「聖書研究」の落とし穴

2017年7月13日木曜日

教会生活あれこれ

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「聖書研究」に熱心な人がいます。特にクリスチャンの方で。
日々熱心に聖書を読み、調べ、隠された秘密を探るように、細かい一字一句を追究している人もいます。へブル語の意味を調べている人もいます。自己の「研究成果」を日々ブログやSNSに掲載している人もいます。

・私個人の昔話

私もかつて、そんなような「聖書研究」マニアでした。
ペンテコステの聖書解釈をベースとしながら、ひたすら「霊的」なことを追究し、「霊的に」聖書を読んでいるつもりでした。最終的に「ユダヤ傾倒」になって、勝手に悦に入っていましたが。

そういう生活を10年以上続け、霊的なことや真理と呼ばれることに相当詳しくなったと自認し、それでいて謙遜ぶっていました。はっきり言ってイヤな奴だったと思います。

聖書を何度も通読しましたし、毎日読んだり調べたり、通信教育を受けたり、(教会の)勉強会に参加したりと、いわゆる「聖書漬け」な生活でした。今もSNSで「終末預言ガー」とか「携挙ガー」とか「今の世界情勢を預言的に解き明かすならー」とか熱心にやってる人たちがいますが、私も彼らと何も変わらなかったわけです。

今はそういう生活を離れ、他教派について調べたり、いろいろな教会の礼拝に参加したり、教会史を勉強したり、関連の本を読んだり、カルト被害に遭われた方々とやり取りしたり、ということを意識的にやっています。同時に日々の仕事や趣味(主に映画)に没頭しています。

断言できますが、前述の「聖書研究」マニアだった頃より、今の方が、私はずっと聖書を「知って」いると思います。何かを安易に決めつけたり、切り捨てたりしなくなりました。「教会」に対しても「牧師」に対しても、神聖視しなくなりました。他にもイロイロ変化がありますが、とにかく以前の自分がいかに「狭い世界」に生きていたかは知っています。もはや以前の状態には戻れないでしょう(戻りたくありません)。

・サタンに乗っ取られている?

聖霊派あたりの「聖書研究」に熱心な人たち(つまり以前の自分)に言わせれば、私は「堕落してしまった」のかもしれません。せっかく「霊的」だったのに、今は「肉的」だと。あるいは「この世的」だと。
他の教会に行ったり、俗な映画を観に行ったりする私をみて、彼らは「サタンに惑わされている」と言うかもしれません。

実際、私のことを「サタンに乗っ取られている」とまで言う「へブル的クリスチャン」様もいます。

でも聖書知識を一つ披露するなら(サタンが実在するという前提で)、サタンは偏在できません。神のようにどこにでも存在し、全てを知っている、全知全能の存在ではないです。サタンはあくまで「一個の存在」なので、もしA地点にいるなら、それ以外の場所にはいません(聖書を読むと、そのように理解できます)。
 
だから「サタンが私を乗っ取っている」のなら、私には何かしら不都合があるでしょうが、逆にサタンも「私」という個体の制限を受けることになるので、彼自身もいろいろ不自由になります。サタンは私の行く所にしか、行けないですから。なので「サタンが私を乗っ取っている」のなら、それはそれで結構なことではないでしょうか。

ちなみに全国で(あるいは世界中で)「霊の戦い」をやっている人たちがいて、日々「サタンよ退け!」とか叫んでいますけれど、この場合だとサタンは私の所にいるので、それぞれの場所で「サタンを退け!」とか言っても無意味です。そこにサタンはいないですから(笑)。

・「聖書研究」の弊害

「聖書研究」そのものを否定するつもりはありません。
でも私がやっていたような狭い狭い「聖書研究」には、イロイロ問題があります。
どんな問題かと言うと、

①自教会(教派)の聖書解釈しか知らず、他教派について学ぶ機会がない。
②自教会(教派)の聖書解釈を確認・補強するための「聖書研究」になる。
③自教会(教派)の聖書解釈で矛盾が生じる箇所を、都合よく解釈するようになる(言葉を歪めていく)。
④自分たちこそ正しい、他は間違っている、という思考が強化されていく。
⑤何でも知っていると錯覚するようになる(実は狭い狭い知識でしかない)。

というわけで、ものすごく熱心に日々研究しているけれど、やれはやるほど、ものすごく視野が狭くなっていく、ということです。
 
こういう研究の仕方をしていると、遅かれ早かれ「へブル語での研究が大切だ」みたいな話になります。そしてへブル語に詳しくなっていき、「御言葉に隠された深い深い御心」とか「隠された真理」とかを語るようになります。
でもそういう深遠なる知識を語るわりに、キリスト教の基本とも言える知識はおろそかにしているようです。たとえば「今日から断食します♪」とかSNSでアピールするのもそうです。聖書は「断食していることを知られないようにしなさい」と明記しているのですが。

・「知識」vs「愛」

また同性愛指向の話をしますけれど、上記のような「聖書研究」をする人たち(かつての私)は、同性愛指向についてよくこんなふうに言います。
 
「同性愛の方々を愛します。でもその同性愛という罪は受け入れられません」
 
これは一見、同性愛指向に対する「理解」を示しているようですが、 実はそうではないと私は思います。誰かを愛するとき、その人の一部分だけは受け入れない、なんて無理だと思うからです。
誰かと友達付き合いするとき、その人の長所は受け入れるけど短所は受け入れない、なんてないはずです。良いも悪いも含めて「友人」のはずです。自分自身だって、「友人」からそのように受け入れられているはずでしょう。「あなたのここだけはどうしてもダメ。絶対許せない」と友人から言われたら、どう思うでしょうか。

要は、どれだけ「知識」があっても、「他者を愛する」という聖書の基本的オーダーを実行するには関係ない、ということです。
もちろん、繰り返しますが、「聖書研究」そのものは有益だと思います。でも研究したからといって「立派なクリスチャン」になるわけではありません。聖書知識を千も万も持っていても、他者を愛することに骨折らないなら、(クリスチャンとして)存在しないも同然です。もしあのマザー・テレサが、口で言うだけで何もしなかったとしたら、列聖なんてされなかったでしょう。

まして上記のような「聖書研究」で視野を狭くし、考え方を狭くして、たとえば同性愛指向の人々を平気で断罪したり、「携挙」に懐疑的な人々を偽クリスチャン呼ばわりしたりと、愛することからどんどん遠ざかっていくならば、クリスチャンとしては百害あって一利なしだと私は考えます。

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