きのう、礼拝に何着てった?

2023年6月19日月曜日

教会生活あれこれ

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 プロテスタント教会の礼拝には基本的にドレスコードがない。とは言ってもさすがに司会や牧師がTシャツ短パンではまずいでしょう? と思われるかもしれないけれど、教派によってはまさに司会や牧師がTシャツ短パンだったりする(夏場の話)。これまで色々な教派の礼拝に参加してきたけれど、いわゆる「お堅い」イメージの教団系でもカトリックでも聖公会でも、少なくとも一般参加であればドレスコードはなかったと思う(祭儀を司る人たちの服装はもちろん別)。

 礼拝に何を着て行くか、は教会の方針より、個々人の価値観によるところが大きいと思う。「神様にお会いしに行くから」という理由で正装の人もいるし、「神様は服装など気にしないから」という理由でTシャツ短パンの人もいる。「礼拝のあと予定があるから」という理由で服装を選ぶ人もいる。それに対して目くじらを立てる人はいないように見える。

 と、いうのは表向きの話だ。


 実際には禁忌とされる服装がある。その代表格が女性の露出の多い服装だ(特に若い女性ほど禁忌とされる)。露出の多い服装で参加した女性が、後から呼ばれて服装について注意された、という話はよく聞く。理由は「はしたないから」「男性の誘惑になるから」「他の人のつまずきになるから」あたり。牧師がTシャツ短パンで来る教会でさえそうだ。「神様は服装など気にしない」と豪語しておきながら、女性の服装にはケチを付ける。ダブルスタンダードではないだろうか。

 女性に露出の多い服装をしてくれとは思わないけれど、自身の価値観に基づいて、自由でいてほしいとは思う。「誰かの服装が誰かのつまずきになる」としたら、それは服装のせいではない。「つまずく」人の問題だ。他人の服装ひとつで左右される「信仰」とは何なのか。


 「女性が露出の多い服装をすると男性の誘惑になる」という一見信仰的な言説は、一部の教会でよく言われるけれど、問題点がすり替えられている。女性の服装が「誘惑になる」のでなく、それを見て「誘惑される」男性の問題なのだ。そういう男性は自分の安心、純潔、敬虔のために女性の選択を制限している(しかしそれが「信仰的」だと称賛される)。そうやって他人を抑圧しないと保たれない安心や純潔に意味があるだろうか。男性は自分が優遇されていることに気づかなければならない。


 「服装を見てつまずく人がいる」という言説には、「礼拝はこうでなければならない」「服装はこうでなければならない」という過度な決めつけと思い込みがその背後にある。「女性は露出の多い服装をしてはいけない」と同じで、自分が気持ち良くいるために、他者を抑圧しているのだ。それはキリスト教信仰とは言い難いと私は思う。


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