「聖書研究」に熱心な人がいます。特にクリスチャンの方で。
日々熱心に聖書を読み、調べ、隠された秘密を探るように、細かい一字一句を追究している人もいます。へブル語の意味を調べている人もいます。自己の「研究成果」を日々ブログやSNSに掲載している人もいます。
・私個人の昔話
私もかつて、そんなような「聖書研究」マニアでした。
ペンテコステの聖書解釈をベースとしながら、ひたすら「霊的」なことを追究し、「霊的に」聖書を読んでいるつもりでした。最終的に「ユダヤ傾倒」になって、勝手に悦に入っていましたが。
そういう生活を10年以上続け、霊的なことや真理と呼ばれることに相当詳しくなったと自認し、それでいて謙遜ぶっていました。はっきり言ってイヤな奴だったと思います。
聖書を何度も通読しましたし、毎日読んだり調べたり、通信教育を受けたり、(教会の)勉強会に参加したりと、いわゆる「聖書漬け」な生活でした。今もSNSで「終末預言ガー」とか「携挙ガー」とか「今の世界情勢を預言的に解き明かすならー」とか熱心にやってる人たちがいますが、私も彼らと何も変わらなかったわけです。
今はそういう生活を離れ、他教派について調べたり、いろいろな教会の礼拝に参加したり、教会史を勉強したり、関連の本を読んだり、カルト被害に遭われた方々とやり取りしたり、ということを意識的にやっています。同時に日々の仕事や趣味(主に映画)に没頭しています。
断言できますが、前述の「聖書研究」マニアだった頃より、今の方が、私はずっと聖書を「知って」いると思います。何かを安易に決めつけたり、切り捨てたりしなくなりました。「教会」に対しても「牧師」に対しても、神聖視しなくなりました。他にもイロイロ変化がありますが、とにかく以前の自分がいかに「狭い世界」に生きていたかは知っています。もはや以前の状態には戻れないでしょう(戻りたくありません)。
・サタンに乗っ取られている?
聖霊派あたりの「聖書研究」に熱心な人たち(つまり以前の自分)に言わせれば、私は「堕落してしまった」のかもしれません。せっかく「霊的」だったのに、今は「肉的」だと。あるいは「この世的」だと。
他の教会に行ったり、俗な映画を観に行ったりする私をみて、彼らは「サタンに惑わされている」と言うかもしれません。
実際、私のことを「サタンに乗っ取られている」とまで言う「へブル的クリスチャン」様もいます。
でも聖書知識を一つ披露するなら(サタンが実在するという前提で)、サタンは偏在できません。神のようにどこにでも存在し、全てを知っている、全知全能の存在ではないです。サタンはあくまで「一個の存在」なので、もしA地点にいるなら、それ以外の場所にはいません(聖書を読むと、そのように理解できます)。
だから「サタンが私を乗っ取っている」のなら、私には何かしら不都合があるでしょうが、逆にサタンも「私」という個体の制限を受けることになるので、彼自身もいろいろ不自由になります。サタンは私の行く所にしか、行けないですから。なので「サタンが私を乗っ取っている」のなら、それはそれで結構なことではないでしょうか。
ちなみに全国で(あるいは世界中で)「霊の戦い」をやっている人たちがいて、日々「サタンよ退け!」とか叫んでいますけれど、この場合だとサタンは私の所にいるので、それぞれの場所で「サタンを退け!」とか言っても無意味です。そこにサタンはいないですから(笑)。
・「聖書研究」の弊害
「聖書研究」そのものを否定するつもりはありません。
でも私がやっていたような狭い狭い「聖書研究」には、イロイロ問題があります。
どんな問題かと言うと、
①自教会(教派)の聖書解釈しか知らず、他教派について学ぶ機会がない。
↓
②自教会(教派)の聖書解釈を確認・補強するための「聖書研究」になる。
↓
③自教会(教派)の聖書解釈で矛盾が生じる箇所を、都合よく解釈するようになる(言葉を歪めていく)。
↓
④自分たちこそ正しい、他は間違っている、という思考が強化されていく。
↓
⑤何でも知っていると錯覚するようになる(実は狭い狭い知識でしかない)。
というわけで、ものすごく熱心に日々研究しているけれど、やれはやるほど、ものすごく視野が狭くなっていく、ということです。
こういう研究の仕方をしていると、遅かれ早かれ「へブル語での研究が大切だ」みたいな話になります。そしてへブル語に詳しくなっていき、「御言葉に隠された深い深い御心」とか「隠された真理」とかを語るようになります。
でもそういう深遠なる知識を語るわりに、キリスト教の基本とも言える知識はおろそかにしているようです。たとえば「今日から断食します♪」とかSNSでアピールするのもそうです。聖書は「断食していることを知られないようにしなさい」と明記しているのですが。
・「知識」vs「愛」
また同性愛指向の話をしますけれど、上記のような「聖書研究」をする人たち(かつての私)は、同性愛指向についてよくこんなふうに言います。
「同性愛の方々を愛します。でもその同性愛という罪は受け入れられません」
これは一見、同性愛指向に対する「理解」を示しているようですが、 実はそうではないと私は思います。誰かを愛するとき、その人の一部分だけは受け入れない、なんて無理だと思うからです。
誰かと友達付き合いするとき、その人の長所は受け入れるけど短所は受け入れない、なんてないはずです。良いも悪いも含めて「友人」のはずです。自分自身だって、「友人」からそのように受け入れられているはずでしょう。「あなたのここだけはどうしてもダメ。絶対許せない」と友人から言われたら、どう思うでしょうか。
要は、どれだけ「知識」があっても、「他者を愛する」という聖書の基本的オーダーを実行するには関係ない、ということです。
もちろん、繰り返しますが、「聖書研究」そのものは有益だと思います。でも研究したからといって「立派なクリスチャン」になるわけではありません。聖書知識を千も万も持っていても、他者を愛することに骨折らないなら、(クリスチャンとして)存在しないも同然です。もしあのマザー・テレサが、口で言うだけで何もしなかったとしたら、列聖なんてされなかったでしょう。
まして上記のような「聖書研究」で視野を狭くし、考え方を狭くして、たとえば同性愛指向の人々を平気で断罪したり、「携挙」に懐疑的な人々を偽クリスチャン呼ばわりしたりと、愛することからどんどん遠ざかっていくならば、クリスチャンとしては百害あって一利なしだと私は考えます。
そういわれてみれば確かにそうかもしれませんよね。聖書オタクっていうのでしょうか。特に新興宗教系プロテスタントの教会に通う、熱心な聖書オタクはどうみても変人としか言えない人がいますよ。
返信削除彼らは非常に難しい理屈(本人以外に理解できている人はいないと思いますが)をこねてばかりいます。
たとえば目の前でけがをしている人がいるとします。どんな宗教を信じている人だろうと、それこそ宗教なんて全然信じていない人であろうと、普通ならけがの手当てをしようと思うでしょうし、本当にひどいけがであれば救急車を呼ぼうとするでしょう。しかし聖書オタクの人はこんなときに、「あなたがけがをしたのを聖書的に解釈すれば・・・」と、けが人にとっては何の意味もない解説をとうとうとしてしまうのですよ。人間として素直にけがの手当てや救急車を呼ぶ等の実践をすればいいのにね。
結論を言えば、彼らは「聖書よみの聖書知らず」です。いろはがるたに「論語よみの・・・」があるのをみてもわかりますように、論語の知識を誇ってばかりいて、論語に説かれていることを、現実の生活の中で一向に実践しようとはしない人は、昔からいくらでもいたということなのですよ。
孔子だろうがキリストだろうが、理屈ばかりこねて何もしない人を高く評価はしないでしょう。
僕がギリシャ人でギリシャ語が読める、またユダヤ人でヘブライ語が読めるとしても、約2000年前のギリシャ語やヘブライ語で書かれている聖書の意味がすらすら分かるかというと疑問ですね。日本人で日本語が分かる僕でも、200年前の日本語文献はすらすら読めないし、意味もすらすら分からないでしょう。日本語訳聖書を集めるのが趣味で文語訳、口語訳、正教訳、新共同訳、新改訳、現代語訳、創造主訳、新世界訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳など、新約では田川訳、前田訳、本田訳などなど持っていて読み比べをしますが、訳がずいぶん異なりますね。オタクとして聖書を集め、読んで愉しむというのは健全な趣味だと思っています。趣味の領域にとどめておれば良いのだと思っています。
返信削除コメントの続き
返信削除聖書の解釈はさらに多様だという例に、「種蒔く人」の譬えがある。マタイ13章1-9 「見よ、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」口語訳で。
当時は、種をばらまいた後、耕すということが行われていたという。どのみち耕すのでどこに種を蒔いても同じだと言うことらしい。日本だと、まず耕す、それから種を蒔くというのが普通だ。石や茨があれば取り除いてから種を蒔く。道ばたなどには種を蒔かない。そういうことから考えても日本人にはこの譬えの意味は理解しがたい。
では元の譬えの意味はどうだったのかといえば、種を蒔く人は、神である。蒔かれるのは人間である。蒔かれる所とは生まれ育つ環境のことではなかろうか。だとすると、耕されなければ、つまり種は蒔かれたままでは、育つものもあれば、育たないものもある。神は、土地を耕されるから心配するな、神の御心にお任せせよ、という譬えではなかろうか。
解釈の一例です。一般的には、この章の18節から23節のようになっていますが。
おはようございます。
返信削除私にはLGBTの友人知人がいるのですが、声を揃えて言うのは「理解のある振りをして近づいて来て『まぁ、私だったら絶対嫌だけどね。』『自分の子供がそうなったら嫌だけどね。』等と悪びれなく言うのが一番嫌。」と聞きます。
最近たまに読むクリスチャンの方のブログで「LGBTを治す」と言う趣旨で発信されている方がいるんですが、その方もやはり「理解のある振りをしてるけれども。」の典型です。まず「治す」と言うのがそもそもなぁと思ってます。
同性愛者でもトランジェスターでも、一人の人間として「好き」だったら友人として付き合えば良いし、性格が合わないな嫌いだなと思ったら普通に嫌っても良い。無理して理解した振りして近づいて「サタンが取りついてる」等と言う方がよっぽど偏見だなと思います。
ブログの趣旨とコメントが違ってしまってすみません。
メビウスさん
削除いつもコメントありがとうございます。
「LGBTを治す」みたいな主張は、ある教派では根強いですね。
愛すると言いながら傷つけ、受け入れると言いながら拒絶する、そんなことが延々と続いています。そういう環境からは遠ざかるのが一番だと思いますね。
ミッションバラバの誰だったか、献金箱に20万円入れたら2000万円になって返ってきたって本で証してるけど、その循環なら今頃、億万長者になってるはず。
返信削除バラバ系でもシロアム教会の鈴木先生は、世俗の金銭トラブルは信仰で解決しないって断言されてて、こっちの方は信頼できる言葉。
バラバ系の聖職者は全員みごとに新興宗教の教会を開業して、今や押しも押されぬ立派な教祖様になっていらっしゃいますね(笑)。
削除彼らの言うことはその時その時でころころ変わりますよ。「20万を献金箱に入れたら2000万になって返ってきた」と証した教祖様は、怪しげな団体を立ち上げていますが、金が儲かっているのかといえば決してそうではないようですしね。
シロアム教会の鈴木教祖様ですが、今は「世俗の金銭トラブルは信仰で解決しない」と断言されているといいますが、最初に世に出たときは、「結婚したときは大借金を抱えた身でしたが、神に祈ったら不思議なことに借金の問題がスムーズに早く解決しました」といっていましたけど?
そうでしたか?記憶に頼って書いたので間違いがあったかもしれません。
削除ただ、本の中のインタビューのページで金銭トラブルは、神様の奇跡で解決しないって言ってましたよ。ひょっとしたら、時期によって言辞が変わってるのかもしれません。不動産取引の詐欺とかには詳しそうな事、答えてられた記憶が!
バラバ系に限らず、新興宗教系プロテスタントの人のいうことなんか、ころころ変わるものと思っていた方がいいと思いますが。
削除実際に新興宗教系プロテスタントの業界では、二十世紀の後半にやたらと終末詐欺がはやったものです。あちこちで「終末が近いぞよ~」とやっていた終末詐欺師だらけだったではありませんか。
中には日時まで指定した詐欺師もいました。ちょうどその日にみんなで教会にいたら、地震が来たので「ぎゃあ~、やっぱり終末がきたぞお~」と悲鳴をあげて外に出たら揺れが収まり、「あの人たちバカじゃないの?」と笑われたなんて話もあったくらいです。
しかし今はもう終末詐欺ブームも去ってしまいました。ものみの塔聖書冊子協会のように、予言をはずしまくっているというのに、謝罪や反省はおろか、もちろん返金に応じた教会は皆無です。まあ返金は訴訟を起こされても返す金すら残っていないでしょう。だまし取った金で終末御殿は建てるわ、子供が結婚するからといって高級マンションを買ってやるわ・・・(笑)。
ちなみに二十世紀末から二十一世紀初頭のころのミッションバラバですが、彼らも明らかに終末詐欺をやっていました。説法や証の中でやたらと「もう時間がないんです!」なんてやっていました。
新興宗教系プロテスタントの教会の話ですが、Aさんが悪い出来事があったと告白したら、Bさんが「サタンよ去れ!サタンよ去れ!」と言いながらAさんの周りをパンパン手で叩くという行為を見た事があります。気持ちはわからないではないが、どうなのかなと不思議に思いました。その教会は献金したら何倍にもなって返ってきたと献金自慢する人もいて、そういう人に限って役員だったり教会の中心的人物になりたがる人とか、日常生活が暇そうな主婦が多かったような。
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