聖書に基づく超管理社会なる教会

2023年9月4日月曜日

教会生活あれこれ

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 新約聖書には沢山のたとえ話がある。中でも頻出なのが「勤勉なしもべと怠惰なしもべ」の比較だ。前者は主人から褒められ、後者は罰を受ける。「勤勉であれ」というメッセージだ。

 しかし勤勉が賞賛され、怠惰が罰せられるのは幼い子どもでも知っている。わざわざ聖書のメッセージとして語ることではない。なのに礼拝で語られるたびに「アーメン、主よ、どうぞ私たちを勤勉たらしめて下さい」みたいな祈りが聞こえてくる。神様に働いてもらえないと勤勉になれないのだろうか。だとしたら幼すぎると思う。


 そもそも「勤勉/怠惰」の二項対立化を疑うべきだ。人間はそんなにはっきり分かれていないのだから。勤勉になれる時もあれば怠惰な時もある。ある部分は勤勉だけれどある部分は怠惰、という同時性もある。性格的な特性が勤勉に見えたり怠惰に見えたりすることもある。実際は100かゼロかでなく、個々の性格や状況やタイミングなど、様々なレイヤーやグラデーションが入り混じっている。その複雑さを無視して、どちらか一方に無理やり分けようとするのは暴力的だと思う。


 聖書にはそういう二項対立のメッセージが多い。そのまま読むと二項対立的な思考になり、現実の人間の在り方が見えなくなりかねない。


 「神に仕える/富に仕える」も二項対立化しすぎだ。実際にはお金のことを度外視して「神に仕える」なんてできないのだから。なのにお金の心配をしたり、将来に備えて貯金したり投資したりすると「富に仕えている」と批判される。そう言う牧師が一番、礼拝ごとの献金額を気にしているはずなのに。

 他にも生きていれば「善か悪か」でハッキリ分けられないことなんて沢山ある。それが人生であり社会なのだ。なのに何でも単純化、二項対立化して白黒ハッキリさせようとするのは、人間を無理やり型にはめて「はみ出さないように」整形することだ。かくして「量産型クリスチャン」や「金太郎飴クリスチャン」が教会に溢れる。みんな同じような顔をして同じようなことを言うようになる。ディストピア映画に多い、超管理社会が既にそこに実現してしまっている。


 聖書のメッセージを否定したいのではない。ただそこにある単純化や二項対立化に意識的でないと、気づかないうちに洗脳やマインドコントロールが横行してしまうのだ。聖書は良いものかもしれないけれど、それを扱う人間たちは必ずしも善人ではないし、考えが足りているわけでもない。

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