「神様の声を聞く」現場で起きていること

2022年11月22日火曜日

「神の導き」に関する問題

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「神様の声」を聞いて「正しく」判断しなければならないプレッシャー


 「何が神様の御心なのか分からない」と悩むクリスチャンは少なくないと思います。特に「神様はその都度、一人一人に具体的に語られる」と信じる教派(主に福音派や聖霊派)で、そうではないでしょうか。


 私が所属していたペンテコステ派もそうでした。「大事な分岐路に差し掛かった時は、神様の声を聞いて、一つ一つ間違えないように判断しなければならない」と牧師はよく言いました(私はそれを聞いて密かにプレッシャーを感じましたが)。


 踏み石が点在する湖をイメージしてみて下さい。湖のこちら側からあちら側へ渡らなければならないとします。どの踏み石を踏んで行けば、湖に落ちることなく、あちら側へ辿り着けるでしょうか。踏み石の中にはフェイクもあります。そもそも初めのコース選択を誤ると、途中で行き止まりになってしまいます。神様からの「ヒント」を頼りに、最初から最後まで一貫して「正しい踏み石」を選び続けなければなりません。なかなかの難易度です。

 「神様の声を聞いて正しく判断し続ける」ことを、牧師はそのように説明しました。神様が定めた「唯一のルート」を選び続けないと、「祝福」に辿り着けないのです。

 私は当時は「これがクリスチャンに課せられた試練/訓練なのだ」と概ね納得していました。ずっとそう教えられてきましたし、実際にその試練/訓練を通して、自分が「霊的に」成長してきたと信じていたからです。


「神様に語られた」ことにしなければならないプレッシャー


 しかし「神様の声を聞く」といっても、私たちはそもそも、それとはっきり分かる形で「聞ける」のでしょうか。「神様の声を聞く」の体験談は、人によって様々です。「神様の肉声が聞こえた」とか、「心に強く印象付けられた」とか、「他者を通してタイムリーに語られた」とか、「聖書のたまたま開いた箇所が心に突き刺さった」とか、「夢で語られた」とか。(その手の教会に行けば、そういう体験談が山ほど聞けます。)


 しかし、どれも客観的に見て「確実な」方法とは言えません。あくまでその人の主観の話になるからです。むしろはっきり分からない「神様の声」を、無理やり「聞いた」つもりになって、それらしい現象(たまたま開いた聖書箇所が心に刺さった、など)を後付けしているように見えます。実際のところ、「神様に語られたことにしたい」のではないでしょうか(今思うと、私自身はそうでした)。


 「神様の声を聞いて正しい選択をしなければならない」というオーダーは、「私たちは神様の声をその都度、具体的に聞くことができる」という前提に立っています。ですから上記のようなあやふやな実例が「神様に語られた体験」として量産されるのです。そういう教会にいる限り、「語られない」「分からない」では済まされませんから。(特に信仰歴の長い人たちは、後輩に模範を示さなければなりませんから、そのプレッシャーが強いでしょう。)


神様をモラハラ親にしていないか


 しかし、私はその前提部分を見直すことをお勧めします。

 考えてみて下さい。選択肢が複数あり、どれか一つが「神様の御心(=正解)」だとします。神様は私が正解を選ぶかどうかを試験官のように見ていて、しかも曖昧なヒント(心に強く示された、的な)しか与えず、私がフェイクの踏み石を踏んで湖に転落してしまったら、無慈悲な眼差しで「失格」の印を押すのでしょうか。正解を選んだ場合だけ「合格」の印を押してくれるのでしょうか。私たちはこの先、それを延々と繰り返さなければならないのでしょうか。だとしたらそれ自体が虐待的ではないでしょうか。神様との関係が、絶えず難易度の高い「試験」なのですから。


 それではまるで、神様が「私が考えていることを当ててみろ」と子どもに迫るモラハラ親のようです。子どもにいつも「正解」を要求するのです。どこが「愛」なのでしょうか。子どもはいつも親(神様)の期待通りに行動しなければならないと恐れ、その顔色をうかがって、ビクビクしながら過ごすようになります。とても健全とは言えません。


 神様は本当に、そんな関係性を私たちに求めているのでしょうか。神様は私たちにいつも「正解」を選びとって失敗しない優等生でいてほしいのでしょうか。そこまで完璧であるなら、私たちはそもそも十字架で許される必要もないし、悔い改める必要もないのではないでしょうか。


そもそも神様は「語られる」のか


 聖書に「神が語られる」「神が導かれる」という類の記述が沢山あるのは知っています。しかし聖書を読む上で大切なのは、その記述が当時のどんな文脈で書かれたのか、主に「誰に」向かって書かれたのか、現代においてどう読み替えるべきなのか、といった視点を持つことです。果たして聖書の記述は、現代に生きる私たちに宛てたものなのでしょうか。少なくとも聖書記者たちは、21世紀のアジアの東端に生きる日本人のことなど、全く考えもしなかったと思いますが。


 しかし私がここで注目したいのは、そういった理論の側面より、実際的な側面です。そして実際の現場では、「神様の声がよく分からない」けれど、「語られませんでした」とは言えないので、「これが神様の声なのだ」と「決め付けなければならない」という事態が無数に起きています。おそらく大半の信徒はそうで、「神様に語られたことにしている」のです。


 それは悪く言えば「嘘」ですが、そういう教会の信徒たちは「信仰的」であるために、神様に語られなければならないのです。「神様に語られる霊的なクリスチャン」でなければならないのです。そういうプレッシャーを受けています。そしてその点がまさに問題なのです。

 「神様に語られた」のかどうか、本当はあやふやなのに、皆の目があるから「語られた」ことにしなければなりません。実は皆が皆、互いにそうしています。厳密に言えば互いに「嘘」をついています。けれど皆が同じ嘘をついていますから、結果的に「本当」のようになってしまうのです。

 しかし、これほど虚しいことがあるでしょうか。「神様の声」というトピックにおいて、神様を完全に置き去りにしておいて、私たちはいったい何をしているのでしょうか。 

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