイケイケなスタイルでした。毎週の礼拝、什一献金、奉仕は信徒の絶対義務です。焼香? 偶像崇拝する気ですか? と怒られます。Bさんはそこでストレスフルな教会生活を送ることになりました。でも一度通いはじめた責任みたいなものがあり、なかなか辞められません。
と、いうようなことはどこででも起こっていると思います。
すなわち宗教的関心は「吉」と出る場合と、「凶」と出る場合があるということです。
もちろん、宗教的関心は悪いものではありません。しかし無知のため、カルト系宗教に足を踏み入れてしまうことにもなります。本人がそう望んでいなくても。
単に友人に誘われたから、女の子が沢山いそうだから、ケーキやお菓子があると誘われたから、みたいな期待感は除外します。すると残るのは、「神様がいるなら知りたい」みたいな、宗教的な期待でしょう。あるいは超自然的な何かに対する期待でしょう。そうではないでしょうか。
ということは、教会にいろいろな人がいるとしても、「宗教的関心」という共通点があることがわかります。これが原因でしょうか。でも宗教的な関心を持つ人が全員、カルト系宗教に傾倒するわけではありません。むしろカルトとは程遠い、常識的な範疇で宗教活動をしている人は多いと思います。
これはプロテスタント教会に絞った話になりますが、いろいろな教団教派があって素人には判別し難い、という問題があります。
たとえば同じような宗教的関心を持ったAさんとBさんがいるとします。Aさんは近所のC教会に行きました。Bさんは知り合いの紹介でD教会に行きました。CとDは全然違う教会です。でもAさんにとってはC教会が、「キリスト教」もしくは「教会」になります。同じくBさんには、D教会がそれになります。
さて、C教会はオーソドックスなスタイルで、信徒に全然干渉してきません。Aさんはそこでのんびり教会生活を送ります。教会外で葬儀があれば、行って焼香もします。
一方、D教会はイケイケなスタイルでした。毎週の礼拝、什一献金、奉仕は信徒の絶対義務です。焼香? 偶像崇拝する気ですか? と怒られます。Bさんはそこでストレスフルな教会生活を送ることになりました。でも一度通いはじめた責任みたいなものがあり、なかなか辞められません。
と、いうようなことはどこででも起こっていると思います。
すなわち宗教的関心は「吉」と出る場合と、「凶」と出る場合があるということです。
もちろん、宗教的関心は悪いものではありません。しかし無知のため、カルト系宗教に足を踏み入れてしまうことにもなります。本人がそう望んでいなくても。
まとめてみましょう。
カルト系宗教に傾倒しやすい「ある性格傾向」というのはないように思われます。しかし「宗教的関心」が仇となって、カルト系宗教に関わってしまう可能性はあります。
と、いうのがここまでの結論です。
・宗教的関心は、ない人にはないのか
よく巷で言われることの一つに、こんなのがあります。
「宗教に頼るのは心の弱い人間だ」
もっともらしく聞こえますが、皆さんどう思われますか。
私が思うに、心の強弱と宗教は関係ありません。価値観や世界観の問題です。「もしかしたら神様がいるかも」と、「神なんていない」は、考え方の違いに過ぎません。「心の強い人」がみんなどちらか一方しか考えず、「心の弱い人」がみんなもう一方しか考えない、なんてことはありません。それこそ非論理的です。
だから宗教的関心の有無も、そもそもの価値観・世界観によって左右されます。
成育歴によるものか環境によるものか教育によるものかわかりませんが、もともと無神論的に考える人がいます。彼らは「神なんていない。人生は自分で切り開くものだ」みたいに考えます。
一方でもともと宗教的関心が高い人もいます。彼らは「神様がいるかもしれない。そしてこの人生は神様と関わりがあるかもしれない」と考えます。
どちらが宗教と関わりを持ちやすいかは、言うまでもありません。
では無神論的な人は、決して、宗教的関心を持たないのでしょうか。
どこで聞いた話だったか覚えていませんが、「死なんて怖くない」と豪語していた無神論者が、末期癌の告知を受けた途端、うろたえて泣き叫んだと聞いたことがあります。死に直面して初めて、その恐ろしさを実感したのかもしれません。そこで誰かが全知全能なる神の話をしたら、その無神論者はどんな反応するでしょう。無神論を引っ込めないとは限りません。
実はこういう例を、実際に見たことがあります。
知り合いに実際に起きた話です。彼はバリバリ働いている最中に病に侵されました。重い病気でした。彼は身寄りがなく、親しい人間もおらず、まったくの孤独でした(私は当時さほど付き合いがありませんでした)。入院して、退院して、でも将来の展望も何もなく、毎日自宅で無為に過ごしていたそうです。
そんなある日のことです。玄関の呼び鈴が鳴りました。出てみると、優しそうなご婦人が立っています。彼女は顔色の悪い彼を見て、大丈夫ですか? ちゃんと食事されてますか? 良ければお話しませんか? と語りかけます。彼は泣きそうになりながら、彼女の話を聞きました。冊子を渡されました。見ると「神」とか「楽園」とか「救い」とか書かれています。
翌日には、彼は教えられた教団施設に足を運んでいました。
書き忘れましたが、彼はガチガチの無神論者でした。シニカルで、現実的な人でした。それが死に直面したことで、宗教的関心を呼び覚ましたのでしょうか。
またある牧師の息子の話です。彼は教会にも神様にもウンザリで、かと言ってやりたいこともなく、毎日暴走族の真似事をして過ごしていました。そして事故に遭い、重症を負いました。その事故の瞬間、彼は「神様助けて」と叫んでいたそうです。自分でも意外だったと、後から聞きました。
つまり、宗教的関心は個人の価値観や世界観に起因しますが、危機的状況に陥ると一気に高まることがある、ということです。
自分ではどうにもならない絶望的状況に置かれると、人は超自然的なものを求めたくなるのかもしれません。全員が全員ではないかもしれませんが。いずれにせよ、これは重要な点だと私は思います。
カルト系宗教に傾倒しやすい「ある性格傾向」というのはないように思われます。しかし「宗教的関心」が仇となって、カルト系宗教に関わってしまう可能性はあります。
と、いうのがここまでの結論です。
・宗教的関心は、ない人にはないのか
よく巷で言われることの一つに、こんなのがあります。
「宗教に頼るのは心の弱い人間だ」
もっともらしく聞こえますが、皆さんどう思われますか。
私が思うに、心の強弱と宗教は関係ありません。価値観や世界観の問題です。「もしかしたら神様がいるかも」と、「神なんていない」は、考え方の違いに過ぎません。「心の強い人」がみんなどちらか一方しか考えず、「心の弱い人」がみんなもう一方しか考えない、なんてことはありません。それこそ非論理的です。
だから宗教的関心の有無も、そもそもの価値観・世界観によって左右されます。
成育歴によるものか環境によるものか教育によるものかわかりませんが、もともと無神論的に考える人がいます。彼らは「神なんていない。人生は自分で切り開くものだ」みたいに考えます。
一方でもともと宗教的関心が高い人もいます。彼らは「神様がいるかもしれない。そしてこの人生は神様と関わりがあるかもしれない」と考えます。
どちらが宗教と関わりを持ちやすいかは、言うまでもありません。
では無神論的な人は、決して、宗教的関心を持たないのでしょうか。
どこで聞いた話だったか覚えていませんが、「死なんて怖くない」と豪語していた無神論者が、末期癌の告知を受けた途端、うろたえて泣き叫んだと聞いたことがあります。死に直面して初めて、その恐ろしさを実感したのかもしれません。そこで誰かが全知全能なる神の話をしたら、その無神論者はどんな反応するでしょう。無神論を引っ込めないとは限りません。
実はこういう例を、実際に見たことがあります。
知り合いに実際に起きた話です。彼はバリバリ働いている最中に病に侵されました。重い病気でした。彼は身寄りがなく、親しい人間もおらず、まったくの孤独でした(私は当時さほど付き合いがありませんでした)。入院して、退院して、でも将来の展望も何もなく、毎日自宅で無為に過ごしていたそうです。
そんなある日のことです。玄関の呼び鈴が鳴りました。出てみると、優しそうなご婦人が立っています。彼女は顔色の悪い彼を見て、大丈夫ですか? ちゃんと食事されてますか? 良ければお話しませんか? と語りかけます。彼は泣きそうになりながら、彼女の話を聞きました。冊子を渡されました。見ると「神」とか「楽園」とか「救い」とか書かれています。
翌日には、彼は教えられた教団施設に足を運んでいました。
書き忘れましたが、彼はガチガチの無神論者でした。シニカルで、現実的な人でした。それが死に直面したことで、宗教的関心を呼び覚ましたのでしょうか。
またある牧師の息子の話です。彼は教会にも神様にもウンザリで、かと言ってやりたいこともなく、毎日暴走族の真似事をして過ごしていました。そして事故に遭い、重症を負いました。その事故の瞬間、彼は「神様助けて」と叫んでいたそうです。自分でも意外だったと、後から聞きました。
つまり、宗教的関心は個人の価値観や世界観に起因しますが、危機的状況に陥ると一気に高まることがある、ということです。
自分ではどうにもならない絶望的状況に置かれると、人は超自然的なものを求めたくなるのかもしれません。全員が全員ではないかもしれませんが。いずれにせよ、これは重要な点だと私は思います。
・絶望的な状況に要注意
カルト系宗教の実態が語られるたびに、
「なんでそんなところに行くんだ」
「なんでそんなもの信じるんだ」
みたいな感想が聞かれると思います。常識的に考えておかしいと思うのでしょう。だから「カルト系宗教に傾倒するのは特殊な人間だけだ」という考え方が起こるのかもしれません。
でも上記のように、根っからの無神論者であっても、コンディションによっては意外なくらいあっさり宗教に傾倒することがあります。それが健全な宗教なら良いですが、カルト系だったら問題です。でも経験や知識がないと、その判別はできません。ロシアンルーレットみたいなものです。
一つ言えるのは、人は絶望的・危機的状況になると、藁にもすがる思いでなく、本当に藁にすがってしまうとうことです。そのタイミングこそ、誰もがカルト系宗教にハマってしまう瞬間だと言えます。これは決して他人事ではありません。私はそう考えています。
だから私がお願いしたいのは、皆さんの周囲で悲劇に見舞われて落ち込んでいる人がいたら、変な宗教に手を出さないよう見守ってあげてほしい、ということです。
クリスチャンの方は、そういうのを教会に誘うチャンスと考えるかもしれません。でもできればそういうことも考えてほしくありません。なぜならフェアでないからです。相手は正常な判断力を欠いているのです。そういう時に教理を教え込んで信じさせても、本人が自由に選択したことにはなりません。
というわけで私の結論は、誰もが状況次第でカルト系宗教に傾倒し得る、ということです。
皆さんはどう思われますか。
人が神を見出す過程は多様でいいと思います。ただ、アンビリーバボーみたいな超自然的な話や感動的な話が別になくてもいいと思います。私がツッコミたいのは、クリスチャンの中でも「証」が大好きな人たちです。ドラマのような話のネタを探している輩もいます。話をやたら盛っている説教者もいました。
返信削除またカルト的な教会の中には非常にお節介な人がいるので要注意です。彼らはあらゆる人間関係を伝道につなげようとします。友達を遊びに誘う=伝道。しばらく教会に来ていない人を飯に誘う=説得。相手が弱音を吐いたらすぐにつけこんで悔い改めのアプローチが入ります。強制悔い改めマシーンです。こういう人たちとは距離を置くしかありません。全て牧師の指示で、背後でとりなされている場合もあります。これは溜め息ものです。
そんな牧師は説教で、こんな経験する前に悔い改めましょう!とか、地獄に行きたくないでしょう!とか、再臨のときイエス様にあなたのことを知らないと言われたくないでしょう!とか言います。
強制悔い改めマシーンに遭遇したら、速やかにそこから脱出するべきです。
話を盛る説教者、いますね。
削除泣かせよう泣かせようという意図が丸見えな、芝居掛かった話し方をします。聞く方も感動したい口なので、涙ながらに聞きます。ちょうど水戸黄門みたいに、話を提供する側と聞く側とでお約束が成立している世界ですね。はいここで泣かせますよ、はい泣きます、みたいな。
私はそういうのは礼拝説教でなく、牧師ショーと呼んでいます笑
確かに、教会でやる聖書にまつわるお話の時、名前は伏せるけど、「子供の頃に野球やってたけど、神様の方が大事!と思い、今は教会学校の教師、ミュージカルの監督、妻子持ち」という話とかあって、私としては、「これ絶対話盛ってるよね?捏造じゃない?」と思います。ですが、それを突っ込むに突っ込めず、どんどんストレスが溜まる、負の連鎖になっていきます。
削除「これこれより、神様の方が大事」というのもよく聞きますね。ただの敬虔アピールにしか聞こえませんが。
削除私たちが何かを大切にするのは、全然悪いことではありません。なんでもかんでも神様と比べる必要もありません。「神様も大切だし、これこれも大切」で全然いいはずです。
極端な二元論に持って行って視野を狭めるのは、カルト化教会が好む手法だと思います。
むかし祖母の家の近所に創価学会の熱心な信者のおばあさんがいました。なぜ創価学会に入信したのか?と祖母が尋ねると、「病気をしたときに創価学会に折伏されて入信したら病気が治ったから」だそうです。
返信削除新興宗教系プロテスタントの教会のホームページの証でも、「入信したら病気が治った」という話がよく出ています。創価学会と中身は本当に同じなんだなあとわかりますよ。
新興宗教は人の弱みに付け込んで布教するケースがよくありますよね。昔から貧・病・争といいますので。
貧困を政治の力で克服したとしても、病気と争い事(最近は嫁姑は別居の家が多いので少なくなったが、登校拒否やニート問題は多い)は、いつの時代でも存在しますので、キリスト教だろうが仏教だろうが、この手の新興宗教が問題を抱えた家庭をかぎつけて、折伏して歩くのはこれからも続くと思いますよ。
「入信したら病気が治った」と言う人には、「入信しなかったら治らなかったのか」「やめたら再発するのか」というあたりを検証して頂きたいですね。
削除あと「入信したけど治らなかった」という人もいるはずなので、その人に何と声をかけるのか聞きたいですね。
もちろん返答を期待しているわけではありませんが笑
>「入信したけど治らなかった」
削除これはもう決まっているでしょ(苦笑)。
「お前の信心が足りないからだ!」
実際に池田大作などは、部下が病気になると「病気になるのは信心が足りんからだ」と罵倒しまくっていたそうで。
そういえば池田大作って生きてるの?
返答を期待しているわけではありませんと書いたのにわざわざありがとうございます笑
削除>だから私がお願いしたいのは、皆さんの周囲で悲劇に見舞われて落ち込んでいる人がいたら、変な宗教に手を出さないよう見守ってあげてほしい
返信削除この箇所を見て思い出しました。2016年に亡くなった佐藤初女さんのことです。
佐藤さんは悩みを抱えた人に寄り添う施設「森のイスキア」という、おばあさんの田舎料理を食べて、のんびりしてほしいという趣旨の施設を作りました。(彼女のおにぎりが自殺を思いとどまらせたこともあったそうです。)
佐藤さんはキリスト教を信じていますが、だからといって悩んでいる人が来たときに、「あなたの悩みはキリスト教に入信すれば解決する」といって勧誘することは絶対にしませんでした。
講演会ではよく気づきの大切さを説き、「みんな話を聞いてほしいんですよ」といっていたものです。
「おむすびの祈り」「朝一番のおいしいにおい」等、多くの著書がありますが、不思議なことに、彼女の講演会は、キリスト教の信者よりも、むしろ宗教なんか特に信じているわけでもない(しいていえば葬式仏教)人達でいっぱいで、著書もそういった人たちの間で今もよく読まれています。
佐藤さんの森のイスキアに触発されて、手料理で人をいやす施設を自分も作ったという人もいるくらいです。
佐藤初女さんという人は、同信の友よりも、宗教に関係ない人の間で知名度が高かった不思議な人でした。
佐藤初女さんの中に日本のリバイバルの鍵をみます。悩んでいるときには、宗教ではなく、もっと大切なものがあるのです。宗教を信じている人は、しばしばそれがみえなくなってしまっています。佐藤さんは、宗教を信じている人には珍しく、それがちゃんと見えていた人だったのだと思います。
コメントありがとうございます。
削除佐藤さんについては初めて知りました。そのような方がいらしたのですね。
人の悩みにつけこんで宗教的勧誘をするのは、作戦の1つと言えばそうかもしれませんが、どうもずるい気がします。逆に言うと「悩みがある時でないと魅力を感じない宗教」ということにもなってしまいます。
記事にも書きましたが、困っている人には、まず人間対人間として接するべきではないかと私は思います。宗教を持ち出すのではなくて。